No.3
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家までの道が、やけに落ち着かなかった。部活を抜けた後ろめたさと、リナリアのことが頭から離れない。
母さんからの連絡では、リナリアが頑張りすぎてしまったとあった。何があったのか、どうなってしまったのか、考えるほどに歩く速度は自然と速くなっていた。
待っている、と言ってくれたリナリアの元に、早くたどり着きたかった。
半ば駆け込むようにして家に入ると、物音に気付いた母さんがリビングの扉から顔をのぞかせた。驚きと心配が混ざった表情だった。
「っ、あら…精市!」
「ただいま、母さん、リナリアはッ…?」
俺の姿を見て目を丸くした母さんに、矢継ぎ早に声を掛けるが、母さんは状況を理解できないまま瞬きを繰り返していた。
それもそうだ。いつも部活は夕方まであるし、早退する連絡もしていなかった。こんな時間に俺が帰ってくることも、今まではなかったのだ。
しかし、リナリアはどうしているのか。メッセージの内容も相まって隠しきれないほど焦っている俺に、母さんはゆっくりと微笑んだ。
「おかえりなさい。リナリアちゃんは、まだ部屋にいるわ。
部活はどうしたの?」
「…集中できなくて。今日は早退させてもらった。」
「そう、なのね…。」
リナリアのことが気になって、とは言わなかった。体調が悪いわけでもなく、集中しきれず皆に心配をかけてしまったことは、間違っても声を大きくして言えることではない。
母さんはどこか察しているような優しい目で俺を見ていた。
そんな視線に、恥ずかしいような、いたたまれないような気持ちになる。
「ッちょっと、リナリアの様子を見に行ってくるよ。」
「ええ。リナリアちゃんも精市を待ってるわ。」
どうにも堪えられず、この場から離れる言葉を告げたが、母さんはまたにっこりと笑っていた。
何も言わずとも見透かされている感覚にバツが悪くなる。
ラケットバッグを掛け直し、そそくさと二階の自分の部屋へ向かった。
母さんのあの落ち着いた様子であれば、リナリアは本当にただ部屋でゆっくりしているだけなのかもしれない。それならそれでいい、とざわつく気持ちに言い聞かせる。
部屋の前に来ると、ドア越しに微かな話し声が聞こえた。ひながいるのだろうか。
聞き耳を立てるわけではないが、すぐにドアを開けるのもはばかられる気持ちで、少しの間その会話を聞いていた。
「…リナリアちゃん、ひなとお母さんで、かわいいお洋服、たくさん選んだからね。
似合うと思うんだぁ。またあとで、一緒に見ようね。」
「ニャ。」
「ふふっ、お兄ちゃんにも見てもらお?
きっとかわいくてびっくりするよ!」
「ニャっ。」
「今日は疲れちゃったけど…また一緒に、お買い物、行こうね。
次はもっと楽しくできるように、ひなが守るからね!」
ドア越しに聞こえるのは、ひなの声と、子猫の鳴き声。
心配のざわつきを一瞬大きく感じたが、ひなの言葉に応えるような鳴き声に、少し安心したのも事実だった。
俺は小さく息を吐いてから、ドアを軽くノックした。自分の部屋であるのに気をつかうのは、少し変な心地だった。
「……ただいま。入るよ。」
「っお兄ちゃん!」
静かに声を掛けてドアを開ければ、ベッドの上にちょこんと座ったリナリアの姿が一番に目に入ってきた。
最後にリナリアを見た記憶では、猫の耳としっぽのある女の子の姿をしていた。だが今は昨日出会った時の、子猫の姿をしている。
今朝も驚いたが、まさか猫の姿に戻っているなんて。そう思ったが、姿が変わったところで、もう戻らないなんてことはわからないことであったと考え直す。
本来であればこの猫の姿が本来のリナリアの姿なのだが、"にんげんになった"と喜んでいた様子が思い起こされた。
母さんの"頑張らせすぎちゃったみたい"と、先程のひなの"疲れちゃったけど"は、どういうことなのだろうか。何があったのだろう。
部屋を開けたのが俺だとわかってひなは目を丸くしていた。リナリアは、どこか気まずそうに身体を丸めた。
そんなリナリアを見て、ひなはぱたぱたと俺のところへ駆け寄ってくる。
「お兄ちゃん…勝手にお部屋入って、ごめんなさい。
あのね、リナリアちゃんね…今日、お買い物に行ったとき、びっくりしちゃったみたいで…ネコちゃんになっちゃったの。」
ひなの言葉に、納得がいった。ドアの向こうから聞こえてきた会話を思い返すに、母さんとひなとリナリアで、リナリアに必要なものを買いに行っていたのであろう。
昨日までの話であれば、俺の部活が終わってから買い物に行こうと話していたが、女の子になったのであれば事情は変わる。
時間に余裕を持った方がいいだろうし、俺がいない方がいいこともあったのだろう。
だが、その行った先でリナリアは"びっくりして、頑張りすぎて、疲れて"しまったのか。
不安げな顔で見上げてくるひなの頭を軽く撫で、ゆったりと微笑んだ。
「…わかったよ。リナリアと一緒にいてくれて、ありがとう。」
「ううん!
