半鬼ヒカリが、テメノスさんに拾われてなんやかんやあって愛の指輪を貰うお話
フレイムチャーチは、紅葉に彩られた聖火の街として名高い。
今や巡礼者の他に街の中核を担う大きな市場や紅葉狩り目当ての来客も多いこの地だが、200年も昔は教会と小さな集落の町であったという。
街から続く紅葉山道を超えた先には、大聖堂がある。広間には青い炎が絶えず揺らめいており、この澄んだ灯りが消えることは一度とてなかったとされている。
聖堂の内部には、ステンドグラスが三つの柱のように聳えている。そこから差し込める清洌な光明のなかに、聖火神エルフリックが慈愛の微笑みを浮かべる姿を見出すものもいるのだとか。
そんな神の膝元で暮らす人々もまた、皆温厚で、思いやりのあるもの達ばかりである。神のそばでは、悪さをすれば必ず罰が下るという教えもあってのことかもしれない。町民どうしの諍いを起こすこともなければ、夜中に盗みを働いたり、酒に溺れて人を殴ったりするということは滅多にない。
——当然ながら、悪魔の姿を見たものはこの地には誰一人としていない。
悪魔は人の心の隙間に入り込む。欲望をとらえ、誘惑を受け入れたものは魂を喰われてしまう。しかし、フレイムチャーチでは聖火神の加護が彼らを阻み、街に入り込むことを許さない。
街は長らく平穏そのものであった。
そんなフレイムチャーチでは最近、とある『噂』でもちきりだった。
新しく街まで越してきたという異国の青年。
それだけならばさして珍しくもない。しかし主に市街地の住民達にとって、彼は注目の的となっていた。
その彼は、週末前に市場へ必ず買い物にやってくる。東国のものとよく似たキモノと呼ばれる装いで、長い黒髪を一つに束ねあげている。
背丈は成人したての男たちよりもひとまわりは華奢だ。女人と見紛われることもしばしばある。しかし、彼のよく通った鼻梁や美しい一筆書きの眉、強い意志の宿った瞳はこの上なく男らしい。
人によって見え方が変わり、なぜだか目が離せなくなる。そんな不思議な青年の特性が、周囲を惹きつけているのかもしれなかった。
そんな彼にまつわる噂とはなんたるか? それは——
「ヒカリくん、毎度あり! またいらっしゃいね。いつでもまけたげるからねぇ」
市場の北通りにある小さな八百屋。噂の青年——ヒカリの行きつけである。奥方は、わざわざ店の出入り口に立って、ヒカリを見送っている。
ヒカリがふと振り返ると、彼女は手を振っていた。ヒカリも街道を歩きながら、それに応える。
しかし目立つのか、すれ違った何人かは自分を不思議そうに見ていた。少し恥ずかしくなったヒカリは、早足で通りから逃れ、人のいない休憩スペースに潜り込む。
今日もまた、野菜をまけてもらった。今回は普通の値段で良いと言ったのに、奥方の押しは強い。
代わりに、腰が痛いという店主の代わりに、木箱やコンテナを運び、仕分けも手伝った。
少しだけ袋の中を覗いてみると、なぜか買った覚えのないパプリカまでついていた。
これでは礼にならない。ヒカリは眉根をおろした。
ふぅ、と小さなため息ひとつ、雨上がりの湿った空気に消えてゆく。
気を取り直して帯の裏を探る。そこには買い物リストのメモが挟んである。
野菜と、調味料少し。あとは……
「……肉と卵だけ買っておくか」
今日はハンバーグにしようか。先週、『彼』の反応が良かったから、定期的に作ろうかと思っていたのだ。
肉屋は西通りにある。
この先にある細い路地を通れば近道なのだが——先週はあそこで観光客であろう男女が密かにくっつきあっていて気まずかったのを思い出す。
遠回りではあるが、一旦北通りを抜け、石階段を登って迂回することにした。
階段を抜けると、街を一望できる高台がある。大きな円形の中にあるカラフルな敷石を、周囲を銀色の柵が囲っている。中心には、簡素だが机や椅子も置いてある。
そこには今、少女の背中がひとつあるのみだった。よくよく見れば、欄干の手すりに手を引っ掛けようと背伸びをしている。
親の姿は見当たらない。ヒカリは怪訝に思い、そのまま足を止めた。
