雑高

 月が綺麗ですね、という言葉を教わった。
 雑渡さんを見ていると、どうにもざわざわする、と山本さんに伝えた時のことだった。
「それは、四百四病の外かもなあ」
「シヒャク?」
 困ったように笑いながら、山本さんは飴玉をくださった。「時間ぐすりしか効かないから」との意味不明な言葉つきで。
「この飴を舐めたら、治るのですか」
「いいや。これはおまじない。月が綺麗に見えるように」
 どういう意味だろうか。月はいつだって綺麗だ。

 その夜、満月とは言わずとも丸い月が、私と雑渡さんの上に浮かんでいた。雲一つない晴天、とは、宵闇にも使える言葉なのだろうか。
「月、綺麗だね」
 雑渡さんはこともなくそう言い、そこには何の意味も込められていなさそうだった。私はこっくりと濃い影を踏んづけながら、
「飴を舐めたからでしょうか」と返す。
「アメ? なんの話?」
「山本さんがくださいました。雑渡さんと会う前に舐めたら、月が綺麗に見えるって」
「あはは、なるほどね」
 微笑む雑渡さんに、あいかわらずざわざわと心が揺れる。「明日、意味を聞いてみるといいよ」と歌うように囁いた雑渡さんの、月光に照らされたうなじが美しいと思った。
「どうした?」
 雑渡さんの声を聞くと、鼓動が跳ねて、血流が速まる。顔が熱くなって、指先まで広がる。飴玉を舐めたのに、一向に治る気配はない。
「シヒャクシビョウのホカなんですって」
「……どういう意味か知ってる?」
「存じません。私の病名です」
「え、病気だと思ってるの?」
「私は頑丈なので滅多に病気にかかりません」
「陣左、言ってることメチャクチャだよ」
 呆れたように笑う雑渡さんの向こうで、月が綺麗に光っていた。甘く染まった舌先が煩わしくて、夜の空気を胸いっぱいに吸いこんだ。
 雑渡さんはいつもと同じ歩幅で歩いている。私は雑渡さんの影を踏む。わけもなく湧き上がる衝動を抑えつけたくて。
 この影も舐めたら甘いだろうか。月は白く、黙って私達二人を見下ろしていた。
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