お兄ちゃん、朝、リナリアちゃんのこと、言ってくれたらよかったのに!」
じゃあ、リナリアちゃん、後でね!とひなは、ぱあっと明るい笑顔を向けながら部屋から出ていった。
俺とリナリアだけになった部屋は、静かな時間が流れた。
ラケットバッグを肩から下ろし、ゆっくりとリナリアの方向へ身体を向けると、リナリアは緊張しているかのようにまた身体を縮こませる。
まるで怒られるとでも思っているような怯え様に苦笑した。
「…そっちに、行ってもいいかな。」
俺は静かに、空気に溶けるように優しく自然に呼びかけた。
ピクリ、とリナリアの耳が動く。顔は俯きこちらを見てはいなかったが、耳は確かに俺の音を気にしているようだった。
リナリア。柔らかな声で、名前を呼ぶ。呼びながら、一歩ずつゆっくりと近づいた。
ベッドの上の小さな身体に手が触れられるまでに近づくと、ベッド脇にしゃがみ込む。
リナリア。また呼び掛けると、リナリアはやっとこちらに顔を向けた。
淡いブルーの瞳が、涙をこぼしそうに揺れ輝いていた。
「どうしたんだい?そんなに、小さくなって。
……お話しは、してくれないのかな。」
「……っニャ。」
「リナリア。俺は、君の言葉が聞きたいから…君が言いたくなるまで、そばにいてもいいかな。
……君が、嫌じゃなければ。」
ゆっくりと、リナリアの様子を見ながら語りかける。小さく縮こまった身体が、ふるふると細かく震えていた。
そんなに緊張しなくても、怒るなんてことはしないのに。微かに苦笑し、ふんわりとした体毛に覆われたその身体に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、びくっとリナリアは跳ね上がったが、優しく撫でるように手をすべらせれば緊張気味の身体からはゆっくりと力が抜けていく。
俺の目をじっと見つめる、晴れ渡った空のように綺麗な瞳が、キラリと輝いたような気がした。
「…っニャ、……ニャア、ニャ…!」
かろうじて鳴き声とわかるほどの小さく必死な声を、リナリアは絞り出しはじめた。
何かを伝えようと、声を上げているのが痛いほどに伝わってくる。その姿がいじらしく、胸が締め付けられた。
ベッド脇にしゃがんでいたがベッドへ座り直し、リナリアの身体を負担にならないように優しく膝の上に抱き上げる。
「…リナリア。ちゃんと聞いてるから…ゆっくりでいい。」
「ニャ、っニャ…!」
「……うん、…大丈夫。もう、ひとりじゃない。」
「ニャ……!
…………っ、…せ、いち…わ、たし…っ、」
「ッ、!?」
空気に紛れてしまうほど小さな鳴き声を聞きながら、少しでもリナリアが落ち着くようにと相槌を打っていた。
ふと、ふわりと温かい心地に包まれた。柔らかな香りが鼻をくすぐり、滑らかな色白の肌が視界に入る──気が付くと、俺の膝の上には子猫ではなく、朝見た姿のリナリアがいた。
子猫とは違う、人の身体の重さや温かさ、服越しに伝わる感触に、自然と息が詰まる。
むき出しの白い肩が小さく震えている。驚くことに、朝とは違い、その身体には衣服を纏っていなかった。
顔に熱が集まるのを感じ、反射的にリナリアから目を逸らす。ベッドの上に無造作に捲られている肌布団を引っ掴み、リナリアの身体を見ないように意識しながら包み込んだ。
リナリアはきょとんと、俺が羽織らせた肌布団を握る。潤んだ瞳が俺を不安げに見上げていて、不謹慎にもその輝きが綺麗だと思ってしまった。
「……っ、リナリア…。
少しは…落ち着けたかな。」
「…せー、いち……。」
「話してくれてありがとう。
大丈夫。俺が、いるからね。」
俺の焦りと気持ちがリナリアに悟られないように努める。
肌布団を寄せている手と反対の、俺の胸元に着いた手をリナリアは縋るように握った。
そして、涙こそこぼれさせなかったが、震える唇で必死に言葉を紡ぎ出した。
「っわた、し……せーいちに、ちゃんと…おはなし、したい…!」
決心したかのようにリナリアは真っ直ぐ俺を見つめた。綺麗な瞳に吸い込まれそうな感覚に、胸が高鳴る。
人の言葉でもう一度伝えようとしてくれることが、とても嬉しかった。
俺は自然と微笑み、リナリアの必死で熱っぽい瞳を見つめ返した。
「うん…ありがとう。
焦らなくていいよ、ちゃんと聞いてるから。」
「……あの、ね……っ、ママと、ひなちゃんと…おかいもの、いっ、て…。
