半鬼ヒカリが、テメノスさんに拾われてなんやかんやあって愛の指輪を貰うお話
台所は静まり返っていた。一人きりのヒカリは、手指に染み込む冷たさもいとわず皿を洗いつづけた。水音と食器の擦れる音だけが淡々と響いていた。
洗剤混じりの水を溜め込んだ器に、自分の顔がゆらめいている。
ヒカリはふと、泡だらけの手を止めた。
半分は、鬼……
つい数刻前の彼の言葉を反芻すると、心臓のあたりがずきりと痛んだ。
水面から目を逸さぬまま、濡れた指で前髪を退かした。すると、額の片側にだけ生え伸ばされた角がよりあらわになった。鋭利な先端には塗されたかのような朱が色づいている。
目元には、等しく片方にしか無い斑点もある。これらがヒカリを鬼たらしめる証であった。
人間たちには悟られぬよう、扱える数少ないまじないで、ひとになりすましている。
ヒカリの故郷は、鬼——正確には夜叉という種族が住まう大国だ。人間の世界とは繋がっているが、その道は固く閉ざされており長年開かれてはいない。
ヒカリは国王と愛妾である人間の間に生まれた子である。王城内でも、外でも、角が片方しかないヒカリを蔑み、哀れに思う人間は少なくなかった。それでも、心優しい母親のことは敬愛していた。しかし、鬼にとっては短命種でもある人間の彼女はヒカリが成人を迎える前に世をさってしまった。
ようやく大人になる頃には、もう人々の囁きや視線に何も感じなくなっていた。ともに戦で背中を預け合った志のひとしい友人たちが、ヒカリの心の支えであった。その彼らも休戦と共に散り散りになり——季節がまた、ひと巡りした頃。義兄が反乱を起こした。城下町は火の海となり、多くの民の命が奪われてしまった。
ヒカリが父の元に駆けつけると、彼は無惨に殺されていた。
多量の血が水溜まりのように広がり、濃い匂いが鼻腔を満たした。虚ろな目が、ヒカリを捉えている気がした。
『ヒカリ……下等種の血を引く王家の欠陥品よ。お前を、故郷に帰してやろう』
義兄は仮面に覆われていない口元に、いびつな弧を描いた。
そして父の血で塗れた剣を地に突き立て、複雑な呪文を唱えた。幾重の紋様がほとばしり、鈍色の檻が形成される。逃げる隙も与えぬ間にヒカリを閉じ込めた。
人間の血を引いているためか、夜叉としての力は弱くヒカリに扱える術は少ない。
彼に対抗することは叶わなかった。目の前が黒で塗り潰され、酷い浮遊感に苛まれた。
そうやって落ちた先が、人間の世界だった。
見たこともない建物が並んでおり、食べ物や衣服の置かれてる場所では、人間で溢れていた。
ヒカリは角を隠し、街の中を彷徨った。彼らはなぜだか向こうのほうから近寄ってくる。しかし声をかけられたところで、言葉などわかるはずもなかった。
とにかく離れたくて、気配を消すまじないを使って走った。気づけば森の中に入り込んでいた。どこかに祖国に繋がる門はないのだろうか。漠然と願いながら歩いた。野生動物達はヒカリを見て距離を置いたが、大きな体躯の熊たちは違った。凶暴な彼らはヒカリを敵とみなし、襲いかかってきた。手持ちの剣はあったが、体術のみで事足りた。ヒカリの掌底撃ちを受け、最後には投げ飛ばされて熊は気絶した。しばらくして目覚めてからは、ヒカリを見るなり怯えたように逃げていった。
これ以降、襲いかかってくる動物はめっきりいなくなった。木と藁で住処を自分で作ってからは、より静かに過ごすことができた。暖かい季節だからか、果物や魚は豊富に採れ、食料にも案外困らなかった。
森で過ごすこと半月。日没までが長く、ようやく空が薄暗くなり始めた頃、 異変が生じた。
闖入者だ、と烏たちが騒ぎ立てているのが分かった。それに伴い、動物たちもすかさず姿を隠した。
ヒカリはしばらく身を潜めて様子を伺った。
人影——しかし、強い殺意を纏っている。
ヒカリは鬼の夜目を使った。その大きな影の全貌が明らかとなると、手に汗が滲むのを感じた。
目は紅く熟れるほど充血し、口端からは涎が垂れている。記憶にある街中の人間とはかけ離れた、腐った血肉にも似た匂いをまとっていた。
人間の形をしているが、人間ではない。ならば何だ? とにかく、胸騒ぎがする。ヒカリは悟られぬよう細心の注意を払いつつも、異形の後を追った。
彼ははだしで彷徨っては、辺りを見渡している。何かを探し回っているようにも見える。
その異形の行先について、ヒカリは頭を巡らせた。森のことはすでに擬似的な地図を浮かび上がらせるほど、覚え込んでいた。
この先には人間たちがときおり立ち寄る泉がある。山菜や木材用の木を刈るか、釣りをしている姿も見たことがある。
とはいえ、視界が悪くなる夕暮れ時にやってくる者は見たことがなかった。
奴の足取りは、間違いなくそちらへ向かっていた。ヒカリは先回りを試みた。泉の一端が見えてくるとともに、微かな声を拾い上げた。
