綾滝
「キス、する時にさ」
りんごを剥いていた。アニメのように、丸のままで。大根で言うところの桂剥きだ。一回でどこまで続けて剥くことができるか、試してみたくなったのだ。しょりしょりと小気味いい音と、甘い匂いが広がる。
「ねえ、聞いてる? キス、する時にさ」
喜八郎は椅子に座っていたのに、立ち上がって私の横までやってきた。包丁を使っている時に、ちょっかいをかけないでほしい。ただでさえ今は、集中しているのだから。
「唇がね、左右対称なんだよ。滝は」
「――は?」
「人間の顔って、多少の歪みは出るものなの。笑顔のクセ、歯磨きのクセ、上げやすい方の口角」
喜八郎は私の唇に人差し指を沿わせた。私は意地でも手をとめない。しょりしょり、しょりしょり。
「滝はね、完璧なまでに、左右対称なんだよ」
いったい、誰と比べているのか。嫉妬などとうに忘れた、彼が過去に誰とどんな関係を結んできたのかなど、興味はなかった。
「それって、滝が美しさを追求したからなんだよね。きっと」
りんごの皮が、半分のところまできた。左手が果汁で濡れていく。喜八郎の指は、私の唇の中心で止まった。このまま噛み千切ってやろうか。
「でもね。本当は、左右非対称の方が、美しく感じるんだってさ」
私はむかむかと、怒りを覚えた。私はいま、りんごを剥いていて、それを邪魔しているのは喜八郎なのに、一方的に私の自慢の顔に文句をつけてくる。私が握っているのが刃物であるということを、自覚した方が良い。私はりんごから視線を外さない。しょりしょり、しょりしょり。
「滝の左右対称の口角は、きっと努力の賜物なんだよね」
「何が言いたい?」
鏡に向かって、唱えたことはあるか? 私は完璧でなくてはならないと、呪いをかけたことはあるか?
「喜八郎は、左の口角の方が上がっているな。写真に写る時も、いつもそっちばかり」
「だからね」
りんごの皮が、ぷつりと途絶えた。ああ、新記録だったのに。長い長い一本の皮が、シンクに横たわった。喜八郎は私の手を押さえ――包丁を押さえ、私の唇を奪う。
「キスをするたびに、いま僕がキスをしているのは滝なんだなあって、自覚するんだ」
お前が自覚すべきは、手にしているものが包丁であることだ。私は顔を背け、唇から逃れる。
「新記録だったんだぞ。どうしてくれる」
「おいしく食べられれば、それでいいじゃない」
それを、私にも思っているんじゃないのか。誰とでもキスをしていて、でも、左右対称だから、私が私だと気付いているだけなんじゃないか。
ため息を吐き、りんごを切った。中途半端に残った皮を、うさぎの形にする。
「わあい」
喜八郎がりんごを食べる。左の口角を上げて喜ぶ。
台所中に広がる甘い匂い。私の左手にも染みている。今、キスをしたら、りんごの味なのだろう。
でも、味だけじゃ、喜八郎は、私を私だと認識しないのだろう。
しょりしょり。りんごが口の中で砕ける。甘さに酔ってしまえればよかった。ただただ優しい味がした。
りんごを剥いていた。アニメのように、丸のままで。大根で言うところの桂剥きだ。一回でどこまで続けて剥くことができるか、試してみたくなったのだ。しょりしょりと小気味いい音と、甘い匂いが広がる。
「ねえ、聞いてる? キス、する時にさ」
喜八郎は椅子に座っていたのに、立ち上がって私の横までやってきた。包丁を使っている時に、ちょっかいをかけないでほしい。ただでさえ今は、集中しているのだから。
「唇がね、左右対称なんだよ。滝は」
「――は?」
「人間の顔って、多少の歪みは出るものなの。笑顔のクセ、歯磨きのクセ、上げやすい方の口角」
喜八郎は私の唇に人差し指を沿わせた。私は意地でも手をとめない。しょりしょり、しょりしょり。
「滝はね、完璧なまでに、左右対称なんだよ」
いったい、誰と比べているのか。嫉妬などとうに忘れた、彼が過去に誰とどんな関係を結んできたのかなど、興味はなかった。
「それって、滝が美しさを追求したからなんだよね。きっと」
りんごの皮が、半分のところまできた。左手が果汁で濡れていく。喜八郎の指は、私の唇の中心で止まった。このまま噛み千切ってやろうか。
「でもね。本当は、左右非対称の方が、美しく感じるんだってさ」
私はむかむかと、怒りを覚えた。私はいま、りんごを剥いていて、それを邪魔しているのは喜八郎なのに、一方的に私の自慢の顔に文句をつけてくる。私が握っているのが刃物であるということを、自覚した方が良い。私はりんごから視線を外さない。しょりしょり、しょりしょり。
「滝の左右対称の口角は、きっと努力の賜物なんだよね」
「何が言いたい?」
鏡に向かって、唱えたことはあるか? 私は完璧でなくてはならないと、呪いをかけたことはあるか?
「喜八郎は、左の口角の方が上がっているな。写真に写る時も、いつもそっちばかり」
「だからね」
りんごの皮が、ぷつりと途絶えた。ああ、新記録だったのに。長い長い一本の皮が、シンクに横たわった。喜八郎は私の手を押さえ――包丁を押さえ、私の唇を奪う。
「キスをするたびに、いま僕がキスをしているのは滝なんだなあって、自覚するんだ」
お前が自覚すべきは、手にしているものが包丁であることだ。私は顔を背け、唇から逃れる。
「新記録だったんだぞ。どうしてくれる」
「おいしく食べられれば、それでいいじゃない」
それを、私にも思っているんじゃないのか。誰とでもキスをしていて、でも、左右対称だから、私が私だと気付いているだけなんじゃないか。
ため息を吐き、りんごを切った。中途半端に残った皮を、うさぎの形にする。
「わあい」
喜八郎がりんごを食べる。左の口角を上げて喜ぶ。
台所中に広がる甘い匂い。私の左手にも染みている。今、キスをしたら、りんごの味なのだろう。
でも、味だけじゃ、喜八郎は、私を私だと認識しないのだろう。
しょりしょり。りんごが口の中で砕ける。甘さに酔ってしまえればよかった。ただただ優しい味がした。