No.8
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部屋の電気は案の定ついておらず、薄暗い空間に僅かに躊躇いが浮かぶ。
足を踏み入れると、何かが床に落ちていることに気付いた。
服だ。リナリアが家で着ているワンピースだ。
それはベッドへ向かうようにずった形で落ちていた。まるで途中で力が抜けたかのように、袖が床に広がっている。
胸の奥が、ひやりと冷えた心地がした。
「……リナリア?」
確かにいるはずだ。静まり返った部屋で、そっと呼び掛けてみる。
返事はなかった。それでも不安に背を押されるようにまた一歩踏み込んだとき、ベッドの上に小さな影が見えた。
白っぽい体毛。丸くなった小さな背中。
──猫だ。
それを理解した瞬間、驚きと焦りで息が詰まった。
「……っ、リナリア、」
思わず名前を呼びながらベッドへ駆け寄る。丸くなっている小さな身体は、ぴくりと耳を動かしただけで動こうとはしなかった。
そっと触れた背中は、あたたかな温もりがあるはずなのに、どうしようもなく小さく感じられた。
その小さな身体のわずかな震えが、触れた手を通して伝わってくる。
眠っているわけではない。ただ、身を縮めるようにして、堪えているように見えた。
胸を鷲掴みにされたかのような苦しさがせり上がってくる。
居ても立ってもいられず、小さな身体を抱き上げて腕に包む。ふと顔がこちらを向き、淡いブルーの瞳がキラリと輝いた。
「リナリア……ただいま。
遅くなって、ごめん。」
俺がそう言うと、綺麗な瞳はすっと細められ、返事をするようにニャアと小さな声が鳴いた。
ゴロゴロと微かに喉を鳴らす音が聞こえ、抱いている胸元に擦り寄られる。あまりにも甘く、あまりにも素直に。
その姿に、今日まで感じていた違和感が、音を立てて腑に落ちていった。
ああ──そうか。"大丈夫"なんて、俺が思っただけで、リナリアは無理をしていたのだ。
俺が安心した笑顔は、リナリアの心からの笑顔ではない。俺をそうさせるためのものだったのだ。
思えば、俺を困らせないような言葉を選んでいたのではないか。平気だと。いい子でいると。
帰宅時間の確認こそしたがったものの、それに対して不満も何も言わなかった。
そして、昨日言いかけて呑み込んだ"いってらっしゃい"。それでも送り出してくれたことに深く考えることもせず、慣れてしまうと信じた俺がこの状況を招いたのだ。
後悔がひどく胸に巣食う。
俺の日常に、そっと寄り添おうとした健気さが、痛いほどに胸を突いた。
「………言えなかったんだね。」
俺に遠慮して。俺を困らせないようにして。
気付かなくてごめん、と言葉を落とす。自然と俯きかけていた頬に、すりっと滑らかな毛並みを感じた。
キラリと輝く瞳が、俺をじっと見つめている。それは俺を咎めるようではなく、悲観しているようでもなく。どこか信頼しているように感じた。
その時、ふと頭に、今日できなかったことが浮かんできた。本当は、帰ってきたら試してみようと思っていたこと。
──書いて、残す。
試そうとしていたこととは少し違う。けれど、リナリアが口にできなかった気持ちも、伝えていいものだと教えられないだろうか。
言えないのであれば、書いて。何度でも確認できるように、残しておけば。
俺も、この出来事を、ずっと忘れることもないだろう。
思い立った俺は、リナリアをそっとベッドの上に降ろし、部屋の電気をつけてから一冊のノートを手に机に向かった。
「言えなかったこと……書いてみようか。」
俺は独り言のように呟きながら、いま気付いたリナリアからの気遣いを挙げていった。
──いってらっしゃいが言えなかったのは、行ってほしくなかったから。
──でも、ちゃんと帰ってくるって信じたいから、代わりに"気を付けて"と言った。
──困らせたくなくて、言葉も行動も呑み込んで、笑顔でいた。
──引き止めたりせず、見送った。
ノートに書き出して、それを声にしていると、ふわりと空気が揺れたのを感じた。
誘われるように顔を向ければ、人の姿をしたリナリアがベッドの上に座っていた。肌布団を肩から掛け合わせ、ぎゅうと握った手は震えている。
