雑高

 ブラッドオレンジジュースにいい加減嫌気が差してきた頃に――トマトジュースはもっと飽きてしまっていてダメ――、陣左は敏感に私の眉間の皺に勘づいた。
「雑渡様。いい加減」
「陣左。私は無理強いしたくないの」
「いいえ。いいえ、私が望んでいるのです」
 陣左はテーブルに置いていた私の左手を、両手でぎゅっと握りしめた。革の手袋越しに、彼の体温が伝わってくる。
 初夏のこの時期に首の詰まった服を着た陣左は、それでも涼やかで、汗一つかいていない。ワイシャツを一番上まで止めた私も汗をかいていないものだから、はたからみたら異様かもしれない。大柄な男性が二人、テーブルの上で手を合わせていたら目立つ。私は陣左を落ち着かせ、手を降ろさせた。しぶしぶといった様子で両手を降ろした陣左は、無遠慮に私をねめつける。
「私をお使いくださればいいのに」
 私はそれに聞こえない振りをして、味のないブラッドオレンジジュースを飲む。氷を少なくしてもらえばよかった。薄くなるにつれ、どんどん物足りなくなっていく。
 店を出て、日陰を歩く。いくら現代社会に溶け込めるように進化したからと言って、暑い日差しだけは勘弁してもらいたい。陣左がさっと日傘を取り出して、私に差し出した。
「お肌を焼かれてしまうと困ります」
 もはや吸血鬼と言っても、多少の日光では焼かれない。それでも長時間浴びてしまえば、その箇所はさらさらと砂になり消えていく。長袖長ズボンに手袋、そして日傘があれば死角はなく、私はやれやれと首を振りながら歩みを進めた。
 館に辿り着いた。陣左が生活するようになったとはいえ、生気のない住処だ。カーテンを閉め切っている部屋の電気をつければ、陣左の手によって整理整頓された部屋が視界に広がった。
「雑渡様。さあ」
 陣左はそう言って上着を脱ぎ捨てた。白い肌が艶めかしく現れ、私は目線を逸らす。思わず喉がごくりと鳴りそうになった。
「あのね、イマドキの吸血鬼は、三日四日血を飲まなくても倒れないの」
「けれど、もう一週間お飲みになっていません」
 隠れて牛の血を飲んでいるから、だなんて、この調子の陣左に言えるわけがなかった。けれど私は、陣左が貧血で倒れるのはどうにも心苦しく、飲むのは二週間に一度程度にしたいと考えていた。
 陣左は丈夫だ。身体も大柄だし、健康体だ。そして何よりも美しい。血を吸うにはうってつけの条件が揃っている。実際彼の血は何よりも美味で、一口啜っただけで百年も若返るかのような心地がした。
 百年――いや、四百年。それほど前から、私はこの血を愛している。

 人気のない林の中で、私は彼に歯を立てた。陣左は恍惚の表情を隠すことなく、私にしがみ付く。砂糖を煮詰めたような甘さ、それでいて濃厚な出汁のような深いコク、それらを嚥下するたび喉は歓喜に震え、腹が熱く煮たぎっていく。指先などは燃えるようで、耳の先端までもが熱くなった。
「あぁっ、ぁ――!」
 血を啜られる感覚に兆した陣左が腰砕けになり、膝を笑わせる。私が触れなくても達してしまいそうだった。敏感に震えているのを抱きしめながら、ごちそうさま、と囁いた。これで向こう一週間、私は最強の座を揺るがすことがないだろう。
 陣左はへたり込みそうになるのを必死に律し、かろうじて二本の足で立とうとしていた。僧侶めいた自分の制し方には恐れ入る。
 私が彼の血を吸うようになったのは、彼が「私を部隊にいれていただきたい」と身一つで門戸を叩いてからそう日が経っていない頃の話である。
 あまりにも私を崇拝する彼を恐れおののかせるためには、それが一番手っ取り早いと考えたのだ。
 押都の部下から適当に一人見繕って、首筋に歯を立てる。力が抜けてもぬけの殻になっていく青白い若者と、獰猛な獣のような私の構図を、あえて彼に見せた。子供の言う事だから、なんと言いふらされようと信じる者は少ないと判断してのことだった。物陰から私たちを盗み見ていた陣左は顔を真っ白にして、ぱたぱたと駆けて行った。
 驚いたのはその翌日だ。私が一人になるのを見計らって、陣左は私に駆け寄ったのだ。普通の子供は恐ろしくて離れて行こうとするはずなのに、彼はあろうことか「雑渡様がどのような怪物でも構いません。お傍に置いてください」とのたまった。
「お前ね、見ていたでしょう、あんな思いをすることになるんだよ。私の傍にいるということは」
「構いません。むしろ願ったりです。私の血で雑渡様が生き延びられるのでしたら、喜んで差し出します」
 どうか私の血を吸ってください、と言う子供に、生まれて初めて出会った――長いこと生きてきたうえで――。私は物珍しさに、彼の申し出を受け入れることとした。表向きは稚児として、けれど実際には、食料として。
 私が血を吸う事を、陣左は一度たりとも嫌がらなかった。むしろ悦ぶ一方で、私の方が罪悪感に駆られてしまった。元服前の童の首筋というのはどうにも生々しく、幼さに畏れを抱いた。
「陣左の血だけをお吸いください。他の者の血など吸わないでくださいませ」
 そう言ってはふらふらの身体で私にうなじを見せるのだった。

