その他

 ほふく前進をしすぎて、服がすれてしまった。自室でちくちくと繕っていると、部屋の外から七松小平太先輩の声がする。
「時友四郎兵衛はいるか?」
「はい、います!」
 先輩は障子戸を開け、ぼくを見つけるとニッコリと笑った。ぼくはまた無理難題を言われるんじゃないかと思ってヒヤッとしたのだけれど、先輩はなんと、僕に「お願い」のポーズをとった。両手を顔の前であわせるやつ。
「頼む、四郎兵衛、私の服も縫ってくれないか!」
「……ええ!? ぼくが?!」
 ぼくはびっくりして、手のひらに針を刺してしまった。痛さに悲鳴をあげてわたわたしていると、七松先輩はぼくの前に座って目線を合わせた。
「四郎兵衛は、手先が器用だろう。私のギニョールも素晴らしい出来だ」
「え、あ、ありがとうございます」
「ぜひ、私の分も服を繕ってほしいのだ。礼なら、そうだな、明日一日、なんでも言う事をきいてやる」
「なんでも!?」
 ぼくは口をあんぐりと開けてかたまってしまった。二年生のぼくが、六年生の先輩に、お願いを聞いてもらえるだって? そんなの、何をお願いしていいのかわからない。ぼくはすっかり困ってしまった。
「お礼なんて、いらないです。ぼくでよければ、服は繕いますから」
「それだと私の気がすまん。食事の時に私のおかずをわけてやるとか、そうだ、お手玉にしてやることも出来るぞ」
「それは結構です!」
 七松先輩にお手玉にされるのは、なんというか、一年生の伏木蔵風に言うと、スリルとサスペンスなのだ。日常で味わわなくてもいい恐怖。
 ぼくはお手製のギニョールをいくつか持っている。七松先輩のギニョールはなかなかの自信作だ。だけど、だからと言って、先輩の服を上手に繕えるかと言われると、また違う話になってくる。もちろん、先輩からのお願いだから、聞くほかにない。
「じゃあ、じゃあ、上手な塹壕掘りを教えてください」
「いいだろう!」
「やったあ。それじゃあ、服、お預かりします」
 先輩から服を預かって、さっそく針に糸を通す。穴を見つけては埋めていく、ほつれた裾を整えていく地道な作業を、七松先輩はじっと見ていた。
「四郎兵衛は優しい子だな」
「……えっ」
 先輩の、聞いたことがないくらい優しい声に、思わず手が止まる。先輩はにかっと笑ってぼくの頭を撫で、何かに満足したように部屋を出て行ってしまった。
「……こんなことで褒められることも、あるんだなぁ」
 ぼくは頭に残る温もりと、耳に残る優しい声を反芻しながら、心を込めて針を動かす。先輩が自由に身体を動かせるように、しっかりしっかり丁寧に縫った。
 七松先輩のありあまった体力に、ぼくは何度も振り回されてきた。時には委員会をやめたいと思ってしまうほどに、悩むこともあった。けれど、先輩はこうして、ぼくのことを応援したり、褒めてくれたり、ちゃんと見てくれているのだと思える声かけをしてくれる。それがなによりも嬉しくて、ぼくはまた頑張れてしまうのだ。
 先輩のギニョール、新しいのを作って、羽丹羽くんにあげてみようかな。もっともっと作って、みんなに配れないだろうか。自慢の先輩を、ぼくはたくさん自慢したくなった。だいすきな、かっこいい先輩。
 羽丹羽くんが部屋に帰ってきて、「あれ、時友くん、嬉しそうですね」と声をかけてくれた。気付けばぼくは笑顔だったようだ。嬉しいな、得意なことが増えていくのは。羽丹羽くんに「七松先輩のギニョール、いる?」と聞くと、「いいんですか?」と喜んでくれたので、ぼくはますます張り切って手を動かした。庭の方から、いけいけどんどん、という声が聞こえる。おひさまがきっと先輩を照らしているだろう。ぼくは景気よく針を進めすぎて、また指に刺してしまうのだった。
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