にんげん、と…おと…もの…いっぱい…うるさくて、まぶし、くて…っ。」
「……うん。」
「お、ようふく…ね…、どれがいい、って………わからない、の。
っそれで、あたま、ぐるぐる…して。
……にんげんじゃ、なくなっちゃった……。」
言葉を紡ぐリナリアは、その状況を追体験しているようだった。驚きと混乱が、瞳の中で入り交じっている。
人が多く、物も音も沢山ある場所──母さんとひなが買い物で向かう行き先、と考えるとショッピングモールが思い浮かんだ。
元は猫であったリナリアは、もちろん行ったことのない場所のはずだ。
今日は休日であるため人は集まる。店舗の呼び込みやアナウンスの声や音楽、人の雑踏、目移りするほどの商品。
目から耳からと、得られる情報の多さに、圧倒され混乱するのも頷けた。その中で、どれがいいかと聞かれても、リナリアには選ぶことも出来なかったのだろう。
一体、どれほどの孤独感を感じたのだろうか。
「…そっか……そんなに混乱してたんだね…。
不安で、怖くて…苦しかっただろう?」
「……ぅん。」
「リナリア……よく頑張ったね。」
戸惑った様子のリナリアの頭を、優しく撫でる。
少し驚いたようにリナリアは目を丸くしたが、安堵するように柔らかい表情になっていった。
長いまつ毛で囲われた瞳をゆっくりと閉じ、俺の手に擦り寄るように顔を寄せる。
「…にんげんじゃ、なくなって……もう、せーいちと、おはなし、できない…おもった……。」
リナリアはぽつりと、震える声でそう言った。
今朝、あんなに喜んでいたのに、そうでなくなって、どんなにショックだっただろうか。
リナリアの変化に驚いたのも事実であるが、こうして話せることに嫌な気持ちはない。真っ直ぐなリナリアの言葉はどこか心地よかった。
リナリアは徐ろに目を開き、透き通った瞳を俺に向ける。
「でもね、せーいちの、あったかいこえ、きいて……また、ぽかぽかしたよ。」
「ふふ……じゃあ、俺の声が、ちゃんと届いたんだね。」
「…にゃん。」
はにかんだ笑みを浮かべたリナリアの頬は、仄かに紅潮しているように見えた。
急な変化に驚き戸惑ったのは俺達だけではない。当の本人、リナリアが一番感じたはずなのだ。
ずっと緊張で震えていた小さな身体からは余分な力が抜け、リナリアは俺に身を委ねていた。
しかし、なにか気がかりになることがあるのだろうか。ふと、リナリアは俺に向けていた視線をおとした。
俺が首を傾げて、リナリアの視線を追うと、リナリアはおずおずと小さな声を上げた。
「……ママと、ひなちゃん…すごく、びっくりした………。」
「迷惑かけた…って、思ってるのかい?」
「………にゃ。」
リナリアはまた小さく縮こまりながら頷いた。
その姿が部屋に入ってきたときと同じで、その時は怒られるのを怯えているようだと思ったが、申し訳なさに小さくなっているのだとわかり苦笑がこぼれた。
リナリアは猫であったが、人間と関わることにとても前向きであると感じる。それならば、と思い、ゆっくりと口を開いた。
「リナリア、そういうときは"ごめんなさい"って言うんだよ。」
「…ごめん、なさい……?」
「そう。自分のしたことが相手を傷つけたり困らせたりしたときに、その気持ちをちゃんとわかってるよ、って伝えるための言葉だよ。
ただ謝るだけじゃなくて、次はどうするかも考えるために言うんだ。」
「…わたし、ママとひなちゃん、こまらせた……。
…………つぎ…、どうする…?」
リナリアは口を噤み、少し難しい顔をしながら考えだした。
自分が相手にどういう反応をさせたのか、それを気にすることができたリナリアなら、相手のためを考えることもできるだろう。
自分の家族のために考え悩んでいるリナリアが可愛らしく思える。
小難しい顔をして考えていたリナリアは、何か思い浮かんだのか形のいい唇を動かした。
「……また、いっしょに、おかいもの…いきたい。
つぎ…は、おはなし、できるまま。
きょう、わたしの…えらんだ、って……わたし、ふわふわ、するの。」
そう言ってリナリアははにかんだ。ビー玉のように綺麗な瞳を細めて、口元に笑みを浮かべて。
今日は思わぬ混乱と戸惑いに猫の姿になってしまったが、それが嫌な思い出にはならなかったようで安堵する。
先程ひなが伝えていた言葉を楽しむ様子は、見ていて微笑ましかった。
「ふふっ。それは、"嬉しい"んだね。」
「うれしい……、うん。わたし、うれしい!」
