雑高

 近頃、昆奈門さんの食欲が落ちている。
 自分もついに後期高齢者となったのだから、いくら昆奈門さんが年齢にそぐわない健康体だとしても、さすがに老いによる衰えはやってくるか。加齢とは平等にやってくるものだ、寄る年波にはかなわない。
「昆奈門さん、お痩せになりましたか」
「あ、わかる? ベルトがふたつも緩くなったんだよ」
 昆奈門さんはそう言うと、見てこれ、とズボンのウエスト部分をがばりと掴んで広げた。お互い皺だらけになったものだ。
「いささか急に痩せすぎではありませんか? 病院に……」
「五月に受けた健康診断ではなんともなかったけどなあ」
 嫌な予感がして、二人で顔を見合わせた。その場ですぐに病院の予約をとっていただいた。私も付き添いますと言ったら「大げさだなあ」と呆れられたが、動悸は鳴りやまなかった。これは自律神経の乱れではない。

 診察日、嗅ぎ慣れた病院の匂い。医師は淡々と、冷静に、昆奈門さんが胃癌であることを告げた。老いていく自分たちは、いつかやがて自由になるのだとばかり思っていたけれど、こうしてあっけなく終わりは訪れるのだと知った。
「あんなに頑丈だったのにねえ。頑丈さが取り柄だったのに」
 タクシーの中で、私は口がきけなかった。昆奈門さんを失う想像がつかなかった。
「……陣左は長生きしそうだねえ。お別れはちょっとの間だけだよなんて言おうとしたけれど」
「……私も頑丈だけが取り柄でしたから」
「ねえ陣左。ひとつだけお願いがあるんだ」
 昆奈門さんは、昔と比べてずいぶんやわらかくなった声で言った。右折するウインカーの音がうるさい。
「残された時間、なるべく笑顔でいてほしいんだ。お前の悲しそうな顔なんて見ていたくないよ」
「……そうですね。私も笑顔の思い出を遺したいです」
 それならば、私たちが出来ることは、もうわかっていた。
 今まで通りに過ごすことだ。
 特別なことはしない、ただ、当たり前の毎日を紡ぐだけだ。
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