最近、何度か訪れては水遊びをしている少女のものだ。親がついてくることもあるが、彼女ひとりだ。今日に限って——冷ややかな汗が背中を舐めた。
こうなったら、とヒカリは一度足を止め、大きく息を吸い込んで、飛び出した。
異形よりも先んじて少女から少し離れた茂みに辿り着いた。ヒカリは彼女に向かって叫んだ。
『化け物が来る——逃げろ!』
少女は声がした方を不思議そうに見つめ、首をかしげた。ヒカリは言葉が通じないのを失念していた。しかし、悔やんでいる猶予はなかった。
奴がこちらに気付き、殺気がたちどころにあふれ出した。手足を使って迫ってくる。素早い。先ほどまでの鈍い動きとは比にならない。
ヒカリは木や段差を使って誘導し、時間と距離を稼いだ。ここまで来たなら——もう少女には気がつきまい。
交戦するのにはちょうど良い木々のない広間がある。ヒカリはそこで足を止めた。
『……俺が相手だ、異形よ』
腰に携えていた刀の鯉口を切った。
異形は犬のように四つん這いになって構えていた。人間の理性は失ったのだろう。
己を殺す気でやってくる輩には、容赦などはしない。祖国ではそう心に決めて戦ってきた。この世界ではどうかは分からない。だが、人間の血をふんだんに吸ったこの生物が野放しにされることが許されるとは考えにくい。
腕が肥大していく。重厚な筋肉を金槌のように振り下ろした。地が大きく揺らぎ、円形に陥没した。ヒカリはそれに見向きもせず、再び打ち込まれた拳もかわす。体勢を一度も狂わせることなく、跳躍する。奴が飛び上がったヒカリに気付くまで、小さな猶予があった。強靭な鬼たちと比べれば、進行形で大きさを増している巨躯は、大した障壁には感じられなかった。
刀を振るう。迷いなき一筋は、青い空をも金色で切り裂くかのようであった。
異形の肉を貫き、多量の赤黒い血が噴き出した。
しかし。
分断するとまでは行かずとも、深い裂傷を刻み込んだはずであった。
異形は傷を抱えたまま、ヒカリを睨んでいた。痛覚など、備わっていないのか。疑いが浮上するのと同時に、腕が飛んでくる。ヒカリは軌道をずらし、そのまま重力に従って着地する。
この生き物のことはわからない。明確な弱点でもあるのかもしれない。
次に腹も斬ったが、倒れるどころかよろめく気配はなかった。血は、流れ続けているのだが。
頬を濡らしていた汗を拭う。そのままこちらが消耗し続けるのではないかという懸念が徐に浮上する。それに森の周囲には人間の住処がある。
異形は天に向かって吠えた。颶風が巻き起こり、木々が揺さぶられる。
『……ッ、ぐ』
なんと不快な咆哮なのか。耳の奥まで抉るような痛みが突き抜ける。辛うじて腕で庇いながら薄目を開けていたヒカリは、奴を仰いだ。
黒い塵か灰に似た細かいかけらが、降り注いだ。
異形の背中から、真っ黒な翼が生えていた。異形は呻きながら頭を抑えている。ヒカリの与えた傷がいまになって響いているのか、それとも、この変貌に耐えかねているのか。
ひときわ高く伸びた針葉樹に目をつけたヒカリは、幹を駆け上る。
異形の頭に、角が生えていた。だがヒカリとは異なり、額ではなく側頭部であり、色も見たこともない緋色だ。
もはや、巨人。遠い国の魔族か。
だとしても、人間が異種族になるなど聞いたこともない。
異形はこちらに身体を向けた。どう出る。刀を握る手に力を込めた。空気が変質し、棘のように皮膚を刺す。風が止んだ。
理を捻じ曲げるものがあるとすれば、それは。
『……上から来ますよ、避けて!』
誰かが、ヒカリに向かって叫んだ。
何を言ってるかは依然として分からないが、忠告だということは、直感的に理解できた。
咄嗟に木から飛び降りた。直後、異形は口から極太の光線を放った。
砂煙が薄らぐと、そばには木が僅かな株だけ残して散り散りになっていた。
それだけではない。緑は焼け、光線が伸びた先は全て焦土へと変わり果てていた。
——人間界は想像よりもずっと物騒だ。己を住まわせてくれたこの森を守るためにも、奴を斬る。先ほどの光線は消耗するのだろう、口を開いたまま佇立している。
剣に指を滑らせ、異形に肉薄しようとしたその手前。
『……待ってください』何者かが、ヒカリを呼び止めた。迷ってはいられないが、その人物は行く先を阻むようにヒカリの前に立った。
見たところ人間、大人の男だ。見れば、片手に彼の背丈以上はありそうな杖を握っている。
それだけではない。もう一方にも何か隠している。
これらが得物であるというのなら、この者は異形に挑むつもりなのか。見てくれだけなら痩身で非力そうに見える。異形相手では力負けしそうだが……。
『……悪魔と融合した人間が森に逃げ込んでいるかもしれない。そう聞いて駆けつけましたが——これほど弱っているのなら十分です。浄化は私にお任せを』