「それじゃあ、"ありがとう"も伝えるといいよ。」
「あり、が、とう…?」
胸から湧き上がるような感情の名前を知れば、リナリアは輝くような笑顔をみせた。
その心から喜んでいる姿に、伝える言葉が"ごめんなさい"ではもったいない気がして、もっと似合う言葉を教える。
きっと、リナリアは気に入るはずだ。
「"ありがとう"は、相手が自分のためにしてくれたことに、ちゃんと気づいたよ、嬉しかったよ、って伝える言葉。
言われた方も嬉しくなるから、不思議と自分ももっと嬉しくなるんだ。」
「ママとひなちゃんも、うれしく、なるの?」
「なるよ。…リナリアの"嬉しい"は、ちゃんと届くからね。」
俺の言葉に、リナリアは更に瞳を輝かせる。感情のバロメーターのように、耳がぴょんと立ち上がっていた。
こんな、まさに全身で嬉しいと言っている様子でありがとうと言われたら、嫌な気になるはずがないだろう。
リナリアの素直な無邪気さにクスクスと笑ってしまう。
「っわたし、ママとひなちゃんに、ごめんなさい、ありがとう…いいたい!」
そう言って、リナリアはガバリと身体を起こした。
膝から降り、羽織っている肌布団を外そうとするので、ぎょっとして端を引き合せる。
人間の世界のルールがわからないなら、ゆっくり知っていけばいい。そう思うが、こればかりはゆっくりではいけないと内心ヒヤリとした。
「っ、リナリア!
それは、とても大切な気持ちだから、伝えるといいよ。っでも、……ちょっと待って。」
「にゃ…?」
「…この姿のときは、人と同じように服を着よう。
服は、自分を守るために着るものだよ。
リナリアが困ったり、恥ずかしい思いをしないように。」
真剣な態度でリナリアを見つめながら伝える。
リナリアはきょとんとした表情で、俺の目を見つめ、俺の服を見て、肌布団に包まれた自分の身体を見る。
それでもしっかりと理解していない様子であったが、肌布団に隠れていない首から肩にかけての白く滑らかな肌に、俺の方が気恥ずかしくなってしまった。
「……俺も、ちょっと困るから。」
「?……わかった。」
視線を外し呟くように言うと、その声でもリナリアには届いたようで返事が聞こえた。素直に伝えたことをきこうとしてくれる純粋さがとても可愛らしく感じる。
ベッドから立ち上がりドアへ向かい、少しだけ開けて母さんを呼ぶ。どうしたのと返事が聞こえると、とりあえず来てとだけ返す。
すると、くいっとカーディガンの裾を引かれる。その感覚に振り返ると、リナリアが肌布団の合わせ目から手を伸ばして摘んでいた。
どうしたのかと、じっと俺を見つめているリナリアに首を傾げる。
「……せーいち。
あり、がとっ…!」
リナリアは鈴のような声で呼びかけ、華やかな笑顔を咲かせた。
キラキラと輝く笑顔に当てられたかのように、ふわりと温かな心地が胸いっぱいに広がる。
覚えたての言葉。その意味を知って、俺に伝えてくれることが、こんなにも嬉しい。
面食らい頬が熱くなるような感覚を覚えながらも、俺もリナリアに微笑んだ。
「っ、…どういたしまして。」
俺の言葉に、リナリアはまた嬉しそうにはにかむ。
程なくして階段を上がって近づいてくる母さんの足音が聞こえた。母さんが顔をのぞかせると、リナリアがまた人の姿をしていることに驚く。
リナリアが安心してこの姿に戻れたこと、そして服を身にまとっていないことを伝えると、母さんははっとしていた。
どうやら、出掛けるからと着替えた服も、リナリアが猫に変わってしまったときに残されていたらしい。
母さんはリナリアに優しい口調で着替えに行こうと促し、リナリアは頷いた。
その面持ちはどこか緊張していて、それが先程の言葉を伝えることにあると推測する。耳が外へ引っ張られるように力が入っていて、苦笑してしまう。
優しく呼びかけ頭を撫でると、少し解れたような笑顔をみせて、リナリアは母さんと部屋を出て行った。
温かな"ありがとう"の響きが、今も俺の胸に残って消えなかった。
母さんからの連絡では、リナリアが頑張りすぎてしまったとあった。何があったのか、どうなってしまったのか、考えるほどに歩く速度は自然と速くなっていた。
待っている、と言ってくれたリナリアの元に、早くたどり着きたかった。
半ば駆け込むようにして家に入ると、物音に気付いた母さんがリビングの扉から顔をのぞかせた。驚きと心配が混ざった表情だった。
