雑高
雑渡様が善法寺伊作のことを気にかけているのは知っていた。手当てをしてくれた恩があるので、私も彼には頭があがらない。けれど、それはほんのひと時の戯れかと思っていた。足しげく忍術学園に通うのも、日頃の恨みつらみやこびりついた血の匂いを一瞬でも癒すためだと認識していた。無垢な子供ほど癒しになるものはないから。尊奈門も立派に成長して――まだ危なっかしいところはあるけれど、でも、一人の大人として独立しているのを見ると、ふと幼かった頃のことを思い出さなくもない。だから、私はすっかり安心しきっていたのだ。雑渡様の視界には私しか映っていないと思い込んでいた。
――雑渡様が、善法寺伊作の顎を掬っているのを見るまでは。
雑渡様はお優しい。部下にも等しく、丁寧に接してくださる。だから、善法寺伊作にも、その優しさを分け与えたのだろう。親鳥が雛に餌を口移しするように。そうやって無理やり自分を納得させた。見なかった振りをした。そもそも木の陰に隠れて見えなかったのだ。なにかまやかしに違いない。
――けれど。人の心は移り変わるものだ。
私は十三の頃から雑渡様にお仕えしてきた。二十四になった今、あの頃と変わらない寵愛をいただいていると思っていたけれど、それがもし、情が湧いただけの憐みなのだとしたら。地面がぐらりと歪んだ。急に、今自分が立っているところが、わからなくなってしまった。
私からお伝えしている愛と、雑渡様から送られる愛は、もしかしたら、重みが違うのかもしれない――そして今、私よりも、善法寺伊作に注ぐ愛の方が、重いのかもしれない。手が震えるのを、必死に抑えた。吐き気が込み上げてくる。
最近、寝所に呼ばれることが、めっきり減っていた。お身体を休めているからだとばかり思っていた。でも、もしかしたら、つまり、そういうことなのではないか。
雷に打たれたような衝撃だった。私は雑渡様と一緒に歳を重ねてきたことを喜びと受け取っていたけれど、抱くには随分、薹が立ってしまった。善法寺伊作は十五歳だったか。私が雑渡様のところへ押しかけたのと、同じくらいだ。
もう、雑渡様に、私は必要ないのかもしれない。お役目がまわってくることはないのかもしれない。これからは善法寺伊作に、その唇で愛を囁くのかもしれない。考えたくもなかった。だけど、雑渡様がそう決めたのなら、私は従う他ないのだ。息が苦しくなって、走るのを止めた。冬の空は灰色だ。
私という存在価値がわからない。もちろんいち忍者としての実力はある方だと自負しているが、私が私である必要がなくなってしまったように思えた。これから独りで、どうやって息をしていけばいいのだ。雑渡様の胸の中で、やっと呼吸が出来ていたのに。
雑渡様。雑渡様と目を合わせたい。肌を重ねたい。唇に触れたい。陣左、と特別な名前で呼んでもらいたい。その声を、温もりを、独り占めしていたい。私は雑渡様のもので、雑渡様は私のものだった。もう違う。もう違うのだ。世界ががらっと変わってしまった。
せめて最後に、もう一回、抱きしめてほしい。私は欲深いだろうか、罪深いだろうか。それで全てをおしまいにしたかった。ひとりの人間として、雛鳥が巣を飛び立つように、空に解放してほしかった。例え灰色の空でも、涙くらいはごまかせるだろう。
今夜は新月だ。新月の夜、雑渡様は寝所にいる。
「雑渡様」
「陣左か。入りなさい、どうしたの」
そろそろと戸を開け、部屋に入る。この部屋の畳の匂いを身体に刻み付けよう。私は顔が醜く歪まないように努めた。いつもの、いつもの私として振舞いたかった。
「お話がございます」
「なあに」
「……抱いて、いただけませんでしょうか。最後に」
「……最後?」
