雑高

 父に撫でられた記憶はない。
 
 青々とした葉が日光に照らされ、土の上に影を落としていた。蟻が群れを成して道端の虫を運んでいる。
 夏というものは、それだけで体力を奪っていく。暴力的な生命力に満ち溢れた世界を視界に捉えながら、山中で一呼吸ついていた。
 汗が肌の上を流れていく心地が不快だったが、どうすることも出来ないのを知っている。先日負った左手の傷が瘡蓋となって痒みを帯びていた。爪を立てそうになるのをこらえる。そんなことをすれば傷が深くなるばかりだ。
「陣左」
 ひゅ、と風を切る音と共に、組頭が頭上から現れた。お近くにいらしたことすら気付けなかった。注意力散漫であったことを恥じる。暑さに眩暈がしていたようだ。
「ひどい汗。これで拭いなさい」
 見ると、組頭の手には濡れた手拭いがあった。川で冷やしてきたのだろう。私はありがたく受け取って、顔や首を拭いた。生温い風ですら、通り抜けていくのが涼やかに感じられるようになった。
「ねえ、陣左。一番遠い記憶ってなあに」
 私が頭巾を被り直していると、組頭はそんなことをおっしゃった。何を突然、と思ったが、この方はいつだって突然なのだ。今更驚くことでもない。
「……父に」
 手拭いが、手の中でずっしりと重い。滴る水滴を、足元の蟻たちは避けていく。
「父に、頭を叩かれたことです。悔しくて覚えています」
「何で叩かれたの」
「私は三つの頃には、そこいらの棒きれを拾って、剣術の真似事をしておりました。それを咎められました」
「危ないから?」
「筋がなっていないから、です」
 蝉の鳴き声が聞こえる。一週間の命を燃やしている声。蝉は太陽に焦がれることはないのだろうか。私は眩しくて敵わない。
 組頭は、そう、とだけ呟いて、遠くに目をやった。木々の騒めきと風の音を浴び、それらがどこから始まりどこまで渡るのかを測っているかのようだった。
「陣左は、それを愛だと思う?」
「……考えたこともありませんでした」
 私は足元を見つめる。子供の頃から比べると、足は随分と大きくなった。五つの時には、あなたは大きな足ね、きっと背が高くなるだろうね、と母に言われていたことを思い出す。母は背の小さな方だったと記憶している。自分の背が高いのは父譲りだ。
「あのね、陣左。冬は死の季節でしょう。それに比べると、夏は生の季節でしょう」
「私もそう思います」
「つい、生きている意味を、考えるようになる」
 ざ、と蝉が鳴いた。今を限りに生きている声は、五月雨のように降りかかる。組頭は私の方に向き直ると、大きな手のひらを私の頭にポンと置いた。
「私は、父に撫でられたのが、最初の記憶」
「……さようでございますか」
「これは、繋いでいくものだと思っている。私はもう子が成せない身体だけれど、愛する者はいる。お前だよ」
 どく、と身体が脈打った。愛という言葉の刹那的な重さを思った。きっと蟻たちには運べないだろう。実態を伴わない、かつ鉛の様に重い、はらわたの中にまで潜り込んで、しかし泡沫に消えてしまう言葉だ。以前頂き物で貰ったべっこう飴のような、舌が焼け付いてしまいそうな甘さは、その重さによく似ている。
「私は陣左を、愛しているよ。どれほど伝わっているかはわからないけれど」
 愛の記憶というものは、人から人へ繋がっていくのか。
 私は組頭を、雑渡様を愛しているけれども、この愛の種はいったいいつから蒔かれたのだろうか。
 私から芽生えた新芽を愛でてくださったのは、紛れもなく雑渡様だろうけれども。
「愛しているよ」
 大きな手のひらが、私の頭を撫でる。
 いつだったか、山本小頭に、こんな風にしてもらったことがある。けれどもそれよりもずっと前に、この頭上に掲げられる手の影を見たことがあるような気がする。
 誰の手のひらだったか、思い出せない。
「陣左は、ちゃんと愛されているんだよ。いろんな人に」
 風が吹き渡る。前髪がそよぐ。雑渡様の手の温度が頭部に移っていく。
 愛。愛とはなんたるか。べっこう飴の甘さか、蝉の鳴き声か、蟻の行列か。命の輝きは、夏の太陽の陽射しよりも眩しいか。
「……愛しています」
 身体を貫くような焦がれる思いを雑渡様に向ける。舐めつけるような、どろりとした欲望を、どれほどお送りしても、雑渡様は涼しい顔で微笑むだけだ。私は太陽にはなれない。
「愛を知っているよ。陣左は。ここにちゃんと生きているのが、その証拠」
 雑渡様の手が頬に移動する。命の音がする。蝉しぐれのなか、雑渡様の脈動が伝わる。
「……雑渡様も、生きていらっしゃいます。ここに」
 じりじりと肌が焼けていくのを感じながら、私の唇は彼の名前を呼ぶ。名前を呼べるというのは、生きている証だと思った。
 名前は、一番小さな呪いだと聞いたことがある。私のこの名前も、私という人格を作り上げていく、小さな呪いだ。呪いと言う名の愛だ。
 
 父のつけてくれた愛は、もう呼ばれることはない。
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