雑高
梅が見ごろだったものだから、そのせいかと思った。甘い香りが方々から感じられるようになったのは。
雑渡様が炎に包まれながらも生還され、地獄から這い上がるように生命の灯を繋いで繋いで繋いでいる間、私は与えられた忍務を淡々とこなすことしかできなかった。歯がゆいなんてものではない。代れるものなら代わりたかった。祈っても祈っても、昼も夜も長さは変わらなかった。
食べ物の味がとんと感じられなくなったことに気付いたのは、その現象が起きてから五日も経ってからだった。うどんの出汁がわからない、茶の渋みがわからない。すべての匂いが感じられなくなっており、しかし体調が悪い訳でもない。忍務に支障がなければそれでもいい、と思っていた。雑渡様の苦しみを思えば。
それなのに、甘い匂いがすることがある。時折、すれ違う人影にのみ。
汗や泥に塗れた日々のなか、湯浴みをした存在が目立っているのかと考えたが、どうやらそうではないらしい。花が咲き零れるような、それでいて汁粉を煮詰めたような甘い匂い。生理反応として涎が溢れるが、食欲などない。目の裏に映るのは、おどろおどろしい姿になってしまわれた雑渡様のお姿。甘いものを食す気になどなれなかった。
不思議な現象は続いたが、生活に変わりはなかった。寝ても覚めても祈りをつのらせ、手は血に染めていた。
やっと訪れた休暇の日、雑渡様の寝所に参じると、ちょうど世話役の尊奈門が寝こけていた。日夜問わず雑渡様の世話を担っているのだ、疲れも溜まるだろう。醜い嫉妬も覚えるが、感謝も尽きない。
声も出せない雑渡様のお傍へ座る。動くのもお辛そうだったので、そのままでよいとお伝えした。私は呼吸さえ聞ければそれでよかった。涙が溢れて止まらない。
――甘い、匂いがした。
梅が見ごろだったものだから、そのせいかと思った。花が咲き零れるような、それでいて汁粉を煮詰めたような甘い匂い。その一等強いものが鼻腔を満たす。
そんなはずはない、と私は動揺する。本当なら、血と汗と薬と包帯の匂いがするはずなのだ。それすら感じられない私は、修羅と化してしまった愚か者のはずなのだ。
どうして、こんなにも、甘い。
ずくん。動悸が身体を貫いた。耳がきんと鳴り、のどが渇き、けれど涎が溢れる。どく、どく、と血潮が巡り、指先が震えた。
嘘だ、と自分で自分が信じられなくなった。
――美味そうだ、と思ってしまったのだ。
目の前の雑渡様を。皮膚の溶けた、むごい血だまりの中で懸命に呼吸をし、時折痛みに呻く、そんな痛々しいお姿の、雑渡様を。
美味そうだ、と。
「……?」
雑渡様は異変を感じ取ったのか、私の気配を探ろうとしていた。私は動揺のあまり声を飲み込んだせいで、うまくお返事が出来なかった。適当な言葉を述べ、慌てて立ち上がってその場を去った。
信じられない、信じたくない。自分が分からない。いくら雑渡様を愛しているからと言って、あんなにも、生死の境を懸命に泳いでいらっしゃるところに、そんな感情を覚えるだなんて。
私は化け物なのかもしれない。人間ではなくなってしまったのかもしれない。
食べ物の匂いがしなくなったのは。時折人間に甘い匂いを感じてしまうのは。
人間を食べろ、ということなのだ。
自分の腕を噛んだ。歯をめり込ませ噛んだ。血が滲みだす。舌で舐めとる。なんの味もしなかった。
深い深い絶望のはじまりだった。
雑渡様が炎に包まれながらも生還され、地獄から這い上がるように生命の灯を繋いで繋いで繋いでいる間、私は与えられた忍務を淡々とこなすことしかできなかった。歯がゆいなんてものではない。代れるものなら代わりたかった。祈っても祈っても、昼も夜も長さは変わらなかった。
食べ物の味がとんと感じられなくなったことに気付いたのは、その現象が起きてから五日も経ってからだった。うどんの出汁がわからない、茶の渋みがわからない。すべての匂いが感じられなくなっており、しかし体調が悪い訳でもない。忍務に支障がなければそれでもいい、と思っていた。雑渡様の苦しみを思えば。
それなのに、甘い匂いがすることがある。時折、すれ違う人影にのみ。
汗や泥に塗れた日々のなか、湯浴みをした存在が目立っているのかと考えたが、どうやらそうではないらしい。花が咲き零れるような、それでいて汁粉を煮詰めたような甘い匂い。生理反応として涎が溢れるが、食欲などない。目の裏に映るのは、おどろおどろしい姿になってしまわれた雑渡様のお姿。甘いものを食す気になどなれなかった。
不思議な現象は続いたが、生活に変わりはなかった。寝ても覚めても祈りをつのらせ、手は血に染めていた。
やっと訪れた休暇の日、雑渡様の寝所に参じると、ちょうど世話役の尊奈門が寝こけていた。日夜問わず雑渡様の世話を担っているのだ、疲れも溜まるだろう。醜い嫉妬も覚えるが、感謝も尽きない。
声も出せない雑渡様のお傍へ座る。動くのもお辛そうだったので、そのままでよいとお伝えした。私は呼吸さえ聞ければそれでよかった。涙が溢れて止まらない。
――甘い、匂いがした。
梅が見ごろだったものだから、そのせいかと思った。花が咲き零れるような、それでいて汁粉を煮詰めたような甘い匂い。その一等強いものが鼻腔を満たす。
そんなはずはない、と私は動揺する。本当なら、血と汗と薬と包帯の匂いがするはずなのだ。それすら感じられない私は、修羅と化してしまった愚か者のはずなのだ。
どうして、こんなにも、甘い。
ずくん。動悸が身体を貫いた。耳がきんと鳴り、のどが渇き、けれど涎が溢れる。どく、どく、と血潮が巡り、指先が震えた。
嘘だ、と自分で自分が信じられなくなった。
――美味そうだ、と思ってしまったのだ。
目の前の雑渡様を。皮膚の溶けた、むごい血だまりの中で懸命に呼吸をし、時折痛みに呻く、そんな痛々しいお姿の、雑渡様を。
美味そうだ、と。
「……?」
雑渡様は異変を感じ取ったのか、私の気配を探ろうとしていた。私は動揺のあまり声を飲み込んだせいで、うまくお返事が出来なかった。適当な言葉を述べ、慌てて立ち上がってその場を去った。
信じられない、信じたくない。自分が分からない。いくら雑渡様を愛しているからと言って、あんなにも、生死の境を懸命に泳いでいらっしゃるところに、そんな感情を覚えるだなんて。
私は化け物なのかもしれない。人間ではなくなってしまったのかもしれない。
食べ物の匂いがしなくなったのは。時折人間に甘い匂いを感じてしまうのは。
人間を食べろ、ということなのだ。
自分の腕を噛んだ。歯をめり込ませ噛んだ。血が滲みだす。舌で舐めとる。なんの味もしなかった。
深い深い絶望のはじまりだった。