「っ、あら…精市!」
「ただいま、母さん、リナリアはッ…?」
俺の姿を見て目を丸くした母さんに、矢継ぎ早に声を掛けるが、母さんは状況を理解できないまま瞬きを繰り返していた。
それもそうだ。いつも部活は夕方まであるし、早退する連絡もしていなかった。こんな時間に俺が帰ってくることも、今まではなかったのだ。
しかし、リナリアはどうしているのか。メッセージの内容も相まって隠しきれないほど焦っている俺に、母さんはゆっくりと微笑んだ。
「おかえりなさい。リナリアちゃんは、まだ部屋にいるわ。
部活はどうしたの?」
「…集中できなくて。今日は早退させてもらった。」
「そう、なのね…。」
リナリアのことが気になって、とは言わなかった。体調が悪いわけでもなく、集中しきれず皆に心配をかけてしまったことは、間違っても声を大きくして言えることではない。
母さんはどこか察しているような優しい目で俺を見ていた。
そんな視線に、恥ずかしいような、いたたまれないような気持ちになる。
「ッちょっと、リナリアの様子を見に行ってくるよ。」
「ええ。リナリアちゃんも精市を待ってるわ。」
どうにも堪えられず、この場から離れる言葉を告げたが、母さんはまたにっこりと笑っていた。
何も言わずとも見透かされている感覚にバツが悪くなる。
ラケットバッグを掛け直し、そそくさと二階の自分の部屋へ向かった。
母さんのあの落ち着いた様子であれば、リナリアは本当にただ部屋でゆっくりしているだけなのかもしれない。それならそれでいい、とざわつく気持ちに言い聞かせる。
部屋の前に来ると、ドア越しに微かな話し声が聞こえた。ひながいるのだろうか。
聞き耳を立てるわけではないが、すぐにドアを開けるのもはばかられる気持ちで、少しの間その会話を聞いていた。
「…リナリアちゃん、ひなとお母さんで、かわいいお洋服、たくさん選んだからね。
似合うと思うんだぁ。またあとで、一緒に見ようね。」
「ニャ。」
「ふふっ、お兄ちゃんにも見てもらお?
きっとかわいくてびっくりするよ!」
「ニャっ。」
「今日は疲れちゃったけど…また一緒に、お買い物、行こうね。
次はもっと楽しくできるように、ひなが守るからね!」
ドア越しに聞こえるのは、ひなの声と、子猫の鳴き声。
心配のざわつきを一瞬大きく感じたが、ひなの言葉に応えるような鳴き声に、少し安心したのも事実だった。
俺は小さく息を吐いてから、ドアを軽くノックした。自分の部屋であるのに気をつかうのは、少し変な心地だった。
「……ただいま。入るよ。」
「っお兄ちゃん!」
静かに声を掛けてドアを開ければ、ベッドの上にちょこんと座ったリナリアの姿が一番に目に入ってきた。
最後にリナリアを見た記憶では、猫の耳としっぽのある女の子の姿をしていた。だが今は昨日出会った時の、子猫の姿をしている。
今朝も驚いたが、まさか猫の姿に戻っているなんて。そう思ったが、姿が変わったところで、もう戻らないなんてことはわからないことであったと考え直す。
本来であればこの猫の姿が本来のリナリアの姿なのだが、"にんげんになった"と喜んでいた様子が思い起こされた。
母さんの"頑張らせすぎちゃったみたい"と、先程のひなの"疲れちゃったけど"は、どういうことなのだろうか。何があったのだろう。
部屋を開けたのが俺だとわかってひなは目を丸くしていた。リナリアは、どこか気まずそうに身体を丸めた。
そんなリナリアを見て、ひなはぱたぱたと俺のところへ駆け寄ってくる。
「お兄ちゃん…勝手にお部屋入って、ごめんなさい。
あのね、リナリアちゃんね…今日、お買い物に行ったとき、びっくりしちゃったみたいで…ネコちゃんになっちゃったの。」
ひなの言葉に、納得がいった。ドアの向こうから聞こえてきた会話を思い返すに、母さんとひなとリナリアで、リナリアに必要なものを買いに行っていたのであろう。
昨日までの話であれば、俺の部活が終わってから買い物に行こうと話していたが、女の子になったのであれば事情は変わる。
時間に余裕を持った方がいいだろうし、俺がいない方がいいこともあったのだろう。
だが、その行った先でリナリアは"びっくりして、頑張りすぎて、疲れて"しまったのか。
不安げな顔で見上げてくるひなの頭を軽く撫で、ゆったりと微笑んだ。
「…わかったよ。リナリアと一緒にいてくれて、ありがとう。」
「ううん!
