綾滝
薄鼠色の空の下、綾部喜八郎は数回瞬きをした。雲と雲の隙間を零れ落ちてくる陽の光が、ちらちらと眩しかった。冬の終わりと春の始まりの中間、身体を動かせば暑いものの、じっとしていると汗が冷えて寒くなる。
越冬を終えた虫たちも、そろそろ目覚める頃だ。春の息吹は気配だけでも騒々しくて、なんだか自分も動いていないと気が済まなくなるような、そんな気がしてしかたがない。
「喜八郎」
穴掘りに没頭していると、聞き慣れた声が、自分の名を呼ぶ。喜八郎が振り返れば、そこには彼の同級生である、平滝夜叉丸が片手をあげて立っていた。
「精が出るな。また落とし穴を掘っているのか」
「ああ。会心の出来だよ、落ちてみる?」
「任意で落ちるのは、落とし穴と言えるのだろうか」
苦笑しながら、滝夜叉丸は喜八郎に向かって左手を差し出した。よく目を凝らせば手に持っているのは小皿であり、さらにはその上に乗っているのは白い柿霜に包まれた干し柿であった。
「おやまあ、もう旬は過ぎているでしょう。どうしたのそれ」
「食堂のおばちゃんが、余り物を貰ったらしくてな。全員分はないから、近くにいる者だけで、秘密で食べるようにとの仰せだ」
喜八郎は泥で汚れた両手を手拭いで拭きながら、はて、と思考を巡らせた。肌寒い風が、二人の間を通り抜けていく。
「近くにいる者だけで秘密で食べるってんなら、お前がここまで持ってくるのは、秘密の範疇に入るの?」
「……ぎりぎり、近くにカウントされるだろう。食堂の裏手なのだし」
「本音は?」
喜八郎は知っていた。滝夜叉丸は、嘘を吐く時、ほんの少しだけ声が泳ぐ。彼は何か嘘を吐いている、という確信を持って目の前の男を見つめた。観念したのか、滝夜叉丸はやれやれと溜息を吐き、僅かに顔を赤らめた。
「お前に、食わせてやりたいと思ったんだ。その、頑張っているし」
「……頑張ってる」
「頑張っているだろう、落とし穴を掘るの」
喜八郎は、滝夜叉丸の言葉を飲み込むと、うん、たしかに、と頷いた。頑張っているからこそ汗をかいたのだし、手のひらの豆も潰れている。
「ご褒美だ」
「どうもありがとう」
手に取った干し柿を噛みしめると、凝縮された濃厚な甘みが口に溢れた。花が水を浴びたかのように、みるみるうちに疲れが癒されていくような感覚がした。
ふたくち、みくち、と食べ進め、鼻に抜ける香りで酔ってしまいそうになりながら、喜八郎は満足げに笑った。それを見た滝夜叉丸も、また嬉しそうに笑う。
「喜八郎のその顔が見たかったのだ」
「ふうん、へんなの。おいしいご飯を食べたり、誰かが落とし穴に嵌ってくれたら、いつだって笑うよ、僕は」
滝夜叉丸は小さく首を振り、そして数度、瞬きをした。ちょうど、雲と雲の隙間を零れ落ちてくる陽の光が、ちらちらと眩しいかのようであった。
「じきに雨が降るぞ。ほどほどにしておけよ」
「そうだね。今日はこのへんにしておこうかな」
踏み鋤を担ぎ、大きく伸びをする。まだ自分から干し柿の香りがするような気がして、でもそれは秘密であるべきだから、ここに置いていかねばならなかった。
「滝夜叉丸」
「なんだ」
「一緒にお風呂に入ろうよ」
「こんな時間にか? 湯冷めしてしまう」
「夜にまた入ればいいよ」
冬の終わりと春の始まりの中間、流れる汗は相変わらず冷たい。二人で頬を薔薇色に染めてしまえば、自分たちに残る柿霜の残り香も洗い流せると思ったのだ。
「もうすぐ春だね」
「ああ。めでたいな」
「めでたいの?」
「めでたいだろう。こうして生きている」
冬を生き延びて、僕らは春を謳歌する。秋が収穫の時期だから、飢えを凌ぐのは夏が一番苦しいけれど、でも、春という季節をよろこびたいのは、自分もそうだった。
