二は(時友・羽丹羽)
「時友くん」
聞き慣れた、透き通った声が、ぼくにやわらかく降り注ぐ。世界がぼやけてあいまいだったのが、徐々に輪郭を帯びていき、ぼくは目を覚ました。
深く眠っていたようだ。身体はまだ沼の底にいるみたいに重くて、頭もしゃっきりとしない。けれど、羽丹羽くんがぼくを揺さぶる。名前を呼びながら。
「どうしたの」
「怖い、怖い夢を見ました」
羽丹羽くんの声は震えていた。ぼくは慌てて飛び起きて、羽丹羽くんを抱きしめる。
羽丹羽くんとは幼馴染だ。小さい頃から何度もお泊り会をしている。その時もこうして、時々、羽丹羽くんは怖い夢を見ていた。飛び起きるぼくは、必ず羽丹羽くんを抱きしめる。
夜中って、世界に取り残されてしまったようで、怖い。深い深い海のなかを泳いでいるみたいだ。暗がりの中で、白いはずの壁も無機質に無呼吸で、静まり返った部屋は、冷蔵庫のヴーンという音だけが響いている。羽丹羽くんの肩は薄い。
「起こしちゃって、ごめんなさい」
「いいよお」
甘えてくれて嬉しい、というのはある。だから気にしないでほしい。ぽんぽんと頭を撫でて、さらさらの髪の毛に指を通しているうち、羽丹羽くんは落ち着いたようだ。
「ありがとう、もう大丈夫」
「でも、目、覚めちゃったんじゃない? しばらく眠れないでしょ」
「はい、でも、本でも読んで、ぼーっとしようかと……」
「いい場所、いかない?」
ぼくがにっこりと笑うと、羽丹羽くんはきょとんと首を傾げた。そうと決まれば、準備をしなきゃ。ぼくらは寝間着から暖かな恰好に着替えて、財布と鍵だけをポケットにつっこんで、真夜中の街に繰り出した。
「どこに行くんですか?」
「行ったらわかるよお」
こういう時のための、二十四時間営業だ。ぼくは羽丹羽くんの手を引いて、駅前の大通りから一本逸れた道へ入った。次第に、人の話し声が聞こえてくる。前に見えるのは赤い屋根。つい最近できたラーメン屋だった。
「ここが秘密の場所?」
「そう。お腹をあっためたら、眠くなるよ」
店に入ると、へいらっしゃい、と夜中にしては大きめの掛け声を浴びた。きょろきょろしている羽丹羽くんに代わって食券を買う。ラーメンとギョウザ。
カウンターの一番奥の席に案内され、ぼくらはジャンパーを脱いで壁にかけた。お水はセルフサービス。さすがにお酒は飲まないでおく。
「深夜なのに、明るい……」
眩しいくらい煌々と照らされた店内と、お客が麺を啜る音。ここだけ異世界みたいだ。さっきまでぼくたちが包まれていたお布団とは、全く異なった温度感の場所。
「へいお待ち!」
運ばれてきた、二杯の醤油ラーメンと、一枚のギョウザ。醤油とお酢を小皿に用意して、ぼくらはお箸を手に取った。
いただきますと唱えて、ラーメンを啜る。こってりと濃いスープが麺によく絡んで、しょっぱさに目が冴え冴えとする。
「おいしい!」
羽丹羽くんの目がきらきらと輝いた。ぼくはラーメンを口いっぱいに含んでいたから、そうだねの代わりになんども頷いた。ギョウザも肉汁がたっぷりで、熱々で、旨味がぎゅうっと詰まっている。
「すごい、こんな夜中に、こんなに食べていいなんて」
誰にも怒られないよ。怒られないけれど、この背徳感。大人になったなあと思う。
ぼくは小さい頃、夜中に目が覚めてしまった時、お母さんにホットミルクを作ってもらったことがある。夜中にリビングにいること、台所に明かりが灯っていること、そしてあたたかな飲み物を飲んでいるということ、すべてが非日常的でどきどきして、甘いあったかいミルクは、魔法みたいな味がした。それを飲むと、安心して眠くなって、やがてぐっすり眠れる。お母さんのおまじないだ。