「もう、私のお役目は終いなのでしょう。あまりにも歳を重ねてしまった私より、彼の方が麗しいのは理解しております」
「……なんの話?」
冷静に、冷静に、私はそう唱えながら言葉を紡いだ。決して取り乱してしまわないよう、雑渡様をご不快にさせないよう。
「これで、私の気持ちも封じ込めます。これ以降、ご迷惑は決しておかけいたしません、ですのでどうか、最後に、思い出をくださいませんか」
「……なるほどね。陣左」
雑渡様はおいでおいでをして、私を呼び寄せた。これで、雑渡様の熱に包まれるのも最後だ。私はお傍に身を寄せた。
雑渡様は私の顎を掬った――善法寺伊作にしたように。これからは彼だけにするのだろう。悔しさ、憎さ、そういったものを飲み込んで、私は唇を重ねる。雑渡様は深く舌を差し込んで、私の口内を侵した。
「陣左は、私がいないと呼吸ができないだろう」
「ええ」
「ふふふ。かわいいね」
雑渡様は私を布団に転がすと、着物の合わせに手を伸ばしながら微笑んだ。
「この光景が大好きなんだ。陣左が私になにもかもを許して、委ねるところ」
「……ずっと。ずっと、お慕い申しております」
「知っているよ。かわいい陣左」
私の胸の上に手を置いて、鼓動を吸い取るように、そこばかり撫ぜる彼の、愉悦に歪んだ目元。愛しかった。今だけは、世界中で、彼は私だけのものだった。
「あのね。お前が見たものはまぼろしだよ」
「……まぼろし」
「そう。私はお前を、手放してやる気なんてないからね」
帯紐を解きながら、雑渡様は私の頬を撫でた。彼の瞳は、深い深い漆黒だ。彼の体温と私の体温がひとつになろうとしていた。
「かわいい陣左。かわいそうな陣左。お前は私がいないと生きられないよ。そういう風に育ててきたからね」
「……私はそれを、愛と受け取ります」
雑渡様は何かを言おうとして、やめた。消えてしまった言葉をたぐるように、私は唇を寄せた。彼の全てを食べてしまいたかった。
今宵、月は私たちを照らさない。誰も私たちの罪を知らない。私はだんだん溶けていく自分をどこか他人事のように思いながら、繋がる熱のあたたかさに涙を流した。この茨の檻からは、当分逃げられそうになかった。
――雑渡様が、善法寺伊作の顎を掬っているのを見るまでは。
雑渡様はお優しい。部下にも等しく、丁寧に接してくださる。だから、善法寺伊作にも、その優しさを分け与えたのだろう。親鳥が雛に餌を口移しするように。そうやって無理やり自分を納得させた。見なかった振りをした。そもそも木の陰に隠れて見えなかったのだ。なにかまやかしに違いない。
――けれど。人の心は移り変わるものだ。
私は十三の頃から雑渡様にお仕えしてきた。二十四になった今、あの頃と変わらない寵愛をいただいていると思っていたけれど、それがもし、情が湧いただけの憐みなのだとしたら。地面がぐらりと歪んだ。急に、今自分が立っているところが、わからなくなってしまった。
私からお伝えしている愛と、雑渡様から送られる愛は、もしかしたら、重みが違うのかもしれない――そして今、私よりも、善法寺伊作に注ぐ愛の方が、重いのかもしれない。手が震えるのを、必死に抑えた。吐き気が込み上げてくる。
最近、寝所に呼ばれることが、めっきり減っていた。お身体を休めているからだとばかり思っていた。でも、もしかしたら、つまり、そういうことなのではないか。
雷に打たれたような衝撃だった。私は雑渡様と一緒に歳を重ねてきたことを喜びと受け取っていたけれど、抱くには随分、薹が立ってしまった。善法寺伊作は十五歳だったか。私が雑渡様のところへ押しかけたのと、同じくらいだ。
