雑高
世界は、片目を瞑っているくらいがちょうどいい。
とある戯曲にあった台詞だ。私はその真意を、劇を見る前からすでに知っていた。
春のはじまり、三寒四温を超え、蝋梅がこぼれて桃が咲く。ぬるい風が頬を撫でていくのを感じながら、私は左瞼に貼ってあるアイパッチをそっと撫でた。センシティブな話題になりそうだと察した人々は、このアイパッチの意味をわざわざ問わない。気を遣われていることへの居心地の悪さなどよりも、便利でありがたい、と感謝の気持ちすら湧く。言い訳のために貼っているのではないけれど。
火曜日、デパートというべきか百貨店というべきか、私にその違いはわからないまま、銀座へと赴いた。三越で菓子を見繕う。クライアント先へ顔を出すためだったが、よくもまあこんな一等地にオフィスを構えられたものだと、なかば関心しながら用事を済ませる。
東京という街は忙しない。溢れる喧騒には時に耳を塞ぎたくなる、けれど都会に出れば出るほど、私を見上げる者は少なくなる。他人への興味が薄いのだ。巨躯であっても、片目であっても、通り過ぎてしまえばただの他人。人生のエキストラにもならない。これもありがたい。
駅で丸の内線に乗る。イヤホンをつけ、つけたけれど、何の音楽を聴いたものか考えあぐねる。仕方なくストリーミングサービスを漁る。漁っているうちに大手町に着く。半蔵門線に乗り換えるために歩いている間、イヤホンからはUKロックが流れていた。
陣左に再会したのは、つい先月のことだった。神保町の古本屋に立ち寄った時、店内にいた涼し気な出で立ちの青年に目を奪われた。それが前世で大切にしていた人物であると直感が働くのに、一秒もかからなかった。前世のことを覚えているのか、私を怪しまないか、ぐるぐると脳内を雑音がかけめぐるよりも前に、私は声をかけていた。
「陣左」
陣左と思われる青年は驚いたようにこちらを見上げ、それから零れ出てしまうのではないかと思うほどに目を見開き、「雑渡さま」と小さな声で呟いた。その日も火曜日だった。
今日も神保町で待ち合わせていた。馴染みの古本屋の前で。この街の空気はいつも少し湿気ているような、それでいて凛としている気がする。それも古本屋が多い由縁か。インクの匂いなのだろうか。
「雑渡さま」
「さま、やめなさいって」
端正な顔立ちを破顔させながら私に駆け寄る陣左に、私も顔を綻ばせる。きっと彼にこの顔をさせるのは私だけだ、という、どこか優越感すら覚える。
陣左は大学の帰りだった。大学自体は神保町から離れているのだが、なぜかこの街に吸い寄せられると言っていた。おかげで私と再会することが出来たのだし、いわゆる運命だと名付けてもいいかもしれない。
「いまの世の中で、様なんてつけて呼んじゃあ、変に思われるよ」
「すみません、つい癖で」
「癖ったって、前世のでしょう」
お互いくすくすと笑いながら、事前に調べていたカレー屋へと向かう。私たちは再会を果たしてから、この先も頻繁に会うならこの街、と決めていた。そして火曜日に逢瀬――ただ食事をするだけだからこの言い方は正しくないのだが――を重ねるたび、カフェやカレー屋を巡るのが定番になっていた。
今日訪れた店は、どっしりと構えられた老舗のカレー屋だった。こげ茶色の店内は照明も薄暗く、人もまばらで息がしやすかった。
重たいガラスのコップに水を注がれたタイミングで、二人して一番のオススメのカレーを頼む。メニュー表を下げられてしまったから、もうそのカレーの具材がわからない。わからなくても、店の雰囲気でおいしいことはわかる。
「雑渡さ……ん」
「なあに」
「言いたくなければ、いいのですが。……今世でも、その、左眼は」
ここまで直球であれば、むしろすがすがしい、と思う。陣左からはいつかこの質問をされると思っていたので不快感もない。私は優しい気持ちで微笑んだ。
「見えているよ。火傷もしていない」
「よかった……」
じゃあなぜ、という質問を重ねるのではなく、心からの安堵を返されて、私はさらに愛しさを覚えた。陣左のことを愛しく思う。この思いが五百年色褪せなかったことが、何よりも嬉しい。
「シャッターアイって知ってる?」
「シャッターアイ?」
「見た光景を、瞬時に記憶してしまう。いわば特殊能力」
