神室町にほど近い町の小さなアパートで暮らす可那子にとって、同居人である桐生は命の恩人だった。


数年前に遭った事故で大量出血し瀕死の状態だった可那子に血を分けてくれたのが、たまたま近くにいた桐生だった。

朦朧とした意識の中で見た朧気な記憶を頼りに名も告げずに去った桐生を捜し出した可那子は、それからほどなくして桐生と共に暮らし始めた。


お礼をしたい可那子とそれを頑なに受け取らない桐生の攻防戦の末、桐生が根負けしたのがきっかけだった。

ただ、愛し合っている、付き合っているといった感じではなく、あくまでも同居人というスタイルではあったのだが。


その可那子を桐生に紹介された時から、大吾は可那子を好きになっていた。

日に日に大きくなっていく想いを抑えつつ、しかし可那子もまた大吾には心を許し、ふたりの距離は急速に近付いていった。





「俺たち、付き合わないか」

そんなある日、大吾がそう切り出した。


しかし当然OKだと思っていた可那子の口から出たのは、意外な言葉だった。

「あたしには、桐生さんが…」


「だが、桐生さんとは付き合ってないんだろ？」

大吾がすぐさま訊き返すと、

「どうして、そう思うの…」

可那子は小さく答えて俯いてしまった。


この時ようやく、大吾は可那子と桐生が男と女の関係なのだと理解することになるのだが――…


「どう、して…っ」

今までそんな素振りなどいっさい見せず、大吾ともこうしてふたりで逢っていた可那子の言葉に納得出来ない大吾は

「や…っ！堂島さ、はなし…、んぅ…っ」

可那子の体を強引に抱き寄せ、無理やりその唇を奪った。


「…っは、やめ…ど、じまさっ、…っ！」

大吾の胸を叩き抵抗する可那子だったが、抱きしめられ顎を掴まれるその力には到底敵わず口内を犯され、その頬に涙が伝った。


唇が離れると同時に緩んだ腕から解放された可那子は、ふらりと数歩後ろに下がった後、大吾の方はいっさい見ないまま踵を返し駆け出そうとする。


「すまない、可那子…っ」

大吾は慌ててその腕を掴むが、

「離して…！」

その手を振りほどき、可那子は走り出した。


その強い拒絶に、大吾は可那子を追うことができない。


涙が止まらなかった。

この時可那子の頭にあったのは、桐生には知られてはいけない、ということだけだった。

泣いたことも――…、泣いた、理由も。





＊＊＊





その日から可那子は、不自然なほど自然に大吾を避け続けた。


桐生には悟られていないと思っていた。

桐生が『付き合おう』と言ったのがいつだったかを考えれば、桐生が気付いていないはずはないと気付けたはずなのだが、そこまでは考えが及ばなかった。

桐生と可那子が付き合い始めたのは――…大吾と可那子が仲良くなり始めた頃、だったのだから。


しかし当然のことながら、大吾の予定を100％把握できるわけじゃない。


この日神室町ヒルズに桐生と食事に出かけた可那子は、避け続けていた大吾を遠目に見つけてしまう。

どくんと心臓が脈打ち、そしてぎゅうと締めつけられるように苦しくなる。


幸い桐生はまだ大吾に気付いてはいなかったのだがそれでも、桐生に気付かれないようにする余裕すらなく混乱した可那子は

「桐生さ、ごめんなさい…少し、気分が…」

聞こえるか聞こえないかくらいの声で言って、踵を返し走り出す。


「可那子！？」

「おや、桐生じゃないか」

「…っ、弥生姐さん…」

可那子を追おうとした桐生を引き止めた声の主は、渡世の親だった堂島宗兵の妻である弥生だった。


さすがに弥生を無視してまで可那子を追うわけにはいかず焦る桐生。

と、そこにまさに渡りに船のごとく通りがかったのが秋山だった。


秋山も桐生に気付くが、同時に弥生の姿もみとめて会釈をするに留めた。

しかし弥生に失礼なのを承知の上で桐生はその秋山を捕まえ可那子を頼む、と小さくひとこと告げた。


あまりにも一瞬のことですぐに弥生に向き直ってしまった桐生に訊き返すこともできない秋山だったが、それでもなんとなく何かを察しとにかくまずは可那子を捜しに行くことにした。





