雑高

 蝋梅の香りが夜道に溶け、春のはじまりの音が聞こえる帰り道だった。ここから段階的に、カーテンを開けるようにあたたかくなればいいのに、また寒い日が訪れるというのだから、冬と春のあいだというのは厄介だ。
 昨日、指先に切り傷を見つけた。もう塞がっており、痛みも感じなかった。知らない間に負傷し、知らない間に治っていく己の肌が、どこか他人事のように感じられた。絆創膏の出番もなかった。
「陣左は自分のことに無頓着すぎるよ」
 その話をしたら、雑渡さんは呆れたように笑う。ダージリンティーのカップを渡しながら、雑渡さんの指先ならば、と想像する。私は自分の指先よりもずっと敏感に、傷に気付くことが出来るだろう。確かな自信があった。
「例えば私と陣左、両方が同時に怪我をしたとするでしょう。陣左は絶対、自分の傷には目もくれず、私の手当をするよね」
「はい。その通りです」
「それをね、辞めてほしいんだよ、私は。再三言っているけれど」
 頂き物の紅茶は、人に振舞うのにちょうどいい。プレゼントに勧められるくらい良い物なのだという保証付きだからだ。自分で選ぶより安心する。雑渡さんがカップに唇をつけるのを見届けてから、ダージリンを自分の前にも置いた。ミルクは淹れない。
「陣左は、自分を大切にすることを覚えて」
「自分と同じくらい、雑渡さんが大切なのです」
「嬉しいけど」
 そうしてまた苦笑して、この紅茶美味しいね、と言う雑渡さんに、けれど、と私は思う。
 けれどあなただって、同じことをしますよね、と。
 ご自分より私のことを気遣いますよね、と。
「どうせ大切にするなら、陣左を大切に思う私の気持ちも大切にしてほしい」
「……努力します」
「お前は努力が実る子だから、きっと大丈夫」
 子ども扱いはよしてください、と言いながら、私も紅茶に口をつけた。彼の中では、私はまだリンゴジュースを飲む子どものままなのかもしれない。
 夜中に、自宅に恋人を招けるくらいには、大人になったつもりなのだが。
「……私の指先に怪我がないか、確認する?」
 前言撤回。彼は充分、私を大人と認識していた。私は雑渡さんの指を自分の頬に導きながら、少しだけ笑みを浮かべた。
「紅茶が冷めてしまいます。せっかく淹れたのに」
「また淹れてよ」
 眠れない夜になりそうだった。カフェインのせいではなく、互いの指先の触感をすみずみまで確かめるのに、溺れることになりそうだったからだ。
 明日の朝、彼を駅まで送る道すがら、蝋梅はどんな香りでいるだろうか。朝に浴びる甘い香りも、春のよろこびに溢れているに違いなかった。
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