雑高

 アイスティーの入ったグラスが汗をかいている。いい加減、長居しすぎたようだ。
 時間を作れたら会いに行くよ、という言葉を鵜呑みにした自分が悪いのだ。自分は全身全霊をかけて、あの人に期待をするきらいがある。信じてやまないのだ。だから、何か予定が入ったにちがいないと前向きに決めつけて、裏切られたなどとは決して思わない。
 氷が溶けきってすっかり薄くなった液体を煽り、グラスを返却カウンターへ戻した。たいしたものの入っていないカバンを持ち、退店すれば、冬のはじまりの空気が身体を包み込む。
 私はこの空気が好きだった。透き通っていて、氷の表面をなでてきたような、しかし怖さのない風。夏の始まりの生ぬるい風の方が、どこか重々しく感じる。身体を舐めつけるようで。
 この時期と、せいぜい春にしか着ないベージュのトレンチコートのポケットに手を突っ込み、駅の方へと歩いた。どこに行くでもなく、けれど彷徨いたくなかった。自分は一人でも大丈夫だ、と世間に溶け込むために、道にはまっすぐな白線が引かれているのだと思う。小さい頃、その白線の上を歩いたことを思い出す。落ちたらマグマ、あるいは鮫のいる海だった。今じゃただのアスファルト。大人になるというのは、こういうつまらなさがある。
 駅の改札前で、呼び止められた気がして振り返った。雑踏のなかで、あの人を見かけた気がした。こんなにも恋焦がれていて仕方なくて、でも自分からはLINE一通も送れない。告白した時のあの勇ましさはどこへ行った。呼び止めて、厚かましく、体当たりした、今よりすこしばかりの若さ。
「陣左」
 首を前に戻すと、彼はいた。聞き間違いではなかったようだ。途端に胸が弾けだす。声が躍るのを止められなかった。
「雑渡様」
「ごめんね、待たせちゃったね」
「いいえ。お仕事ですから」
「どこか、食べに行かない? お詫びにおごるからさ」
「よいのですか?」
 ああ、手でも繋いでしまいたい。彼の顔を見る度、声を聞くたび、自分の存在意義はここにあると信じられる。視線を落として、彼の革靴が相変わらず輝いているのを確認し、次いで首元を確認する。黒の、薄手のタートルネック。
「そろそろヒートテックの季節だね」
「衣替えはお済みですか?」
「実はまだなんだよ。どうにも苦手で」
 知っている。去年もこの会話をしたから。自分の記憶も、衣替えのように、切り返られたらいいのに。
 けれど、いいのだ。今日は陽が照っている。冬に変わる日々がグラデーションのように、服が薄着から厚着になるように、思いが募ったっていいのだ。
 足取りは軽く。氷の上をなでるように。
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