自覚 〜襧豆子の場合〜

「襧豆子、おつかれさま」
訓練の時間がおわり、掃除を始める準備をしていると、兄から声がかかった。

「お兄ちゃんもおつかれさま」
隊士たちが順に道場を出ていく中、無一郎くんの後ろ姿を見つける。

無一郎くんもおつかれさま。
なんて、声をかけられたらいいのに。

もどかしい気持ちを抱えていると、兄が無一郎くんに向かって威勢よく声をかけた。

「時透くん!おつかれさま!」
気づいた無一郎くんが振り返り、兄に手を振っていた。

………私も振り返していいのかな。

手を振る兄の隣で、勇気をだして手を上げようとしたけれど。まるで手首に紐でも巻きついて、下から引っ張られてるように持ち上がらなかった。

「時透くん、また後で」
彼を見ることもできずうつむき加減にいると、ふとしたことに気づいてしまう。

…お兄ちゃんって、時透くんって呼んでるの?
私は…普通に下の名前で呼んでいるけど、いいのだろうか。

なにを今更な話をしてるんだろう。
本当に今更すぎて、思わず自分につっこんだ。

無一郎くんは同い年だし、別に名前で呼んでも不思議じゃないかもしれないけど、階級は柱だ。つまり目上の人にあたる。兄が苗字で呼んでいるのに、それにならった方がいいのではないか。

鬼だった頃に『むいちろう』と教わったから、その名残りで今もそのまま呼んでいる。

でも善逸さんだって義勇さんだって、名前で呼んでるわ…うん。でもなんで無一郎くんだと、こんな気持ちになるの…?

くん付けが駄目なのだろうか。無一郎さんって呼ぶべきだろうか。でも、今更なんだって、思われてしまいそう。名前の呼び方なんて気にしたことないのに…なんでこんなに意識してしまうんだろう。

おさまっていた体温が、またじわじわと上昇してくる。

頭を抱えたくなった。
体が、頬が、胸が熱い。

言い表せない感情を処理できず、うずくまってしまった頃には、もう無一郎くんの姿はなかった。ただ兄にいらぬ心配をかけてしまっただけで、結局その後も無一郎くんに話しかけることはできなかった。
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