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「新宿で家賃二万とか無理ですってぇ!」
 営業三年目の諸泉尊奈門が、パソコンの前で叫ぶ。時たまこういう無茶振りをする客がいるのだ、上京を夢見てはいるが金のない若者など――。山本陣内は店の外にある自販機で購入した微糖のコーヒーを、そっと尊奈門の机に置いた。開設したばかりの公式LINEの対応は彼に任せっきりで、SNSに疎い自分の代わりに担当してくれてありがたい、という感謝があった。
 ここ、タソガレハウジングは、地域密着型の不動産屋である。足に自信のある営業が揃っており、実際に街を練り歩いて情報をリサーチしているので、客からの評判も良い。元付の管理会社の信頼も厚く、交渉次第では礼金をまけてもらえるなんてこともあるくらいだ。
 近頃は売買にも力を入れたいとの黄昏甚兵衛社長の意向で、外回り営業にも力を入れている。椎良勘介、反屋壮太、五条弾は毎日靴底をすり減らしていた。売買課課長の押都長烈は、本日は契約に向かっている。千葉県の、立地の悪い土地をやっと手放せるので、店長の雑渡昆奈門は「これで肩の荷がひとつ降りたね」と笑った。
「これ、どうしたらいいんですか。二万じゃ無理って言うべきですか」
 尊奈門は陣内にぶうたれた。タソガレハウジングは「無理」と言わない営業方針のため、一度は希望通りの物件を探すようにしている。そのあと客が妥協できるポイントを探り、なんとか納得いただけるところまで理想を下げてもらうのだ。しかし、新宿で二万となると話は変わってくる。
「二万だと、トイレだけの物件しかないですよ。何ですかこの物件、部屋とも呼べない」
「まずはそこをお教えして、現実を知ってもらいなさい」
 陣内は尊奈門の肩越しにパソコン画面を見て、トイレのピクトグラムしか書かれていない間取り図にやれやれと溜息を吐いた。新宿に夢見る若者が最初に見る間取り図がこれじゃあ、幻滅されてしまうかもしれない。
「住所が欲しいだけという可能性は」
 高坂陣内左衛門が資料整理から戻った。十年前の客の契約書を大量にシュレッダーにかけるのは骨が折れるが、彼はそういった細かい作業を率先して行う男だった。
「ああ、起業するから、登記用に住所が必要な場合もあるね」
 陣内左衛門に続いて、休憩から戻ってきた店長、昆奈門も顔を見せる。手にはコージーコーナーの箱を抱えており、「みんなに差し入れだよ」とシュークリームを配りだした。
「店長、休憩室の冷蔵庫に置いておいてくだされば、皆あとで食べますのに」
「陣左、それじゃ食べないじゃない。窓の外から、おじさんたちがシュークリーム食べてるのが見えた方が、敷居が下がるでしょ」
 にこやかにそう言われてしまうと、みな黙って受け取るしかなかった。陣内は羞恥心の方が勝らしく、机の上に一度置いたが、尊奈門はすぐさま袋を開けて食べだした。
「だいたい、なんで新宿なんですかね。雑司ヶ谷とかまで出れば住みやすいし、安いのに」
「そこを教えて差し上げるのがお前の役目だ」
 昆奈門はそう言って、尊奈門の肩を叩いた。尊奈門は内見中に「治安は悪そうですが」など、ひとこと余計なことを言いがちなので、なかなか契約に結び付かない。物覚えは良い方なので伸びしろはあるため、昆奈門は彼の成長を楽しみにしていた。
「とりあえず、さっきのトイレだけの物件を送って、家賃を上げられるか、もしくは場所の範囲を広められるか聞いてみます」
「それがいい」
 陣内は昆奈門の視線に負けて、シュークリームの袋を開けた。自分用に買ったブラックコーヒーと合いそうだ。皆でもぐもぐと食べていると、昆奈門は嬉しそうにうんうんと頷いていた。
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