雑高
「縁談が来ていてね」
そう告げた組頭は私ではなく、春の訪れを告げる梅の枝の方に視線を注いでいた。そのうち、うぐいすがやってくる枝だ。梅は小さな花を結んでいて、枝はつやつやと輝いており、冬を越した生命の力強さを感じさせる。
組頭は腕を伸ばして、そのうちの枝の一つを手折った。先端の方の、一番小さな枝だ。梅の花が三つ咲き零れている。それを私の耳に差し、髪を数度梳くと、「それでね」と組頭は呟いた。
「陣左との関係も、これで終わり」
梅の香りが鼻を掠めた。残酷な春の香りだった。
「……かしこまりました」
「勘違いしないでね。なかったことにはならない」
「……ええ。大切に、胸の奥に秘めておきます」
「そうしなさい。わたし以外の者には開けられない小箱に、閉じ込めておきなさい」
組頭はそう言って、私の唇に親指を這わせた。この唇で何度、彼に愛を伝えたかわからない。けれどもそれは、ついぞ潰えてしまった。この梅のように、永遠に咲き誇ることは出来ないのだ。
「お慕い申しておりました。幼少の砌より、ずっと」
「知っているよ。知っているからこそ、大切にしてきた」
ありがとうね、と微笑んだ組頭に、この胸中はどうしたって届かないのだ、と私も微笑み返した。
春の訪れだった。彼のしあわせが、私のしあわせであるはずだった。
組頭がひどい大火傷に見舞われたのは、春をとっくに越した頃だった。
尊奈門の御父上を炎の渦から救い出した彼は称えられたが、その傷は酷いものだった。顔もわからないほどに溶け、呻き声だけで生死を判別するほかなかった。部下の誰もが祈り、願った。中には「いっそ楽になってほしい」と思う者もいたであろう。地獄の苦しみを掻き分けながら必死に呼吸する組頭の手を、握ることも叶わなかった。私が代わりに味わえるものなら、喜んで受け入れた。私が泣けない分まで、尊奈門が泣きながら彼の世話を引き受けた。
なんとか一命を取り留めた頃、組頭の縁談が破談になったと知らせが入った。こんな時に破談も何もないだろう、と私は怒りに震えた。理性的に考えれば尤もな選択である。しかし、組頭の生きようとする未来を否定された気がして、私は我慢ならなかった。支える気もないのに、結ばれようとしていたとは。自分の無力さへの怒りの矛先が変わってしまった。私は仕事に没頭した。一つ命を奪う度、組頭に魂を分けられればいいのに、という穢れた考えを持つようになった。命の重さは平等だというのに。
夏。汗を拭いながら、見舞いに向かう。尊奈門に追い出されてしまうので、障子戸の隙間から花を届けることしか出来ない。
しかしその日は違った。尊奈門が眠りこけていたのである。看病のし通しで疲れてしまったのだろう。布団を敷き、尊奈門を寝かせた。
「陣左」
ちいさな、ちいさな、消えてしまいそうな声だった。
私は組頭の枕元に膝をついた。右眼がほんのりと開き、私を映す。
「陣左」
「ここにおります。組頭」
「名前を呼んで」
「雑渡様」
「名前を」
「……昆奈門様」
「外の様子は、どんなかな」
私は語った。虫たちが活発に鳴き、太陽の陽がそれを照らしていること。青々とした葉は美しく、ひとたび雨が降れば嬉しそうに揺れること。汗が身体に纏わりつき、風呂に入れない日は不快なこと。
どれも当たり前の日常だ。だが、私は語り続けた。山本の子が三つになったこと。五条が大きな忍務を成功させたこと。すべて、すべてあなたと見たい景色であること。
「……世界が、終わると思ってね。あわや地獄に、というところで、おまえのことを思い出したんだよ」
「……私でございますか」
「美しかったんだ。はじめておまえと愛を交わした日から、世界が瑞々しかったんだよ」
昆奈門様は目だけでゆっくりと微笑んだ。まだ顔中痛むだろうに、その微笑みは私のためのものだと思うと、枯れたと思った涙が溢れそうだった。
「お迎え、来そうにないんだよ。おまえという宝があるから、行けないんだ」
「行かないでくださいませ。私を置いて行かないでくださいませ」
「おまえの心の小箱は、まだ壊れていないかい」
「ずっと大切に持っております。昆奈門様が昏睡している間、何度も燃やそうかと考えました。開けては閉め、開けては閉めていました。開ける度、希望が唄うのです。光が見えるのです。私が生きている間、捨てられそうにありません」
