あの日のヒーロー

火照った頬に荒い息づかい。苦しそうに床に伏せている母さんの脇で、父さんが氷枕を取り替えているのを黙って見ていた。

ある日の夏休み。
昨日から母さんの調子が悪くて、案の定夜中に高熱を出した。起き上がるのもしんどいらしく、今日は一日中寝込んでいた。弟の無一郎は母さんの枕元に座り、ずっと心配の言葉をかけ続けている。

しんどいのにあまり喋らせるな。そう言って近づくと、無一郎は心配からか目に涙を浮かべていた。

泣き虫な奴。
泣いたって母さんが良くなるわけでもないだろ。言いかけてやめた。言ったらまた泣きそうだったからだ。

食欲がないという母さんは、今朝から何も口にしていないようで、父さんが作っていたお粥がさみしそうに鍋の中に余っている。

「…母さん、何だったら食べてくれるかな」
無一郎がぽつりとつぶやいた。

「ゼリーとかプリンとか…じゃないか?」
風邪のときに食べそうな物を頭で並べてみる。母さんの様子を見る限り、それすら食べるのも難しそうな気はするが。しばらく考えこんでいると、そうだ!と無一郎が声を上げる。

いいこと思いついたって顔に書いてあるが、期待はしないでおく。

「母さん、竈門ベーカリーのパン好きだったでしょ?あのお店のパンだったら食べてくれるんじゃない?」

「………絶対食べないだろ。なんでしんどいときにパンなんだよ」やっぱりなと内心で思った。でも、確かに竈門ベーカリーのパンは母さんの大好物だ。父さんがたまにあそこの店のパンを買ってきてくれると、いの一番に飛びついてるのはいつも母さんだ。

「…前に、竈門ベーカリーのパンなら毎日でも食べれるって言ってたよ」

「いや病気のときは別だろ」

「…そうかな」
目に見えてがっくりと項垂れた。いい案だと思ったのになって顔に書いてある。こいつなりに母さんに何かしてやりたいんだろうな。弟はそういう奴だ。

眠っている母さんを見やると、まだ顔は赤く熱は高そうだが、呼吸はもう安定しているようだった。

「…無一郎。正月にもらったお年玉、まだ余ってるよな?」そう言うと、曇っていた表情がみるみるうちに晴れだしていった。
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