その思い出を、ぼくはずうっと、大事にもっている。
だから、思うんだ。お腹をあっためたら、きっとよく眠れるよって。
「ぽかぽかします」
頬を真っ赤に染めた羽丹羽くんが微笑む。メンマをしゃきしゃきと噛みしめながら、ぼくは幸福感を味わった。
好きな人と、好きな時間に、好きなものを食べられるんだ。この自由が、大人の特権なんだ。
ギョウザの最後の一個を惜しみながら食べて、ぼくらの食事は終わった。手を合わせて、ごちそうさま。お水も飲み干して、ジャンパーを着る。
外は寒かった。寒かったけれど、あたたかなぼくたちは、無敵だった。手をつないでぶんぶんと振りながら、帰路につく。
この時間は、さすがに街も暗い。少しだけ星が見える。いつか、羽丹羽くんと満天の星空が見たい。どこに行けば見れるだろうか。小旅行用の貯金をしなければ。
「時友くんは、魔法使いですね」
「そう?」
ラーメン色の息をほっと吐く。そこだけ一瞬、熱される。お手玉みたいに、そこだけ掴めたら、おもしろいかな。
「いま、ぼく、最高に楽しいです」
「ぼくもだよ」
「夢の内容、忘れちゃいました」
「それはよかった!」
ぼくにとっての魔法が、お母さんのホットミルクだったように、羽丹羽くんにとっての魔法が、ぼくとの深夜ラーメンになれたことが嬉しい。
このくらいの魔法なら、いつでも連れてきてあげるからね。
家に帰って、歯磨きをして。寝間着に着替えて、お布団にダイブ。
おやすみなさい、羽丹羽くん。羽丹羽くんの指先はあたたかかった。数秒後に、もう寝息が聞こえだした。魔法は効果てきめんだったようだ。ぼくにもまどろみはすぐにやってきて、瞼が世界の電気を消した。おなかがあたたかくて満腹で、しあわせな夢を見られそうだった。
聞き慣れた、透き通った声が、ぼくにやわらかく降り注ぐ。世界がぼやけてあいまいだったのが、徐々に輪郭を帯びていき、ぼくは目を覚ました。
深く眠っていたようだ。身体はまだ沼の底にいるみたいに重くて、頭もしゃっきりとしない。けれど、羽丹羽くんがぼくを揺さぶる。名前を呼びながら。
「どうしたの」
「怖い、怖い夢を見ました」
羽丹羽くんの声は震えていた。ぼくは慌てて飛び起きて、羽丹羽くんを抱きしめる。
羽丹羽くんとは幼馴染だ。小さい頃から何度もお泊り会をしている。その時もこうして、時々、羽丹羽くんは怖い夢を見ていた。飛び起きるぼくは、必ず羽丹羽くんを抱きしめる。
夜中って、世界に取り残されてしまったようで、怖い。深い深い海のなかを泳いでいるみたいだ。暗がりの中で、白いはずの壁も無機質に無呼吸で、静まり返った部屋は、冷蔵庫のヴーンという音だけが響いている。羽丹羽くんの肩は薄い。
「起こしちゃって、ごめんなさい」
「いいよお」
甘えてくれて嬉しい、というのはある。だから気にしないでほしい。ぽんぽんと頭を撫でて、さらさらの髪の毛に指を通しているうち、羽丹羽くんは落ち着いたようだ。
「ありがとう、もう大丈夫」
「でも、目、覚めちゃったんじゃない? しばらく眠れないでしょ」
「はい、でも、本でも読んで、ぼーっとしようかと……」
「いい場所、いかない?」
ぼくがにっこりと笑うと、羽丹羽くんはきょとんと首を傾げた。そうと決まれば、準備をしなきゃ。ぼくらは寝間着から暖かな恰好に着替えて、財布と鍵だけをポケットにつっこんで、真夜中の街に繰り出した。
「どこに行くんですか?」
「行ったらわかるよお」