横目でヒカリを一瞥し、何かを言い終えた彼は杖を地に突き立てた。腰の手前ほどある白いローブが、持ち上げられたようにはためいた。
『……なんだ?』
突如として現れた分厚い書がひとりでに頁を繰る。淡い青色の光が男を包んだ。夜の闇に突然光明が差し込めたことで、ヒカリは思わず目を細めた。
何をしようとしているかは分からない。だが、彼を取り巻く神秘に思わず見入ってしまった。蛍にも似た光の玉が集まってきている。
やがて彼は瞼を無防備に閉ざした。透明な声で、未知の言葉を編む。
『聖火神エルフリックよ……力をお借りします』
これは、攻撃だ。術か何かだ。強大な力が、彼の元に集まってきている。
巨人が動き出す。澱んだ白目を、垂れてきた毛髪が隠した。
足踏みで足裏に振動が響く。ローブの男はバランスを崩しかけたが、怯まず呟いている。いや、詠唱を遂げようとしている。
分厚い書から文字が浮かび上がり、彼に収束し——
巨人の鉄槌が振り下ろされる。彼が気がつくそぶりはない。ヒカリはすぐさま飛び出した。間に合え、と願いながら。
『その導きの清光で——この世の影を照らしたまえ……ッ!』
彼の言葉が結び合わされた瞬間、ヒカリは吹き飛ばされた。激しい光の奔流が、巨人を中心にドーム状に拡大してゆく。
眩しい。目を閉じていても、ひとみの奥が灼かれてしまいそうだ。
『……っ、く』
術者本人たる彼は、悠然と立っている。白に覆われた中で、彼の横顔はいやにはっきりととらえられた。よくとおった鼻梁から上り、唯一の色彩であるかのような翠の瞳は、鋭く敵を待っていた。
異形は散った。肉片も血も残さず、黒い砂となって風にさらわれた。その粒子さえも跡形もなく消えてしまう。
あたりはしんと静まり返り、言葉がないままであると、耳鳴りがしそうなほどだった。
ややあって野鳥たちが木々に潜り込んだのが分かった。羽が一つ、乱れた土にはらりと落ちてきた。
白いローブの男がこちらを振り返った。
『……大丈夫ですか、お若い方』飛ばされて座ったままのヒカリに、彼は手を差し伸べてきた。剣を握ったこともなさそうな細くて繊細な指を見つめた。握れば良いのだろうか。おずおずと触れると、ヒカリを立たせてくれた。
『吃驚しましたよ。神聖魔法の直前に飛び出すものですから……あと少し早かったらどうなっていたか』
たぶん、困ったような顔をしている。
おそらくさっきの術。あれに飛び込んで行ったように見えたからだと思われる。
ヒカリは言葉に詰まった。彼に返答しても、通じることもないだろう。
だったらできるのは仕草しかない。ヒカリは詫びを込めて頭を下げた。じっと、つむじを見られている気がした。
顔を上げると、彼と目が合った。顎下を擦りながら、ヒカリをまじまじと見ている。
悪意ではなく好奇心でそうしているようには思われるが、徐々にいたたまれなくなる。
姿隠しの術はほどこしてあるので、彼からは人間にしか見えない。そうなるとこれは、森に人がいるもの珍しさによるものか。
『……なるほどね』彼は口元を緩ませ、森を見上げた。もうすっかり月明かりの目映い夜空から、今度は濃緑の葉が舞い降りた。『森が騒がしくなったと思ったら、やけに静かになった。前からそう耳にはしていましたが、そちらの方は……あなたのことでしたか』
『いや……』
何やら饒舌だが、ヒカリは眉を顰めるしかできない。
ひと通り語り終えたかと思えば、ずいと顔が近寄ってきた。ヒカリは息を飲む。すぐに離れたが、何か奇妙な心の揺れを感じた。
彼はどこもかしこも白かった。髪やまつ毛はきめ細く、月明かりで銀に艶めいていた。微かな影のゆらめきすらも彼のあえかな美しさを醸した。祖国では、無骨なものが多く、ここまで繊細な作りの男をヒカリは見たことがない。そのせいかもしれなかった。
『見ていましたよ。あなたの戦いぶりを。悪魔相手に見事なお手並でした。その装束、刀……"サムライ"なる存在が現代に現れるとは。いやはや、実に興味深いです。もしや、東国には"シノビ"も実在しているのでしょうか……』
言葉は長いのに全く澱みもなく、極めて滑らかだ。捉えようのない震えのなかに、彼の興奮の熱を内包している。つまるところ、彼は聞き心地の良い不思議な声をしている。ヒカリはうっかり理解しないまま頷いてしまいそうになる。
一旦落ち着こうと言い聞かせて、気付く。
こんなことを繰り返していれば、何の進展もなくただ時間だけが過ぎてゆくだけなのではないか。
徐々に焦りが湧いてくるが、これは好機かもしれないとも考えた。術を使いこなし、理知的な雰囲気を醸しているこの人間の男ならば、尋ねればヒカリに帰り道を教えてくれるかもしれない。
『……御仁よ。すまぬが、俺は訳あってこの森に迷い込んでしまった者なのだが……この場所……国の名前と、ここが世界のどこに位置するのかを教えてくれぬか?』
