境界線[上]

「襧豆子ちゃんってさ、本当のところはどっちが好きなの?」

慣れ親しんだ名前が聞こえて、思わず手が止まる。忘れ物を取りに教室へ戻ってきたというのに、入口の取っ手を前にして体が動けなくなった。

付き合ってくれた兄さんにも、きっと中の声が聞こえていたに違いない。僕の隣で息を殺し、静かに立っていた。

『襧豆子』
その名前を呼ぶ声は、クラスメイトの真菰だった。襧豆子が中にいるということ。何より気になるのは、会話の中に混じっていた"好き"という言葉。

胸がドクドクと早鐘を打ち始める。

襧豆子、好き、どっち──。

───どっち?

流れるように兄へ目を向けると、同じ顔と目が合った。


「どっちって…?」

「だから、有一郎くんと無一郎くん。襧豆子ちゃん、二人と仲良いでしょ?実際、本命はどっちなのかなぁと思って」

茜色に包み込まれた教室。机を挟み、向かい合って椅子に座ってる襧豆子と真菰が想像できた。

盗み聞きなんて趣味が悪い。
けど、自分たちの名前が出てきてしまった以上、入りづらいことこの上ない。

知りたい聞きたくない知りたい怖い知りたい。

様々な感情が胸の中で渦を作りだす。しかし自然と自分たちの耳は、襧豆子の答えを今か今かと待ち望んでいた。




「二人はそういうんじゃないよ。幼なじみだから」

そこに嘘や誤魔化しは一切感じられなかった。ただの世間話を明るく話すように、彼女はそう答える。

その後のことはよく覚えていない。
今でも心に残っている、痛くて苦い記憶。
僕と兄さんが、気持ちを伝える前に失恋したのは中等部の頃だった。
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