雑高

 金曜日だからという理由で、真っ赤な口紅を塗ってみた。
 普段はコーラルピンクをつけている。肌が白い方なので、色が浮かないのを好んでいた。目立つのはあまり得意ではない。けれど私の見た目はどうも目立つらしい。自覚しろと言われることもあるが、それも嫌味だと知っている。
 通勤ラッシュ時、女性専用車両とはいえ満員だ。私は押しつぶされそうになるのを堪えながら、周りに咲くルージュの花々を見た。どれも美しく輝いていて、朝一番に気合を入れるための魔法の力を思い知る。
 メイクとは、鎧だ。女性たちの鎧。その最後の剣が口紅だと思う。一本、ぴっと入れる時の、背筋が伸びるような、凛々しい気持ち。
 車体が揺れ、職場に近付いていく。頭痛が増していく。

「陣左」
 仕事終わり、雑渡さんと待ち合わせをしていた。食事の約束がなければ、今日一日を乗り越えられなかったと思う。薬を飲んでも腹の痛い日だった。
 タリーズの奥の席で、雑渡さんは紅茶を飲んでいた。私を見つけると長い手を上げ微笑む。その笑顔を見るだけで、身体の痛みなどどこかに飛んで行ってしまうのだった。
「顔色悪いね。月のもの?」
「はい、二日目で。けれど大丈夫です、薬も飲みましたし」
「無理しないでね。あたたかいものを食べよう」
 雑渡さんと私は店を出て、予約のしてあるスペイン料理屋に向かった。窓側の席に案内されたが、この季節ならテラス席でもよかったかもしれない。秋のはじまりの風が肌を撫でていく。
「この、鶏肉のパエリアが食べたかったんだよ」
「ガスパッチョもおいしそうですね」
 メニュー表を見ながら、二人で指をさしていく。ワインの一覧もあったが、私は今夜は遠慮しておいた。
 ハムの盛り合わせとアヒージョが運ばれてきて、さっそく乾杯をした。雑渡さんはワインを一口飲み、グラスの口紅の跡を親指でぬぐった。
「陣左、今日の口紅いいじゃない。赤」
「ありがとうございます。殺意高めでいこうと思いまして」
「その心意気、いいね。二日目だもんね」
「いいえ、金曜日だからです。金曜日は気が緩む者が多いので、刺してやろうと思ったのです」
 釘なのか、剣なのか、雑渡さんは問わなかった。二度頷いて、面白そうに笑った後、いいなあと自分の唇に指を添わす。
「私はベージュばかり。陣左は綺麗な色が映えるね」
 どんな色を纏っていても、いや、纏っていなくても、あなたは美しいです。私はそれを、パエリアが届くまでさんざん語って聞かせたのだが、雑渡さんはハイハイと聞き流すばかりだった。
 テーブルの上に置かれたランプの灯りで、私たちの手の影がクロスに落ちる。パエリアを掬う大きなスプーンが鈍く光って、頬が温かくなっていく。
「そういえば、猫を飼おうかと思ってるって話を前にしたじゃない」
「私は反対です」
「うん、猫に嫉妬する陣左がかわいいから飼っちゃおうかと思ってたんだけど、やっぱりかわいがりたいのは陣左だから、やめようかなって」
「雑渡さんのお傍にいるのは私です」
「ふふ、本当にかわいい」
 金曜日、街が煌めく日。華の、と名の付くほどの、輝かしい夜。私たちはいつもよりささやかに、鎧に工夫を凝らす。
 荒波と戦えるように。走り抜けられるように。
「雑渡さん」
「なあに?」
「あなたに、プレゼントしたいものを思いついたのですが」
「こんな何でもない日に?」
「口紅を買いに行きましょう。綺麗な色の」
 きっと、美しい花が咲くのだろう。アヒージョを染み込ませたパンはジューシーで、パエリアはこっくりと味が濃い。それらを咀嚼する唇は、私の喉を鳴らす。ガスパッチョが通り過ぎていくのとは別の意味で。
「……私に、赤は似合わないでしょうか」
「そんなことないけれど。どうしたの?」
「同僚に、言われたのです。キツく見えると」
「ひどい。こんなにかわいいのに。私が刺してやろうかな」
 二人でふふふと笑い合い、ナプキンで口を拭った。少しだけ付いた口紅のあとを隠して席を立ち、私たちはデパートの化粧品売り場へと足を進める。
「もうさあ、真っ黒とか買っちゃおうか。全てを塗りつぶしてやろう」
「いいですね。攻撃力が高くても損はないです」
 誰に何と言われようと、私たちは無敵なのだ。夜風に背中を押される。華の金曜日、賑やかな夜。どこまでも行きましょう。鎧を身に纏って。
「お腹はもう痛くないの?」
「はい、すっかり」
 雑渡さんは「よかった」と言って微笑んだ。私はその唇にどうしてもキスをしたかったが、新しい口紅を買うのだからと我慢をした。せっかくなら、新しい色を移し合いたかった。雑渡さんはそれすらもお見通しのようで、「あとでね」と右眼でウインクをする。
 好きだ、という気持ちで満たされる、金曜日の夜。ヒールでしっかりと道を蹴りながら、本当は踊りだしてしまいたかった。あなたとワルツを、道のまんなかで。
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