少女は背丈が足りないので、つま先を立たせたり、小さく跳ねたりを繰り返していた。やがて足を深く屈ませ、手すりに捕まった。そのままよじ登ってしまう。
小さな子供がそんなところにいては危ない。ヒカリは驚かすまいと足音を立てぬように距離を縮め、様子を伺った。
「ぅ、んん……もうちょっと」
どうやら、木の枝に帽子が引っかかってしまったらしい。
腕を懸命に伸ばすが、つばにかすめる程度である。
手すりに腰を据えていたが、痺れを切らした少女は身を乗り出した。
「えいっ! ……ひゃっ」
ヒカリは荷物を置き、素早く地面を蹴った。誰かがその様子を見ていたならば、跳躍するまでの動作が瞬きの間に行われたため、忽然と消えたように感じるだろう。
少女はバランスを崩し、数メートルはある石上に身体を無防備にぶつけまいとしている。
人間の身体は脆いということは、よく学んだつもりだ。ましてや子供ともなれば、命は簡単に失われてしまう。
躊躇いもなく、ヒカリは宙に飛び込んだ。
重力に逆らおうとする時、身体が久々に火照りを帯びてゆくのが分かった。素早く空を掻いて、少女に追いついた。両腕で掬い上げると、羽のように軽かった。おかげで着地も容易い。
少女を道脇に座らせてやり、今度は帽子について一瞬だけ、迷った。手っ取り早くて違和感も持たれにくいのは登る方だと決め、軽やかに幹を伝う。枝から帽子を外し、少女にかぶらせてやる。
「……怖かっただろう。怪我はないか?」
俯いた少女の顔をのぞくと、目尻に涙が滲んでいた。血の気が引いて白くなっていた頬は、おもむろに赤みを取り戻した。
ほどなくして、ヒカリと目が合うと、伏せていたまつ毛がゆったりと持ち上がる。幼いひとみは、この間食べたアーモンドというきのみに似ていた。
「あれ……わたし、さっき……どうしてここに?」
少女は混乱している様子だった。先ほどの落下のショックで、記憶が混濁しているのだろう。
ヒカリは高台を仰いだ。「そなたは、あそこからここまで落ちかけていたのだ」間に合って良かった。安心させるために微笑みかけたのだが、ほどなくして少女のくちびるは戦慄きはじめた。
「……うそ……」
寧ろ、動揺は増すばかりだった。ヒカリを食い入るほど見つめ、助けを訴えている。さきほどは十分に気を遣ったとはいっても、さっきの出来事のショックは人間にとってはずっと大きなものなのだろう。ヒカリにもわからない場所が弱ってしまったのかもしれない。
「……ッ、どこか、痛めたのか?」
ヒカリは少女の腕を取り、状態を伺った。
彼女は目を潤ませ、小刻みに震えている。一体どんな異常が起きているのか。こういう時に、博識な『彼』がいてくれたら……
「王子様みたい……」
「……え?」
少女はヒカリの手を両手に包んだ。そのかんばせは薔薇色に染まり、純粋な感慨と不可解なときめきに溢れている。
ヒカリは眉宇を曇らせた。王子、と呼ばれただけで、ここに来る前が過ぎる。それは記憶というより感情の束のなりをして、胸の奥をざわつかせた。
「……俺は王子などではないのだ。もう……」
つい、この口から溢していた。
しまった、と思い少女を見やる。意味が掴めないのか、小さな首を傾げている。
「どうしたの……?」
「いや……なんでもない」
かぶりを振った。曖昧だった口元を、硬く結ぶ。これが慣れたふりをした痛みなのだと思い知るのは、いまじゃなくていい。
「マリー……大丈夫!?」
少女を連れて親を探しに出たが、見つかるのは存外すぐだった。
元の場所にいないと気づいたのか、離れて時間が経つからか。彼女の母親は息を荒げながらこちらに駆け寄る。
「……ママ!」
両手を広げた母親に飛び込めば、子は強く抱きしめられ、頬ずりを受けている。
人がいる中では照れ臭いのか、ちょっと嫌そうに避けている。
「もう、心配したのよ! 急にいなくなるんだから。一人でどこかに行っちゃダメって言ったでしょう?」
「だ……だって……」
母の胸の温かさに安心したためか、少女は泣きじゃくった。
