雑高

 魚に思いを馳せる。
「鯉は滝を登ると龍になるんですよ」
 ある時、寺の住職がそんなことを言っていた。掛け軸には鯉と龍の絵が描かれていた。
 その絵を見た時、途端に空気が湿ったような、それでいて凛と張りつめたような心地になった。鯉が濁流に身を投じる様を見て、我々忍軍のことを思い出した。筆跡の力強さに圧倒された。
 いつ溺れ死ぬかもわからない、息継ぎができるかもわからない、けれど登らなければならない滝がある。登った先に何があるかなんて見えない、けれど信じているものがある。
 いつだったか、凍った湖を見た時。氷の下で泳ぐ魚を見たことがある。
 人間からは「閉じ込められている」ように見えるが、魚たちからしたらどうだろう。外界と隔離されて、意外と悠々自適なのかもしれない。二度と空を見上げられなくても。
「どうしたの、陣左」
 私は声に振り向く。組頭が私のことを見つめていた。今日は晴天。昨夜は遅くまで忍務があったから、我々が起きたのは陽が昇ってからだった。
「寝不足? 疲れちゃった?」
「いえ。そんなことは」
「早めにティータイムにしようか」
 夏の日差しが、口布と上衣の間の僅かな肌を直に焼く。組頭は包帯で覆われていない部分の手のひらを、私の目の前でひらひらと振った。
「暑さにやられたかな。川で涼んでくると良い」
「いえ、いえ。違うのです」
 私は、思いを馳せていただけです。滝を登り龍になる魚について、空を仰げない凍った魚について。
「陣左」
 組頭は、とっておきの愛称で私のことを呼ぶ。その声色に骨の髄まで熱に侵されそうになりながら、私は呼吸をする。
 魚ではないのだ、私は。魚ではない愛称で、愛しい人に呼ばれる。水の中では呼吸できない。私には鱗もヒレもない。
 しかし、いつか滝を登ってみせようと思った。登った先の景色を、組頭に見せよう。我々は空を仰ぐ生き物だ。
 尊奈門がちゃぶ台を運んでくるのが見えた。ティータイムを楽しめるのも、人間の特権だ。
 組頭はぽんぽんと私の頭を撫でた。鱗もヒレもない、人間の手のひらで。
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