湖のように澄んだ瞳から、ぽろっと涙がこぼれ落ちた。
「……ぅ、ん………うんっ…。」
微かな声は震えていて、いかに口にするのを躊躇っていたのかをひしひしと感じた。
リナリアが涙する姿は、初めて見た。公園で話したときも潤んではいたが、涙は流さなかった。
その姿も涙も、純粋で無垢なように見え、胸が痛むのと同時に、とても綺麗だと思った。
「言っても、いいんだよ。
……俺には、伝えていい。」
我慢しなくていい。自分の気持ちを抑えなくていい。
そう伝えるつもりで声を掛けると、リナリアの目からは涙がぽろぽろと止めどなく流れ落ちた。
桜色の小さな唇が震え、躊躇いがちにでも、少しずつ言葉が紡がれていく。
「っ、わたし……にんげんで、いると…いっぱい、かんじて……くるし、かった…っ。」
だから、あの姿になってしまったのか。
思いを口に出せず、でも感じることもやめられず。感情の処理に途方に暮れ、猫の姿になるほかにできなかったのだ。
そこまで追い詰めてしまった。気付くことができなかった。
これまで一緒にいたのに急に留守番だと言われ、ひとり過ごした時間はどれほど辛かっただろう。それでも困らせないようにと、どれほど考えたのだろう。
笑顔と言葉に隠した感情を、なぜ俺は気付けなかったのだろう。
俺は椅子から立ち上がり、ベッドの上で小さく縮こまった身体を抱き寄せた。
我慢させてごめん。辛かったね。そう言葉を掛けて頭を撫でる。ピクリと耳が反応し、俺の服に縋るように手が伸ばされた。
「……これから、もし言えなかったなら、一緒に書こう。
俺も毎日の予定を書くから、一緒に確認していこう。」
リナリアの気持ちをちゃんと理解したい。お互いが納得して安心できるようにしていきたい。
俺の言葉に、リナリアがこくりと頷いたのがわかった。
胸元に隠れていた顔がこちらを向き、涙に濡れた目元が輝く。何よりも綺麗な瞳が、嬉しそうに細められながらゆっくりと近づいてきた。
すりっと、頬と頬が当たる。滑らかな肌の感触と、間近で感じるリナリアの香りに、くらりと視界が揺らぐ。
ありがとう…、と掠れた小さな声が耳に届き、そのとても甘く響く声に、胸が苦しく、耳が熱を帯びるのを感じた。
足を踏み入れると、何かが床に落ちていることに気付いた。
服だ。リナリアが家で着ているワンピースだ。
それはベッドへ向かうようにずった形で落ちていた。まるで途中で力が抜けたかのように、袖が床に広がっている。
胸の奥が、ひやりと冷えた心地がした。
「……リナリア?」
確かにいるはずだ。静まり返った部屋で、そっと呼び掛けてみる。
返事はなかった。それでも不安に背を押されるようにまた一歩踏み込んだとき、ベッドの上に小さな影が見えた。
白っぽい体毛。丸くなった小さな背中。
──猫だ。
それを理解した瞬間、驚きと焦りで息が詰まった。
「……っ、リナリア、」
思わず名前を呼びながらベッドへ駆け寄る。丸くなっている小さな身体は、ぴくりと耳を動かしただけで動こうとはしなかった。
そっと触れた背中は、あたたかな温もりがあるはずなのに、どうしようもなく小さく感じられた。
その小さな身体のわずかな震えが、触れた手を通して伝わってくる。
眠っているわけではない。ただ、身を縮めるようにして、堪えているように見えた。
胸を鷲掴みにされたかのような苦しさがせり上がってくる。
居ても立ってもいられず、小さな身体を抱き上げて腕に包む。ふと顔がこちらを向き、淡いブルーの瞳がキラリと輝いた。
「リナリア……ただいま。
遅くなって、ごめん。」
俺がそう言うと、綺麗な瞳はすっと細められ、返事をするようにニャアと小さな声が鳴いた。
ゴロゴロと微かに喉を鳴らす音が聞こえ、抱いている胸元に擦り寄られる。あまりにも甘く、あまりにも素直に。
その姿に、今日まで感じていた違和感が、音を立てて腑に落ちていった。
ああ──そうか。"大丈夫"なんて、俺が思っただけで、リナリアは無理をしていたのだ。
俺が安心した笑顔は、リナリアの心からの笑顔ではない。俺をそうさせるためのものだったのだ。
思えば、俺を困らせないような言葉を選んでいたのではないか。平気だと。いい子でいると。
