雑高
「しをればつらき宿のこはぎはら、袖控へてもる酒の、枕の数やつもるらん」
里のどこかから、うたが聴こえてくる。私はたったいま、その枕を重ねたばかりだ、と思いながら起き、自分の乱れた髪を梳いた。雑渡様は既に起きており、隣の布団にはいらっしゃらなかった。
昨晩、酒を酌み交わしてから、記憶がない。雑渡様のことは全て覚えておきたいのに、と悔しく思いつつ、白小袖を正した。太ももや胸元に咲く無数の花を見るに、随分激しい熱の交わりだったようだ。仄かに頭痛がする。
障子戸がするすると開く。雑渡様が帰って来たようだ。慌てて胸元を正した。
「あ、おはよう陣左。水を持ってきたから飲みなさい」
「ありがとうございます」
雑渡様のお顔が見れない。私は差し出された筒を受け取り、水を口に含んだ。気付かないうちに全身が渇いていたようだ、みるみるうちに身体が潤っていく。
「あ、あの、昨晩は……」
「情熱的だったねえ、陣左」
「……も、申し訳ございません……」
「いいじゃない、嬉しかったよ。……覚えてない?」
こくり、と頷くと、雑渡様は愉快そうにくっくっと喉で笑った。私は恥ずかしさのあまり俯き、しかし俯いた先にも寝乱れた布団があったため、にっちもさっちもいかなくなってしまった。雑渡様は私の顔の前に、ひらひらと左手を出す。
「見て、噛まれたの」
「私にですか!? 大変申し訳ございません……!」
穴があったら入りたい気持ちだった。私は雑渡様の手を取り、噛み痕を探す。親指の付け根が心なしか少し赤くなっていた。
「あまりにも善がるものだから、口を塞いだ私が悪いの」
「なにからなにまで……お恥ずかしい……」
「でもね、おあいこ。私も陣左の首に、たくさん噛みついちゃったから」
ああ、何かじんじんと熱を孕んでいるのは、どうりでか。私は指を指された箇所を撫でてみる。雑渡様の印が私の身体に残るのは嬉しい。それが痛みであるほど、生きていることを実感できる気がする。
「どうする? みんなに見られたら恥ずかしいから、今日お休みにしちゃう?」
「そんなことはいたしません。頭巾で隠れます」
雑渡様はまたくっくっと笑い、陣内に溜息を吐かれそうだなあ、と呟いた。私もその光景には見覚えがあり、想像しただけで顔に熱が集まる。
風の鳴る音がする。雑渡様の手が私の頬を撫でるのと同時に、先ほどのうたがまた届きだした。
「しをればつらき宿のこはぎはら、袖控へてもる酒の、枕の数やつもるらん」
「……なんでしょうか、あのうたは」
どこかから聴こえる旋律に耳を傾けると、雑渡様は目を瞑った。女たちの声はよく通り、世界が地続きであることを思い出させる。
「流行のうただよ。陣左の心中だったらどうしよう」
「……もう当分、酒は飲みません」
「私と逢えない夜も?」
「いつでも胸の中に、雑渡様を思い起こせますから」
本当は、朝日を迎える度に、いつも雑渡様に思いを馳せている。どうかご無事でありますように。どうかお傍にいられますように。雑渡様の呼吸を、指先を、熱を反芻しながら髪を結う時、私は私を取り戻す。私という輪郭が、朝を思い出す。
しをればつらき宿のこはぎはら、袖控へてもる酒の、枕の数やつもるらん。涙と枕を重ねる辛さは、当分味わいたくない。夜は我々の味方で、孤独は瞳であり、耳だった。けれど身体の奥を燻る熱は、私を掴んで離さない。
雑渡様の唇に唇を寄せる。雑渡様は私の背中をひと撫でしたあと、さあ、と言った。さあ、一日をはじめよう。
自室に帰る道すがら、さきほどのうたを口ずさもうとした。どうにも音程がとりにくく、うまく風に乗らなかった。首筋に残るちりちりとした痛みをなぞり、ふ、と口角をあげる。桜が咲きそうだ。春がやってきた。すべての生命が、積んだ枕から起き出す頃だ。
