一幕『春風の帳』
階段を降りると、嗅ぎ慣れた美味しそうな匂いがした。
食卓をみればそこには食事がたくさん置かれており、椅子にはおばさんが座っていた。おばさんはこちらをみると安堵の表情を浮かべてこちらへと歩み寄ってくる。
「イルちゃん、おはよう。痛いところはないかしら?」
「おはようございます。大丈夫ですよ!寝て全快しましたから!……あと、心配かけさせちゃってすみません」
「いいのよ、こうして元気になってくれたのなら。ほら座って、お腹すいたでしょう?」
おばさんはいつもと変わらない、優しい微笑みを向けてこちらに手招きをしてくる。それに誘われるように席についた。
「ほら、たくさんお食べ」
「ありがとうございます。いただきます」
パンを一口かじる。いつも通りの美味しい味だ。
「昨日はごめんね。まさかボロボロに気絶した状態で運ばれてきちゃうなんて思わなくて」
「あ、いえ!おばさんが謝ることじゃないですよ!深入りした僕が悪いし、今こうして元気にご飯食べてるし元気ですよ!」
「そう?それなら良かったわ……イルちゃんに稀人さんがついててくれて助かったわぁ……」
「……"稀人"さん?」
その言葉に引っ掛かりを覚えて思わず聞き返してしまった。
「えーと……その稀人さんってもしかして……」
「ええっと、さっき家から出て行った包帯を巻いていた男の人のことね」
「……え」
あまりにも衝撃的すぎて思わず言葉を失った。
確か稀人って、ここで死んだら"あっちの世界"でも死ぬんじゃなかったっけ。
──無理だと感じたらとっとと逃げるんだぞ。お前は死んだら終わりなんだから
あのウリの言葉の意味が今わかった。そうか。稀人なのかあの人。
「え、稀人!?稀人なのにあんな危ないやつと!?」
「ん〜……あの稀人さんちょっと変わってて、何でも屋?をやっているらしくて。それでザド様が退治してって彼に頼んだそうよ」
「何でも屋……あ、あ〜……だからザド様は注意して回ってたんですね……」
そういえばそんなこと言ってたな。
あはは、とおばさんは苦笑いをした。そしてカップに口をつけて紅茶を飲み込む。
「それで、稀人さんから聞いたけど、イルちゃん旅に出るんだっけ」
「え?あ……うん……」
一つ咳払いをし、背筋を伸ばしておばさんに向き直る。
「旅に出ます。記憶がないから、それを思い出せるように。だから、その……」
「うん。いってらっしゃい」
おばさんはいつもと変わらない柔らかな微笑みを浮かべる。
「おばさん、いつでも待ってるから。何か悩んでることとか、帰ってきたくなったらいつでもおいで」
「……!!」
今までありがとうございました、という言葉は無粋だろう。
「はい。ありがとうございます!全部分かったらまた戻ってきますね!」
「うん。いい笑顔。じゃ、元気に戻ってこれるようにたくさん食べてね」
「はい!」
おばさんは、記憶のない僕を助けてくれてずっと家に住まわせてくれた人だ。また何かあったらお世話になるかもしれない。
でも助けられっぱなしもやだな。記憶が戻ったら絶対何かの助けにならなきゃ。
……
ご飯を食べて、旅支度をしている途中、おばさんが「そういえば」と僕に鞄を渡してきた。
「あ、イルちゃん。これ。天使様からの贈り物」
「……鞄。ザド様から?」
「ううん。あの稀人さんと一緒にいた天使様」
「…………はえ??」
ウリのことか……あの人天使様だったんだ。
思わず間の抜けた声が出てしまった。
「え、ちょっと。もらっていいものなんですか?」
「イルちゃんにって渡されたからいいんじゃないかしら?」
「う……ありがたく使わせていただきますか。あはは」
少し大きめの肩掛け鞄。中は底の見えない真っ暗闇が広がっている。不気味だ。
その鞄に色々詰め込んでみる。小さなものから大きなものまで、まるで鞄の中に吸い込まれるようになんでも入ってしまった。鞄に手を入れると入れたものの感触がしっかりと伝わってくる。
「え、えぇ……?すご……こんなに入れて重くないのかな……」
「大丈夫じゃないかしら」