もう、雑渡様に、私は必要ないのかもしれない。お役目がまわってくることはないのかもしれない。これからは善法寺伊作に、その唇で愛を囁くのかもしれない。考えたくもなかった。だけど、雑渡様がそう決めたのなら、私は従う他ないのだ。息が苦しくなって、走るのを止めた。冬の空は灰色だ。
私という存在価値がわからない。もちろんいち忍者としての実力はある方だと自負しているが、私が私である必要がなくなってしまったように思えた。これから独りで、どうやって息をしていけばいいのだ。雑渡様の胸の中で、やっと呼吸が出来ていたのに。
雑渡様。雑渡様と目を合わせたい。肌を重ねたい。唇に触れたい。陣左、と特別な名前で呼んでもらいたい。その声を、温もりを、独り占めしていたい。私は雑渡様のもので、雑渡様は私のものだった。もう違う。もう違うのだ。世界ががらっと変わってしまった。
せめて最後に、もう一回、抱きしめてほしい。私は欲深いだろうか、罪深いだろうか。それで全てをおしまいにしたかった。ひとりの人間として、雛鳥が巣を飛び立つように、空に解放してほしかった。例え灰色の空でも、涙くらいはごまかせるだろう。
今夜は新月だ。新月の夜、雑渡様は寝所にいる。
「雑渡様」
「陣左か。入りなさい、どうしたの」
そろそろと戸を開け、部屋に入る。この部屋の畳の匂いを身体に刻み付けよう。私は顔が醜く歪まないように努めた。いつもの、いつもの私として振舞いたかった。
「お話がございます」
「なあに」
「……抱いて、いただけませんでしょうか。最後に」
「……最後?」
「もう、私のお役目は終いなのでしょう。あまりにも歳を重ねてしまった私より、彼の方が麗しいのは理解しております」
「……なんの話?」
冷静に、冷静に、私はそう唱えながら言葉を紡いだ。決して取り乱してしまわないよう、雑渡様をご不快にさせないよう。
「これで、私の気持ちも封じ込めます。これ以降、ご迷惑は決しておかけいたしません、ですのでどうか、最後に、思い出をくださいませんか」
「……なるほどね。陣左」
雑渡様はおいでおいでをして、私を呼び寄せた。これで、雑渡様の熱に包まれるのも最後だ。私はお傍に身を寄せた。
雑渡様は私の顎を掬った――善法寺伊作にしたように。これからは彼だけにするのだろう。悔しさ、憎さ、そういったものを飲み込んで、私は唇を重ねる。雑渡様は深く舌を差し込んで、私の口内を侵した。
「陣左は、私がいないと呼吸ができないだろう」
「ええ」
「ふふふ。かわいいね」
雑渡様は私を布団に転がすと、着物の合わせに手を伸ばしながら微笑んだ。
「この光景が大好きなんだ。陣左が私になにもかもを許して、委ねるところ」
「……ずっと。ずっと、お慕い申しております」
「知っているよ。かわいい陣左」
私の胸の上に手を置いて、鼓動を吸い取るように、そこばかり撫ぜる彼の、愉悦に歪んだ目元。愛しかった。今だけは、世界中で、彼は私だけのものだった。
「あのね。お前が見たものはまぼろしだよ」
「……まぼろし」
「そう。私はお前を、手放してやる気なんてないからね」
帯紐を解きながら、雑渡様は私の頬を撫でた。彼の瞳は、深い深い漆黒だ。彼の体温と私の体温がひとつになろうとしていた。
「かわいい陣左。かわいそうな陣左。お前は私がいないと生きられないよ。そういう風に育ててきたからね」
「……私はそれを、愛と受け取ります」
雑渡様は何かを言おうとして、やめた。消えてしまった言葉をたぐるように、私は唇を寄せた。彼の全てを食べてしまいたかった。
今宵、月は私たちを照らさない。誰も私たちの罪を知らない。私はだんだん溶けていく自分をどこか他人事のように思いながら、繋がる熱のあたたかさに涙を流した。この茨の檻からは、当分逃げられそうになかった。