綾滝
二階に住んでいるのは、一階よりも防犯面で少しばかり心強いから、という理由でしかなかった。まさか侵入してくるのに警戒が必要なのは人間だけではなく、猫もいるとは思わない。そのことを知ったのは、引っ越ししてから一週間ほど経ってからだった。
私は目覚めがいい方だ。早起きをすれば、身体を動かしたり、シャワーを浴びたり、ゆったりと朝食を摂る時間が作れる。一日の始まりは心地よい方がいい。今日も早くに目が覚めて、ベッドから身を起こして大きく伸びをしていた。私の、うーんという声の向こうに、猫の鳴き声が重なった。
「おはよう、キハチロー」
「なあ」
ベッドに面している、ベランダに続く窓ガラスにかかったカーテン。クリーム色の布地に、小さな影が落ちる。
かりかりと窓ガラスをひっかく音がして、私は従順に鍵をあけた。
「なあ」
この猫は、何故だか朝晩、私の部屋を訪れる。以前の部屋の主の時もそうだったのか、近所の飼い猫なのか、何もわからない。けれど、音のない一人暮らしの日々に、なんとなくすっぽりと、こいつの居場所ができた。
灰色の猫に、私はキハチローと名付けた。理由は特にない。頭にぼんやりと浮かんできたのがその言葉だったので、直感を信じた。口に出せば意外と馴染んだし、キハチローも「なあ」と返事をするので、これでよしとする。
私は猫に詳しくない。とりあえず猫と言えばミルク、と最初は牛乳を与えていたが、猫用のものが存在することを知って、以来キハチローのためのミルクを常備するようになった。
人間用のと、猫用のミルク。冷蔵庫からそれぞれ取り出し、コップと皿にそそぐ。
「キハチロー、おあがり」
「なあ」
「今朝の私も美しい? 当たり前だろう」
「なあ!」
キハチローはよく、私の美しさを褒める。猫にも私の美しさは伝わるようだ。私が自分の美しいと思う部分を上げるたび、力強い声が響く。
「昨日は業務委託先の担当が、私の色彩感覚を褒めてきたんだ。当たり前だろう、デザイナーたるもの、色彩感覚が美的でなくてどうする」
自信の表れは努力の表れ。常に胸を張っていないと、仕事なんてやってこない。そうして掴んでいった夢の先、貯金をはたいて買ったのが、このマンションだった。まさか、猫の訪れまでは予見できなかったけれど。
「さて、今日も一日、輝こう。キハチローも存分に輝くんだぞ」
「なあ……」
ミルクを飲み終えると、キハチローは満足して、入って来たのと同じ窓ガラスから帰っていく。どこに帰っていくのかは知らない。知ろうとも思わない。彼には彼のナワバリがある。私はコップと皿を片付ける。良く晴れた木曜日。
提携先に出社して、打ち合わせに参加することもある。そして、それが長引き、夜遅くなることだってある。オートロックを開錠する時でさえ張っていた胸を、自室のドアを閉めた瞬間、やっと撫でおろした。くたくたの金曜日だった。
リビングの電気をつけ、冷凍庫から宅配の弁当ストックを取り出した。電子レンジであたためながら、食べ飽きた味に溜息を吐いた。忙しい日でも栄養バランスに気を遣いたいと取り寄せていた弁当だが、いかんせん味に飽きがくる。食とは人生の彩りなのに。
寝室へ部屋着を取りに行くと、かりかりと窓ガラスをひっかく音が聞こえた。
「なあ!」
「おお、キハチロー、きてたのか」
すまなかった、と謝りながら、窓を開ける。ぷすぷすと怒ったようなキハチローが、するりと部屋に入って来た。いったいいつからここにいたのだろう。
キハチローにミルクを与えながら、手を合わせていただきますを唱えた。
「今日も、大胆でキャッチ―なアイデアを出せたのだ。私の閃きはすばらしいな。学生時代も常に頭脳明晰、成績優秀であったからにして」
「なあ」
私の素晴らしさを、キハチローも称える。小さな舌でミルクを舐めているのを見ると、不思議と私の箸も進んだ。誰かと食事をすることの喜びを、キハチローは運んできてくれる。
「やっと週末だ。猫にも休日はあるのか?」
「なあ」
「毎日が休日か。実に愉快だな」
土曜日。豪雨だった。今朝はキハチローの姿が見えない。どこかで雨宿りをしているといいのだが。
私は沈んでいた。部屋は雨の音で籠っていた。朝イチで確認したメールは、ようするに、今回はご縁がなかったということで、といったような内容だった。
気を張り詰めすぎていたのだ。無理なんて言葉は私の辞書にはないけれど、それでも身体から疲れがとれなかった。全身が重い。低気圧のせいだ、でも、感情を整理すれば、つまるところ悲しかった。
牛乳を注ごうとして、うっかりキハチロー用の皿を用意してしまう。ふ、と口角が緩んだ。アイツはすっかり私の生活に馴染んでいる。いつもいる温もりのいない朝というのは、本当に静かだった。