湯浴みの支度をしながら、滝夜叉丸の横顔を盗み見る。ごきげんに鼻唄を奏でているが、彼は干し柿を食べたのだろうか。自分の分まで僕に食わせてくれただなんて、まさかそんな、ね。
越冬を終えた虫たちも、そろそろ目覚める頃だ。春の息吹は気配だけでも騒々しくて、なんだか自分も動いていないと気が済まなくなるような、そんな気がしてしかたがない。
「喜八郎」
穴掘りに没頭していると、聞き慣れた声が、自分の名を呼ぶ。喜八郎が振り返れば、そこには彼の同級生である、平滝夜叉丸が片手をあげて立っていた。
「精が出るな。また落とし穴を掘っているのか」
「ああ。会心の出来だよ、落ちてみる?」
「任意で落ちるのは、落とし穴と言えるのだろうか」
苦笑しながら、滝夜叉丸は喜八郎に向かって左手を差し出した。よく目を凝らせば手に持っているのは小皿であり、さらにはその上に乗っているのは白い柿霜に包まれた干し柿であった。
「おやまあ、もう旬は過ぎているでしょう。どうしたのそれ」
「食堂のおばちゃんが、余り物を貰ったらしくてな。全員分はないから、近くにいる者だけで、秘密で食べるようにとの仰せだ」
喜八郎は泥で汚れた両手を手拭いで拭きながら、はて、と思考を巡らせた。肌寒い風が、二人の間を通り抜けていく。
「近くにいる者だけで秘密で食べるってんなら、お前がここまで持ってくるのは、秘密の範疇に入るの?」
「……ぎりぎり、近くにカウントされるだろう。食堂の裏手なのだし」
「本音は?」
喜八郎は知っていた。滝夜叉丸は、嘘を吐く時、ほんの少しだけ声が泳ぐ。彼は何か嘘を吐いている、という確信を持って目の前の男を見つめた。観念したのか、滝夜叉丸はやれやれと溜息を吐き、僅かに顔を赤らめた。
「お前に、食わせてやりたいと思ったんだ。その、頑張っているし」
「……頑張ってる」
「頑張っているだろう、落とし穴を掘るの」
喜八郎は、滝夜叉丸の言葉を飲み込むと、うん、たしかに、と頷いた。頑張っているからこそ汗をかいたのだし、手のひらの豆も潰れている。
「ご褒美だ」
「どうもありがとう」
手に取った干し柿を噛みしめると、凝縮された濃厚な甘みが口に溢れた。花が水を浴びたかのように、みるみるうちに疲れが癒されていくような感覚がした。
ふたくち、みくち、と食べ進め、鼻に抜ける香りで酔ってしまいそうになりながら、喜八郎は満足げに笑った。それを見た滝夜叉丸も、また嬉しそうに笑う。
「喜八郎のその顔が見たかったのだ」
「ふうん、へんなの。おいしいご飯を食べたり、誰かが落とし穴に嵌ってくれたら、いつだって笑うよ、僕は」
滝夜叉丸は小さく首を振り、そして数度、瞬きをした。ちょうど、雲と雲の隙間を零れ落ちてくる陽の光が、ちらちらと眩しいかのようであった。
「じきに雨が降るぞ。ほどほどにしておけよ」
「そうだね。今日はこのへんにしておこうかな」
踏み鋤を担ぎ、大きく伸びをする。まだ自分から干し柿の香りがするような気がして、でもそれは秘密であるべきだから、ここに置いていかねばならなかった。
「滝夜叉丸」
「なんだ」
「一緒にお風呂に入ろうよ」
「こんな時間にか? 湯冷めしてしまう」
「夜にまた入ればいいよ」
冬の終わりと春の始まりの中間、流れる汗は相変わらず冷たい。二人で頬を薔薇色に染めてしまえば、自分たちに残る柿霜の残り香も洗い流せると思ったのだ。
「もうすぐ春だね」
「ああ。めでたいな」
「めでたいの?」
「めでたいだろう。こうして生きている」
冬を生き延びて、僕らは春を謳歌する。秋が収穫の時期だから、飢えを凌ぐのは夏が一番苦しいけれど、でも、春という季節をよろこびたいのは、自分もそうだった。
湯浴みの支度をしながら、滝夜叉丸の横顔を盗み見る。ごきげんに鼻唄を奏でているが、彼は干し柿を食べたのだろうか。自分の分まで僕に食わせてくれただなんて、まさかそんな、ね。