その様子を少し離れたところから見ていたヒカリは、懐かしい心持ちになった。自分も昔は、母に優しく抱きしめてもらう時があったのだ。
「——娘を助けていただき、本当にありがとうございます。あの、何かお礼を……」
少女がヒカリのことを話したようで、繰り返し頭を下げられた。「奥方よ。礼は要らぬ」
視線が重なったその瞬間、母親の表情が変わった気がした。
気遣わしげな色を宿した瞳が、熱に溶かされたように潤む。頬から耳にかけて、薔薇色に染まっていた。ヒカリは娘が無事であることに改めて感銘を受けているのだろう、と捉えていた。
「もう、目を離さぬようにな」
それだけ伝えて、踵を返した。高台に置き去りの荷物を軽やかに回収し終えたヒカリは、そのままいつものように歩き出した。
——ハンバーグ以外は何にしよう。汁物は、コンソメか味噌かどちらにしよう。さっぱりしたサラダに、あとは……『彼』が美味しいと褒めてくれるのが、日々のささやかな楽しみである。
足を進めるたび、ヒカリの頭の中は今日の献立についてで占められてゆく。
そんなヒカリの背中を、母娘は呆然と見送っていた。
◆
最後のヒカリの目的地は、煉瓦道の東通りを抜けた先にある。小庭に囲まれてひっそりとただすむ小洒落た喫茶店である。
ドアを開けた瞬間、チリン、と鈴の音が鳴る。これのおかげで、客の来訪が分かる仕組みなのだと最近気がついた。
人の話声が店内の香ばしい匂いに混じってなだれ込んでくる。ヒカリがやってくるたびに、賑わいが大きくなっている気がする。カウンターから、こちらに気づいたウエイトレスが顔を出す。
若い娘は、それがヒカリだと分かると、満開の花のような明るい笑顔を咲かせてみせた。
「わぁ、ヒカリくん、いらっしゃ……っ、ほげっ!」
彼女は舞う。木皮のように柔らかそうな茶髪が揺らぎ、ぱっちりとした瞳の上に、愛らしい睫毛が被さっているのが垣間見えた。また、襟足から伸びやかに編まれたおさげが、空中で波打つ。
綺麗なステップ……かと思いきや、決めぎわに足がもつれ、転んでしまう。
いつも唐突で、ヒカリでもまだ予測がつかない。
「怪我はないか?」ゆえにいつものように手を差し伸べてやるしかなかった。
「おーい、アグネア……またやってるのか?」
カウンターにいたガスもやって来た。やれやれといつのまにか取れていた髪留めを付け直してやっている。
彼はアグネアの幼馴染だ。とは言っても、途中でガスが引っ越したことで数年疎遠だったらしい。アグネアが進学に伴い、フレイムチャーチでアルバイト探しをしていたところで再会とのことだった。
「アグネアに、ガス殿。元気そうでよかった」
この二人には世話になっている。世間知らず——この世界に対する知識に乏しいヒカリのために、色々と教えてくれた。家で作る料理のレシピ、楽器の弾き方、勘定の仕方……など。
「あれ、今日は買い出しじゃないの?」
「ああ……」
今のヒカリはほとんど手ぶらなのを、アグネアが不思議がっている。これには訳があった。
助けた親子に、食事がダメならと近くの呉服屋で買ったというマフラーを贈られ、その後老人をおぶって家まで送ったら、酪農家の人だったらしく、たくさんの卵やチーズ、ミルクを渡された。そのあとは……いくつかは買う手間は省けたが、両手に積み上げた荷物は通行人の邪魔にもなる。
「荷物が増えてしまったからな。家まで置いてきたところだ」
「……え?」
困惑混じりの声を上げたのはガスである。ヒカリはきょとんとしている。
「どうした?」
「いや……確かあんたの家ってこっからだいぶ離れたところだったよな……?」
「? そうだが」
ガスは前に、ヒカリの家まで忘れ物を届けてくれたことがある。それで場所を覚えていたのだろう。
確か車という乗り物を使って来ていた。なんだか妙にかっこいいフォルムをしていた。ヒカリも触ってみたいが、免許とやらがないと操れないらしい。この手には届きそうにない。
他にも自転車やバイクなどと言ったものがあるが——荷物が入らないので抱えて歩くが早いのだ。
