綾滝

 秘密がある。でもそれは、誰にだってある。しかし私の秘密は、誰にも言えないのである。
「滝って泣いたらどうなるの」
 うららかな午後に突然そんなことを言われちゃあ、「なんだって?」と返したって仕方ないだろう。喜八郎はいつだって突然なのだ。腕を頭の後ろで組み、私の前を歩いていた彼は、くるりと振り返って私の目を覗き込んだ。
「幼馴染だけど、見た事ないなあって」
「そりゃあ、私は挫折を知らないからな。いつだって完璧で……」
「完璧な人間なんていないよ。必ずどこかに欠陥がある」
 喜八郎の目はいたって真剣だ。茶化して言っているわけではないことがわかった。彼にも思うことがあるのだろう。自分に足りない部分の何かがあるに違いない。
「しかし、私は才能にも溢れ」
「才能だって万能じゃないよ。滝夜叉丸は、ない部分すら努力でカバーしてきたにすぎない」
 私は押し黙る。私は完璧であらねばならない。もとから才能が秀でていたから完璧でいられる。そう何度となく呪文のように唱えてきたことを、こいつは努力と抜かしやがる。
 努力。してきた。それはもう、血のにじむようなやつを。何故なら、私は完璧でなくてはならないからだ。
「どうして?」
 喜八郎は、瞬きの数が極端に少ない。大きな瞳と、猫のような瞳孔は、いともたやすく私の深淵に侵入してくる。
「どうして、完璧でないといけないの」
 私は揺らいだ。完璧でなくてはならないという呪いは、物心ついた時からあった。そして、完璧であることはとても幸福であった。賞賛は気持ちがいい。成果が実ると達成感がある。それだけではいけないのか。
「……そういう、旅なんだ」
 私は小さな声で言った。本当はここで胸を張れればよかった。喜八郎相手だと、どうにも調子が崩れる。
 喜八郎はごつごつした手――彼は一見中性的な身体つきに見えるが、触れてみればたいがい雄々しい――で私の手を掴み、親指の腹で私の手の甲を撫でた。この道に人通りがなくてよかったと思った。電柱が天へと伸び、風がその隙間を縫っていく。
「僕のことは、連れて行ってくれないの。その旅」
「……どうして」
「泣ける場所のない旅なんて、道中辛いよ。僕がその場所になってあげるって言ってるの」
「面白がっているだけだろ」
「それはまあ、そう」
 このやろう、と言って私は手を振りほどいた。喜八郎はけらけら笑って、お前だから言ったんだよと言ってまた前を向き、のんびりと歩き出す。私が彼のペースに合わせた歩幅でいることを、微塵も疑問に感じていない足取りだ。そういうのを、信頼と呼べる事を知っている。だから何も言わない。
「泣いているお前なんて見たくない、が建前。僕の前でくらい泣いてほしい、が本音」
 本音と建て前を同時に述べるやつがあるか。私はやれやれと頭を振って溜息を吐き――これもいつもの流れだ、喜八郎が突拍子もないことを言って私が溜息を吐く。その当たり前さが、なんだか無性に嬉しい。
「泣いたらどうなるの? 滝は」
「……普通だ。頬も鼻も真っ赤になって、まぶたが腫れて、呼吸が乱れる」
「人間だね」
「そうだな。お前だってそうだろう」
「誰しもがそうでしょ」
 私はきゅっと唇を結んだ。喜八郎は、私にとってかけがえのない存在だ。いつだってずっと傍にいてくれる、心の支えだ。
 彼は、建前も本音も打ち明けてくれた。それならば、私も肩の荷を下ろしてもいいんじゃないか。都合よく、この道には人通りがない。
「……宝石になるんだ」
「え?」
 喜八郎が中途半端に振り返る。彼の向こうの青空は雲一つない。陽射しが眩しい。
「私の涙は、宝石になるんだ」
「……今冗談を言うタイミングとは思えない。本当なんだね?」
「ああ。塩水だったのは子供の頃だけだ」
「おやまあ」
 そうだ、思い出した。泣くと涙が宝石になるから、隠さねばならなかったのだ。泣かないようにしなければならなかったのだ。だから、泣かないように、完璧であり続けなければならなかったのだ。努力して、努力して、失敗を犯さず、成功し続けて、笑っていなければならなかったのだ。
「……お前だから言ったんだぞ」
「まあ、全て合点がいったよ」
 喜八郎は私の頭をよしよしと撫でた。やめろ、セットしたヘアスタイルが乱れるだろう。完璧な美しさでありたいのに。
「いつか、たくさんの真珠で満たしてあげる。ダイヤでもサファイヤでもいいけど」
「そんなに私を泣かせたいか?」
「嬉し泣きね。悲しみは食いしばれても、嬉しいのを我慢は出来ないでしょ」
 得意げににやついた喜八郎は、ぽんぽんと私の頭をもう一度撫でてから前を向く。まるで何事もなかったかのように。まあ、そんな奴だ、喜八郎は。私の秘密なんて聞いても、動揺も同情もしない。
「……喜八郎は、なんの宝石が好きだ」
「さして興味ないなあ」
「でかいエメラルドをやろう。私を泣かすことが出来ればの話だが」
「それは腕がなるね。いいよ。受けて立つとも」
 お前だから言っているんだぞ。本当にわかっているのだろうか。喜八郎はふわりと大きなあくびをして、青い空の断片をひとつ吸い込んだ。私はあくびも噛み殺す。涙がでないように。
 完璧に歩いていく旅路のなかで、ひとつ拠り所があるというのは、なんと心強く、ありがたいことだろうか。その旅路で襲い掛かるすべての障害を、私は努力で乗り越えていくから、喜八郎が隣で笑っていられることを望む。
 曲がり角まで来た。この先は自転車の通りが多い道だ。私たちは何事もなかったかのように歩く。駅まであと五分程度の旅路。
1/8ページ
スキ