綾滝

 寂れた住宅街、と言ってしまえばそれまで。ショッピングモールどころか商店街刷らない駅だ。徒歩十分のマンション。なんとかシエスタという名前。シエスタって昼寝って意味じゃなかったっけ、へんなの。来るたびにそう思いながら、301号室のチャイムを鳴らす。
「なんだ、また来たのか」
 たき、はそう言いながら、合い鍵を持たないあたしを招き入れる。赤いランドセルを玄関に放り、洗面所に手を洗いに行くと、あたしが乗るためだけの踏み台が置いてある。もう蛇口に余裕で触れるほど、背は伸びたのに。
「いつまであたしのこと子供扱いするの?」
「お前が子供でいるうちはずっとさ」
「パパもそう言うんだよ」
 たき――滝夜叉丸は、パパのおともだち。そう紹介されたのは、小学一年生の頃だった。幼稚園のあった埼玉県から卒園とともに引っ越して、東京にやってきたばかりのあたしは、ピカピカのランドセルを抱きながら毎日泣いていた。だって小学校には、仲の良かったお友達は誰一人いないのだ。ミヤちゃんにも、タッくんにも、もう二度と会えないのだということだけ、わかっていた。ママは「またいつでも会えるわよ」だなんて慰めを言っていたけれど、大人はうそつきだということを、あたしはもう知っていた。
 学校から帰ってきてもずっと泣きどおしのあたしを心配したママがパパに相談した結果、パパはあたしの手を引いて出かけた。
「秘密基地に連れて行ってあげる」
「ひみつきち?」
「パパの、とっておきの。ママには内緒だよ」
 そうして連れてこられたのが、この、なんとかシエスタだった。何色と表現していいのかわからない、岩みたいな色をしたドアを開くと、きらきらと光る男の人がスウェット姿で出迎えてくれた。
「おお、大きくなったなあ」
「……お、おにいさん、だれ?」
「私は、滝夜叉丸。きみのパパの……おともだち、だ!」
 これが、あたしと滝夜叉丸の出会いだった。
 あたしの家よりずっとせまいけれど、滝夜叉丸のおうちは、なんだか居心地がよかった。テレビとテーブル、ふかふかのソファ。置いてある箱ティッシュが、コンビニで売ってるかたい紙のやつじゃなくて、薬局で売ってるやわらかいやつなので、あたしはいつもこっそり抜き取っては、匂いを嗅いだり、ちょっと舐めてみたりしている。ふわふわで甘いティッシュ。
 秘密基地には、鏡がたくさんあった。全身鏡は立派な枠が付いていて、リビングにどんと置いてある。滝夜叉丸は、あたしと話している最中でも、ちらちらと鏡をのぞいては、「ああ、私って美しい!」とポーズを決めだすので、あたしはそのたびに笑ってしまう。
 滝夜叉丸が、どうしてパパと仲良しなのかは、よくしらない。けれど、家でママの機嫌が悪い時、パパはこっそりあたしを秘密基地に連れて行く。あたしはそれを「避難」と呼んでいた。秘密基地に行くのは『とくべつなかんじ』がして、ママの怒鳴り声なんか忘れてしまえた。
 小学四年生になると、ママがパートに出るようになった。放課後ひとりのあたしは、友達と遊ばない日、こうして秘密基地に寄る。パパはぜんぜん家に帰らなくなっていた。さみしくなかった。滝夜叉丸は、いつだって秘密基地で、あたしを出迎えてくれるから。

「たきって、この家から引っ越ししないの?」
 いつだったか、あたしはそう質問した。フェイスパックをしながらヨガに励んでいた滝夜叉丸はきょとんとした声をだす。
「なぜ?」
「なぜって……ずっとこの家にいて、窮屈じゃないの?」
 ヨガの、たぶんハトのポーズを数秒したあと、滝夜叉丸はあたしに向き直る。フェイスパックはしたままだかから、能面みたいで、間抜けな見た目だった。
「私は、ずっとここにいるさ」
「なぜ?」
「パパの、おともだちだからだ」
「おともだちだと、ここから出て行かないの?」
「ここは、パパと私の秘密基地なんだ。私はずっと、ここにいるよ」
 そう言って、にこりと微笑むと、滝夜叉丸はまたヨガに戻ってしまった。スーパースターだと自称するなら、芸能活動とかすればいいのに、とあたしはいつも思う。思うけれど、言わない。だって、滝夜叉丸が、あたしとパパだけのものじゃなくなるなんて、なんだか寂しかったからだ。


「あんた、いつもどこに行ってるの」
 ママは、年を追うごとに、怒りっぽくなっていった。小学六年生になったあたしは、気分はすっかり大人だったから、ママにたくさん反抗した。
「あたしの勝手でしょ」
「あの人といいあんたといい……少しは私のこと考えなさいよ」
 あの人とは、パパのことだ。滅多に家に帰らないパパのことを、あたしは嫌いになれずにいる。だって、たまに会うと、うんと優しいんだもの。
「あんたは私のことを裏切るんじゃないわよ」
 ママがギロリとあたしを睨むので、ふんと顔を背けて家を出た。ママは秘密基地を持っていなくて可哀そうだ。
 なんとかシエスタ、301号室。合鍵を許されていないので、相変わらずピンポンを押すけれど、今日に限ってたきが出てこない。試しにドアノブを回してみたら、いともたやすく回り、あたしは簡単に秘密基地に侵入できた。
「たきー?」
 いないのだろうか。だとしたら不用心だ。あたりを見回すと、「入ってはいけない」と言われいている部屋から、呻き声がきこえてきた。寝室のはずだった。もしかしたら、病気でうなされているのかもしれない。でも、入ったらだめだときつく言われている。あたしはこっそりとドアを開け、中の様子を盗み見た。
「ぁっ……んう……ッ」
 見てはいけないものだ、と瞬時に理解した。
 人から、あんな声が出るのだ。なにかおぞましいものを見た気がしてならなくて、あたしは吐き気を堪えながら、来た道を必死に走って戻った。
 怖かった。醜かった。信じられなかった。
 パパが、見たことのない顔をしていた。
「ママ! ママ!」
 家に帰り、私はママになんとか救ってもらおうとした。ママならあたしの恐怖をわかってもらえると信じていた。
「ぱ、パパが……たきと……」
「……たき?」
 ママの顔つきが変わった。次の瞬間、がしゃん、と私の背後の壁が鳴った。マグカップの欠片が床に散らばった。
「あの男、まだ……」
 ママはあたしの肩をゆさぶった。長い爪が食い込んで裂けそうだった。
「あいつは全部奪っていく! 私からあの人を! せっかくあんたを生んで、やっと喜八郎を手に入れたのに! あんたまで奪う気か! なんて男だ、厚かましい……! あんたもあの男が好きなんでしょう? 私よりもあいつを!」
 あたしは泣くのをこらえきれなかった。ママを振り切って、泣きながら逃げ出した。逃げ出したけれど、行く宛てなんてなかった。泣いて、走って、泣いて、とにかく、とにかく走った。
 結局、秘密基地に行くしかなかった。
 ぼろぼろになりながらドアを開けると、きょとんとした滝夜叉丸が出迎えてくれた。
「どうしたんだ、せっかくのかわいい顔が台無しじゃあないか。さあ、涙を拭いて」
 もう、パパはそこにはいなかった。あるのは、私の頬を拭くちょっと甘いティッシュと、泣き腫らした顔を映す、どっしりとした全身鏡だけだった。
 ああ、そうか、ここは秘密基地なんかじゃないんだ。
 地獄なんだ。
 滝夜叉丸が、美しい顔で微笑んだ。
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