「かわいい陣左。わたしの陣左」
昆奈門様は身体を捩ろうとするので、私はあわてて止めた。布団の隙間から彼の右手にそっと触れる。手に火傷は広がっていなかった。彼の指は微かに私を撫でた。
「その小箱の中身を教えて。おまえの見ていた景色を教えて」
「いくらでもお話いたします」
昆奈門様が満足なさるまで、私は手を握りながら話し続けた。あの梅の枝には、やはりうぐいすが止まったこと。梅が萎れた頃には、桜が見事に舞ったこと。途中、彼が痛みに顔を歪めるたびに話を止めようとしても、「構わずに、続けて」とおっしゃるので、私は繰り返し繰り返し愛を伝えた。
「陣左の世界は綺麗だね」
「滅相もありません。昆奈門様のおかげです」
「おまえに世界を見せたのはわたしだけれど、今度はおまえが、わたしを連れ出すんだよ。世界へ」
私の頬を涙が伝った。雨の季節は過ぎ去ったはずだった。組頭は焼けただれた顔で、尚も微笑んでいる。
「おまえが初めてわたしの元へ来た時、呆れてしまったんだよ。なんとまあ威勢のいい子だと」
「お恥ずかしい限りです。けれどもあの頃から私は変わりません。お慕い申しております」
「色んな景色を二人で見たねえ」
「お慕い申しております」
「陣左」
部屋は薬の匂いで満ちていた。尊奈門の寝息の合間に、昆奈門様はヒュ、と喉を鳴らした。
「あいしているよ」
「……昆奈門様」
「動けるようになったら、陣左と色んな景色を見ようね。地獄の景色かもしれないけれど」
「どこまでも、お供いたします」
尊奈門が、ううん、と唸ったのを合図に、私は立ち上がった。いつまでもお話をしていたら身体にご負担がかかる。昆奈門様はちいさく「またね」とおっしゃって、目を瞑った。
その瞼の裏にはどんな景色が広がっているのだろう。私は小箱を閉じて部屋を去った。虫が騒がしいが、騒がしいくらいでいいと思った。私の足音を消してくれるから。
誰も足を踏み入れたことのない場所で、私と昆奈門様は繋がっている。誰にも穢させはしない。彼に撫でられた手のひらの温もりに唇を落とした。青空は冴え冴えとしていて、雲は伸びやかに泳いでいた。夜を生きる者にとって、あまりにも眩しい太陽であった。
そう告げた組頭は私ではなく、春の訪れを告げる梅の枝の方に視線を注いでいた。そのうち、うぐいすがやってくる枝だ。梅は小さな花を結んでいて、枝はつやつやと輝いており、冬を越した生命の力強さを感じさせる。
組頭は腕を伸ばして、そのうちの枝の一つを手折った。先端の方の、一番小さな枝だ。梅の花が三つ咲き零れている。それを私の耳に差し、髪を数度梳くと、「それでね」と組頭は呟いた。
「陣左との関係も、これで終わり」
梅の香りが鼻を掠めた。残酷な春の香りだった。
「……かしこまりました」
「勘違いしないでね。なかったことにはならない」
「……ええ。大切に、胸の奥に秘めておきます」
「そうしなさい。わたし以外の者には開けられない小箱に、閉じ込めておきなさい」
組頭はそう言って、私の唇に親指を這わせた。この唇で何度、彼に愛を伝えたかわからない。けれどもそれは、ついぞ潰えてしまった。この梅のように、永遠に咲き誇ることは出来ないのだ。
「お慕い申しておりました。幼少の砌より、ずっと」
「知っているよ。知っているからこそ、大切にしてきた」
ありがとうね、と微笑んだ組頭に、この胸中はどうしたって届かないのだ、と私も微笑み返した。
春の訪れだった。彼のしあわせが、私のしあわせであるはずだった。
組頭がひどい大火傷に見舞われたのは、春をとっくに越した頃だった。
尊奈門の御父上を炎の渦から救い出した彼は称えられたが、その傷は酷いものだった。顔もわからないほどに溶け、呻き声だけで生死を判別するほかなかった。部下の誰もが祈り、願った。中には「いっそ楽になってほしい」と思う者もいたであろう。地獄の苦しみを掻き分けながら必死に呼吸する組頭の手を、握ることも叶わなかった。私が代わりに味わえるものなら、喜んで受け入れた。私が泣けない分まで、尊奈門が泣きながら彼の世話を引き受けた。