お兄ちゃん、朝、リナリアちゃんのこと、言ってくれたらよかったのに!」
じゃあ、リナリアちゃん、後でね!とひなは、ぱあっと明るい笑顔を向けながら部屋から出ていった。
俺とリナリアだけになった部屋は、静かな時間が流れた。
ラケットバッグを肩から下ろし、ゆっくりとリナリアの方向へ身体を向けると、リナリアは緊張しているかのようにまた身体を縮こませる。
まるで怒られるとでも思っているような怯え様に苦笑した。
「…そっちに、行ってもいいかな。」
俺は静かに、空気に溶けるように優しく自然に呼びかけた。
ピクリ、とリナリアの耳が動く。顔は俯きこちらを見てはいなかったが、耳は確かに俺の音を気にしているようだった。
リナリア。柔らかな声で、名前を呼ぶ。呼びながら、一歩ずつゆっくりと近づいた。
ベッドの上の小さな身体に手が触れられるまでに近づくと、ベッド脇にしゃがみ込む。
リナリア。また呼び掛けると、リナリアはやっとこちらに顔を向けた。
淡いブルーの瞳が、涙をこぼしそうに揺れ輝いていた。
「どうしたんだい?そんなに、小さくなって。
……お話しは、してくれないのかな。」
「……っニャ。」
「リナリア。俺は、君の言葉が聞きたいから…君が言いたくなるまで、そばにいてもいいかな。
……君が、嫌じゃなければ。」
ゆっくりと、リナリアの様子を見ながら語りかける。小さく縮こまった身体が、ふるふると細かく震えていた。
そんなに緊張しなくても、怒るなんてことはしないのに。微かに苦笑し、ふんわりとした体毛に覆われたその身体に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、びくっとリナリアは跳ね上がったが、優しく撫でるように手をすべらせれば緊張気味の身体からはゆっくりと力が抜けていく。
俺の目をじっと見つめる、晴れ渡った空のように綺麗な瞳が、キラリと輝いたような気がした。
「…っニャ、……ニャア、ニャ…!」
かろうじて鳴き声とわかるほどの小さく必死な声を、リナリアは絞り出しはじめた。
何かを伝えようと、声を上げているのが痛いほどに伝わってくる。その姿がいじらしく、胸が締め付けられた。
ベッド脇にしゃがんでいたがベッドへ座り直し、リナリアの身体を負担にならないように優しく膝の上に抱き上げる。
「…リナリア。ちゃんと聞いてるから…ゆっくりでいい。」
「ニャ、っニャ…!」
「……うん、…大丈夫。もう、ひとりじゃない。」
「ニャ……!
…………っ、…せ、いち…わ、たし…っ、」
「ッ、!?」
空気に紛れてしまうほど小さな鳴き声を聞きながら、少しでもリナリアが落ち着くようにと相槌を打っていた。
ふと、ふわりと温かい心地に包まれた。柔らかな香りが鼻をくすぐり、滑らかな色白の肌が視界に入る──気が付くと、俺の膝の上には子猫ではなく、朝見た姿のリナリアがいた。
子猫とは違う、人の身体の重さや温かさ、服越しに伝わる感触に、自然と息が詰まる。
むき出しの白い肩が小さく震えている。驚くことに、朝とは違い、その身体には衣服を纏っていなかった。
顔に熱が集まるのを感じ、反射的にリナリアから目を逸らす。ベッドの上に無造作に捲られている肌布団を引っ掴み、リナリアの身体を見ないように意識しながら包み込んだ。
リナリアはきょとんと、俺が羽織らせた肌布団を握る。潤んだ瞳が俺を不安げに見上げていて、不謹慎にもその輝きが綺麗だと思ってしまった。
「……っ、リナリア…。
少しは…落ち着けたかな。」
「…せー、いち……。」
「話してくれてありがとう。
大丈夫。俺が、いるからね。」
俺の焦りと気持ちがリナリアに悟られないように努める。
肌布団を寄せている手と反対の、俺の胸元に着いた手をリナリアは縋るように握った。
そして、涙こそこぼれさせなかったが、震える唇で必死に言葉を紡ぎ出した。
「っわた、し……せーいちに、ちゃんと…おはなし、したい…!」
決心したかのようにリナリアは真っ直ぐ俺を見つめた。綺麗な瞳に吸い込まれそうな感覚に、胸が高鳴る。
人の言葉でもう一度伝えようとしてくれることが、とても嬉しかった。
俺は自然と微笑み、リナリアの必死で熱っぽい瞳を見つめ返した。
「うん…ありがとう。
焦らなくていいよ、ちゃんと聞いてるから。」