「そうかな……」
半信半疑になりながらも鞄を肩にかけて持ち上げる。
あんなにものを詰め込んだのに、感じるのは中身のない鞄の重みだけだった。
「わ……すごい。全然軽い」
「うん。よく似合ってるわ」
支度ができればいよいよ旅に出ることになる。玄関先までおばさんは送ってくれる。
「じゃあ気をつけてね。ご飯はちゃんと食べてね。怪我しないようにね。無理しないようにね」
「わかってるよ……おばさんも、元気でね」
「うん。……ほんとはちょっとさみしいから、戻ってこれる時に戻ってきてね」
「うん。わかった」
玄関の扉を開ける。柔らかい陽光が出迎えてくれる。
「じゃあ、いってきます!」
寂しさを感じる暇はない。僕にはやるべきことがあるのだから。
駆け足で街に出る。広間へ向かうとあの二人がいた。
「あれ、随分と遅かったねぇ」
「急かしたのはそっちでしょ!」
「あぁ、来たのか」
いつも通りヘラヘラしているニトと、それとは真逆に……真顔の天使様がいらっしゃる。
「あ……う、ウリ様!これ!鞄、ありがとうございます!」
「急に堅苦しくなったな」
「え、いや……あはは。天使様とは知らず……」
慌ててかしこまる僕を見てウリはため息をつき、
「オレのことはウリでいい。そうされる方が気持ち悪いから今まで通りでいいぞ」
と、少し困った顔で言い放った。
「へ……?あ、わ、わかった。ウリ、よろしくね」
「ん」
「俺もタメでいいからね〜」
「……ハナからそのつもりだけど」
「そう?それならそれで〜!イルちゃんよろしくね?」
「……」
これからこの二人と旅をするのか。なんか不安だな。
だけど、これからどうなるのだろうか。妙な胸騒ぎと好奇心が疼いて仕方がない。
「あれ?返事は?」
「え?あ、ごめん聞いてなかった」
「なんで?」
「……まあ、行くんだったらとっとと行こうぜ」
「あ、そうだね!ウリ、行こっか!」
「ちょっと!二人とも俺のこと無視しないでよ!!」
こうして、自分の記憶を取り戻すための長い旅が幕を開けたのである。
食卓をみればそこには食事がたくさん置かれており、椅子にはおばさんが座っていた。おばさんはこちらをみると安堵の表情を浮かべてこちらへと歩み寄ってくる。
「イルちゃん、おはよう。痛いところはないかしら?」
「おはようございます。大丈夫ですよ!寝て全快しましたから!……あと、心配かけさせちゃってすみません」
「いいのよ、こうして元気になってくれたのなら。ほら座って、お腹すいたでしょう?」
おばさんはいつもと変わらない、優しい微笑みを向けてこちらに手招きをしてくる。それに誘われるように席についた。
「ほら、たくさんお食べ」
「ありがとうございます。いただきます」
パンを一口かじる。いつも通りの美味しい味だ。
「昨日はごめんね。まさかボロボロに気絶した状態で運ばれてきちゃうなんて思わなくて」
「あ、いえ!おばさんが謝ることじゃないですよ!深入りした僕が悪いし、今こうして元気にご飯食べてるし元気ですよ!」
「そう?それなら良かったわ……イルちゃんに稀人さんがついててくれて助かったわぁ……」
「……"稀人"さん?」
その言葉に引っ掛かりを覚えて思わず聞き返してしまった。
「えーと……その稀人さんってもしかして……」
「ええっと、さっき家から出て行った包帯を巻いていた男の人のことね」
「……え」
あまりにも衝撃的すぎて思わず言葉を失った。
確か稀人って、ここで死んだら"あっちの世界"でも死ぬんじゃなかったっけ。
──無理だと感じたらとっとと逃げるんだぞ。お前は死んだら終わりなんだから
あのウリの言葉の意味が今わかった。そうか。稀人なのかあの人。
「え、稀人!?稀人なのにあんな危ないやつと!?」
「ん〜……あの稀人さんちょっと変わってて、何でも屋?をやっているらしくて。それでザド様が退治してって彼に頼んだそうよ」
「何でも屋……あ、あ〜……だからザド様は注意して回ってたんですね……」
そういえばそんなこと言ってたな。