私はアイパッチを外した。外したタイミングでカレーが運ばれてくる。私はちらりとウエイトレスの女性を見上げ、不自然ではないよう会釈をした。そしてまたアイパッチを付けなおし、ジャケット内側のポケットからメモ帳とペンを取り出す。
「見ててご覧」
私はメモ帳にペンを走らせた。字を書くのではなく、輪郭を描いた。先ほどのウエイトレスの。
みるみるうちに彼女の顔を描き上げた私を、陣左はどんな目で見ているだろう。畏怖の顔だとしたら、と傷つく準備をする。
「ほら」
メモ帳を渡した際の陣左を窺い見ると、想像と裏腹に目を輝かせていたので、私は拍子抜けしてしまった。驚くのでも怖がるのでもない、純粋な尊敬に頬を紅潮させる彼の姿は、年齢よりも幼く見えた。
「すごいです……!」
「すごくないよ」
名前も知らない女性の顔が描かれたページを切り取って、陣左にあげた。陣左はとても嬉しそうにそれを胸に抱き、それからクリアファイルに仕舞った。そんなもの、仕舞うほどの価値はないのに。
「失礼ながら、その、右眼もですか?」
「ううん、不思議なことに、左眼だけ。だから助かってはいるんだけど」
慣れているしね、と笑って、私たちはスプーンを手に取った。野菜は素揚げされているらしく、ルーの上で鮮やかだ。白米にルーを絡めて口に運ぶと、スパイスの香りが鼻に抜けていく。少し辛めだ。昼に食うのにちょうどよかった。
「……前の世でもね、少し、こんな風だったんだよ」
「……こんな風、ですか」
「私は、私自身が焼けていく光景が目に焼き付いている」
肌が炎に包まれて歪んでいく、血管が焦げていく、あの瞬間。諸泉の押しつぶされていた壁の色褪せ具合。どすぐろい血、裂けた肉から覗くぬらついた紅。
劈く痛みの欠片が、いつ左眼から零れるかわからない恐怖。
陣左はそれを苦しそうに聞き、それからおそるおそる口を開いた。
「……それはきっと、普通、ですよ」
「ふつう」
「大怪我を負う瞬間が、目に焼き付いて離れない。……それはきっと、普通です。誰しもがそうなる。そして今世のシャッターアイは、それが原因ではないです」
「……ずいぶん、言い切るね」
陣左はスプーンにルーを乗せ、大きな人参を頬張った。たっぷりと咀嚼したのち、何かの思考と共にごくりと飲み込んで、まっすぐ私を見つめる。
「私は雑渡さんを愛しています。前世から変わらず、いや、もっと。だからこそわかります。あなたのそれは、業でも罰でも罪でもありません」
「……愛、ね」
今度は私がカレーを頬張った。こっくりと深い味が、この店の人気の秘訣なのだろうと思った。じゃがいもが跡形もなく溶け込んでいる。
「愛なんてね、思い込みにすぎないよ。私がお前に教え込んだの。お前はそれを覚えて……繰り返しているだけ」
「では、雑渡さんは満たされていませんでしたか」
いつのまにかカレーを食べ終えた陣左は、紙ナプキンで口を拭っていた。その所作のどれも、青々しくて美しいと感じる。
「前世で、私はしあわせでした。あなたを失うかもしれないと思った時はもちろん苦しかったですが、思いが通じ合っている間は、とても満たされた気持ちでした」
カレールーが口の中でもたつく。辛味が舌に残る。それを水で溶かし、流し、飲み込む。
「雑渡さんは、しあわせではありませんでしたか」
「……いくつもの死の上で、私がしあわせになど、とは思っていたけれど」
陣左の目を見る。漆黒に濡れていて、きっと美しいものを信じて生きてきたのだと感ぜられた。彼と再会できた喜びに、間違いはない。
「そうだね。お前が私の元に来てくれたこと、私の傍にいてくれたこと、私と共に過ごしてくれたことは、どれも……しあわせだったかな」
一括りになどしなくてもいいのだ。どろどろのじゃがいもも、一欠片が大きいにんじんでも、ルーを纏ってしまえば、口に入れた時、どちらも美味なものとして処理される。当たり前のことを、当たり前と知ることが出来る世の中で、彼と再会できたことは、大いなる希望である。
「言ってしまえば、私はバケモノなんだよ。私を形容する言葉。少なくとも前世はそうだった」
アイパッチに触れる。先ほどとは違うウエイトレスが、水を注ぎにやってくる。ガラスのコップは厚みがあり、窓から差し込む光が乱反射していた。
「身体能力もだけれど、醜さたるや、だいぶ畏れられていただろう。私はバケモノ。自覚はあったよ。そしてそれは、今世も続く」
