ハイオク満タンの逃避行
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
エンジンを切ると、車内は急に静寂に包まれた。
聞こえるのは、遠くで響く波の音と、風の音だけ。
東京湾の真ん中に浮かぶパーキングエリア。
夜の海はどこまでも黒く、広かった。
「…さみぃな」
啓介が先に降りて、ジャケットの襟を立てる。
なまえも続いて降りると、冷たい潮風が頬を叩いた。
けれど、今のなまえにはその冷たさが、煮詰まりすぎた頭を冷やすのにちょうどよかった。
並んで歩いた先にある自動販売機。
ガチャン、ゴトン、と乾いた音が二回響く。
「ほらよ」
差し出されたのは、温かい缶コーヒー。
受け取ると、じんわりとした熱が、冷え切った指先から身体の奥へと伝わってくる。
「…ありがとう」
ふたりは手すりにもたれかかり、暗い海を眺めながらプルタブを開けた。
ひと口飲む。
甘くて、苦い。
その味が、強張っていた喉の奥をゆっくりと解きほぐしていく。
「…啓介くん」
「ん」
「今日ね、すっごく悔しかったの」
ぽつりと、言葉がこぼれ落ちた。
一度口にしてしまうと、せき止めていたダムが決壊したように、弱音が溢れてくる。
「頑張ったんだけどな。…なんか、全然伝わらなくて。わたし、何やってるんだろう、って…」
誰にも言えなかった本音。
職場では平気な顔をして飲み込んだ言葉たち。
啓介は、なまえの顔を見なかった。
ただ、隣で黙って、時折コーヒーをすすりながら聞いていた。
否定も、安っぽい励ましもしない。
ただそこにいて、なまえの言葉を、波が砂をさらうように受け止めてくれる。
ひとしきり吐き出してなまえが押し黙ると、啓介はふぅと白く煙る息を吐いた。
「…ガス欠だな」
「え?」
「どんなにいい走りをする車でも、ガソリン入ってなきゃ走れねぇだろ」
彼は缶コーヒーをなまえの持つそれにコツン、と軽くぶつけた。
「お前はずっとフルスロットルで走ってたんだよ。だから、止まりそうになんのも当たり前だ」
啓介は、遠くの夜景に目を細める。
「お前がサボってねぇことなんて、オレが一番知ってる。周りがどうだろうと、オレが分かってりゃそれでいいだろ」
ぶっきらぼうなその言葉が、なまえの胸のいちばん痛い場所に、ストンと落ちた。
「…うん」
涙が滲んで、視界が歪む。
世界で一番かっこいい彼がそう言ってくれるなら。
それだけで、もう十分だった。
「…うん、そうだね。啓介くんがいれば、いいや」
なまえが涙声で笑うと、啓介はようやくこちらを向いて、少しバツが悪そうに鼻をこすった。
「分かったら、それ飲んで暖まれ。風邪引かれたら面倒だからな」
「ふふ、優しいね」
「うるせぇ」
啓介の横顔は、夜の闇の中でもやっぱり頼もしくて。
手の中の缶コーヒーよりもずっと温かい何かが、なまえの心を満タンにしていた。