さっきの化け物や彼の術のことも気になるが、こちらが先決だ。
彼とっては自分の言葉は異国の言語にでも聞こえるだろう。それでも、助けを求めているということが伝われば良い。ヒカリはそう願った。
『ああ、失敬……つい、べらべらと一人語りをしてしまいました』
彼は困ったように微笑み、頬をかくだけであった。こちらの意図は伝わなかったのだろう。
密かに肩を落とすヒカリに気づかない彼は、スラックスのポケットを探っていた。
『今どきは翻訳機を使えば言語の壁も……おや?』
出したはずの黒く長方形の箱を引っ込め、男はヒカリの腕をとった。それから首元にも視線を向けた。先ほどの戦いの最中、破壊された岩の破片が吹きつけたことで皮膚を切ったのだろう。純血ほどではないが、鬼の身体ならば治癒力は高い。放っておけば治るはずだ。
『怪我されてますね。まずは治療を優先しましょうか。これも仕事の一環ですからね』
彼は両手を絡ませ、跪くようにしゃがんだ。ヒカリの横髪が宙を揺蕩う。大気が捻じ曲がるようなこの感じ、周囲の魔力らしきものが動いているのだろうか。
『——癒しの奇跡を与えたまえ』
緑色の輝きが、ヒカリを包んだ。直後、内側に刺すような痛みがほとばしる。
徐々に増してゆくそれに声を漏らしかけた。その間際で、痛みはにわかに消えた。
腕を見れば、切り傷はあとかたもなく消えていた。
『……っ、ぅ、これは……回復の術か?』
温かい。見知らぬ奔流が、血脈を伝って全身に行き渡っている。
動かした腕が軽い。自分が思うよりも長い間、この身は重たく張り詰めていたのかもしれない。
『びっくりしましたか?東国では珍しいでしょう。これは回復魔法と言って、神の使いのみが扱え——』
『……ふ』
術の効能だろうか。ひどく安らかな心持ちになる。ヒカリは吐息をこぼし、おのずとほころんでいた。それはこの世界に追いやられてから、初めて浮かべた微笑みだった。
『……』
白髪の男は黙り込んでいる。回復の術が切れてからもヒカリの様子を見守っていた。ヒカリが覗き込むと、彼はわずかに目を見開き、その翠緑のような緑が揺らいだ。
『どうか、したのか……?』
ヒカリが首をかしげると、男は咳払いした。
『……いえ、なんでも』
夜が、深まっている。いつもならば、自分で作った小さな寝床で、眠りにつく時間だ。
このまま、死ぬこともなく、ただ生きるだけの日々に帰ろうか。また怪物があらわれることがあれば、どうなるかもわからないが、戦うことはできる。
ヒカリは、迷っていた。
本当に、自分は故郷に帰りたいのだろうか。
『……』
彼の袖を掴んでいた。勝手にそうしていた。
だが、何か言おうにも、口だけが意味もなく動くだけでできずじまいだった。
彼が離れてゆく。俯いていた顔を挙げると、男は背中を向けてその場に佇んでいた。欠けた月が彼を白銀に際立たせている。
『——ここではなんですから、よろしければ、家で話しませんか?』
『……え?』
背中を向けたまま、彼は何か言っている。眉をひそめたヒカリをよそに、男は、振り向いた。
『ずっと……森の中で暮らしていたんですよね? 服の替えや、食事、お風呂も貸します。いかがですか?』
『そなたは、なんと?』
彼は苦笑を溢し、懐から何かを取り出した。紙の束のようなものだった。細長い、筆のようなものを動かして、何か書いている。
不思議に思いながらもじっとしていると、彼はヒカリに紙面を見せてきた。
『……こんな感じです』
そこには、森の絵と、矢印、家と——男とヒカリらしき顔がふたつ並んでいた。
どれも柔らかく、可愛らしいタッチで描かれている。子どもに見せたら喜びそうだ。
いや、それよりも。
『よい、のか……?』
ヒカリは渡された絵と、自分を指さして、彼を見た。白髪の男は、うなずいた。
そしてまた手を差し伸べて、『よろしく』か、『もちろん』——多分、そう言った。
これが、テメノスとの出会いである。その時は少し泊めてもらうつもりでいた。けれど、言葉や常識を教えてもらったり、お礼に料理や洗濯をしたり……を繰り返しているうちに、いつの間にか、彼と暮らすようになっていた。
のちにヒカリは、彼にだけ自分が半鬼であることを明かした。彼は驚くことも恐れることもせず、受け入れてくれた。
あの時、安堵するとともに、とても嬉しかったのをよく覚えている。
もし、世界が拒んでも、彼だけは……
「……あ」
濡れたコップが、手のひらから滑り降りてしまった。幸い、プラスチック製なので割れることは免れた。
濡れた床を拭き取り、またコップを洗い流し、気づく。
拭き取るものがない。調理中に使っていたものは、古くなったので捨てたばかりである。
新しく買い換えた布巾は、おそらく脱衣所だ。日中の自分が、誤ってそこの棚に収めてしまったのだろう。迂闊だ。
