その他

 三田線に乗る用事があったから、神保町駅で降りた。この街はいつも古本の匂いで満ちている。
 昨日までぱらぱらと降っていた雨はすっかり止み、からっと晴れた日だった。陽射しが着実に夏に近付いている。そろそろ自分も日傘を使用することを考えた方がいいかもしれない。五月だというのに背中に汗が伝う。
 午前中に用事を済ませ、気分は爽快だった。足取り軽く街をぶらついていると、ちょうど腹が空くタイミングでカレー屋が何軒も視界に入った。神保町付近はカレー激戦区で、四百店以上のカレー提供店があるという。学生時代、よく来た道だ。時には古本を片手にカレーを食べた。
 たまたま空いていそうだったので、古風な老舗カレー店に入る。こげ茶で統一された店内はレトロな造りで、ランプの明かりがやわらかかった。奥の席に通され、丁寧過ぎない店員が水を置いて去っていく。
 メニュー表を開き、何種類もあるカレーをずらずらと比べながら、やはりここは王道に一番上のおすすめを食そう、と考えた。シンプルなハンバーグカレー。今の空腹にぴったりだ。店員を呼び、単品にするかランチセットにするか聞かれたので、単品を選ぶ。
 木のテーブル、椅子、窓枠。遠くから聞こえてくる婦人たちの笑い声と、店内に流れるジャズの調べ。まるで何度も通っている行きつけの店かのような心地よさに目を閉じる。店の中を漂う、様々なスパイスの香り。
 カレーを食べたい、と思ったのは、雑渡さんのせいだった。せいというのもおかしい。彼はただ、昨日のランチにカレーを食べていただけだ。休憩室で、タッパーにカレーをなみなみ詰めて持ってきて、レンジでチンをしたから周りに匂いが充満し、さらには少し食べて「まだ冷たい……」と呟いているのが聞こえてしまったものだから、もう、なんとしても近日中にカレーを食べてやると決意したのだった。私はその時コンビニ飯のビビンバを食べており、夜は飲み会の予定があり、すぐさまカレーにありつけなかった。
 目を開けたのと同刻、注文したカレーが運ばれてきた。深皿に、こっくりと深い茶色。真ん中にどん、と置かれたハンバーグから漂う湯気。別皿のライスに、とろっとしたルーをかけて、口に運ぶ。
 うまかった。コクのあるまろやかなトマトの酸味、後から駆けてくるスパイシーさ。ライスは少し硬めで、咀嚼するごとにカレーのじんわりとした辛さと絡み合った。肉はほろほろとやわらかく、旨味が溶けだしている。気が付けば夢中でスプーンを進めていた。ハンバーグの肉汁、噛み応え。腹にどんどんと溜まっていく幸福。汗が噴き出して流れていく。さっき屋外で流した汗はあんなに不快だったのに。
 店員が無言で水を注いでいったが、正直ありがたかった。簡単なあいさつで、口の中に繰り広げられた小さなドラマを解放したくなかった。ゆったり食べようと思っていたのに、あっという間に皿は空になった。
 小さい頃、カレーは特別な食べ物だった。
 小学校の給食ではおかわり争奪戦が必ず行われたし、家庭科実習や修学旅行などのイベント事でもメニューはカレーだった。家の夕飯で出る時は必ず金曜日で、大きな乱切りの人参が甘すぎたことを今でも覚えている。
 雑渡さんのカレーは、どんなカレーだったろうか。今度、一緒にカレーを食べに行きませんか、と誘ってみようか。神保町、おすすめですよ、と。分厚いコップに注がれた水は舌を冷やし、身体の中をリセットしていく。
 帰りに古本屋に寄って行こう。この街の匂いを持ち帰りたくなった。もう帰らなくなった実家のことを思い出しながら、ナプキンで口を拭う。
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