帰宅時間の確認こそしたがったものの、それに対して不満も何も言わなかった。
そして、昨日言いかけて呑み込んだ"いってらっしゃい"。それでも送り出してくれたことに深く考えることもせず、慣れてしまうと信じた俺がこの状況を招いたのだ。
後悔がひどく胸に巣食う。
俺の日常に、そっと寄り添おうとした健気さが、痛いほどに胸を突いた。
「………言えなかったんだね。」
俺に遠慮して。俺を困らせないようにして。
気付かなくてごめん、と言葉を落とす。自然と俯きかけていた頬に、すりっと滑らかな毛並みを感じた。
キラリと輝く瞳が、俺をじっと見つめている。それは俺を咎めるようではなく、悲観しているようでもなく。どこか信頼しているように感じた。
その時、ふと頭に、今日できなかったことが浮かんできた。本当は、帰ってきたら試してみようと思っていたこと。
──書いて、残す。
試そうとしていたこととは少し違う。けれど、リナリアが口にできなかった気持ちも、伝えていいものだと教えられないだろうか。
言えないのであれば、書いて。何度でも確認できるように、残しておけば。
俺も、この出来事を、ずっと忘れることもないだろう。
思い立った俺は、リナリアをそっとベッドの上に降ろし、部屋の電気をつけてから一冊のノートを手に机に向かった。
「言えなかったこと……書いてみようか。」
俺は独り言のように呟きながら、いま気付いたリナリアからの気遣いを挙げていった。
──いってらっしゃいが言えなかったのは、行ってほしくなかったから。
──でも、ちゃんと帰ってくるって信じたいから、代わりに"気を付けて"と言った。
──困らせたくなくて、言葉も行動も呑み込んで、笑顔でいた。
──引き止めたりせず、見送った。
ノートに書き出して、それを声にしていると、ふわりと空気が揺れたのを感じた。
誘われるように顔を向ければ、人の姿をしたリナリアがベッドの上に座っていた。肌布団を肩から掛け合わせ、ぎゅうと握った手は震えている。
湖のように澄んだ瞳から、ぽろっと涙がこぼれ落ちた。
「……ぅ、ん………うんっ…。」
微かな声は震えていて、いかに口にするのを躊躇っていたのかをひしひしと感じた。
リナリアが涙する姿は、初めて見た。公園で話したときも潤んではいたが、涙は流さなかった。
その姿も涙も、純粋で無垢なように見え、胸が痛むのと同時に、とても綺麗だと思った。
「言っても、いいんだよ。
……俺には、伝えていい。」
我慢しなくていい。自分の気持ちを抑えなくていい。
そう伝えるつもりで声を掛けると、リナリアの目からは涙がぽろぽろと止めどなく流れ落ちた。
桜色の小さな唇が震え、躊躇いがちにでも、少しずつ言葉が紡がれていく。
「っ、わたし……にんげんで、いると…いっぱい、かんじて……くるし、かった…っ。」
だから、あの姿になってしまったのか。
思いを口に出せず、でも感じることもやめられず。感情の処理に途方に暮れ、猫の姿になるほかにできなかったのだ。
そこまで追い詰めてしまった。気付くことができなかった。
これまで一緒にいたのに急に留守番だと言われ、ひとり過ごした時間はどれほど辛かっただろう。それでも困らせないようにと、どれほど考えたのだろう。
笑顔と言葉に隠した感情を、なぜ俺は気付けなかったのだろう。
俺は椅子から立ち上がり、ベッドの上で小さく縮こまった身体を抱き寄せた。
我慢させてごめん。辛かったね。そう言葉を掛けて頭を撫でる。ピクリと耳が反応し、俺の服に縋るように手が伸ばされた。
「……これから、もし言えなかったなら、一緒に書こう。
俺も毎日の予定を書くから、一緒に確認していこう。」
リナリアの気持ちをちゃんと理解したい。お互いが納得して安心できるようにしていきたい。
俺の言葉に、リナリアがこくりと頷いたのがわかった。
胸元に隠れていた顔がこちらを向き、涙に濡れた目元が輝く。何よりも綺麗な瞳が、嬉しそうに細められながらゆっくりと近づいてきた。
すりっと、頬と頬が当たる。滑らかな肌の感触と、間近で感じるリナリアの香りに、くらりと視界が揺らぐ。
ありがとう…、と掠れた小さな声が耳に届き、そのとても甘く響く声に、胸が苦しく、耳が熱を帯びるのを感じた。