みなの頬が渇いていればいい。未来は願えずとも歩んでいける。
里のどこかから、うたが聴こえてくる。私はたったいま、その枕を重ねたばかりだ、と思いながら起き、自分の乱れた髪を梳いた。雑渡様は既に起きており、隣の布団にはいらっしゃらなかった。
昨晩、酒を酌み交わしてから、記憶がない。雑渡様のことは全て覚えておきたいのに、と悔しく思いつつ、白小袖を正した。太ももや胸元に咲く無数の花を見るに、随分激しい熱の交わりだったようだ。仄かに頭痛がする。
障子戸がするすると開く。雑渡様が帰って来たようだ。慌てて胸元を正した。
「あ、おはよう陣左。水を持ってきたから飲みなさい」
「ありがとうございます」
雑渡様のお顔が見れない。私は差し出された筒を受け取り、水を口に含んだ。気付かないうちに全身が渇いていたようだ、みるみるうちに身体が潤っていく。
「あ、あの、昨晩は……」
「情熱的だったねえ、陣左」
「……も、申し訳ございません……」
「いいじゃない、嬉しかったよ。……覚えてない?」
こくり、と頷くと、雑渡様は愉快そうにくっくっと喉で笑った。私は恥ずかしさのあまり俯き、しかし俯いた先にも寝乱れた布団があったため、にっちもさっちもいかなくなってしまった。雑渡様は私の顔の前に、ひらひらと左手を出す。
「見て、噛まれたの」
「私にですか!? 大変申し訳ございません……!」
穴があったら入りたい気持ちだった。私は雑渡様の手を取り、噛み痕を探す。親指の付け根が心なしか少し赤くなっていた。
「あまりにも善がるものだから、口を塞いだ私が悪いの」
「なにからなにまで……お恥ずかしい……」
「でもね、おあいこ。私も陣左の首に、たくさん噛みついちゃったから」
ああ、何かじんじんと熱を孕んでいるのは、どうりでか。私は指を指された箇所を撫でてみる。雑渡様の印が私の身体に残るのは嬉しい。それが痛みであるほど、生きていることを実感できる気がする。
「どうする? みんなに見られたら恥ずかしいから、今日お休みにしちゃう?」
「そんなことはいたしません。頭巾で隠れます」
雑渡様はまたくっくっと笑い、陣内に溜息を吐かれそうだなあ、と呟いた。私もその光景には見覚えがあり、想像しただけで顔に熱が集まる。
風の鳴る音がする。雑渡様の手が私の頬を撫でるのと同時に、先ほどのうたがまた届きだした。
「しをればつらき宿のこはぎはら、袖控へてもる酒の、枕の数やつもるらん」
「……なんでしょうか、あのうたは」
どこかから聴こえる旋律に耳を傾けると、雑渡様は目を瞑った。女たちの声はよく通り、世界が地続きであることを思い出させる。
「流行のうただよ。陣左の心中だったらどうしよう」
「……もう当分、酒は飲みません」
「私と逢えない夜も?」
「いつでも胸の中に、雑渡様を思い起こせますから」
本当は、朝日を迎える度に、いつも雑渡様に思いを馳せている。どうかご無事でありますように。どうかお傍にいられますように。雑渡様の呼吸を、指先を、熱を反芻しながら髪を結う時、私は私を取り戻す。私という輪郭が、朝を思い出す。
しをればつらき宿のこはぎはら、袖控へてもる酒の、枕の数やつもるらん。涙と枕を重ねる辛さは、当分味わいたくない。夜は我々の味方で、孤独は瞳であり、耳だった。けれど身体の奥を燻る熱は、私を掴んで離さない。
雑渡様の唇に唇を寄せる。雑渡様は私の背中をひと撫でしたあと、さあ、と言った。さあ、一日をはじめよう。
自室に帰る道すがら、さきほどのうたを口ずさもうとした。どうにも音程がとりにくく、うまく風に乗らなかった。首筋に残るちりちりとした痛みをなぞり、ふ、と口角をあげる。桜が咲きそうだ。春がやってきた。すべての生命が、積んだ枕から起き出す頃だ。
みなの頬が渇いていればいい。未来は願えずとも歩んでいける。