綾仙
「喜八郎。起きろ」
「……立花せんぱい?」
ここは四年い組の部屋だ。なぜ立花先輩が僕の枕もとに立っているのか、皆目見当もつかない。今まで、なにかの夢を見ていた気がするのに。淡い、しあわせの匂いのする夢を。
冴え切っていない目を擦りながら上体を起こすと、隣に滝夜叉丸が寝こけているのが目に入った。立花先輩は僕しか起こしていなかったようだ。廊下と部屋を繋ぐ障子戸の向こうから月光が差し込み、立花先輩が人ならざる者みたいに見えた。纏う空気はどこか重々しく、いつもの涼し気な目元も厳しい。
「……なにか、あったんですか」
滝夜叉丸を起こさないよう、ひそひそ声で問うてみる。わざわざ他学年の部屋に、それもこんなに真夜中に来るだなんて、よっぽどのことがあったに違いない。一月の空気は凛と冷えて、先輩の息遣いも冷たそうだった。
「穴を掘るのを、手伝ってほしい」
「穴を? ……いいです、けど」
部屋の隅に立てかけてあった踏鋤を手に取ろうと立ち上がると、「そこまでの穴ではないんだ」と制された。苦無で充分だと。それならば先輩一人でも掘れたろうに、それでも僕に声をかけたということは、何か理由があるはずだ。僕は言われるがまま苦無だけを持ち、寝間着のまま外に出た。障子戸をゆっくり閉める時、異世界に飛び立つような感覚だった。安眠を部屋に置き去りにするような。
月光はあますことなく忍術学園を照らしていて、こんな夜に出かけたら誰かに見つかってしまいそうなものの、どうやら生徒たちは寝こけているようである、誰にも見つからずに僕らは歩いた。全ての部屋から寝息が聞こえる。夜の世界の静寂を浴びながら、僕はなんとなく恐怖を覚えた。立花先輩が一向になにも喋らないから。寒さに肩を震わせながら、僕は苦無をくるくると手の中で回した。
「せんぱーい。何で僕なんですか」
「喜八郎にしか、頼めないと思ったからだ」
学園内のお堂の近くまで来ると、立花先輩はやっと振り返った。その表情からは何も読み取れず、彼の指す人差し指の方を見た。地面に何かが落ちている――否、死体だ。白い猫の。
「この猫……」
「近頃、よく私の部屋の前に遊びに来ていたんだ。人懐っこくて、余った煮干しなんかをやると、嬉しそうに鳴いた」
「……死んじゃったんですか」
「……生あるものは、いずれ死ぬ。わかっていたんだがな」
立花先輩の声が少し掠れていた。夜だからだろう。月に何もかも見透かされては、声くらい枯れる。僕は猫の前にしゃがみ、手を合わせて拝んだ。安らかに眠れますように、そんな安直な祈りだけれど、こんなに綺麗な月夜なのだから、それくらい届いたっていいだろう。
「それで」
僕は目を開け、立花先輩を見上げる。
「僕に、この死体を埋める穴を掘って欲しいと」
「ああ。喜八郎にしか頼めないんだ」
なんで僕なんだろう。落とし穴でもなければ、人の死体でもない。必要なのは、ちいさなちいさな穴だ。やわらかくて、よく眠れそうな、居心地のいい穴だ。僕がそんな役目を仰せつかっていいのだろうか。
「やってくれるね」
立花先輩は、どこか寂しそうな顔をしていた。月光に照らされた肌が白く輝いていて、このまま月へ帰ってしまうんじゃないかと思えてくる。行かないで、置いて行かないで。気が付くと僕は立花先輩の腕を掴んでいた。立花先輩はそれを振り払わない。しっとりとした肌は冷たくて、彼が本当は身体の芯まで冷えていることを知る。
「おまえにしか、頼めないんだよ」
「……わかりました」
僕は苦無で穴を掘った。使い慣れた踏鋤ではないけれど、心をこめて掘った。命の行きつく先を。最後の寝床を。どうか春には花が咲きますようにと願いながら。手が真っ黒に汚れたけれど、気にならなかった。立花先輩は、ずっと無言で僕のことを見下ろしていた。
「掘りましたよ」
「ありがとう」
立花先輩は小さく礼を呟くと、猫を穴の中へ放った。これだけしっかり掘れば、そうそう簡単に掘り起こされたりはしないだろう。二人で土をかぶせていく。おやすみなさい、いい夢を。完璧な地面が生まれると、二人で改めて手を合わす。
