境界線[上]

「襧豆子」
顔を上げた襧豆子が一瞬驚いた表情をするも、すぐに安堵の表情に切り替わる。

「無一郎くん」

「お昼食べないの?」
正面に座って向かい合う。まだランチクロスすら開かれてない弁当箱がポツンと傍らに置かれている。行き場なく机に置かれた小さな手が、ひどく心細げに目に映った。

「真菰ちゃんが帰ってきたら食べようかと思って。それに…」言いかけて、すく気まずそうに口を噤んだ。

落ちつかないと言っていいのに。
正直迷惑極まりないだろうに。

自然とため息が一つこぼれた。

「………はぁ」

「………あはは…」

「人が良すぎじゃない?」

「別にそんなことはないけど…」
一言でも迷惑だと言ってくれたら、あんな奴ら蹴散らしてやるのに。争いごとを好まないお人好しな彼女は、きっと嫌がるに違いないから我慢するけど。


それでもこの状況は、自分にも襧豆子にもいいものだとは言えない。ちらりと横目で野次馬たちを見やる。すぐ正面には、また俯いてしまった好きな女の子。

野次馬たちへのいらつく感情を隠し、襧豆子の弁当箱へ視線を向けた。

「襧豆子。今日のおかずなぁに?」

「え…お弁当の?」
「うん」

「ほとんどいつもと一緒だよ。卵焼きとか、唐揚げ、後は晩ごはんの残り物とか」

そう言って、やっと襧豆子はランチクロスの結びをときだした。見せてくれた手作り弁当の中身には、自分の好きな大根の煮物も入っていた。すぐさま悪戯心が反応する。

「あ、大根」
「ふろふき大根ではないよ?」

「いいの。ね、それ一つちょうだい?」

「いいよ。無一郎くん、お弁当箱持ってくる?それに入れようか」

「ううん。いらない」
そのまま襧豆子の華奢な手首を引き寄せた。煮物を摘んだままの箸先を口元へ持ってくると、だしの効いた大根の匂いが鼻をかすめる。口に含むと、やわらかくて甘い味が口内に広がっていく。目の前の彼女が顔を真っ赤にしてわなわなと震えている中、野次馬の方からは悲鳴に近い声が上がっていた。
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