その他
印刷会社によって、紙やインクの匂いは異なる。それを知ったのは、たしか小学生の時だった。他クラスの友人と、国語辞典の貸し借りをしていた時に気付いたのだ。
「だからか」
滝夜叉丸はあきれ顔で言った。大学のキャンパスは広いが、僕たちは決まってカフェコーナーのテラス席にいる。真夏と真冬以外は、ここが一番居心地がいい。
「喜八郎に教科書や本を貸すと、咄嗟に嗅ぐんだ」
「わかる。ノータイムで嗅ぐよな」
三木ヱ門が同調するのを、守一郎が面白そうに聞いていた。そんなに珍しいことだろうか。過去、何度かこの話を他人にしたことはあるけれど、そのたびに「そうなんだ?」という、そっけない返事しか返ってこない。
「でも、僕はわかるなあ。新品の本とか、つい深呼吸しちゃうよ」
タカ丸さんだけは深く頷いた。彼は留学経験があるため、僕たちより二個年上だけれど、こうして親しくしてくれる。洋書はやはり、このスポーツ科学の教科書と匂いが違うのだろう。
ブラックコーヒー、ミルクだけ入れたのがふたつ、ミルクと砂糖をいれたの、それとレモンティー。秋風がテーブルを撫でていき、水面が揺らぐ。
「やっぱり、悲劇は重い匂いがしたりるするのか?」
「どういうこと?」
滝夜叉丸の問いが理解できず問い返すと、三木ヱ門が言葉を重ねた。
「考えてもみろ、たとえばドグラマグラから甘い匂いがしたら嫌だろう」
「たしかに!」
守一郎は大きな声で笑った。彼は声が大きいのだ。周りの席の人々がこちらに視線をやる。いつものことだから、すぐに逸らされるのまでがお決まりだ。
「悲劇は悲しいインク、喜劇は楽しいインクを使っているのかなあ」
タカ丸さんはレモンティーを啜りながら、のんきに空を仰いだ。秋の空は変わりやすいというけれど、今日は良く晴れている。どこまでも青は高く、澄んでいて気持ちがいい。
「かき氷って、実は全部同じ味らしいよ。いちごもメロンもブルーハワイも」
僕はミルク入りのコーヒーをかき混ぜた。かき混ぜるためだけの、プラスチックの細いスプーンは、かき混ぜたあとにどこに置こうかいつも困る。
「だから、インクはきっと同じだよ。僕らが勝手に嗅ぎ分けてるだけ」
「つまらない奴」
三木ヱ門はそう言うと、カップに口を付けた。カップも店によって匂いが違うと言ったら、みんなは何て言うだろうか。コーヒーの香りが違うように、なんだって匂いは違うのだ。
「絵本から食べ物の匂いがしたら、きっと素敵だろうなあ。はらぺこあおむしとか」
「こすったら匂いがする仕掛けとかは、もう存在するけどね」
守一郎さんとタカ丸さんの会話の向こうで、滝夜叉丸はカバンを漁っていた。次の講義の確認かと思ったけれど、どうやら違ったようだ。底の方から取り出した、小さな瓶を僕に見せてきた。
「私の愛用のコロンだ」
「うわ」
「これを本にふりかけるのはどう思う?」
「ない」
「……ないか」
僕の即答に合わせて、三木ヱ門が「本が傷むだろ」と言い、守一郎が笑う。タカ丸さんはそんな僕らの様子をスマホで勝手に撮影する。
いい秋だ。秋の始まりの匂い。どのインクの匂いとも違う、秋の匂い。
「今夜はサンマかなあ」
一人暮らしをしているタカ丸さんは、自炊に凝っている。僕らはサンマの匂いをそれぞれ思い浮かべながら、コーヒーや紅茶の残りを飲み干した。カップをべこっとへこませた時の感触が好きだ。
次の講義で使う教科書は変な匂いがすることを、僕は彼らに教えない。自分で気付いて、顔をしかめてもらいたい。こんな会話をしたあとなのだから、きっとみんな、教科書をこっそり嗅ぐに違いなかった。
僕がくすりと笑っているのを見た滝夜叉丸が「なに笑ってるんだ」と言うのに、「なんでも」と返しながら、大きく背伸びをした。
