二幕『朧月夜の揺籃歌』

……息を切らしながら、途方もない廊下をただ走っている。
すると突き当たりに一つの部屋が見える。急いでその部屋に駆け込んだ。

その部屋はあの廊下には似つかわしくない、現代的でいて生活感にあふれた居間であった。
どこかに隠れるところはないかと辺りを見渡せば、一つの扉に目がいく。それもそのはずだ、居間にあるにはあまりにも異質なのだから。それは重厚な鉄製の扉だったのだ。

ひたひたと歩みを進める音が聞こえてくる。すっかり鉄扉に意識を持っていかれたせいか、気がつけばノブを回し扉の先へと足を踏み込んでいた。鉄扉はひとりでに閉まる。扉の先は真っ暗で何も見えなかった。

微かであるが、誰かの足音が聞こえた。
見つからないように息を殺してやり過ごそうとする。

そして、扉の前でどさりと音がした。

「……」

そのまま静寂が場を支配する。扉は開かれず、足音すらも聞こえない。
ただ、誰かの気配だけはこの扉の向こう側から消えなかった。

「開けて」

扉の向こう側から声がする。

「そこに誰かいるんだろ。もう動けないんだ。だから、早く開けて。お願い」

カリカリと引っ掻く音が聞こえ始める。

「… …痛い。熱い。苦しい。助けて。早く。開けて。早く。早く。早く。助けて。痛い。痛い。開けて。早く」

引っ掻く音は徐々に音を増していく。

「開けて、開けて……早く、開けて。お願いだから、……このままじゃ死んでしまうから、早く、開けて」

声色は段々と弱々しく、しかし悲痛と焦りを滲ませて強く懇願してくる。助けたくても、金縛りのように体が動いてくれない。
声は段々と枯れていく。口数も少なくなっていった。

「……誰か、」

振り絞るように出したその声を最後に、また静寂が場を支配した。
糸が切れたように体から力が抜ける。体が動かせるようになったようだ。
逃げるなら先に進めばいい。だがそれ以上にこの扉の先にいる誰かが気になって仕方ない。力を込めて重い扉を開けると、焦げ臭い匂いが鼻をつんざいた。

扉の先はまた違う光景が広がっていた。そこはただ広い空間……であればどれほどよかっただろうか。そこは見るも無惨な瓦礫の山で埋め尽くされていた。
真っ暗闇な空間を緑が照らす。煙で視界がよく見えず、焦げ臭さの中に何かが焼けた臭いと鉄の臭いが混ざり合っている。それが何であるかなんて想像もしたくないが、思考とは裏腹に目は落とされた。

瓦礫によって引っ掻かれ傷だらけになった床。瓦礫には何かが滴っており、それは緩やかに線を引いて大きな塊に行き着く。
それは、人だった。丸まったまま動かない、人がそこに倒れている。

……それは、まるで、

「これは必要のない夢だよ、"イル"」

そんな声が背後からして、同時に目を塞がれた。意識が暗転する。

……

……一定の振動と何かの音で、ぼんやりと意識が浮上する。
これは……歌だ。誰かが歌いながら、僕の背中を優しく叩いている。
未だはっきりとしない意識で、声の主をその目に映す。

そこにはスズメがいた。スズメは僕が起きたことに気づくと、優しく微笑む。

「起きました?」
「なんだかうなされている様子でしたので……心配になっちゃいました」

と、背中に置いた手を頭に移し、ポンポンと撫でる。
内容を全く思い出せないが、全身を伝う汗からすごく嫌な夢を見たのだと悟る。

「……ごめんなさい。心配させちゃったみたいで」
「いえいえ」

ゆるりと上体を起こす。未だに寝る様子の見えない彼女に申し訳なくなったのか、全く思い出せない悪夢を見てしまったのか寝る気分になれない。

「あの手記にも書いてありましたけど、この国では子守唄をうたう風習があるのです。この国の天使様の趣味みたいなものですけど……不思議と安心して悪い夢を見なくなるんですよ。まあ、私はこの町の中じゃ割と下手な方ではあるのですが……」
「そんなに下手だったかな……」
「誰だったかな……よく下手くそって言われてたんですよね……」

スズメは苦笑を浮かべながらいやに静かな窓の外に視線を移す。
燦然と輝く星々の灯りはこの部屋をぼんやりと照らしているが、どこか物足りなさを感じて仕方ない。

「ねえ、イルさんは愛情ってどういうものだと思いますか?」

窓の外から視線を外さないまま、スズメは問いかけてくる。

「愛情?」
「"ここは安らぎを求める者の国。愛情を求める者の国。その者のために、毎夜揺籃歌を捧げる。"……なんていう天使様の言った言葉があります。この国では、安らぎや愛情を受け取れずに死んでしまった人が住むところ、なんです」