「……あの、ね……っ、ママと、ひなちゃんと…おかいもの、いっ、て…。
にんげん、と…おと…もの…いっぱい…うるさくて、まぶし、くて…っ。」
「……うん。」
「お、ようふく…ね…、どれがいい、って………わからない、の。
っそれで、あたま、ぐるぐる…して。
……にんげんじゃ、なくなっちゃった……。」
言葉を紡ぐリナリアは、その状況を追体験しているようだった。驚きと混乱が、瞳の中で入り交じっている。
人が多く、物も音も沢山ある場所──母さんとひなが買い物で向かう行き先、と考えるとショッピングモールが思い浮かんだ。
元は猫であったリナリアは、もちろん行ったことのない場所のはずだ。
今日は休日であるため人は集まる。店舗の呼び込みやアナウンスの声や音楽、人の雑踏、目移りするほどの商品。
目から耳からと、得られる情報の多さに、圧倒され混乱するのも頷けた。その中で、どれがいいかと聞かれても、リナリアには選ぶことも出来なかったのだろう。
一体、どれほどの孤独感を感じたのだろうか。
「…そっか……そんなに混乱してたんだね…。
不安で、怖くて…苦しかっただろう?」
「……ぅん。」
「リナリア……よく頑張ったね。」
戸惑った様子のリナリアの頭を、優しく撫でる。
少し驚いたようにリナリアは目を丸くしたが、安堵するように柔らかい表情になっていった。
長いまつ毛で囲われた瞳をゆっくりと閉じ、俺の手に擦り寄るように顔を寄せる。
「…にんげんじゃ、なくなって……もう、せーいちと、おはなし、できない…おもった……。」
リナリアはぽつりと、震える声でそう言った。
今朝、あんなに喜んでいたのに、そうでなくなって、どんなにショックだっただろうか。
リナリアの変化に驚いたのも事実であるが、こうして話せることに嫌な気持ちはない。真っ直ぐなリナリアの言葉はどこか心地よかった。
リナリアは徐ろに目を開き、透き通った瞳を俺に向ける。
「でもね、せーいちの、あったかいこえ、きいて……また、ぽかぽかしたよ。」
「ふふ……じゃあ、俺の声が、ちゃんと届いたんだね。」
「…にゃん。」
はにかんだ笑みを浮かべたリナリアの頬は、仄かに紅潮しているように見えた。
急な変化に驚き戸惑ったのは俺達だけではない。当の本人、リナリアが一番感じたはずなのだ。
ずっと緊張で震えていた小さな身体からは余分な力が抜け、リナリアは俺に身を委ねていた。
しかし、なにか気がかりになることがあるのだろうか。ふと、リナリアは俺に向けていた視線をおとした。
俺が首を傾げて、リナリアの視線を追うと、リナリアはおずおずと小さな声を上げた。
「……ママと、ひなちゃん…すごく、びっくりした………。」
「迷惑かけた…って、思ってるのかい?」
「………にゃ。」
リナリアはまた小さく縮こまりながら頷いた。
その姿が部屋に入ってきたときと同じで、その時は怒られるのを怯えているようだと思ったが、申し訳なさに小さくなっているのだとわかり苦笑がこぼれた。
リナリアは猫であったが、人間と関わることにとても前向きであると感じる。それならば、と思い、ゆっくりと口を開いた。
「リナリア、そういうときは"ごめんなさい"って言うんだよ。」
「…ごめん、なさい……?」
「そう。自分のしたことが相手を傷つけたり困らせたりしたときに、その気持ちをちゃんとわかってるよ、って伝えるための言葉だよ。
ただ謝るだけじゃなくて、次はどうするかも考えるために言うんだ。」
「…わたし、ママとひなちゃん、こまらせた……。
…………つぎ…、どうする…?」
リナリアは口を噤み、少し難しい顔をしながら考えだした。
自分が相手にどういう反応をさせたのか、それを気にすることができたリナリアなら、相手のためを考えることもできるだろう。
自分の家族のために考え悩んでいるリナリアが可愛らしく思える。
小難しい顔をして考えていたリナリアは、何か思い浮かんだのか形のいい唇を動かした。
「……また、いっしょに、おかいもの…いきたい。
つぎ…は、おはなし、できるまま。
きょう、わたしの…えらんだ、って……わたし、ふわふわ、するの。」
そう言ってリナリアははにかんだ。ビー玉のように綺麗な瞳を細めて、口元に笑みを浮かべて。