雷が響きだした。私は湯舟をためた。外に出られないならば、風呂に浸かればいいのだ。半身浴は美容に良い。床に寝ころんでしまいそうな重力のなか、ふと外の様子を見てみたくなって――道路の荒れ具合とか、街路樹の揺れ具合とか――、ベランダを覗いた。下を見ると、右の隅に、ちいさな灰色のかたまりが転がっていた。
「キハチロー!?」
私は慌てて窓を開ける。強風が雨粒を叩きつけ、差し出した手が痛かった。キハチローはべっしょりと濡れそぼっていて、冷え切っていた。鳴く力も残っていなかった。
タオルでくるむと、もそもそと動き出したので、死んでいなかったことに安堵する。
「いったいいつからそこにいたのだ……」
とにかくあたためなければ。私は湯気で満ちた風呂場に連れて行った。
洗面器に湯をため、キハチローを浸からせてみた。嫌がるそぶりはなかった。私はもうひとつ安堵して、自分も入ってしまおうと服を脱いだ。
「なあ?」
人間が湯舟に浸かっているのが不思議なのだろう。キハチローはしきりに不思議そうな声をだしていた。キハチローが元気になったことが、私の心の箍を外した。私はあたたかな湯の中で、ぽつりぽつりとひとりごとを零した。
「今回は、少し高望みをしてしまっただけなんだ」
「なあ」
「まだ、自分は見込まれていたレベルに達していなかったのだと思うと、悔しくてな」
「なあ」
「……いずれ辿り着いてみせるさ」
「なあ」
ひとりごとが、ふたりごとになっていく。キハチローは優しく相づちを打ってくれた。私は安心して湯舟に溶けていられた。
風呂から出て、二人で牛乳、もとい人間用と猫用のミルクをそれぞれ飲んだ。
彼がいるだけで、部屋の中が少しだけ賑やかだった。私の身体はいつのまにか軽くなっていた。
豪雨は弱まってきてはいたが、私はキハチローに「今夜はここにいてはどうか」と訊ねた。キハチローは「なあ」と鳴いて、つまりそれは、「仕方ないなあ」だと理解した。
ベッドのなか、私の隣で丸まるキハチローに、このまま飼えたらいいのにと思った。
けれどそれは叶わない。彼は気まぐれに訪れているだけだろうし、なによりこのマンションは、ペット不可なのだ。
明日の朝、一緒にミルクを飲んだら、キハチローは出て行く。
私はその後ろ姿に、「今日も一日、輝くとしよう」と呟く。
おだやかな日曜日になるはずだ。キハチローの小さな寝息が可愛らしかった。
私は目覚めがいい方だ。早起きをすれば、身体を動かしたり、シャワーを浴びたり、ゆったりと朝食を摂る時間が作れる。一日の始まりは心地よい方がいい。今日も早くに目が覚めて、ベッドから身を起こして大きく伸びをしていた。私の、うーんという声の向こうに、猫の鳴き声が重なった。
「おはよう、キハチロー」
「なあ」
ベッドに面している、ベランダに続く窓ガラスにかかったカーテン。クリーム色の布地に、小さな影が落ちる。
かりかりと窓ガラスをひっかく音がして、私は従順に鍵をあけた。
「なあ」
この猫は、何故だか朝晩、私の部屋を訪れる。以前の部屋の主の時もそうだったのか、近所の飼い猫なのか、何もわからない。けれど、音のない一人暮らしの日々に、なんとなくすっぽりと、こいつの居場所ができた。
灰色の猫に、私はキハチローと名付けた。理由は特にない。頭にぼんやりと浮かんできたのがその言葉だったので、直感を信じた。口に出せば意外と馴染んだし、キハチローも「なあ」と返事をするので、これでよしとする。
私は猫に詳しくない。とりあえず猫と言えばミルク、と最初は牛乳を与えていたが、猫用のものが存在することを知って、以来キハチローのためのミルクを常備するようになった。
人間用のと、猫用のミルク。冷蔵庫からそれぞれ取り出し、コップと皿にそそぐ。
「キハチロー、おあがり」
「なあ」
「今朝の私も美しい? 当たり前だろう」
「なあ!」
キハチローはよく、私の美しさを褒める。猫にも私の美しさは伝わるようだ。私が自分の美しいと思う部分を上げるたび、力強い声が響く。
「昨日は業務委託先の担当が、私の色彩感覚を褒めてきたんだ。当たり前だろう、デザイナーたるもの、色彩感覚が美的でなくてどうする」
自信の表れは努力の表れ。常に胸を張っていないと、仕事なんてやってこない。そうして掴んでいった夢の先、貯金をはたいて買ったのが、このマンションだった。まさか、猫の訪れまでは予見できなかったけれど。
「さて、今日も一日、輝こう。キハチローも存分に輝くんだぞ」
「なあ……」
