二は(時友・羽丹羽)

「時友くん」
 大学のキャンパス内で、聞き慣れた声がぼくを呼び止める。
 夏の始まりの風はぬるい。汗をかくほどでもないねっとりとした空気が、Tシャツと肌の間に籠る。植木がざわざわと揺れ、その青さは眩かった。この季節特有の、生命力の力強さ。ぼくは振り返り、小さな背がぱたぱたと駆け寄ってくるのを目で捉える。
「羽丹羽くん」
「もう、講義は終わりですか?」
「うん。夜に引っ越し屋さんのバイトがあるから、それまでは暇だよ」
 一度家に帰ろうと思っていたけれど、ぱあっと顔を綻ばせた彼の顔を見ると、途端にそんな気持ちは失せてしまう。水色のシャツを涼やかにまとった羽丹羽くんは大きな瞳を細めて笑い、またぼくの名前を呼ぶ。
「それなら、どこかファミレスか、カフェにでも行きませんか? 時友くんとお喋りしたいです」
 ぼくを見上げる羽丹羽くんの目は、いつもきらきらと輝いている。その輝きに、ぼくはめっぽう弱かった。小学生のころからずっと。
 いいよ、と頷いて、ぼくらは歩き出す。校門を出る時、いつも、少しだけ背徳感のようなものを覚える。街行く人はぼくがこの大学に通っていることを知らないのだ、と思うと、隠し事がひとつ背中にのしかかるような気になるのだった。まあ、悪いことなんかしないんだから、隠さなくたっていいのだけれど。
 近くのファミレスは混んでいたので、遠回りして喫茶店に入った。老夫婦が二人で営んでいるこじんまりとした店は、おそらく同じ大学の女子たちが一組いるだけだった。意外と穴場なのだ。カフェ、と呼ぶより、喫茶店、と呼びたくなるこげ茶色の店内は、コーヒー豆の香りで満ちている。
「カフェオレとコーヒーゼリーを同時に頼んだら、コーヒー大好き人間だと思われてしまうでしょうか」
 羽丹羽くんが眉間に皺を寄せて悩んでいる。彼のワードチョイスはいつもどこか面白い。
「いいじゃない、コーヒー大好き人間が来る店だもの、ここ」
「じゃあ、決めました。時友くんは?」
「ぼくもカフェオレ」
 アイスカフェオレを二つと、コーヒーゼリーを一つ。羽丹羽くんは生成り色のトートバッグからトイカメラを取り出し、テーブルの隅に置いた。
「使ってくれてるんだねえ」
「ええ。お気に入りです」
 トイカメラは、ぼくからの誕生日プレゼントだ。今の羽丹羽くんが着ているシャツと似た水色をしている。羽丹羽くんはすっかり気に入って、肌身離さず、それこそ大学にまで持ち歩いてくれている。
「やっぱり、スマホのカメラとは違いますよ。色合いというか、味が」
「どんな味?」
「どこか懐かしい味」
 カフェオレとコーヒーゼリーが運ばれてくると、羽丹羽くんはさっそく撮影しだした。角度を変えて、三枚だけ。SNSに載せる用ではないから、映えを気にしなくていいのだ、と以前言っていた。
 甘くて苦いカフェオレが、喉を通っていく。氷の角がまるくなっていくのを見ながら、ぼくらはたくさんお喋りをした。
 左近の弁当箱がカバンの中で大暴れし、びしょびしょになってしまったこと。
 久作が古本屋で五冊本を買ったけれど、家に同じ本が三冊あったこと。
 三郎次が海に行きすぎて、すでに軽く日焼けしていること。
「羽丹羽くんは?」
 ぼくはストローでカフェオレを揺らしながら訊ねる。この喫茶店は大きな窓があり、そこから外の景色が見えた。掃除が行き届いていないのか、いつかの雨の跡がある。それが不快ではないのが、居心地の良さの理由だろう。
「羽丹羽くんは、なにかあった? 最近」
「ぼくは……」
 羽丹羽くんは俯きながら、少し微笑んでいた。けれど、ぼくは知っている。彼の微笑みは、焦りや動揺、不安を孕んでいる時にも現れる。