人生のエキストラにはならなくても、通り過ぎる一瞬に、チラリと見られることは多々。その時、他人が私に抱く印象。それはきっと、バケモノだ。アスファルトを歩くバケモノ。
「……私も、実はバケモノなのです」
陣左はコップを両手で包みながらそう言った。反射するはずだった光を捕まえて、閉じ込めているようだった。
「あなたに狂ったバケモノです。あなたさえいれば他になにもいらない。それは常軌を逸している。その意味では、醜いバケモノです」
「かわいいと思うけれどね」
「あなたにはわかりっこないです。この醜さは例えようがない、私だけのものなのです」
「まあ、それはそうか」
私もコップを手に取る。近頃流行のレストランなんかはレモン水が流行っているようだけれど、私は普通の水の方が落ち着く。カレーを食した後に飲む水はまろやかだ。
「……私は、雑渡さんをしあわせにしたい」
「お前と会えただけで、充分しあわせだよ」
「私というバケモノは、あなたをしあわせにしないと気が済まない。今世では、私があなたをしあわせにします」
陣左は私をまっすぐに見つめた。とんだプロポーズだ、と思って、私は少しだけ笑ってしまった。目の前のバケモノは、それをプロポーズだと気付いていないようだったから。
バケモノでも、しあわせになっていいのだろうか。多様性という言葉に甘えてもいいかもしれない。陣左の手に自分の手を重ねる。水に冷やされた手はすべらかで、美しい育ちを想起させた。
そう、彼は美しいのだ。純粋で無垢で、ちゃんとしたご家庭でちゃんとした成長を遂げている。私のいない人生であれば、順風満帆に、美しく生きていられたろうに。
私というバケモノを愛してしまうなど、愚かで滑稽なこと。それでも私は、それを丸ごと愛している。こればかりは仕方ない。醜い大人の獣欲である。
「愛しています」
「……根負けするのも、いいかもしれない」
「愛しているんです。しあわせにします」
「愛しているよ、陣左」
微笑みあって、水を飲み干して、私たちは店を出た。透き通るように晴れた、いい天気だった。
バケモノが二人、その下を歩いても、誰も何も言わなかった。
とある戯曲にあった台詞だ。私はその真意を、劇を見る前からすでに知っていた。
春のはじまり、三寒四温を超え、蝋梅がこぼれて桃が咲く。ぬるい風が頬を撫でていくのを感じながら、私は左瞼に貼ってあるアイパッチをそっと撫でた。センシティブな話題になりそうだと察した人々は、このアイパッチの意味をわざわざ問わない。気を遣われていることへの居心地の悪さなどよりも、便利でありがたい、と感謝の気持ちすら湧く。言い訳のために貼っているのではないけれど。
火曜日、デパートというべきか百貨店というべきか、私にその違いはわからないまま、銀座へと赴いた。三越で菓子を見繕う。クライアント先へ顔を出すためだったが、よくもまあこんな一等地にオフィスを構えられたものだと、なかば関心しながら用事を済ませる。
東京という街は忙しない。溢れる喧騒には時に耳を塞ぎたくなる、けれど都会に出れば出るほど、私を見上げる者は少なくなる。他人への興味が薄いのだ。巨躯であっても、片目であっても、通り過ぎてしまえばただの他人。人生のエキストラにもならない。これもありがたい。
駅で丸の内線に乗る。イヤホンをつけ、つけたけれど、何の音楽を聴いたものか考えあぐねる。仕方なくストリーミングサービスを漁る。漁っているうちに大手町に着く。半蔵門線に乗り換えるために歩いている間、イヤホンからはUKロックが流れていた。
陣左に再会したのは、つい先月のことだった。神保町の古本屋に立ち寄った時、店内にいた涼し気な出で立ちの青年に目を奪われた。それが前世で大切にしていた人物であると直感が働くのに、一秒もかからなかった。前世のことを覚えているのか、私を怪しまないか、ぐるぐると脳内を雑音がかけめぐるよりも前に、私は声をかけていた。
「陣左」
陣左と思われる青年は驚いたようにこちらを見上げ、それから零れ出てしまうのではないかと思うほどに目を見開き、「雑渡さま」と小さな声で呟いた。その日も火曜日だった。
今日も神保町で待ち合わせていた。馴染みの古本屋の前で。この街の空気はいつも少し湿気ているような、それでいて凛としている気がする。それも古本屋が多い由縁か。インクの匂いなのだろうか。