僕は、今しがた生まれた気持ちになんと名前をつけてよいかわからなかった。死体はつめたくて硬かった。これが人の死体でなくてよかったと思った。死んだ生物の終着点を掘った。僕の穴がひとつの命の終わりを飲み込んだ。おぞましさなのか、悲しみなのか、嬉しさなのか、興奮なのか。さまざまな感情が、どくんどくんと僕の脈を速まらせた。
「……喜八郎がいてくれて、よかったよ」
立花先輩は静かにそう言って、僕を立ち上がらせた。僕のどろどろになった腕の土汚れが立花先輩の手にも付いてしまったけれど、「洗えばいい」とだけ言われた。もちろんその通りだ。この穴のことは、僕らふたりだけの秘密だ。
「……これから人を殺す忍務だって増えていくのにな。一人で見送るんじゃ、こんな月夜に勿体ないと思って」
「立花先輩?」
「私の心も、今ここで殺し、埋めたのだ。ありがとうな、喜八郎」
先輩はそれだけ言って、さっさと僕の前を歩く。僕は手の中の苦無を見つめた。いつか僕も、僕の死体を埋める時がくるのだろうか。その時は立花先輩に埋めて欲しいと思った。どうした、喜八郎、情けないぞ、と叱り飛ばしながら埋めて欲しい。
立花先輩は泣かなかった。泣いてなくてよかった。いつだって完璧な彼の、ちいさなちいさな弱みを見れた嬉しさを、生涯僕は黙っていよう。いつか僕自身の墓を掘った時、一緒に埋めてしまおう。
井戸の水は冷たかった。僕らは手を洗い終えると、それぞれの寝床に戻る。おやすみ、喜八郎、と去っていく彼の姿は、いつも通りに完璧だった。
――翌朝。滝夜叉丸がまた朝からうるさくて、寝不足の僕はのっそり起きる。目を擦っていると、滝夜叉丸は不思議そうな声を出した。
「裾が汚れているぞ」
「……おやまあ。本当だ」
「夜、どこかに行っていたのか?」
その問いに、僕は首を振る。二人だけの秘密を、夢の中に埋めてきた。ここにあるのはおてんとう様の光だけ。
「どこにも。どこにも、行っていないよ」
「……立花せんぱい?」
ここは四年い組の部屋だ。なぜ立花先輩が僕の枕もとに立っているのか、皆目見当もつかない。今まで、なにかの夢を見ていた気がするのに。淡い、しあわせの匂いのする夢を。
冴え切っていない目を擦りながら上体を起こすと、隣に滝夜叉丸が寝こけているのが目に入った。立花先輩は僕しか起こしていなかったようだ。廊下と部屋を繋ぐ障子戸の向こうから月光が差し込み、立花先輩が人ならざる者みたいに見えた。纏う空気はどこか重々しく、いつもの涼し気な目元も厳しい。
「……なにか、あったんですか」
滝夜叉丸を起こさないよう、ひそひそ声で問うてみる。わざわざ他学年の部屋に、それもこんなに真夜中に来るだなんて、よっぽどのことがあったに違いない。一月の空気は凛と冷えて、先輩の息遣いも冷たそうだった。
「穴を掘るのを、手伝ってほしい」
「穴を? ……いいです、けど」
部屋の隅に立てかけてあった踏鋤を手に取ろうと立ち上がると、「そこまでの穴ではないんだ」と制された。苦無で充分だと。それならば先輩一人でも掘れたろうに、それでも僕に声をかけたということは、何か理由があるはずだ。僕は言われるがまま苦無だけを持ち、寝間着のまま外に出た。障子戸をゆっくり閉める時、異世界に飛び立つような感覚だった。安眠を部屋に置き去りにするような。
月光はあますことなく忍術学園を照らしていて、こんな夜に出かけたら誰かに見つかってしまいそうなものの、どうやら生徒たちは寝こけているようである、誰にも見つからずに僕らは歩いた。全ての部屋から寝息が聞こえる。夜の世界の静寂を浴びながら、僕はなんとなく恐怖を覚えた。立花先輩が一向になにも喋らないから。寒さに肩を震わせながら、僕は苦無をくるくると手の中で回した。
「せんぱーい。何で僕なんですか」
「喜八郎にしか、頼めないと思ったからだ」
学園内のお堂の近くまで来ると、立花先輩はやっと振り返った。その表情からは何も読み取れず、彼の指す人差し指の方を見た。地面に何かが落ちている――否、死体だ。白い猫の。