ヒカリは脱衣所の扉の前にやってくると、耳をすませた。シャワーの音がする。テメノスはまだ浴室にいるようだ。
安堵したヒカリは、ドアノブを捻った。
洗剤混じりの水を溜め込んだ器に、自分の顔がゆらめいている。
ヒカリはふと、泡だらけの手を止めた。
半分は、鬼……
つい数刻前の彼の言葉を反芻すると、心臓のあたりがずきりと痛んだ。
水面から目を逸さぬまま、濡れた指で前髪を退かした。すると、額の片側にだけ生え伸ばされた角がよりあらわになった。鋭利な先端には塗されたかのような朱が色づいている。
目元には、等しく片方にしか無い斑点もある。これらがヒカリを鬼たらしめる証であった。
人間たちには悟られぬよう、扱える数少ないまじないで、ひとになりすましている。
ヒカリの故郷は、鬼——正確には夜叉という種族が住まう大国だ。人間の世界とは繋がっているが、その道は固く閉ざされており長年開かれてはいない。
ヒカリは国王と愛妾である人間の間に生まれた子である。王城内でも、外でも、角が片方しかないヒカリを蔑み、哀れに思う人間は少なくなかった。それでも、心優しい母親のことは敬愛していた。しかし、鬼にとっては短命種でもある人間の彼女はヒカリが成人を迎える前に世をさってしまった。
ようやく大人になる頃には、もう人々の囁きや視線に何も感じなくなっていた。ともに戦で背中を預け合った志のひとしい友人たちが、ヒカリの心の支えであった。その彼らも休戦と共に散り散りになり——季節がまた、ひと巡りした頃。義兄が反乱を起こした。城下町は火の海となり、多くの民の命が奪われてしまった。
ヒカリが父の元に駆けつけると、彼は無惨に殺されていた。
多量の血が水溜まりのように広がり、濃い匂いが鼻腔を満たした。虚ろな目が、ヒカリを捉えている気がした。
『ヒカリ……下等種の血を引く王家の欠陥品よ。お前を、故郷に帰してやろう』
義兄は仮面に覆われていない口元に、いびつな弧を描いた。
そして父の血で塗れた剣を地に突き立て、複雑な呪文を唱えた。幾重の紋様がほとばしり、鈍色の檻が形成される。逃げる隙も与えぬ間にヒカリを閉じ込めた。
人間の血を引いているためか、夜叉としての力は弱くヒカリに扱える術は少ない。
彼に対抗することは叶わなかった。目の前が黒で塗り潰され、酷い浮遊感に苛まれた。
そうやって落ちた先が、人間の世界だった。
見たこともない建物が並んでおり、食べ物や衣服の置かれてる場所では、人間で溢れていた。
ヒカリは角を隠し、街の中を彷徨った。彼らはなぜだか向こうのほうから近寄ってくる。しかし声をかけられたところで、言葉などわかるはずもなかった。
とにかく離れたくて、気配を消すまじないを使って走った。気づけば森の中に入り込んでいた。どこかに祖国に繋がる門はないのだろうか。漠然と願いながら歩いた。野生動物達はヒカリを見て距離を置いたが、大きな体躯の熊たちは違った。凶暴な彼らはヒカリを敵とみなし、襲いかかってきた。手持ちの剣はあったが、体術のみで事足りた。ヒカリの掌底撃ちを受け、最後には投げ飛ばされて熊は気絶した。しばらくして目覚めてからは、ヒカリを見るなり怯えたように逃げていった。
これ以降、襲いかかってくる動物はめっきりいなくなった。木と藁で住処を自分で作ってからは、より静かに過ごすことができた。暖かい季節だからか、果物や魚は豊富に採れ、食料にも案外困らなかった。
森で過ごすこと半月。日没までが長く、ようやく空が薄暗くなり始めた頃、 異変が生じた。
闖入者だ、と烏たちが騒ぎ立てているのが分かった。それに伴い、動物たちもすかさず姿を隠した。
ヒカリはしばらく身を潜めて様子を伺った。
人影——しかし、強い殺意を纏っている。
ヒカリは鬼の夜目を使った。その大きな影の全貌が明らかとなると、手に汗が滲むのを感じた。
目は紅く熟れるほど充血し、口端からは涎が垂れている。記憶にある街中の人間とはかけ離れた、腐った血肉にも似た匂いをまとっていた。
人間の形をしているが、人間ではない。ならば何だ? とにかく、胸騒ぎがする。ヒカリは悟られぬよう細心の注意を払いつつも、異形の後を追った。
彼ははだしで彷徨っては、辺りを見渡している。何かを探し回っているようにも見える。
その異形の行先について、ヒカリは頭を巡らせた。森のことはすでに擬似的な地図を浮かび上がらせるほど、覚え込んでいた。
この先には人間たちがときおり立ち寄る泉がある。山菜や木材用の木を刈るか、釣りをしている姿も見たことがある。
とはいえ、視界が悪くなる夕暮れ時にやってくる者は見たことがなかった。
奴の足取りは、間違いなくそちらへ向かっていた。ヒカリは先回りを試みた。泉の一端が見えてくるとともに、微かな声を拾い上げた。
最近、何度か訪れては水遊びをしている少女のものだ。親がついてくることもあるが、彼女ひとりだ。今日に限って——冷ややかな汗が背中を舐めた。