ミルクを飲み終えると、キハチローは満足して、入って来たのと同じ窓ガラスから帰っていく。どこに帰っていくのかは知らない。知ろうとも思わない。彼には彼のナワバリがある。私はコップと皿を片付ける。良く晴れた木曜日。
提携先に出社して、打ち合わせに参加することもある。そして、それが長引き、夜遅くなることだってある。オートロックを開錠する時でさえ張っていた胸を、自室のドアを閉めた瞬間、やっと撫でおろした。くたくたの金曜日だった。
リビングの電気をつけ、冷凍庫から宅配の弁当ストックを取り出した。電子レンジであたためながら、食べ飽きた味に溜息を吐いた。忙しい日でも栄養バランスに気を遣いたいと取り寄せていた弁当だが、いかんせん味に飽きがくる。食とは人生の彩りなのに。
寝室へ部屋着を取りに行くと、かりかりと窓ガラスをひっかく音が聞こえた。
「なあ!」
「おお、キハチロー、きてたのか」
すまなかった、と謝りながら、窓を開ける。ぷすぷすと怒ったようなキハチローが、するりと部屋に入って来た。いったいいつからここにいたのだろう。
キハチローにミルクを与えながら、手を合わせていただきますを唱えた。
「今日も、大胆でキャッチ―なアイデアを出せたのだ。私の閃きはすばらしいな。学生時代も常に頭脳明晰、成績優秀であったからにして」
「なあ」
私の素晴らしさを、キハチローも称える。小さな舌でミルクを舐めているのを見ると、不思議と私の箸も進んだ。誰かと食事をすることの喜びを、キハチローは運んできてくれる。
「やっと週末だ。猫にも休日はあるのか?」
「なあ」
「毎日が休日か。実に愉快だな」
土曜日。豪雨だった。今朝はキハチローの姿が見えない。どこかで雨宿りをしているといいのだが。
私は沈んでいた。部屋は雨の音で籠っていた。朝イチで確認したメールは、ようするに、今回はご縁がなかったということで、といったような内容だった。
気を張り詰めすぎていたのだ。無理なんて言葉は私の辞書にはないけれど、それでも身体から疲れがとれなかった。全身が重い。低気圧のせいだ、でも、感情を整理すれば、つまるところ悲しかった。
牛乳を注ごうとして、うっかりキハチロー用の皿を用意してしまう。ふ、と口角が緩んだ。アイツはすっかり私の生活に馴染んでいる。いつもいる温もりのいない朝というのは、本当に静かだった。
雷が響きだした。私は湯舟をためた。外に出られないならば、風呂に浸かればいいのだ。半身浴は美容に良い。床に寝ころんでしまいそうな重力のなか、ふと外の様子を見てみたくなって――道路の荒れ具合とか、街路樹の揺れ具合とか――、ベランダを覗いた。下を見ると、右の隅に、ちいさな灰色のかたまりが転がっていた。
「キハチロー!?」
私は慌てて窓を開ける。強風が雨粒を叩きつけ、差し出した手が痛かった。キハチローはべっしょりと濡れそぼっていて、冷え切っていた。鳴く力も残っていなかった。
タオルでくるむと、もそもそと動き出したので、死んでいなかったことに安堵する。
「いったいいつからそこにいたのだ……」
とにかくあたためなければ。私は湯気で満ちた風呂場に連れて行った。
洗面器に湯をため、キハチローを浸からせてみた。嫌がるそぶりはなかった。私はもうひとつ安堵して、自分も入ってしまおうと服を脱いだ。
「なあ?」
人間が湯舟に浸かっているのが不思議なのだろう。キハチローはしきりに不思議そうな声をだしていた。キハチローが元気になったことが、私の心の箍を外した。私はあたたかな湯の中で、ぽつりぽつりとひとりごとを零した。
「今回は、少し高望みをしてしまっただけなんだ」
「なあ」
「まだ、自分は見込まれていたレベルに達していなかったのだと思うと、悔しくてな」
「なあ」
「……いずれ辿り着いてみせるさ」
「なあ」
ひとりごとが、ふたりごとになっていく。キハチローは優しく相づちを打ってくれた。私は安心して湯舟に溶けていられた。
風呂から出て、二人で牛乳、もとい人間用と猫用のミルクをそれぞれ飲んだ。
彼がいるだけで、部屋の中が少しだけ賑やかだった。私の身体はいつのまにか軽くなっていた。
豪雨は弱まってきてはいたが、私はキハチローに「今夜はここにいてはどうか」と訊ねた。キハチローは「なあ」と鳴いて、つまりそれは、「仕方ないなあ」だと理解した。
ベッドのなか、私の隣で丸まるキハチローに、このまま飼えたらいいのにと思った。
けれどそれは叶わない。彼は気まぐれに訪れているだけだろうし、なによりこのマンションは、ペット不可なのだ。
明日の朝、一緒にミルクを飲んだら、キハチローは出て行く。
私はその後ろ姿に、「今日も一日、輝くとしよう」と呟く。
おだやかな日曜日になるはずだ。キハチローの小さな寝息が可愛らしかった。