「雑渡様。改めてお話がございます」
 二十四になった陣左は私の前に三つ指をつく。何を言われるかは見当がついていたので、私は溜息を飲み込んで彼に向かい直った。
「私を雑渡様のお仲間にしてくださいませ」
「お前、怪異になりたいの」
「雑渡様のお傍に、永遠にいたいのでございます」
 私は陣左を愛していた。深く、深く。
 だから、だからこそ、私はその希望を跳ねのけた。陣左を抱きしめて、頭を撫でる。
「お前は、人間として死になさい。千年の孤独を味わうのは、私だけでいいの」
「これからは陣左がお傍におります。何百年でも、何千年でも」
「隣に愛する者がいるほうが、孤独は加速するものなんだ。こんな絶望を、お前に味わわせたくない。お前の願いは、聞き入れられない」
 陣左の口を吸うと、涙の味がした。陣左の目からは滝のように涙が零れていて、でも、それは一滴も腹の足しにはならなかった。
「それでは、それでは、どうか誓わせてください。何百年経とうとも、陣左は再び、雑渡様の前に現れます。どうかその時、またお傍においてやってくださいませ」
「……うん。いいよ。魂というのを、信じる時間は、大いにあるからね」
 こうして陣左は、若いうちに、私の身代わりとなって死んだ。人間として死ねたから、墓を建ててやった。哀れな吸血鬼として死んでいたら、花も添えられなかったろう。

 長く生きるというのは、その分過去の思い出の積み重ねに窒息しそうになることである。さっと過去に思いを馳せているつもりが、気付けばこんな時間だ。私は隣に横たわる裸の陣左に毛布をかけてやり、シーツの海から出る。
 執念ともいえる力で私に巡り合った陣左は、身体も心もすべてを私に捧げていた。余すことなく全身で愛を注がれるというのは、孤独の闇に覆われた身にはありあまるもので、満腹を超えるとどうしたらよいか分からなくなる。
 シャワーを浴びながら、こうして若い陣左の時間を悪戯に奪っている一抹の罪悪感を噛み砕いていると、浴室に人の気配が入ってくるのがわかった。
「お背中、流させてください」
 陣左の身体はうっとりとするほど美しかった。引き締まった、健康的な肉体。しっとりと吸い付くような肌は白く、思わず痕を残したくなる。私は陣左に口づけをした。
「……雑渡様」
「聞かないよ」
「私の魂は四百年を一人で耐えました。こうしてあなたに巡り合えたのは、ひとえに私の思いの表れです」
「知っているけれど、でも、聞けないよ」
「――愛しているんです」
 今生でも、陣左は吸血鬼になりたがった。私はないはずの心臓がちくりと痛むのを感じながら、彼の臀部に指を沿わせる。
「お前の一生分の愛を注ぐから」
「雑渡様の千年の孤独は、陣左が半分背負うのではいけないのですか」
「お前は人間として死になさい」
「嫌でございます」
 やけにきっぱりと言われてしまい、私は面食らう。いつもこれを言えば黙ったのに。
「雑渡様。雑渡様はどうやったら死にますか」
「単刀直入だなあ。銀の弾丸を胸に受けたことはないし」
「雑渡様を殺して陣左も死にます」
「――思いつめるとそこまでいくんだね、お前」
 いっそ潔くて心地よかった。そうか、死ねばいいんだ、という簡単な答えに首を振る。陣左は長生きしてもらわねば困る。愛する存在への至極当然な思いだ。
 陣左は私の背中を洗い終え自身の身体も一通り洗うと、シャワーの中で私の首筋に歯を立てた。
「諦めません。諦める前に死んでしまったら、その無念は雑渡様を蝕みます。それがお嫌でしたら、受け入れてください」
「嫌なとこつくね~」
 困ったことに、私はこの恋人のことを深く愛している。深く、深く。彼の運命を決めあぐねるのに、残された時間は、どれだけか。
 ひとまずはこの愛をたっぷり注ぎ切ってから考えようと、私はもう一度彼に口づけをした。深く、深く、四百年分。
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