あはは、とおばさんは苦笑いをした。そしてカップに口をつけて紅茶を飲み込む。
「それで、稀人さんから聞いたけど、イルちゃん旅に出るんだっけ」
「え?あ……うん……」
一つ咳払いをし、背筋を伸ばしておばさんに向き直る。
「旅に出ます。記憶がないから、それを思い出せるように。だから、その……」
「うん。いってらっしゃい」
おばさんはいつもと変わらない柔らかな微笑みを浮かべる。
「おばさん、いつでも待ってるから。何か悩んでることとか、帰ってきたくなったらいつでもおいで」
「……!!」
今までありがとうございました、という言葉は無粋だろう。
「はい。ありがとうございます!全部分かったらまた戻ってきますね!」
「うん。いい笑顔。じゃ、元気に戻ってこれるようにたくさん食べてね」
「はい!」
おばさんは、記憶のない僕を助けてくれてずっと家に住まわせてくれた人だ。また何かあったらお世話になるかもしれない。
でも助けられっぱなしもやだな。記憶が戻ったら絶対何かの助けにならなきゃ。
……
ご飯を食べて、旅支度をしている途中、おばさんが「そういえば」と僕に鞄を渡してきた。
「あ、イルちゃん。これ。天使様からの贈り物」
「……鞄。ザド様から?」
「ううん。あの稀人さんと一緒にいた天使様」
「…………はえ??」
ウリのことか……あの人天使様だったんだ。
思わず間の抜けた声が出てしまった。
「え、ちょっと。もらっていいものなんですか?」
「イルちゃんにって渡されたからいいんじゃないかしら?」
「う……ありがたく使わせていただきますか。あはは」
少し大きめの肩掛け鞄。中は底の見えない真っ暗闇が広がっている。不気味だ。
その鞄に色々詰め込んでみる。小さなものから大きなものまで、まるで鞄の中に吸い込まれるようになんでも入ってしまった。鞄に手を入れると入れたものの感触がしっかりと伝わってくる。
「え、えぇ……?すご……こんなに入れて重くないのかな……」
「大丈夫じゃないかしら」
「そうかな……」
半信半疑になりながらも鞄を肩にかけて持ち上げる。
あんなにものを詰め込んだのに、感じるのは中身のない鞄の重みだけだった。
「わ……すごい。全然軽い」
「うん。よく似合ってるわ」
支度ができればいよいよ旅に出ることになる。玄関先までおばさんは送ってくれる。
「じゃあ気をつけてね。ご飯はちゃんと食べてね。怪我しないようにね。無理しないようにね」
「わかってるよ……おばさんも、元気でね」
「うん。……ほんとはちょっとさみしいから、戻ってこれる時に戻ってきてね」
「うん。わかった」
玄関の扉を開ける。柔らかい陽光が出迎えてくれる。
「じゃあ、いってきます!」
寂しさを感じる暇はない。僕にはやるべきことがあるのだから。
駆け足で街に出る。広間へ向かうとあの二人がいた。
「あれ、随分と遅かったねぇ」
「急かしたのはそっちでしょ!」
「あぁ、来たのか」
いつも通りヘラヘラしているニトと、それとは真逆に……真顔の天使様がいらっしゃる。
「あ……う、ウリ様!これ!鞄、ありがとうございます!」
「急に堅苦しくなったな」
「え、いや……あはは。天使様とは知らず……」
慌ててかしこまる僕を見てウリはため息をつき、
「オレのことはウリでいい。そうされる方が気持ち悪いから今まで通りでいいぞ」
と、少し困った顔で言い放った。
「へ……?あ、わ、わかった。ウリ、よろしくね」
「ん」
「俺もタメでいいからね〜」
「……ハナからそのつもりだけど」
「そう?それならそれで〜!イルちゃんよろしくね?」
「……」
これからこの二人と旅をするのか。なんか不安だな。
だけど、これからどうなるのだろうか。妙な胸騒ぎと好奇心が疼いて仕方がない。
「あれ?返事は?」
「え?あ、ごめん聞いてなかった」
「なんで?」
「……まあ、行くんだったらとっとと行こうぜ」
「あ、そうだね!ウリ、行こっか!」
「ちょっと!二人とも俺のこと無視しないでよ!!」
こうして、自分の記憶を取り戻すための長い旅が幕を開けたのである。