「雑渡さま」
「さま、やめなさいって」
端正な顔立ちを破顔させながら私に駆け寄る陣左に、私も顔を綻ばせる。きっと彼にこの顔をさせるのは私だけだ、という、どこか優越感すら覚える。
陣左は大学の帰りだった。大学自体は神保町から離れているのだが、なぜかこの街に吸い寄せられると言っていた。おかげで私と再会することが出来たのだし、いわゆる運命だと名付けてもいいかもしれない。
「いまの世の中で、様なんてつけて呼んじゃあ、変に思われるよ」
「すみません、つい癖で」
「癖ったって、前世のでしょう」
お互いくすくすと笑いながら、事前に調べていたカレー屋へと向かう。私たちは再会を果たしてから、この先も頻繁に会うならこの街、と決めていた。そして火曜日に逢瀬――ただ食事をするだけだからこの言い方は正しくないのだが――を重ねるたび、カフェやカレー屋を巡るのが定番になっていた。
今日訪れた店は、どっしりと構えられた老舗のカレー屋だった。こげ茶色の店内は照明も薄暗く、人もまばらで息がしやすかった。
重たいガラスのコップに水を注がれたタイミングで、二人して一番のオススメのカレーを頼む。メニュー表を下げられてしまったから、もうそのカレーの具材がわからない。わからなくても、店の雰囲気でおいしいことはわかる。
「雑渡さ……ん」
「なあに」
「言いたくなければ、いいのですが。……今世でも、その、左眼は」
ここまで直球であれば、むしろすがすがしい、と思う。陣左からはいつかこの質問をされると思っていたので不快感もない。私は優しい気持ちで微笑んだ。
「見えているよ。火傷もしていない」
「よかった……」
じゃあなぜ、という質問を重ねるのではなく、心からの安堵を返されて、私はさらに愛しさを覚えた。陣左のことを愛しく思う。この思いが五百年色褪せなかったことが、何よりも嬉しい。
「シャッターアイって知ってる?」
「シャッターアイ?」
「見た光景を、瞬時に記憶してしまう。いわば特殊能力」
私はアイパッチを外した。外したタイミングでカレーが運ばれてくる。私はちらりとウエイトレスの女性を見上げ、不自然ではないよう会釈をした。そしてまたアイパッチを付けなおし、ジャケット内側のポケットからメモ帳とペンを取り出す。
「見ててご覧」
私はメモ帳にペンを走らせた。字を書くのではなく、輪郭を描いた。先ほどのウエイトレスの。
みるみるうちに彼女の顔を描き上げた私を、陣左はどんな目で見ているだろう。畏怖の顔だとしたら、と傷つく準備をする。
「ほら」
メモ帳を渡した際の陣左を窺い見ると、想像と裏腹に目を輝かせていたので、私は拍子抜けしてしまった。驚くのでも怖がるのでもない、純粋な尊敬に頬を紅潮させる彼の姿は、年齢よりも幼く見えた。
「すごいです……!」
「すごくないよ」
名前も知らない女性の顔が描かれたページを切り取って、陣左にあげた。陣左はとても嬉しそうにそれを胸に抱き、それからクリアファイルに仕舞った。そんなもの、仕舞うほどの価値はないのに。
「失礼ながら、その、右眼もですか?」
「ううん、不思議なことに、左眼だけ。だから助かってはいるんだけど」
慣れているしね、と笑って、私たちはスプーンを手に取った。野菜は素揚げされているらしく、ルーの上で鮮やかだ。白米にルーを絡めて口に運ぶと、スパイスの香りが鼻に抜けていく。少し辛めだ。昼に食うのにちょうどよかった。
「……前の世でもね、少し、こんな風だったんだよ」
「……こんな風、ですか」
「私は、私自身が焼けていく光景が目に焼き付いている」
肌が炎に包まれて歪んでいく、血管が焦げていく、あの瞬間。諸泉の押しつぶされていた壁の色褪せ具合。どすぐろい血、裂けた肉から覗くぬらついた紅。
劈く痛みの欠片が、いつ左眼から零れるかわからない恐怖。
陣左はそれを苦しそうに聞き、それからおそるおそる口を開いた。
「……それはきっと、普通、ですよ」
「ふつう」
「大怪我を負う瞬間が、目に焼き付いて離れない。……それはきっと、普通です。誰しもがそうなる。そして今世のシャッターアイは、それが原因ではないです」
「……ずいぶん、言い切るね」
陣左はスプーンにルーを乗せ、大きな人参を頬張った。たっぷりと咀嚼したのち、何かの思考と共にごくりと飲み込んで、まっすぐ私を見つめる。