スズメは困ったようにこちらに向き直る。星の明かりのせいなのか、その顔にどこか寂しさを感じさせる。

「私は、その……生前の記憶を覚えている人なんですけど。家が厳しくて、ずっと両親の顔色を窺って生きてきたんです。……最期の日は確か、両親に早く帰ってくるようにって言われていたんだっけかな。それで急いで帰っていた時に事故に遭って死んでしまったのです」
「事故……」
「……今でもふと思う時があるんです。両親は私のこと愛してたのかなぁ、とか。私が死んだって知らされた時両親はどう思ったのかなぁ、とか……死んだ後だから何もわからないし、両親がこちらに来たところで、私のこと覚えてるかなんてわからないですけど」
「……」
「すみません、暗い話しちゃって。でもこれはあくまでも一例で……この国にいる人たちはみんないろんな形の愛情を求めている人たちが身を寄せ合って暮らしているのです。だからこそ、これは3ノ国の住民として気になったのです」
「……そっか」

改めてこの世界が、死んだ人たちが暮らしている世界であると思い知った。記憶のない僕みたいな存在にとっては到底共感することのできない苦しみを、スズメは抱えて暮らしているのだ。
だからこそ寂しいのだろう。形は違えど同じ傷を分かち合った人たちがいなくなってしまったのだから。

「僕は……よくわからないな。愛情っていうのは……記憶がないせいなんだと思うけど。思い出せたらわかるのかな」
「記憶は関係ないと思いますよ。どういうものを愛情だと感じるかは、イルさんの心次第だと私は思います」
「僕の心次第……」
「はい。愛情って結構難しくてもどかしいものですよ。それを本当に愛しているかなんて心の底を見ない限り……いや、心の底を見れたとしても分かりませんから。だから、ゆっくり考えて感じて、自分にとっての愛情がどんなものかを探してくださいね」

目を細めこちらに微笑みかけた。その姿に一瞬誰かが──あの絵画の女性が重なった気がした。思わず目を擦ってみるが、そこにいるのはスズメであり、幻覚を見ていたことに少し申し訳なさを感じた。

「どうかしたのですか?」
「あ、いや……ちょっと眠くなったのかも。スズメさんと話をしたから不安が薄れたのかな」
「そうですか?力になれたのなら嬉しいです。この国、夜はもっと冷えるのであったかくして寝てくださいね」
「うん。スズメさんもね」
「はい、おやすみなさい」
「おやすみなさい」

再度毛布の中に身をうずめると、スズメは再度僕の頭を撫でる。
その手のあたたかさに触れながら、不安と共に意識は薄らいでいった。

……

大きな箱をじっと眺めて呆然と立ち尽くしていた。箱の中を見ることは許されていない。というよりも、見ることができないのが本当のところだ。
中には人がいる。──自分のせいで、死んでしまった人が入っている。
その人は、これから焼かれていくそうだ。最期の別れになるのだから何かを話さないといけない。だが今更謝ることも後悔を語ることもできない。できるわけがない。ぼんやりと箱が扉の向こうへ消えていくのを見た時、居た堪れなくなってその場から逃げ出した。

小さな視界と歩幅で、無限に続く空間をただ走り、誰もいないところにじっと身を潜めた。体が震えて止まらない。泣きたいのに涙は出ない。ただ、泣きたくなるほど寒いと感じた。

「__。」

ふと、誰かが自分を呼ぶ声が聞こえる。顔を見上げればそこには顔のわからない誰か──いや、顔がわからなくてもわかる。自分よりもよっぽど辛い思いをしているだろう、彼がそこにいた。

「……少し、外の空気を吸いに行こう」

そうして彼は、なんでもないような素振りで自分に手を伸ばす。
あぁ、探しにきてくれたんだ。自分のことで手一杯なはずなのに、それでも手を伸ばしてくれるんだ、なんて不思議に思った。
少しの躊躇いの後、その手を取る。彼の言葉とその手はいやになるくらい暖かく感じた。


──あぁ、思い出した。あの時鮮明に痛んだ記憶を。
事故に遭った。こちらに向かって走ってくる車があって、轢かれると思ったその時に強く突き飛ばされて、振り返ったら突き飛ばした男が潰されていたのだ。それで、誰かに助けて欲しくて、逃げたくて、縋りたくて、人混みをかき分けた。あの時捕まれた手の暖かさは、今見ている夢と同じものだ。

顔も名前もわからない彼は誰なのだろう。何もわからない、わからないけれど。
助けてあげたいなんて、守りたいなんて、子供っぽいと笑われるような願いを漠然とした気持ちで思った。

淡い光が差し込むと共に緩やかに意識は浮上する。
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