夏の誘惑

「泳ぐの苦手なのに、今日海に来てくれたの?」まだ笑みが止まらない僕を、襧豆子はおもしろくなさそうに見つめる。パラソルによって生まれた影の中に、風が入ってきた。ふたつのポニーテールが揺れて、目の前に広がる海へ話しかけるように、彼女が話しだす。

「夏休み中に、お兄ちゃんや善逸さんたちとプールに行ったの。そこで泳ぎ方を教えてもらったから、今日は大丈夫と思ったんだけど…」

「………………え?」
「やっぱりプールと海じゃあ全然違うね。海の方が危険も多いし、怖気ついちゃった」

「ちょっと…まって。プール行ったの?善逸たちと?」
「?うん。善逸さんが誘ってくれてね。私はプールの端っこで潜る練習とかしてたんだけど、伊之助さんとカナヲちゃんの競泳なんてすごかったんだよ。おにいちゃんや善逸さんも泳ぐの速いし…あ、でもおにいちゃん、教えるのはあまり上手くなくてね…ふふっ」

炭治郎の独特ともいえる教え方は容易に想像がついてしまう。基本的には擬音のみで説明されるから、あれを解読できるのはやはり兄妹でも難しかったか…。

「───じゃなくて!」
「えっ?」

重要なところを知りたくて、自然と声を張り上げていた。波の音が僕と襧豆子の間に割って入ってきて、すぐに熱い空気へ溶ける。

「そ、その水着で行ったの?プール…」

「?うん、この水着で行ったよ」
「………泳ぎ方って…」

誰に教えてもらったの?そう聞きたかったのに訊けなかった。たぶん兄ではない別の男の名が、彼女の口から出てきそうだったから。強引に彼女の手を取ってしまいそうな手は、勢いを落とさず自然と浮き輪を手にしていた。

「襧豆子、一緒に海行こう。僕が浮き輪引いてあげるから」

「え…そんなの、無一郎くんが楽しめないよ。私についてたら満足に泳げないと思うし…」

「せっかく来たんだから、襧豆子も楽しもうよ。それに僕と一緒なら怖くないでしょ?」

申し訳なさそうな表情を浮かべた後、ゆっくりと戸惑いがちに彼女の口角が上がっていった。

「………うん」

立ち上がった襧豆子が上着を脱ぎだすと、僕はまた情けなく目をそらした。
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