「いや……往復で六十キロはあったはずだぞ。どういう体力してんだべ」
ガスの訛り混じりの困惑をよそに、店の奥のスタッフ用扉が勢いよく開け放たれた。
「あらぁ〜、ヒカリくんじゃないの!」
「おお、店主殿」
お出ましたのは耳の下あたりまで髪を切り揃え、貝の耳飾りをつけた店の主。口調に反して、立派な体躯の男である。
「今日は、豆と茶葉を……」
「顔が見れて嬉しいわあ。せっかくだしくつろいで行きなさいな、ささ、どうぞ」
ヒカリの背中をぐいぐい押して、カウンターに座らせてしまった。
店主はヒカリをいたく気に入っているようだった。
そしてヒカリもまた、よくこの店の珈琲豆や茶葉を買い足しにきている。
最初は店主に誘われ、成り行きで譲ってもらったのだが、同居人がいたく気に入ったのだ。
この店は珈琲や紅茶のほかにケーキやパスタなどのメニューも味が良い。
スキップでもし始めそうなほど機嫌の良い店主は、ヒカリが注文した珈琲をすぐに出してくれた。
そしてさも当然のように、目新しいケーキもついてきた。
店主を見上げると、彼は満面の笑みでヒカリの前に腰をおろした。
「これ、新作の桃タルト。ヒカリくんに特別サービスね」
「む……」
また、サービスか。なんだかここに来るたびに食べさせてもらっている気がする。
取引には対価が必要だ。同居人の彼からは、そう聞いていたというのに、ヒカリが渡すものは、普通よりも少ない。それでは釣り合わない。
「その難しい顔も緩んじゃうわよ? それとも、私があーんで食べさせてあげても良いけどぉ」
店主はわざわざヒカリの右隣にやってきて、ヒカリを近くから眺めていた。彼を見ると、長いつけまつ毛を魅せるようにウインクしてみせた。
彼の言う『あーん』とやらは、食べ物を他人の口に運んでやることだろう。親が子供にしてやることもあれば、恋人や夫婦同士でやることもあるという——というヒカリからしてみれば人間の不思議な行動のひとつ。
このあいだ、『彼』に買ってきたお菓子か何かを、手渡そうとして、そのままぱくりと貰われてしまったことがある。『美味しいですね』と平気そうな反応。そのあと、彼に『この味も美味しいですよ』とヒカリも口で受け取ることになった。
これだけなのだが、妙に気恥ずかったのをよく覚えている。
タルトは、口の中で桃の果汁が解けて、クリーム、クッキー生地と口の中で交わる。その甘さの調和が不思議な多幸感をもたらし、胸が満ち満ちる。
甘いものは幸せになれるという言葉の意味が、今ならばよく分かる気がする。
食後に感謝を込めて手を合わせる。ヒカリの故郷の習慣として、今も欠かさない。
紙布巾で口元を拭い、ヒカリは『彼』から受け取った生活費の入った財布を手に取る。勘定しやすいよう、小銭が多めに入れてあるので膨らんでいる。
「店主殿、このけぇき、大変美味であった。して……値段はいくらになる? 今日こそはきちんと対価を払わせてくれぬか」
真剣な交渉である。財布を握り締め、無意識に力んでいるヒカリに対し、店主は肩を震わせた。
「うふふ、真面目ねぇ。そんなところも素敵よぉ」
「……はぐらかさないでくれ」
「いつもお店のもの買ってくれてるでしょ? そのお礼よぉ。それにヒカリくんが食べてるの見るは眼福。仕事の疲れも飛んじゃうわ」
「……む」
鼻先をつん、と突かれた。今の自分は寄り目になっているだろう。
店主の理屈は不可解で、やっぱりヒカリは腑に落ちない。
「オーナー!」
伝票を片手に掲げ、何やらガスは慌てた様子だった。
アグネアも忙しなく動き回っている。店内を見渡せば、ヒカリが尋ねるときには空いているはずの場所は、どこも埋まっている。
これには店主も、目を白黒させていた。
「うそぉ、満席なんていつぶり!?」
「五組様が待ち状態になっちまってるべ。手伝ってくださいよー!」
言っている最中にもガスはキッチンで、フライパンや鍋などを同時に相手している。店主の右腕ということもあり、その手際は確かなものであった。
しかしこうしている間にも、オーダーは増えてゆく。一枚終えるたびにまた数枚、と止まらない。
