夏の誘惑

*襧豆子side*

海水から漂う塩の匂いが、鼻をツンとさす。立っていた岩から、そっと飛び立つように足を前へ出した。そうすると完全に足のつかない状態になって、その不安感に海で溺れる自分を想像してしまう。体をくぐらせた浮き輪を強く掴んだ。

「大丈夫だよ。ちゃんとついてるから」
「うん…ありがとう」

浮き輪を掴んだ手に、無一郎くんの手が被さっていた。骨ばった手の甲が海で濡れて、白く光る。不安感を安心感に変える魔法の手のようだった。水中で足を動かしていても、無一郎くんが引いてくれる力の方が強い気がする。私が怖がらない速度で、海面をずんずん進んでいく。
照りつける日差しが肌の露出した上半身を熱く包んで、それが海の水温を気持ちよく感じさせた。

「怖くない?」
「大丈夫。無一郎くんがいてくれてよかった…気持ちいいね、海」

「入ってよかったでしょ?」
「うん。海の中もきれい」

泳いでる振動で水面が揺れる。中をのぞくと、足より奥には岩場が見え、小魚が泳いでいるような影がうっすらとあった。無一郎くんがいる安心感が、練習成果を発揮させようと私に自信をくれる。

「…ちょっと海の中見てみようかな」

「えぇ?潜るの?」
「顔はつけれるようになったから」

「貸してくれる?」と訊ねると、無一郎くんが首にかけていたゴーグルを渡してくれた。浮き輪から体を抜け出し、無一郎くんに支えてもらいながら水に浮かぶ。装着したゴーグル越しに、少し心配そうな彼の表情が映った。
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