こうなったら、とヒカリは一度足を止め、大きく息を吸い込んで、飛び出した。
異形よりも先んじて少女から少し離れた茂みに辿り着いた。ヒカリは彼女に向かって叫んだ。
『化け物が来る——逃げろ!』
少女は声がした方を不思議そうに見つめ、首をかしげた。ヒカリは言葉が通じないのを失念していた。しかし、悔やんでいる猶予はなかった。
奴がこちらに気付き、殺気がたちどころにあふれ出した。手足を使って迫ってくる。素早い。先ほどまでの鈍い動きとは比にならない。
ヒカリは木や段差を使って誘導し、時間と距離を稼いだ。ここまで来たなら——もう少女には気がつきまい。
交戦するのにはちょうど良い木々のない広間がある。ヒカリはそこで足を止めた。
『……俺が相手だ、異形よ』
腰に携えていた刀の鯉口を切った。
異形は犬のように四つん這いになって構えていた。人間の理性は失ったのだろう。
己を殺す気でやってくる輩には、容赦などはしない。祖国ではそう心に決めて戦ってきた。この世界ではどうかは分からない。だが、人間の血をふんだんに吸ったこの生物が野放しにされることが許されるとは考えにくい。
腕が肥大していく。重厚な筋肉を金槌のように振り下ろした。地が大きく揺らぎ、円形に陥没した。ヒカリはそれに見向きもせず、再び打ち込まれた拳もかわす。体勢を一度も狂わせることなく、跳躍する。奴が飛び上がったヒカリに気付くまで、小さな猶予があった。強靭な鬼たちと比べれば、進行形で大きさを増している巨躯は、大した障壁には感じられなかった。
刀を振るう。迷いなき一筋は、青い空をも金色で切り裂くかのようであった。
異形の肉を貫き、多量の赤黒い血が噴き出した。
しかし。
分断するとまでは行かずとも、深い裂傷を刻み込んだはずであった。
異形は傷を抱えたまま、ヒカリを睨んでいた。痛覚など、備わっていないのか。疑いが浮上するのと同時に、腕が飛んでくる。ヒカリは軌道をずらし、そのまま重力に従って着地する。
この生き物のことはわからない。明確な弱点でもあるのかもしれない。
次に腹も斬ったが、倒れるどころかよろめく気配はなかった。血は、流れ続けているのだが。
頬を濡らしていた汗を拭う。そのままこちらが消耗し続けるのではないかという懸念が徐に浮上する。それに森の周囲には人間の住処がある。
異形は天に向かって吠えた。颶風が巻き起こり、木々が揺さぶられる。
『……ッ、ぐ』
なんと不快な咆哮なのか。耳の奥まで抉るような痛みが突き抜ける。辛うじて腕で庇いながら薄目を開けていたヒカリは、奴を仰いだ。
黒い塵か灰に似た細かいかけらが、降り注いだ。
異形の背中から、真っ黒な翼が生えていた。異形は呻きながら頭を抑えている。ヒカリの与えた傷がいまになって響いているのか、それとも、この変貌に耐えかねているのか。
ひときわ高く伸びた針葉樹に目をつけたヒカリは、幹を駆け上る。
異形の頭に、角が生えていた。だがヒカリとは異なり、額ではなく側頭部であり、色も見たこともない緋色だ。
もはや、巨人。遠い国の魔族か。
だとしても、人間が異種族になるなど聞いたこともない。
異形はこちらに身体を向けた。どう出る。刀を握る手に力を込めた。空気が変質し、棘のように皮膚を刺す。風が止んだ。
理を捻じ曲げるものがあるとすれば、それは。
『……上から来ますよ、避けて!』
誰かが、ヒカリに向かって叫んだ。
何を言ってるかは依然として分からないが、忠告だということは、直感的に理解できた。
咄嗟に木から飛び降りた。直後、異形は口から極太の光線を放った。
砂煙が薄らぐと、そばには木が僅かな株だけ残して散り散りになっていた。
それだけではない。緑は焼け、光線が伸びた先は全て焦土へと変わり果てていた。
——人間界は想像よりもずっと物騒だ。己を住まわせてくれたこの森を守るためにも、奴を斬る。先ほどの光線は消耗するのだろう、口を開いたまま佇立している。
剣に指を滑らせ、異形に肉薄しようとしたその手前。
『……待ってください』何者かが、ヒカリを呼び止めた。迷ってはいられないが、その人物は行く先を阻むようにヒカリの前に立った。
見たところ人間、大人の男だ。見れば、片手に彼の背丈以上はありそうな杖を握っている。
それだけではない。もう一方にも何か隠している。
これらが得物であるというのなら、この者は異形に挑むつもりなのか。見てくれだけなら痩身で非力そうに見える。異形相手では力負けしそうだが……。
『……悪魔と融合した人間が森に逃げ込んでいるかもしれない。そう聞いて駆けつけましたが——これほど弱っているのなら十分です。浄化は私にお任せを』
横目でヒカリを一瞥し、何かを言い終えた彼は杖を地に突き立てた。腰の手前ほどある白いローブが、持ち上げられたようにはためいた。