ガスの表情にも焦りがうかがえた。
「え、ええと……カフェオレのホットと、木苺のムースケーキに、イカスミのパスタ……ですね」
アグネアの方は、案内、会計、片付け、オーダー……と一人で回している。時折転びかけているが、久々の満席に張り切っていた。
しかし、入れ替わってゆく客たちを捌き続けていれば、当然疲れは出てくる。顧客が帰った後のテーブルの拭き残しが見られ、コーヒーゼリーのミルクの分量を間違えてしまうなど、少しずつ粗が見え始めていた。
店長の迅速なフォローであっても、外の客たちは増えてゆく一方だ。
元より人員の少ない店だ。応援を呼ぼうにも、都合が合わず難しい。
「んもう、猫の手も借りたいわあ……」
ヒカリは席を立ち、店主の元は歩み出した。
その時、なんとなく店の空気が変わった気がする。もの珍しいのか、皆がヒカリを見ていた。
なりふり構いはしない。いま、己がすべきことはただ一つのみだ。
作業ペースに入ってきたヒカリに、アグネアは驚いたように長いまつ毛を瞬かせた。
「……店主殿、俺にもできることはあるか?」
◆
喫茶リーフでは、毎週金曜の夕方にちょっとしたステージをやる。
元々オーナーが趣味でDJをしていたが、音楽学校生のアグネアが加わってからは歌と踊りも楽しめるようになった。
今日のこの忙しさでは来週に持ち越しだろうと諦めかけていたが——実現した。
ヒカリが突然手伝うと言い出したのだ。彼にデレデレなオーナーの抑止も振り切った。
厨房の皿洗いをあっという間に片付け、オーダー、簡単な仕上げを手伝ってくれた。
動きが止まる瞬間がない。重い荷物と徒歩であの町外れの遠い家を往復してきたとは思えない。体力が化け物レベルである。
舞台の間にはオーダーを締め切った。ガスは周囲を気にかけながら、軽い片付けを進めた。照明が落とされた中でひっそりとやるのは、コップ磨きがちょうど良い。綺麗になった硝子を眺めると、鮮やかなドレスで舞うアグネアの姿をありのままに閉じ込めているかのように見えた。この小さな成果が地味ながらに気持ち良い。
今回のステージには、功労者のヒカリも加わっている。
彼に自分やオーナーがギターやピアノを教えたらあっという間に覚えてしまったのだ。本人曰く、故郷の楽器と似ているらしい。
その旋律も、音楽好きで耳が肥えているガスからしても熟練者と遜色ない。
聴き入っているうちに、誰かの囁きが混じってきた。
「はあ……席取れてよかった。あんなに近くから彼を見れるなんて……」
「噂に聞いてたけど、彼、とってもキュートじゃないか」
「いやいや、あのお方はとてもハンサムなのですよ!」
「ああ……イイ。遠い昔の純情を思い出すよ」
若い娘から老紳士までもが、ヒカリに熱い視線を送っていた。
あれだけ市街地で噂になっているのなら、彼を追う人間がいてもおかしくはないか。
彼がこうも好意を向けられる決定的な理由は、ガスには分からないままだ。
ヒカリは、確かに見てくれが良い。男前なようで、美しい。この辺りはなぜか意見が分かれているが。
人柄も優しく真面目だ。世間知らずというよりかは、人間社会への知識が足りてないが……天然と言えば片付く。それに、自分とアグネアが教えれやれば素直に聞き入れる。
しかし——この程度で街丸ごと魅せるような存在になり得るのか。甚だ疑問だ。
ただ、半年ほど前初めて目の当たりにした時から、不思議と目が離せなくなる青年ではあった。
ガスには男に惹かれる趣味など微塵もない。だというのに、彼に優しく笑いかけられると、たまに妙にドギマギとさせられることがある。
それでもガスは、彼に落とされてはいない。そういう自覚ができるくらいには、平静だ。
なぜならば……
「みんな、アンコールありがとー!」
アグネアが、観客に向けて両手を振る。猛練習が身を結び、新曲を初披露を迎えたのだ。
真剣な表情で激しい動きをこなしたかと思えば、滑らかに翻し、艶やかな笑みを湛える。
普段は純朴な彼女の新たな顔に、胸を掴まれてしまうものだ。
