雑高

 カウンターに椅子が八席あるだけの、小さな店だった。
 雑渡というママが営むその小料理屋は、連日常連で満席で、駅のある通りから一本外れた通りにあるとはいえ、賑やかな夜を過ごしていた。
 今日はお通しの代わりに、皆に梅干しが一粒ずつ置かれた。高坂は、何故? と頭にハテナマークをめぐらせたが、山本は嬉しそうに箸を伸ばした。
「梅干しで梅酒を飲むのが好きなんだ」
「なるほど」
 すっぱくてしょっぱい、それがうまい。常連客一同、顔のパーツを口元に集めていた。
「いい梅をたくさん頂いてねえ。塩分が気になるから、次は白髪ネギでナムルにして、海苔を巻いてどうぞ」
「こりゃあうまい!」
 押都もミラーレンズの眼鏡を押さえながら、大きな声をあげた。雑渡ママは手際良く皆にビールを注ぎ、ころころと話題を転がしては「鯖の味噌煮にも梅をいれようか?」などと言い、皆から笑顔を引き出していた。
「今年の分の梅酒を作りたいんだけど、手間がねえ」
「あ、あの。私でよければ、お手伝いさせていただけませんでしょうか」
 高坂は赤らんだ顔も気にとめず、ママにそう申し出た。今日は華の金曜日。土日にやることも特にない。
「本当? まかない振る舞うよ」
「ぜひ!」
 雑渡ママは人気者だ。けれど、高坂の抜け駆けは、皆「いつもの光景」として受け入れていた。彼は誰がどう見ても本気なのだ。
 高坂の上司である山本は、やれやれとため息を吐きながら、焼酎のお湯割を頼む。
 翌日。小料理屋「黄昏」に、昼間のうちから訪れることに高揚した高坂が、雑渡ママにマドレーヌの手土産を渡す。駅前のパン屋がレジ横で売っている、隠れた名品だ。
「わぁ、ありがとう。作業が終わったらお茶にしようか。うちには紅茶なんておしゃれなものはないけど」
「いつものほうじ茶、おいしいですよ」
 今日は梅干しのヘソを取る。甕をアルコールで拭き、すでに傷んでいる梅を避けつつ、二人はもくもくと作業していった。
「梅干しって、一度作ると、毎年作らないと悪いことが起きるって迷信があってね」
「そうなんですか」
「まあ、健康にいい習慣を、ってことなんだろうけど」
 高坂は深く頷きながら、一粒一粒の梅を撫でた。自分で鯖の味噌煮を作ってみても、雑渡ママのようにうまくはいかない。彼の魔法の手で生み出すからこそ、あんなに料理が美味いのだろう。
「実は、私も梅干しを漬けてみようかと思って。塩分が気になるので、十パーセントでやろうかと思ったのですが」
「ダメダメ、カビちゃうよ。二十パーセントは入れないと」
 赤紫蘇を入れるのは、梅酢が上がってからでいい。二人は一通りヘソを取り終え、下漬けを行った。終わった頃には、ティータイムにちょうどいい時間になっていた。
 手がすっかり梅干しの匂いだねえ、と雑渡ママは笑いながらほうじ茶を入れる。高坂の持ってきたマドレーヌはバターの香りに包まれて、舌の上で甘さが広がった。
「陣左はおにぎりの具で、何が一番好き?」
「梅干しです」
「奇遇だね。私も」
 いいえ、私が好きなのは、あなたです。あなたの作る梅干しだから、好きになったのです。高坂はそう言えたならどんなに楽になるかと思うが、言葉にはしない。雑渡ママが皆のものであること、彼が皆を平等に大切に思っていることを知っているからだった。
 その日の仕込みは、高坂も手伝った。揚げ出し豆腐の衣がいつもより剥がれていることを、山本たちは笑うのだった。
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