『……なんだ?』
突如として現れた分厚い書がひとりでに頁を繰る。淡い青色の光が男を包んだ。夜の闇に突然光明が差し込めたことで、ヒカリは思わず目を細めた。
何をしようとしているかは分からない。だが、彼を取り巻く神秘に思わず見入ってしまった。蛍にも似た光の玉が集まってきている。
やがて彼は瞼を無防備に閉ざした。透明な声で、未知の言葉を編む。
『聖火神エルフリックよ……力をお借りします』
これは、攻撃だ。術か何かだ。強大な力が、彼の元に集まってきている。
巨人が動き出す。澱んだ白目を、垂れてきた毛髪が隠した。
足踏みで足裏に振動が響く。ローブの男はバランスを崩しかけたが、怯まず呟いている。いや、詠唱を遂げようとしている。
分厚い書から文字が浮かび上がり、彼に収束し——
巨人の鉄槌が振り下ろされる。彼が気がつくそぶりはない。ヒカリはすぐさま飛び出した。間に合え、と願いながら。
『その導きの清光で——この世の影を照らしたまえ……ッ!』
彼の言葉が結び合わされた瞬間、ヒカリは吹き飛ばされた。激しい光の奔流が、巨人を中心にドーム状に拡大してゆく。
眩しい。目を閉じていても、ひとみの奥が灼かれてしまいそうだ。
『……っ、く』
術者本人たる彼は、悠然と立っている。白に覆われた中で、彼の横顔はいやにはっきりととらえられた。よくとおった鼻梁から上り、唯一の色彩であるかのような翠の瞳は、鋭く敵を待っていた。
異形は散った。肉片も血も残さず、黒い砂となって風にさらわれた。その粒子さえも跡形もなく消えてしまう。
あたりはしんと静まり返り、言葉がないままであると、耳鳴りがしそうなほどだった。
ややあって野鳥たちが木々に潜り込んだのが分かった。羽が一つ、乱れた土にはらりと落ちてきた。
白いローブの男がこちらを振り返った。
『……大丈夫ですか、お若い方』飛ばされて座ったままのヒカリに、彼は手を差し伸べてきた。剣を握ったこともなさそうな細くて繊細な指を見つめた。握れば良いのだろうか。おずおずと触れると、ヒカリを立たせてくれた。
『吃驚しましたよ。神聖魔法の直前に飛び出すものですから……あと少し早かったらどうなっていたか』
たぶん、困ったような顔をしている。
おそらくさっきの術。あれに飛び込んで行ったように見えたからだと思われる。
ヒカリは言葉に詰まった。彼に返答しても、通じることもないだろう。
だったらできるのは仕草しかない。ヒカリは詫びを込めて頭を下げた。じっと、つむじを見られている気がした。
顔を上げると、彼と目が合った。顎下を擦りながら、ヒカリをまじまじと見ている。
悪意ではなく好奇心でそうしているようには思われるが、徐々にいたたまれなくなる。
姿隠しの術はほどこしてあるので、彼からは人間にしか見えない。そうなるとこれは、森に人がいるもの珍しさによるものか。
『……なるほどね』彼は口元を緩ませ、森を見上げた。もうすっかり月明かりの目映い夜空から、今度は濃緑の葉が舞い降りた。『森が騒がしくなったと思ったら、やけに静かになった。前からそう耳にはしていましたが、そちらの方は……あなたのことでしたか』
『いや……』
何やら饒舌だが、ヒカリは眉を顰めるしかできない。
ひと通り語り終えたかと思えば、ずいと顔が近寄ってきた。ヒカリは息を飲む。すぐに離れたが、何か奇妙な心の揺れを感じた。
彼はどこもかしこも白かった。髪やまつ毛はきめ細く、月明かりで銀に艶めいていた。微かな影のゆらめきすらも彼のあえかな美しさを醸した。祖国では、無骨なものが多く、ここまで繊細な作りの男をヒカリは見たことがない。そのせいかもしれなかった。
『見ていましたよ。あなたの戦いぶりを。悪魔相手に見事なお手並でした。その装束、刀……"サムライ"なる存在が現代に現れるとは。いやはや、実に興味深いです。もしや、東国には"シノビ"も実在しているのでしょうか……』
言葉は長いのに全く澱みもなく、極めて滑らかだ。捉えようのない震えのなかに、彼の興奮の熱を内包している。つまるところ、彼は聞き心地の良い不思議な声をしている。ヒカリはうっかり理解しないまま頷いてしまいそうになる。
一旦落ち着こうと言い聞かせて、気付く。
こんなことを繰り返していれば、何の進展もなくただ時間だけが過ぎてゆくだけなのではないか。
徐々に焦りが湧いてくるが、これは好機かもしれないとも考えた。術を使いこなし、理知的な雰囲気を醸しているこの人間の男ならば、尋ねればヒカリに帰り道を教えてくれるかもしれない。
『……御仁よ。すまぬが、俺は訳あってこの森に迷い込んでしまった者なのだが……この場所……国の名前と、ここが世界のどこに位置するのかを教えてくれぬか?』
さっきの化け物や彼の術のことも気になるが、こちらが先決だ。
