夏の誘惑

「…っ…ごめん…!やっぱり離れる…」
「それはだめ」
身を離そうとした彼女の気配を感じ、抱きしめる力を強めた。やはり今の自分たちはカップルに見えているらしい。好奇の目にさらされ、沸き起こる羞恥に耐えかねる様子だった。

今の彼女の姿を誰にも見せるわけにはいかない。自分はそれしか頭になく、他の者からの視線はどうでもよかった。腕の中にいる彼女の体は、想像以上に弾力があって、華奢なのに抱き心地がいい。それでも、僕が本気を出したら骨まで折れるんじゃないかと思う。頭しか見えない襧豆子の髪は、先ほど海に潜ったのに、もう乾いてきている気がする。

「………でも、バカップルなんて言われちゃった」
「別にいいじゃん。そう思われても」

「よくないよ。カップルじゃないし…私はともかく、無一郎くんまで嫌な目で見られるのは…」

「…襧豆子となら、僕はバカップルでも何でもかまわないよ」そう言う自分の声は、うわずっていたかもしれない。海を楽しむ人々の声がやけに大きく聞こえて、自分たちを冷やかしている声なのかと思った。ゆっくりと襧豆子の顔が持ち上がる。

「………え?」
聞き間違いだったのかと確認するような、それでいて気の抜けた返事だった。

「恥ずかしいなら、顔隠しときなよ。僕は平気だから」少しでも肌を隠そうと、中央に寄せられた胸。引っ張られるように谷間へ向かおうとする視線を、空へと投げる。

短い沈黙の後「ありがとう」と彼女のささやく声が、かろうじて聞こえた。僕の胸にすり寄るようにして、襧豆子の吐息が肌に当たる。こんなに近くにいるんだ。僕の心臓の音は、彼女に聞こえているかもしれない。

太陽が眩しいのに、今は下を向けなかった。
彼女もまた、今は顔を上げなかった───。
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