綾滝

 綿を千切ったような雲が、幾重にも重なって流れていく。
 午後から雪の予報だった。初雪がみぞれでないことを願う。防水ではない靴を履いて来てしまった。
「新年早々」
 滝夜叉丸はぶつくさ言いながら、紅茶を淹れてくれる。僕らはコーヒーより紅茶を好む。ダージリンの、透き通った紅い液体をほんの少し口に含んで、僕は静かに頷いた。
「だって、お互いひとりじゃない」
「ひとりでゆっくり過ごそうと思っていたのだ」
 テレビも点けずに、僕らは向かい合って座る。滝夜叉丸は白いタートルネックのセーターを着ていて、そのエレガントさが視界に騒々しくて、彼はひとりでも立派に彼なのだ、とどこか納得してしまった。
「あけましておめでとうって、言いたかったんだよ」
 僕がひそりとそう言うと、滝夜叉丸は困ったように笑った。嬉しいのか、戸惑いなのか、どちらでもよかった。滝夜叉丸が、新年早々、僕の言葉に戸惑っている様子を見ることができた。それだけで、このアパートにわざわざ来た甲斐があるというものだ。元旦から電車を乗り継いで。
「喜八郎、どうして帰らないんだ。実家は遠くないだろう」
「……ひとりでゆっくり過ごそうと思っていたから」
「嘘を吐け」
 現にこうして今、ひとりじゃないじゃないか。そう言った滝夜叉丸の溜息が、ティーカップに吸い込まれていく。それは全く甘味を帯びていないよ。そう言いたいのを我慢して、僕は手元の水面に視線を落とす。
「年を越すのなんて、昨日の続きが今日になるだけで、なんにも特別に思わなかったんだよ。だけど、おめでとうって言葉で溢れてると、僕もその渦中にいたくなる。じゃあ誰を祝えばいいんだってなったら、やっぱりそれはお前なんだよ」
「……そのおめでとうは、個人を祝うものではないぞ」
「だけど、滝夜叉丸って、いつもおめでたいじゃない。頭とか」
「おい、それは悪口だぞ」
 ティーカップを空にした。よく手入れの行き届いた食器だ。彼のこだわりは、この家の隅々まで届いている。ぴかぴかに磨き上げられたそれらは、みんな自信に満ちていて、胸を張っている。意外なことに、なんだかそれが心地いい。ありのままの自分でいていいのだと思える。誰も僕に、僕であることを強制してこない。
「今年もよろしくねって、言ったらいけないの」
 そう言って彼の顔を見つめると、また困ったように笑われた。彼も紅茶を飲み干して、僕らの間には言葉を吸い込むものが何もなくなる。
「どうせ、よろしくするだろうさ」
「お前からは、言ってくれないの」
「……祝われたいのか」
「さみしいもん」
 ははは、と明るい声で笑い飛ばした滝夜叉丸は、ぴかぴかに磨かれた食器よりも美しい瞳で、まっすぐに僕を見た。
「あけましておめでとう、喜八郎。今年もよろしくな」
 レースのカーテンから差し込んだ陽の光が、きらきらと僕らを照らした。午後から雪なんて、きっと嘘だ。
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