「私は雑渡さんを愛しています。前世から変わらず、いや、もっと。だからこそわかります。あなたのそれは、業でも罰でも罪でもありません」
「……愛、ね」
今度は私がカレーを頬張った。こっくりと深い味が、この店の人気の秘訣なのだろうと思った。じゃがいもが跡形もなく溶け込んでいる。
「愛なんてね、思い込みにすぎないよ。私がお前に教え込んだの。お前はそれを覚えて……繰り返しているだけ」
「では、雑渡さんは満たされていませんでしたか」
いつのまにかカレーを食べ終えた陣左は、紙ナプキンで口を拭っていた。その所作のどれも、青々しくて美しいと感じる。
「前世で、私はしあわせでした。あなたを失うかもしれないと思った時はもちろん苦しかったですが、思いが通じ合っている間は、とても満たされた気持ちでした」
カレールーが口の中でもたつく。辛味が舌に残る。それを水で溶かし、流し、飲み込む。
「雑渡さんは、しあわせではありませんでしたか」
「……いくつもの死の上で、私がしあわせになど、とは思っていたけれど」
陣左の目を見る。漆黒に濡れていて、きっと美しいものを信じて生きてきたのだと感ぜられた。彼と再会できた喜びに、間違いはない。
「そうだね。お前が私の元に来てくれたこと、私の傍にいてくれたこと、私と共に過ごしてくれたことは、どれも……しあわせだったかな」
一括りになどしなくてもいいのだ。どろどろのじゃがいもも、一欠片が大きいにんじんでも、ルーを纏ってしまえば、口に入れた時、どちらも美味なものとして処理される。当たり前のことを、当たり前と知ることが出来る世の中で、彼と再会できたことは、大いなる希望である。
「言ってしまえば、私はバケモノなんだよ。私を形容する言葉。少なくとも前世はそうだった」
アイパッチに触れる。先ほどとは違うウエイトレスが、水を注ぎにやってくる。ガラスのコップは厚みがあり、窓から差し込む光が乱反射していた。
「身体能力もだけれど、醜さたるや、だいぶ畏れられていただろう。私はバケモノ。自覚はあったよ。そしてそれは、今世も続く」
人生のエキストラにはならなくても、通り過ぎる一瞬に、チラリと見られることは多々。その時、他人が私に抱く印象。それはきっと、バケモノだ。アスファルトを歩くバケモノ。
「……私も、実はバケモノなのです」
陣左はコップを両手で包みながらそう言った。反射するはずだった光を捕まえて、閉じ込めているようだった。
「あなたに狂ったバケモノです。あなたさえいれば他になにもいらない。それは常軌を逸している。その意味では、醜いバケモノです」
「かわいいと思うけれどね」
「あなたにはわかりっこないです。この醜さは例えようがない、私だけのものなのです」
「まあ、それはそうか」
私もコップを手に取る。近頃流行のレストランなんかはレモン水が流行っているようだけれど、私は普通の水の方が落ち着く。カレーを食した後に飲む水はまろやかだ。
「……私は、雑渡さんをしあわせにしたい」
「お前と会えただけで、充分しあわせだよ」
「私というバケモノは、あなたをしあわせにしないと気が済まない。今世では、私があなたをしあわせにします」
陣左は私をまっすぐに見つめた。とんだプロポーズだ、と思って、私は少しだけ笑ってしまった。目の前のバケモノは、それをプロポーズだと気付いていないようだったから。
バケモノでも、しあわせになっていいのだろうか。多様性という言葉に甘えてもいいかもしれない。陣左の手に自分の手を重ねる。水に冷やされた手はすべらかで、美しい育ちを想起させた。
そう、彼は美しいのだ。純粋で無垢で、ちゃんとしたご家庭でちゃんとした成長を遂げている。私のいない人生であれば、順風満帆に、美しく生きていられたろうに。
私というバケモノを愛してしまうなど、愚かで滑稽なこと。それでも私は、それを丸ごと愛している。こればかりは仕方ない。醜い大人の獣欲である。
「愛しています」
「……根負けするのも、いいかもしれない」
「愛しているんです。しあわせにします」
「愛しているよ、陣左」
微笑みあって、水を飲み干して、私たちは店を出た。透き通るように晴れた、いい天気だった。
バケモノが二人、その下を歩いても、誰も何も言わなかった。
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