どこまでも高く、澄んだ青色は、手が届きそうもなかった。
「だからか」
滝夜叉丸はあきれ顔で言った。大学のキャンパスは広いが、僕たちは決まってカフェコーナーのテラス席にいる。真夏と真冬以外は、ここが一番居心地がいい。
「喜八郎に教科書や本を貸すと、咄嗟に嗅ぐんだ」
「わかる。ノータイムで嗅ぐよな」
三木ヱ門が同調するのを、守一郎が面白そうに聞いていた。そんなに珍しいことだろうか。過去、何度かこの話を他人にしたことはあるけれど、そのたびに「そうなんだ?」という、そっけない返事しか返ってこない。
「でも、僕はわかるなあ。新品の本とか、つい深呼吸しちゃうよ」
タカ丸さんだけは深く頷いた。彼は留学経験があるため、僕たちより二個年上だけれど、こうして親しくしてくれる。洋書はやはり、このスポーツ科学の教科書と匂いが違うのだろう。
ブラックコーヒー、ミルクだけ入れたのがふたつ、ミルクと砂糖をいれたの、それとレモンティー。秋風がテーブルを撫でていき、水面が揺らぐ。
「やっぱり、悲劇は重い匂いがしたりるするのか?」
「どういうこと?」
滝夜叉丸の問いが理解できず問い返すと、三木ヱ門が言葉を重ねた。
「考えてもみろ、たとえばドグラマグラから甘い匂いがしたら嫌だろう」
「たしかに!」
守一郎は大きな声で笑った。彼は声が大きいのだ。周りの席の人々がこちらに視線をやる。いつものことだから、すぐに逸らされるのまでがお決まりだ。
「悲劇は悲しいインク、喜劇は楽しいインクを使っているのかなあ」
タカ丸さんはレモンティーを啜りながら、のんきに空を仰いだ。秋の空は変わりやすいというけれど、今日は良く晴れている。どこまでも青は高く、澄んでいて気持ちがいい。
「かき氷って、実は全部同じ味らしいよ。いちごもメロンもブルーハワイも」
僕はミルク入りのコーヒーをかき混ぜた。かき混ぜるためだけの、プラスチックの細いスプーンは、かき混ぜたあとにどこに置こうかいつも困る。
「だから、インクはきっと同じだよ。僕らが勝手に嗅ぎ分けてるだけ」
「つまらない奴」
三木ヱ門はそう言うと、カップに口を付けた。カップも店によって匂いが違うと言ったら、みんなは何て言うだろうか。コーヒーの香りが違うように、なんだって匂いは違うのだ。
「絵本から食べ物の匂いがしたら、きっと素敵だろうなあ。はらぺこあおむしとか」
「こすったら匂いがする仕掛けとかは、もう存在するけどね」
守一郎さんとタカ丸さんの会話の向こうで、滝夜叉丸はカバンを漁っていた。次の講義の確認かと思ったけれど、どうやら違ったようだ。底の方から取り出した、小さな瓶を僕に見せてきた。
「私の愛用のコロンだ」
「うわ」
「これを本にふりかけるのはどう思う?」
「ない」
「……ないか」
僕の即答に合わせて、三木ヱ門が「本が傷むだろ」と言い、守一郎が笑う。タカ丸さんはそんな僕らの様子をスマホで勝手に撮影する。
いい秋だ。秋の始まりの匂い。どのインクの匂いとも違う、秋の匂い。
「今夜はサンマかなあ」
一人暮らしをしているタカ丸さんは、自炊に凝っている。僕らはサンマの匂いをそれぞれ思い浮かべながら、コーヒーや紅茶の残りを飲み干した。カップをべこっとへこませた時の感触が好きだ。
次の講義で使う教科書は変な匂いがすることを、僕は彼らに教えない。自分で気付いて、顔をしかめてもらいたい。こんな会話をしたあとなのだから、きっとみんな、教科書をこっそり嗅ぐに違いなかった。
僕がくすりと笑っているのを見た滝夜叉丸が「なに笑ってるんだ」と言うのに、「なんでも」と返しながら、大きく背伸びをした。
どこまでも高く、澄んだ青色は、手が届きそうもなかった。