彼とっては自分の言葉は異国の言語にでも聞こえるだろう。それでも、助けを求めているということが伝われば良い。ヒカリはそう願った。
『ああ、失敬……つい、べらべらと一人語りをしてしまいました』
彼は困ったように微笑み、頬をかくだけであった。こちらの意図は伝わなかったのだろう。
密かに肩を落とすヒカリに気づかない彼は、スラックスのポケットを探っていた。
『今どきは翻訳機を使えば言語の壁も……おや?』
出したはずの黒く長方形の箱を引っ込め、男はヒカリの腕をとった。それから首元にも視線を向けた。先ほどの戦いの最中、破壊された岩の破片が吹きつけたことで皮膚を切ったのだろう。純血ほどではないが、鬼の身体ならば治癒力は高い。放っておけば治るはずだ。
『怪我されてますね。まずは治療を優先しましょうか。これも仕事の一環ですからね』
彼は両手を絡ませ、跪くようにしゃがんだ。ヒカリの横髪が宙を揺蕩う。大気が捻じ曲がるようなこの感じ、周囲の魔力らしきものが動いているのだろうか。
『——癒しの奇跡を与えたまえ』
緑色の輝きが、ヒカリを包んだ。直後、内側に刺すような痛みがほとばしる。
徐々に増してゆくそれに声を漏らしかけた。その間際で、痛みはにわかに消えた。
腕を見れば、切り傷はあとかたもなく消えていた。
『……っ、ぅ、これは……回復の術か?』
温かい。見知らぬ奔流が、血脈を伝って全身に行き渡っている。
動かした腕が軽い。自分が思うよりも長い間、この身は重たく張り詰めていたのかもしれない。
『びっくりしましたか?東国では珍しいでしょう。これは回復魔法と言って、神の使いのみが扱え——』
『……ふ』
術の効能だろうか。ひどく安らかな心持ちになる。ヒカリは吐息をこぼし、おのずとほころんでいた。それはこの世界に追いやられてから、初めて浮かべた微笑みだった。
『……』
白髪の男は黙り込んでいる。回復の術が切れてからもヒカリの様子を見守っていた。ヒカリが覗き込むと、彼はわずかに目を見開き、その翠緑のような緑が揺らいだ。
『どうか、したのか……?』
ヒカリが首をかしげると、男は咳払いした。
『……いえ、なんでも』
夜が、深まっている。いつもならば、自分で作った小さな寝床で、眠りにつく時間だ。
このまま、死ぬこともなく、ただ生きるだけの日々に帰ろうか。また怪物があらわれることがあれば、どうなるかもわからないが、戦うことはできる。
ヒカリは、迷っていた。
本当に、自分は故郷に帰りたいのだろうか。
『……』
彼の袖を掴んでいた。勝手にそうしていた。
だが、何か言おうにも、口だけが意味もなく動くだけでできずじまいだった。
彼が離れてゆく。俯いていた顔を挙げると、男は背中を向けてその場に佇んでいた。欠けた月が彼を白銀に際立たせている。
『——ここではなんですから、よろしければ、家で話しませんか?』
『……え?』
背中を向けたまま、彼は何か言っている。眉をひそめたヒカリをよそに、男は、振り向いた。
『ずっと……森の中で暮らしていたんですよね? 服の替えや、食事、お風呂も貸します。いかがですか?』
『そなたは、なんと?』
彼は苦笑を溢し、懐から何かを取り出した。紙の束のようなものだった。細長い、筆のようなものを動かして、何か書いている。
不思議に思いながらもじっとしていると、彼はヒカリに紙面を見せてきた。
『……こんな感じです』
そこには、森の絵と、矢印、家と——男とヒカリらしき顔がふたつ並んでいた。
どれも柔らかく、可愛らしいタッチで描かれている。子どもに見せたら喜びそうだ。
いや、それよりも。
『よい、のか……?』
ヒカリは渡された絵と、自分を指さして、彼を見た。白髪の男は、うなずいた。
そしてまた手を差し伸べて、『よろしく』か、『もちろん』——多分、そう言った。
これが、テメノスとの出会いである。その時は少し泊めてもらうつもりでいた。けれど、言葉や常識を教えてもらったり、お礼に料理や洗濯をしたり……を繰り返しているうちに、いつの間にか、彼と暮らすようになっていた。
のちにヒカリは、彼にだけ自分が半鬼であることを明かした。彼は驚くことも恐れることもせず、受け入れてくれた。
あの時、安堵するとともに、とても嬉しかったのをよく覚えている。
もし、世界が拒んでも、彼だけは……
「……あ」
濡れたコップが、手のひらから滑り降りてしまった。幸い、プラスチック製なので割れることは免れた。
濡れた床を拭き取り、またコップを洗い流し、気づく。
拭き取るものがない。調理中に使っていたものは、古くなったので捨てたばかりである。
新しく買い換えた布巾は、おそらく脱衣所だ。日中の自分が、誤ってそこの棚に収めてしまったのだろう。迂闊だ。
ヒカリは脱衣所の扉の前にやってくると、耳をすませた。シャワーの音がする。テメノスはまだ浴室にいるようだ。
安堵したヒカリは、ドアノブを捻った。