「さみしい、です」
「え?」
「高校までは、今よりずっと、時友くんと一緒に過ごせていました。同じ大学に入れて嬉しいけれど……学科が違うって、こんなに離れ離れになるものなんですね」
 新しい友達はできたようだけれど、それでも羽丹羽くんは、ぼくといることを好んだ。数日会えなければ、寝る前に通話をすることだってある。人に話すと、仲良いねえ、とびっくりされる。小学生から一緒なんでしょう? 仲良いねえ、と。
 俯く羽丹羽くんの、伏せられたまつ毛が長いのを見て、綺麗だなあ、と思った。ずっとずっと、この景色がぼくだけのものになればいいのになあ。
「……変なこと言っちゃいましたね。すみません」
 コーヒーゼリーをつつくスプーン、それを持つ指の細さ。夏のはじまりは、全てを熱していく。気付くとぼくは、口を開いていた。
「じゃあ、一緒に暮らす?」
「……え?」
「……あれ?」
 思ってもみない言葉が、口から零れていたことに、自分自身でびっくりする。目の前の羽丹羽くんも、目をまんまるに見開いていた。
 二人の間で、カフェオレの氷がとけていく。
「……そうしたら、ずっと一緒にいられるなあって。家賃も半分になるし……」
「……いいんですか?」
「なにが?」
「ぼくが、時友くんを独り占めして、いいんですか?」
 羽丹羽くんの目が潤んだのを見て、ぼくは慌てて手を伸ばした。ぼくは、羽丹羽くんの笑顔を、ずっと見ていたいだけなんだ。
 コーヒー豆を買いに来た、おそらく近所の奥さんと店主が話し込む声の隙間に、ぼくらの声は潜っていく。
「小学生の時から、ずっと一緒だったでしょ、ぼくたち。おとまり会だって、いっぱいした」
「ええ。夕食に呼ばれることも、呼ぶことも、しょっちゅうです」
「だから、今更、なんじゃないかなあ。だって、ずっと一緒だったんだもの」
 ずっと、一緒。同じ言葉をなんども繰り返すうち、それがずいぶんとこそばゆい約束であると自覚する。十八を超えた、世の中では成人と呼ばれるぼくらの間には、少年だった頃の約束が、ずっと光っている。
「……ぼく、時友くんが大好きなんです」
「ぼくも大好きだよ」
「違うんです。きっと時友くんの大好きと、ぼくの大好きは、違うんです」
「違わないよ。ぼく、羽丹羽くんのこと、本当に大好きなんだよ」
 ぼくは羽丹羽くんの手を握った。甘くて苦いカフェオレで染まってしまった身体から、精一杯の声を出した。
「大好きだから、一緒に暮らそう。ずっと一緒に、過ごそう」
 羽丹羽くんの目から、とうとう涙が零れてしまった。指でそれを拭ってあげると、羽丹羽くんは恥ずかしそうに微笑む。
「なんだか、プロポーズみたい」
 それでもいいような気がした。だって、ずっと一緒であることに、違いはないんだもの。
 羽丹羽くんは、コーヒーゼリーを一口くれた。とろける甘さ、後引く苦さ。
「ね、どこか懐かしいでしょう」
 あの頃は飲めなかったコーヒーの香りは、今ではこんなに身近なものになった。羽丹羽くんは再びトイカメラを取り出すと、ぼくにレンズを向ける。
「ええっ」
「ふふふ」
 思い出が、増えていく。いろんな色の、角度の、味の。
 羽丹羽くんはトイカメラを見つめながら、嬉しい、と呟いた。
「いっぱい、時友くんのこと、撮ります。それでアルバムにして、骨壺に入れます」
「人生設計が極端」
 新しい暮らしは、どこからはじめようか。時間が許すぎりぎりまで、ぼくらの作戦会議はつづく。
 夏のはじまりの風が、窓ガラスを舐めていく。どんな味がするのだろう。やっぱり、どこか懐かしい味だろうか。
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