「この猫……」
「近頃、よく私の部屋の前に遊びに来ていたんだ。人懐っこくて、余った煮干しなんかをやると、嬉しそうに鳴いた」
「……死んじゃったんですか」
「……生あるものは、いずれ死ぬ。わかっていたんだがな」
立花先輩の声が少し掠れていた。夜だからだろう。月に何もかも見透かされては、声くらい枯れる。僕は猫の前にしゃがみ、手を合わせて拝んだ。安らかに眠れますように、そんな安直な祈りだけれど、こんなに綺麗な月夜なのだから、それくらい届いたっていいだろう。
「それで」
僕は目を開け、立花先輩を見上げる。
「僕に、この死体を埋める穴を掘って欲しいと」
「ああ。喜八郎にしか頼めないんだ」
なんで僕なんだろう。落とし穴でもなければ、人の死体でもない。必要なのは、ちいさなちいさな穴だ。やわらかくて、よく眠れそうな、居心地のいい穴だ。僕がそんな役目を仰せつかっていいのだろうか。
「やってくれるね」
立花先輩は、どこか寂しそうな顔をしていた。月光に照らされた肌が白く輝いていて、このまま月へ帰ってしまうんじゃないかと思えてくる。行かないで、置いて行かないで。気が付くと僕は立花先輩の腕を掴んでいた。立花先輩はそれを振り払わない。しっとりとした肌は冷たくて、彼が本当は身体の芯まで冷えていることを知る。
「おまえにしか、頼めないんだよ」
「……わかりました」
僕は苦無で穴を掘った。使い慣れた踏鋤ではないけれど、心をこめて掘った。命の行きつく先を。最後の寝床を。どうか春には花が咲きますようにと願いながら。手が真っ黒に汚れたけれど、気にならなかった。立花先輩は、ずっと無言で僕のことを見下ろしていた。
「掘りましたよ」
「ありがとう」
立花先輩は小さく礼を呟くと、猫を穴の中へ放った。これだけしっかり掘れば、そうそう簡単に掘り起こされたりはしないだろう。二人で土をかぶせていく。おやすみなさい、いい夢を。完璧な地面が生まれると、二人で改めて手を合わす。
僕は、今しがた生まれた気持ちになんと名前をつけてよいかわからなかった。死体はつめたくて硬かった。これが人の死体でなくてよかったと思った。死んだ生物の終着点を掘った。僕の穴がひとつの命の終わりを飲み込んだ。おぞましさなのか、悲しみなのか、嬉しさなのか、興奮なのか。さまざまな感情が、どくんどくんと僕の脈を速まらせた。
「……喜八郎がいてくれて、よかったよ」
立花先輩は静かにそう言って、僕を立ち上がらせた。僕のどろどろになった腕の土汚れが立花先輩の手にも付いてしまったけれど、「洗えばいい」とだけ言われた。もちろんその通りだ。この穴のことは、僕らふたりだけの秘密だ。
「……これから人を殺す忍務だって増えていくのにな。一人で見送るんじゃ、こんな月夜に勿体ないと思って」
「立花先輩?」
「私の心も、今ここで殺し、埋めたのだ。ありがとうな、喜八郎」
先輩はそれだけ言って、さっさと僕の前を歩く。僕は手の中の苦無を見つめた。いつか僕も、僕の死体を埋める時がくるのだろうか。その時は立花先輩に埋めて欲しいと思った。どうした、喜八郎、情けないぞ、と叱り飛ばしながら埋めて欲しい。
立花先輩は泣かなかった。泣いてなくてよかった。いつだって完璧な彼の、ちいさなちいさな弱みを見れた嬉しさを、生涯僕は黙っていよう。いつか僕自身の墓を掘った時、一緒に埋めてしまおう。
井戸の水は冷たかった。僕らは手を洗い終えると、それぞれの寝床に戻る。おやすみ、喜八郎、と去っていく彼の姿は、いつも通りに完璧だった。
――翌朝。滝夜叉丸がまた朝からうるさくて、寝不足の僕はのっそり起きる。目を擦っていると、滝夜叉丸は不思議そうな声を出した。
「裾が汚れているぞ」
「……おやまあ。本当だ」
「夜、どこかに行っていたのか?」
その問いに、僕は首を振る。二人だけの秘密を、夢の中に埋めてきた。ここにあるのはおてんとう様の光だけ。
「どこにも。どこにも、行っていないよ」
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