＊＊＊





可那子はヒルズを出た所のベンチに所在なげに座っていた。


「見ーつけた。どしたの？桐生さん心配してたよ？」

言いながら秋山がすとんと横に座ると、

「秋山さ…」

最初驚いて見開かれた瞳から、こらえていたらしい涙が一気に溢れ出しぽろぽろとこぼれ落ちた。


「本当にどうしちゃった？」

ハンカチを差し出しながら心配そうに訊く秋山に可那子はふるふると首を振り、小さく答えた。

「桐生さんには…泣いてたこと、言わないでください…」


ハンカチで目を押さえて、止まらない涙をそれでも可那子はこらえようとする。


桐生と付き合い始めたことは聞いていた。

本来なら幸せな毎日を送っているはずなのに、今の可那子は到底そんな風には見えない。

抱え込んだ何かに押しつぶされそうな可那子を、秋山は見ていられなかった。


「ね、俺でよかったら話してみない？話すだけでも楽になると思うからさ」

秋山は可那子にそう訊き、小さく頷いた可那子を連れてゆっくり話すためスカイファイナンスへと場所を移した。





＊＊＊





「少し落ち着いた？」

「はい、ありがとうございます…」

出されたコーヒーをひと口飲み、ようやく可那子は小さく息を吐いた。


しかしそのまま言葉を続けようとしては、それを飲み込む。


「ゆっくりでいいよ。もちろん話したくなければそれでいいんだし」

秋山はそんな可那子の様子を見てそう言い、優しく笑って見せる。


そのやわらかな笑みに安心した可那子は、同時にここ最近誰にも言えず苦しかった気持ちを思い出した。

「…あたしは、桐生さんが好きです。命の恩人だし、だけどそんなの関係なく優しいし…」


まずこぼれ落ちた言葉に秋山はうん、と頷いた。


「なのに、ある人に付き合わないかって言われて…心が揺れたのが、分かったんです…」

俯いたままゆっくりと言葉を紡ぐ可那子。

「もちろん桐生さんがいるからって言いました。けど、…その人にキスされて…、あの、それが…イヤじゃ、なくて。…っ、」


「イヤじゃなかったことに罪悪感を感じて…苦しかったんだね」

「…、はい…」

言いたかった言葉を補完してもらった後、可那子は申し訳なさそうに少しだけ上げた顔をまた俯かせた。


そっか、と小さく呟いた秋山はこの時点で、可那子の言うその男が誰なのか見当がついていた。

可那子がその男と仲がいいことも知っていたから。


だから秋山はこれは答えたくなければ答えなくていいんだけど、と前置きしその問いを口にした。

「その人って、…堂島さん？」


瞬間、可那子の肩がびくりと大きく跳ねた。

同時に両手で口もとを覆う可那子の見開かれた瞳に涙が滲み、大粒の雫となって次々とこぼれ落ちる。


ああ、これは本気だよ…

その涙を見て秋山はそう悟った。

同時に少しだけ、困ったなとも思う。


桐生のことも大吾のこともよく知っているから。

ふたりとも懐の深い大きな愛を持っていることを知っているから。

頑張れとか諦めろとかましてやどちらを選べとか、秋山には言えるはずもなかった。


「ごめんなさい、少し、待ってくださいね…」

そう言って可那子は止まらない涙を拭う。


秋山は何も言わず立ち上がると、冷めきったコーヒーの入ったカップを持ち流し台に向かった。





コーヒーを淹れなおして戻った時、可那子の涙はようやく止まっていた。


「聞いてもらえて、本当に少し楽になりました。ありがとうございました」

可那子がそう言ってぺこりと頭を下げるが、秋山は申し訳なさそうに返す。

「いや、全然力になってあげられなくてごめんね」


「いえ、答えは結局自分で出さなきゃいけないのは分かってますから…。でも、またお話聞いてもらっていいですか？」

しかし首を横に振った可那子の気丈な笑みに、

「俺で良ければいつでもおいで」

秋山もそう言って笑って見せた。


秋山からのフォローもあり、桐生からはあまり心配させるなと少し叱られただけで済んだ可那子。

しかしその後すぐに後を追えなかったことを謝られ、大恩ある方に会ったのだから当然のことです、と笑って見せた。





＊＊＊





その夜食事を済ませ可那子の淹れたコーヒーを飲んでいた桐生が、ああそういえばと思い出したように口を開いた。

「弥生姐さんと会った後大吾にも会ったんだが…」


ぴくり、と可那子の肩が揺れるのを見ないふりで桐生は続ける。

「来週、見合いするそうだ」


桐生の口から告げられた衝撃の事実に、目の前が暗くなるのを感じた。

その後、そうですか、となんとかそれだけ絞り出し可那子は必死で平静を装った。


そしてそんな可那子を桐生はその日から毎晩抱いた。


最低なことをしていることくらい百も承知だった。

自分から言ったことはないが、桐生が命の恩人だと痛いほど理解している可那子が拒めるはずがないことを分かった上での行為だったのだから。


それでも桐生は可那子を抱いた。

自分を刻みつけるように、――何かを、確かめるように。





＊＊＊





やがて大吾のお見合いの日がやって来た。


桐生より少し早くその腕の中から体を起こした可那子は、そっとベッドを抜け出す。

そして、いつものようにコーヒーを淹れている時だった。


「言いたいことがあるんじゃないのか」

桐生が可那子の背中に問いかけた。

「それは今日…いや、今言わないと後悔することじゃないのか」


桐生は振り返れない可那子の背中に向かって言葉を続ける。

「俺は後悔しないように生きてきた。10年間刑務所に入ったことも、後悔はしていない」


「桐生、さん…」

驚くほど優しいその声に可那子が振り返ると、桐生は可那子の髪をそっとなでた。

こぼれそうな涙を必死にこらえながら可那子は、桐生の言葉を強く噛みしめた。


「俺はお前が何より大事だ。だからこそお前にだけは、後悔しないよう生きてほしい――…」