こういう時のための、二十四時間営業だ。ぼくは羽丹羽くんの手を引いて、駅前の大通りから一本逸れた道へ入った。次第に、人の話し声が聞こえてくる。前に見えるのは赤い屋根。つい最近できたラーメン屋だった。
「ここが秘密の場所?」
「そう。お腹をあっためたら、眠くなるよ」
店に入ると、へいらっしゃい、と夜中にしては大きめの掛け声を浴びた。きょろきょろしている羽丹羽くんに代わって食券を買う。ラーメンとギョウザ。
カウンターの一番奥の席に案内され、ぼくらはジャンパーを脱いで壁にかけた。お水はセルフサービス。さすがにお酒は飲まないでおく。
「深夜なのに、明るい……」
眩しいくらい煌々と照らされた店内と、お客が麺を啜る音。ここだけ異世界みたいだ。さっきまでぼくたちが包まれていたお布団とは、全く異なった温度感の場所。
「へいお待ち!」
運ばれてきた、二杯の醤油ラーメンと、一枚のギョウザ。醤油とお酢を小皿に用意して、ぼくらはお箸を手に取った。
いただきますと唱えて、ラーメンを啜る。こってりと濃いスープが麺によく絡んで、しょっぱさに目が冴え冴えとする。
「おいしい!」
羽丹羽くんの目がきらきらと輝いた。ぼくはラーメンを口いっぱいに含んでいたから、そうだねの代わりになんども頷いた。ギョウザも肉汁がたっぷりで、熱々で、旨味がぎゅうっと詰まっている。
「すごい、こんな夜中に、こんなに食べていいなんて」
誰にも怒られないよ。怒られないけれど、この背徳感。大人になったなあと思う。
ぼくは小さい頃、夜中に目が覚めてしまった時、お母さんにホットミルクを作ってもらったことがある。夜中にリビングにいること、台所に明かりが灯っていること、そしてあたたかな飲み物を飲んでいるということ、すべてが非日常的でどきどきして、甘いあったかいミルクは、魔法みたいな味がした。それを飲むと、安心して眠くなって、やがてぐっすり眠れる。お母さんのおまじないだ。
その思い出を、ぼくはずうっと、大事にもっている。
だから、思うんだ。お腹をあっためたら、きっとよく眠れるよって。
「ぽかぽかします」
頬を真っ赤に染めた羽丹羽くんが微笑む。メンマをしゃきしゃきと噛みしめながら、ぼくは幸福感を味わった。
好きな人と、好きな時間に、好きなものを食べられるんだ。この自由が、大人の特権なんだ。
ギョウザの最後の一個を惜しみながら食べて、ぼくらの食事は終わった。手を合わせて、ごちそうさま。お水も飲み干して、ジャンパーを着る。
外は寒かった。寒かったけれど、あたたかなぼくたちは、無敵だった。手をつないでぶんぶんと振りながら、帰路につく。
この時間は、さすがに街も暗い。少しだけ星が見える。いつか、羽丹羽くんと満天の星空が見たい。どこに行けば見れるだろうか。小旅行用の貯金をしなければ。
「時友くんは、魔法使いですね」
「そう?」
ラーメン色の息をほっと吐く。そこだけ一瞬、熱される。お手玉みたいに、そこだけ掴めたら、おもしろいかな。
「いま、ぼく、最高に楽しいです」
「ぼくもだよ」
「夢の内容、忘れちゃいました」
「それはよかった!」
ぼくにとっての魔法が、お母さんのホットミルクだったように、羽丹羽くんにとっての魔法が、ぼくとの深夜ラーメンになれたことが嬉しい。
このくらいの魔法なら、いつでも連れてきてあげるからね。
家に帰って、歯磨きをして。寝間着に着替えて、お布団にダイブ。
おやすみなさい、羽丹羽くん。羽丹羽くんの指先はあたたかかった。数秒後に、もう寝息が聞こえだした。魔法は効果てきめんだったようだ。ぼくにもまどろみはすぐにやってきて、瞼が世界の電気を消した。おなかがあたたかくて満腹で、しあわせな夢を見られそうだった。