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スマホの画面が、23時55分を告げている。
ホテルのロビーにある大きな古時計が、カチ、カチ、と無機質な音を刻むたび、なまえの心臓が小さくきしんだ。
約束の時間は、もう4時間以上も過ぎている。
連絡はない。
既読もつかない。
普通の恋人なら、とっくに怒って帰っている時間だ。
あるいは、何か事故に遭ったのではないかとパニックになっているかもしれない。
けれど、なまえは知っている。
彼が今、どこで何と戦っているのかを。
(…きっと、緊急オペが入ったんだわ)
群馬大学医学部附属病院。
天才外科医と称される彼のもとには、いつだって予期せぬ「命の選択」が舞い込んでくる。
もう、帰ろうか。
スマホを握りしめ、なまえは立ち上がった。
疲れている彼に、終わった後の連絡を強要させるのも悪い。
(でも…)
もし、彼が急いでここに来てくれたら?
なまえがいないと知った時、彼はどんな顔をするだろう。
(…もう少しだけ。日付が変わるまで、待とう)
なまえは再びソファに深く腰を下ろし、膝の上の小さな紙袋を撫でた。
中には何日もかけてレシピを調整したガトーショコラが入っている。
その時だった。
自動ドアが開き、冷たい夜風とともに誰かがロビーに駆け込んできたのは。
なまえが顔を上げると、そこには肩で息をする高橋涼介が立っていた。
「なまえ!」
冷静沈着な彼が普段は決して上げない、焦燥に満ちた声。
整えられていたはずの髪は乱れ、コートの下はネクタイすらしていない、ラフなシャツ姿。
きっと、術着から慌てて着替えてきたのだろう。
「涼介、さん…」
なまえが立ち上がる。
涼介はその姿を認めると、痛々しいほどに顔を歪め、大股で歩み寄った。
そして、躊躇うことなくなまえの身体を強く抱きしめる。
「…すまない。本当に、すまない」
耳元で聞こえる彼の声は、掠れていた。
消毒液の匂いと、微かな汗の匂い。
それが、彼が今まで戦っていた時間の過酷さを物語っている。
「連絡もできなくて…。もう、帰ってしまったかと…」
「ううん。お仕事、大変だったんですよね。…お疲れさまでした、涼介さん」
なまえが背中に手を回してポンポンと優しく叩くと、涼介はなまえの肩に顔を埋め、深く息を吐いた。
「君をこんな時間まで待たせて…俺は、恋人失格だ」
自分を責める彼の震えが、なまえの胸に伝わってくる。
完璧主義な彼だからこそ、約束を守れなかった事実が許せないのだ。
なまえは身体を離し、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。
そして、さっきまで膝の上に置いていた紙袋を差し出す。
「失格なんかじゃありません。だって、こうしてちゃんと来てくれたじゃないですか」
時計の針が重なり、ボーン、ボーンと日付が変わる鐘の音がロビーに響き渡る。
「間に合ってよかった。ハッピーバレンタイン、涼介さん」
涼介は呆気にとられたように瞳を見開き、それから愛おしそうに紙袋を受け取った。
そして、もう片方の手でなまえの頬を撫でる。
「…ありがとう、なまえ」
その瞳には、揺るぎない愛情が湛えられていた。
「一生かけて埋め合わせをするよ。…愛してる」
いくら疲労の色が濃くても、その笑顔はどんな高級なプレゼントよりも美しく、なまえの心を震わせる。
華やかなディナーも、ロマンチックな演出もない。
あるのは、消毒液の匂いと、ふたりの体温だけ。
けれどそれは、命と向き合う彼を支えるパートナーだけが知る、最高に切なくて幸せなバレンタインの幕切れだった。
(おわり)
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