なんとか一命を取り留めた頃、組頭の縁談が破談になったと知らせが入った。こんな時に破談も何もないだろう、と私は怒りに震えた。理性的に考えれば尤もな選択である。しかし、組頭の生きようとする未来を否定された気がして、私は我慢ならなかった。支える気もないのに、結ばれようとしていたとは。自分の無力さへの怒りの矛先が変わってしまった。私は仕事に没頭した。一つ命を奪う度、組頭に魂を分けられればいいのに、という穢れた考えを持つようになった。命の重さは平等だというのに。
夏。汗を拭いながら、見舞いに向かう。尊奈門に追い出されてしまうので、障子戸の隙間から花を届けることしか出来ない。
しかしその日は違った。尊奈門が眠りこけていたのである。看病のし通しで疲れてしまったのだろう。布団を敷き、尊奈門を寝かせた。
「陣左」
ちいさな、ちいさな、消えてしまいそうな声だった。
私は組頭の枕元に膝をついた。右眼がほんのりと開き、私を映す。
「陣左」
「ここにおります。組頭」
「名前を呼んで」
「雑渡様」
「名前を」
「……昆奈門様」
「外の様子は、どんなかな」
私は語った。虫たちが活発に鳴き、太陽の陽がそれを照らしていること。青々とした葉は美しく、ひとたび雨が降れば嬉しそうに揺れること。汗が身体に纏わりつき、風呂に入れない日は不快なこと。
どれも当たり前の日常だ。だが、私は語り続けた。山本の子が三つになったこと。五条が大きな忍務を成功させたこと。すべて、すべてあなたと見たい景色であること。
「……世界が、終わると思ってね。あわや地獄に、というところで、おまえのことを思い出したんだよ」
「……私でございますか」
「美しかったんだ。はじめておまえと愛を交わした日から、世界が瑞々しかったんだよ」
昆奈門様は目だけでゆっくりと微笑んだ。まだ顔中痛むだろうに、その微笑みは私のためのものだと思うと、枯れたと思った涙が溢れそうだった。
「お迎え、来そうにないんだよ。おまえという宝があるから、行けないんだ」
「行かないでくださいませ。私を置いて行かないでくださいませ」
「おまえの心の小箱は、まだ壊れていないかい」
「ずっと大切に持っております。昆奈門様が昏睡している間、何度も燃やそうかと考えました。開けては閉め、開けては閉めていました。開ける度、希望が唄うのです。光が見えるのです。私が生きている間、捨てられそうにありません」
「かわいい陣左。わたしの陣左」
昆奈門様は身体を捩ろうとするので、私はあわてて止めた。布団の隙間から彼の右手にそっと触れる。手に火傷は広がっていなかった。彼の指は微かに私を撫でた。
「その小箱の中身を教えて。おまえの見ていた景色を教えて」
「いくらでもお話いたします」
昆奈門様が満足なさるまで、私は手を握りながら話し続けた。あの梅の枝には、やはりうぐいすが止まったこと。梅が萎れた頃には、桜が見事に舞ったこと。途中、彼が痛みに顔を歪めるたびに話を止めようとしても、「構わずに、続けて」とおっしゃるので、私は繰り返し繰り返し愛を伝えた。
「陣左の世界は綺麗だね」
「滅相もありません。昆奈門様のおかげです」
「おまえに世界を見せたのはわたしだけれど、今度はおまえが、わたしを連れ出すんだよ。世界へ」
私の頬を涙が伝った。雨の季節は過ぎ去ったはずだった。組頭は焼けただれた顔で、尚も微笑んでいる。
「おまえが初めてわたしの元へ来た時、呆れてしまったんだよ。なんとまあ威勢のいい子だと」
「お恥ずかしい限りです。けれどもあの頃から私は変わりません。お慕い申しております」
「色んな景色を二人で見たねえ」
「お慕い申しております」
「陣左」
部屋は薬の匂いで満ちていた。尊奈門の寝息の合間に、昆奈門様はヒュ、と喉を鳴らした。
「あいしているよ」
「……昆奈門様」
「動けるようになったら、陣左と色んな景色を見ようね。地獄の景色かもしれないけれど」
「どこまでも、お供いたします」
尊奈門が、ううん、と唸ったのを合図に、私は立ち上がった。いつまでもお話をしていたら身体にご負担がかかる。昆奈門様はちいさく「またね」とおっしゃって、目を瞑った。
その瞼の裏にはどんな景色が広がっているのだろう。私は小箱を閉じて部屋を去った。虫が騒がしいが、騒がしいくらいでいいと思った。私の足音を消してくれるから。
誰も足を踏み入れたことのない場所で、私と昆奈門様は繋がっている。誰にも穢させはしない。彼に撫でられた手のひらの温もりに唇を落とした。青空は冴え冴えとしていて、雲は伸びやかに泳いでいた。夜を生きる者にとって、あまりにも眩しい太陽であった。