今日は思わぬ混乱と戸惑いに猫の姿になってしまったが、それが嫌な思い出にはならなかったようで安堵する。
先程ひなが伝えていた言葉を楽しむ様子は、見ていて微笑ましかった。
「ふふっ。それは、"嬉しい"んだね。」
「うれしい……、うん。わたし、うれしい!」
「それじゃあ、"ありがとう"も伝えるといいよ。」
「あり、が、とう…?」
胸から湧き上がるような感情の名前を知れば、リナリアは輝くような笑顔をみせた。
その心から喜んでいる姿に、伝える言葉が"ごめんなさい"ではもったいない気がして、もっと似合う言葉を教える。
きっと、リナリアは気に入るはずだ。
「"ありがとう"は、相手が自分のためにしてくれたことに、ちゃんと気づいたよ、嬉しかったよ、って伝える言葉。
言われた方も嬉しくなるから、不思議と自分ももっと嬉しくなるんだ。」
「ママとひなちゃんも、うれしく、なるの?」
「なるよ。…リナリアの"嬉しい"は、ちゃんと届くからね。」
俺の言葉に、リナリアは更に瞳を輝かせる。感情のバロメーターのように、耳がぴょんと立ち上がっていた。
こんな、まさに全身で嬉しいと言っている様子でありがとうと言われたら、嫌な気になるはずがないだろう。
リナリアの素直な無邪気さにクスクスと笑ってしまう。
「っわたし、ママとひなちゃんに、ごめんなさい、ありがとう…いいたい!」
そう言って、リナリアはガバリと身体を起こした。
膝から降り、羽織っている肌布団を外そうとするので、ぎょっとして端を引き合せる。
人間の世界のルールがわからないなら、ゆっくり知っていけばいい。そう思うが、こればかりはゆっくりではいけないと内心ヒヤリとした。
「っ、リナリア!
それは、とても大切な気持ちだから、伝えるといいよ。っでも、……ちょっと待って。」
「にゃ…?」
「…この姿のときは、人と同じように服を着よう。
服は、自分を守るために着るものだよ。
リナリアが困ったり、恥ずかしい思いをしないように。」
真剣な態度でリナリアを見つめながら伝える。
リナリアはきょとんとした表情で、俺の目を見つめ、俺の服を見て、肌布団に包まれた自分の身体を見る。
それでもしっかりと理解していない様子であったが、肌布団に隠れていない首から肩にかけての白く滑らかな肌に、俺の方が気恥ずかしくなってしまった。
「……俺も、ちょっと困るから。」
「?……わかった。」
視線を外し呟くように言うと、その声でもリナリアには届いたようで返事が聞こえた。素直に伝えたことをきこうとしてくれる純粋さがとても可愛らしく感じる。
ベッドから立ち上がりドアへ向かい、少しだけ開けて母さんを呼ぶ。どうしたのと返事が聞こえると、とりあえず来てとだけ返す。
すると、くいっとカーディガンの裾を引かれる。その感覚に振り返ると、リナリアが肌布団の合わせ目から手を伸ばして摘んでいた。
どうしたのかと、じっと俺を見つめているリナリアに首を傾げる。
「……せーいち。
あり、がとっ…!」
リナリアは鈴のような声で呼びかけ、華やかな笑顔を咲かせた。
キラキラと輝く笑顔に当てられたかのように、ふわりと温かな心地が胸いっぱいに広がる。
覚えたての言葉。その意味を知って、俺に伝えてくれることが、こんなにも嬉しい。
面食らい頬が熱くなるような感覚を覚えながらも、俺もリナリアに微笑んだ。
「っ、…どういたしまして。」
俺の言葉に、リナリアはまた嬉しそうにはにかむ。
程なくして階段を上がって近づいてくる母さんの足音が聞こえた。母さんが顔をのぞかせると、リナリアがまた人の姿をしていることに驚く。
リナリアが安心してこの姿に戻れたこと、そして服を身にまとっていないことを伝えると、母さんははっとしていた。
どうやら、出掛けるからと着替えた服も、リナリアが猫に変わってしまったときに残されていたらしい。
母さんはリナリアに優しい口調で着替えに行こうと促し、リナリアは頷いた。
その面持ちはどこか緊張していて、それが先程の言葉を伝えることにあると推測する。耳が外へ引っ張られるように力が入っていて、苦笑してしまう。
優しく呼びかけ頭を撫でると、少し解れたような笑顔をみせて、リナリアは母さんと部屋を出て行った。
温かな"ありがとう"の響きが、今も俺の胸に残って消えなかった。
