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一幕『春風の帳』

獣道すらも存在しない生え放題の草をかき分け、向かったことのない森の奥へ進んでいく。
どこか不安を感じつつ、前を歩く男にそういえば、と話しかけた。

「……あの、聞き忘れてたんですけど」
「なに?」
「名前。なんて言うんですか?」
「あー……」

男は数秒黙ると、足を止めて僕に向き直った。

「先名乗ってくれたら教えてあげるよ」
「はい?」
「君、名前はなんていうの?」
「こっちが先に聞いてるんですけどー!!」

男の身勝手さにイラっとしつつも、僕は優しいので答える。

「僕は"イル"っていいます」
「あっそう」

男は聞くだけ聞いて踵を返して先に歩き出した。

「ちょっと!?名前教えてくれるんじゃなかったんですか!?」
「"すぐに"とは言ってないからね」

こいつ……都合のいいところだけ……!!
本当にどうして自分はこんな奴についてきてしまったのだろうか。

「つーかよくこんな危ないところに親切心一つでついてきたね」
「僕もそう思うし今すごく後悔してます……」
「本当に。連れがこの森のどっかにいるからついてこなくてよかったのに」
「それを先に行ってくださいよ!……って、この森のどっかって、その人あなたのこと探してたりとか……」
「いや全然。多分迷ってるんじゃないの?」

迷ってたのはどっちかというとあなたの方なのでは?という疑問を飲み込む。
名を教えてくれないこの男にはどうやら"連れ"がいるみたいだ。その連れもこんな奴じゃなければいいんだけど。
この森思ったよりも広いから、連れを探すにしたってこんな森の奥まで行くものなのだろうか。

「あの、お連れ様探すんでしたらこんな森の奥行かなくてもいいんじゃ……」
「え?いやいや……あんな奴探すためにわざわざこんなところまで来ないよ。むしろ置いてく」
「扱いひどすぎやしませんか……って、じゃあなんで森の奥なんか?」
「あー……」

男はまた数秒黙ると、涼しい顔でこういう。

「クマ狩り」
「ふざけてるんですか」

わかった。この人変な間を置いてる時嘘考えてるんだ。わかりやすいな。
「ふざけてないよ〜」と白々しさの混じる声の後、男は歩みを少し早める。

「あ、そろそろひらけた場所に出るかな。多分川だと思うんだけど」
「あれ、そういうのってわかるものなんですか?」
「川なんか音聞きゃわかるよ」

そう言われて耳を澄ませる。聞けば確かに水の流れる音がした。

「あ、本当だ……よくわかりましたね」
「こんなわかりやすいものも聞けないなんてねぇ」
「せっかく感心したのに……余計なこと言わないと気が済まないんですか?」
「あはは〜」

そんなことを言っているうちに、鬱蒼とした草木は数を減らす。
土と小石を踏む感触が強まった時、眩い陽光に包まれて広い空間が僕たちを迎え入れる。
鬱蒼とした草道を抜けた先には大きな川があった。水流は穏やかではあるが底が見えない。
ここまで奥へ来たのは初めてだったため、こんなところに川があるなんて思わなかったな。

「んで〜、どこいきゃいいんだっけ。なあイル、どこ行けばいいかわかるか?」
「僕にわかるわけないでしょ」

引き返せと言うべきか川に飛び込めと言うべきか。

「まあまあそんな冗談は置いといて。この川らへんだと思うんだけどなぁ」

男は辺りを見渡しながら川に近づく。

ここに男のいう"クマ"がいるのだろうか。
そう考えると背筋が少し凍った気がした。小走りで男についていく。

「ここに"クマ"が出るんですか?」
「多分?ここに出るって聞いたからさぁ」
「多分って……というかただでさえボロボロだったあなたが生身でクマと戦えるわけないじゃないですか」
「あー、そうだね。じゃそのシャベルでクマと格闘よろしくね」
「……はい?」

男はにっこりとこちらに笑いかけてきた。
この男……クマ狩りを人に任せるのか。

「い、今からでも戻りましょうよ。僕だってその、力はあるけど流石にクマと戦えるほど強くないですよ!ほら、だって僕子供ですし!」
「え?あー」

笑顔から一転して男は冷たい目でこちらを見る。そして左腕を後ろに回し僕に近づいてきた。

「そういえば一つ言い忘れてたんだけど」

そして左腕を引く。その手に握られていたものは、鋭利な短剣であった。

「実は"クマ狩り"ってのは嘘でさ、別にクマ狩りに来たわけじゃないんだよね」

殺される。

そう思い一歩後ずさろうとしたその時、男はこちらに短剣を投げつけた。
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