綾滝

 雪が降る音に「しんしん」と名付けた人は、雪のことを心から好きだったのではないかと思う。静寂に静寂を重ねていく感覚。
 小さい頃、寝る前に雪が降りだし、起きてみればベランダに雪が積もっていた時の高揚感を、未だに忘れられずにいる。
「いらっしゃい」
 春の気配のする朝だった。滝夜叉丸が僕の家のチャイムを押すのと同時にドアを開けると、彼は少しだけびっくりしていた。アパートの階段を上る気配を察していたから、彼だと信じて疑わずにドアを開けてしまったけれど、少し不用心だったかもしれない。
「ケーキを買ってきたぞ」
「やったあ」
 滝夜叉丸は、いつも何かしら手土産をくれる。それはコンビニのプリンの時もあれば、カフェでテイクアウトしたコーヒーの時もあり、我が家は彼の来訪があると、少しだけいい匂いになることが多い。
「苺を見ると、春だなと思う。苺なんて、もうスーパーで年中見られるのに」
「それでも春を感じるよね。果物と花は、僕らの生活のなかで、季節を教えてくれる」
「それからショーウィンドウのマネキンたち。彼ら彼女らの季節は少しだけ先取りされているが」
 ついでにトレンドも教えてくれる、と笑いながら、滝夜叉丸はトレンチコートを脱いだ。僕はハンガーを手渡す。かけてやるなんて丁寧なことはしない。
 買い置きしてある紅茶を淹れて、彼の持ってきたケーキを小皿に移す。金色の小さなフォークは、彼の買ってきたケーキを食べるために買いそろえたものだ。ふたつある。僕のぶんと、滝夜叉丸のぶん。
 手を洗った彼と一緒に、テーブルに向かい合う。いただきますを唱えて、ショートケーキを少しずつ食していった。生クリームの甘ったるさは、いつ食べたって同じ甘さだろうに、春の味である気がした。苺の酸味も、なんだか春を祝福しているようだった。
「お前のことだから」
 滝夜叉丸は、きちんと口からものがなくなってから、つまりは飲み込んでから言葉を発する。僕は咀嚼をやめない。
「心配することはないだろうけれど」
 コーヒーじゃなくて紅茶にしたのは、今日の陽気があたたかかったからだ。のどにつっかからない程度の渋みが映える気温。
「応援しているよ。やりたいことをやれ」
 僕はごくりと喉を鳴らして、頷きながら飲み込んだ。だって、最初から答えはわかっていたんだ。
「お前ならそう言うと思っていたよ」
 なにか新しいことをはじめたい、というのは、彼にずっと伝えていることだった。その「なにか」が見つかるまでに、一年かかってしまった。就活もせずに、大学を卒業してからもふらふらしている僕に、滝夜叉丸は愛想を尽かさなかった。
 僕が彼の家に行くこともあった。その時、手土産はあったりなかったり、僕の気まぐれで変動した。滝夜叉丸は、それすら責めない。
 四月から渡米することが決まった時、真っ先に連絡した相手は、やっぱり滝夜叉丸だった。親でも、お世話になった教授にでもなく、滝夜叉丸。彼に電話を掛けた時に、僕は、これを世の中では愛と言うんだな、と知った。
 僕の透明な声を乗せた電波が彼のスマホに届いた時、彼はどんな表情をしていただろう。悲しい顔。喜ばしい顔。そのどちらでもない顔。どれだっていい。どれだって、嬉しい。
 このアパートも、渡米に合わせて引き払うことになっているから、彼が訪れるのもあと数回だろう。寂しいという感情を覚える。それを紅茶で流し込む。
「電話も、メールも、手紙も、飛行機もある」
 滝夜叉丸は自分にそう言い聞かせているようだった。彼の皿を見る。苺が転がっていた。最後まで取っておく側の人だ。僕は最初に食べてしまう。好きなものに、飛びついてしまう。昔からそうだ。ベランダの雪を見つけた時も、ベランダに飛びだして自分の身体を押し付けてから、寒いことに気付いたものだ。あの頃から、なにも変わらない。
「……向こうにも、あるかな。苺」
「そりゃあるだろうさ」
「年中あるのかな」
「あるところには、あるだろう」
「苺を見つける度、お前のことを思い出しそうだ」
「嘘を吐け」
 お前はそんなガラじゃないだろう、と滝夜叉丸は笑う。僕よりも僕に詳しい彼の言葉を、すんなり信じてしまう。これも不用心、なのかもしれない。
「しんしんと積もるかな」
「雪か?」
「ううん。お前との思い出。こういう、紅茶の温度、苺の酸味、アパートの階段を上ってくる気配、春の匂い。そういうの、全部」
「……積もっていくだろう。私の中にも、お前が」
 ショートケーキを食べ終えて、暫く二人で手を重ねていた。
 外で鳥が鳴いている。春が嬉しいのだろうか。春は喜びの季節だから、思いっきり喜ぶといい。僕らの耳に心地よいから、たくさん奏でてくれていい。それでもその鳥の名前を、僕は知らない。知らなくたって、美しいものは美しい。
 滝夜叉丸は知っているだろうか。しかしそれは聞かずに、「もう一杯飲む?」とだけ訊ねる。
 彼は静かに頷いた。滝夜叉丸が、二人きりの時は静かであることを、級友たちが知ったら驚くだろう。けれども、言わない。
 知らない、聞かない、言わない。その選択をしながら歩むことに、ずいぶん大人になったものだと自嘲する。
「滝夜叉丸」
「なんだ」
「好きだって気持ちは、本当だよ」
「……私もだ。そして私が好きなのは、好きなものにまっすぐなお前だ。だから、応援するしか、ないんだよ」
 しんしんと、積もっていく。
 紅茶の温度、苺の酸味、アパートの階段を上ってくる気配、春の匂い。
 彼の横顔。まつ毛の長さ。声の低さ。手のあたたかさ。
「愛してる」
 きっとこの世に正解なんて用意されていない。歩んでいく道を、正解にするしかない。勝手に大人になっていく僕らは、ショーウィンドウのマネキンたちよりも、絶対に色とりどりの表情をしている。
 二杯目の紅茶はミルクティーにした。滝夜叉丸の嬉しそうな顔を見て、僕の顔も綻ぶのだった。
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