現に、彼女に惚れ込んで喫茶に通っている人もいる。そして今日この日にも、彼女に元気をもらっている誰かが現れたただろう。
ヒカリは多くの人の心を惹き寄せる。それは確かだろう。
けれど——ガスにとって、最も輝く星はいつだってアグネアなのだ。それは小さな頃から変わっていない。純朴で、何があってもへこたれない。前向きな彼女に、何度も元気を貰ってきた。
「お疲れ、アグネア。今日も最高のステージだったな」
「えへへ、ありがと! ヒカリくんも今日はありがとね。いつもほんと頼りになるべ。演奏、とっても素敵だったよ」
「ああ……俺も、そなたの歌と踊りを楽しみにしていたからな。その手伝いができたのなら何よりだ」
アグネアの弾ける笑顔の前では、ヒカリも自然と綻んでいた。不思議な距離感で、ハイタッチなど交わしていた。
ガスは依然、アグネアがヒカリをどう捉えているのか尋ねてみたことがある。
彼女は友達だよ、とさも当たり前のように言い、澄んだ青い目でガスを覗き込んだ。嘘や誤魔化しを疑う余地もなかった。
つまりアグネアは、ヒカリの不思議な魅了にあてられていない。対等な友人として見ているのである。
「ヒカリくーん、こっちの手伝いお願いしても良いかしら?」
「ああ、今行こう」
ヒカリが離れてからほどなく、奥の方で物音が続いている。機材や什器をしまっているようだが、ヒカリの膂力を頼りにすれば早く終わる。
「ふんふーん」
舞台を終えて気分が高まっているアグネアは、磨いたばかりの床につま先を立て、くるくると回っていた。さながらバレリーナである。その片手にはスマホ。画面いっぱいに、アンコールのステージが流れている。
オーナーはちゃっかり今日のステージを撮ってあったようで、これを編集して動画サイトに上げる心づもりのようだ。
「今日はたくさんのお客さんたちに見てもらえて良かったあ。みんなが喜んでるのを見ると、私も、嬉しくなる! もっともっと、みんなを幸せにしたいなあ」
『みんなを幸せに』、か。ガスはその言葉を、胸の中で唱えた。今の時代に、他人の幸せを心から願える人間がどれだけいるだろう。アグネアのような輝きが生まれるから、希望を見失わないで生きられる。そんな人たちが確かにいる。
「ああ。叶えられるべ、アグネアなら……未来のスターなんだからな」
そっと肩を取り、拳を見せてやると、彼女は白い歯を隠さずにはにかんだ。記憶の中にある少女な頃のアグネアと、よく重なった。
「ガスが自分の店持てたら、私がそこに、一番に踊りに行きたいべ」
ガスは思わず何度も瞬いてしまう。自分の先のことは、あまりアグネアには話した覚えがなかった。
ガスは今、オーナーの元で経験を積んでいる。店を継ぐかどうかで迷ってもいた。もし、独立するなら……その頃には、アグネアは自分の手が届かないくらい大きくなっていそうだ。
「はは……っ、ああ、そうだな。ステージ用意しとかないとだ」
アグネアがそう言うなら、その道を選ぶのも良いかもしれない。ガスたちの故郷は森のそばにある小さな町だが、そこにカフェやバーを建てたら、賑やかになりそうだ。
「三人とも、今日は大盛況だったわねぇ!せっかくだしこのあとはお疲れ様会でもどうかしら。勿論、私の奢りよぉ〜」
片付けを終える手前、オーナーもちょうど終えてきたようだった。自分たちの知る定位置——店の黒い柱に半身をもたれかけ、杯を傾けるジェスチャーをする。
「わあ、もしかしてこの前新しくできたビュッフェに連れて行ってくれるんだべか!」
アグネアは嬉々と両手を叩く。たぶん、オーナーの行き先とは違うような気がするが、彼女はまだ酒が飲めない歳だし、いつも頑張ってくれている。ガスも乗ることにした。
「いいっすね。あそこのパスタの味は俺も気になってたべ」
元々、ガスは勉強のために町内や他の土地に赴くことがある。アグネアの言うビュッフェは、三つ星レストランで修行を積んだシェフが独立してできた店のようだ。少々お高いが、前から赴く機会を伺ってはいた。
気前の良いオーナーは親指を立てた。オーケーらしい。今日の売り上げで懐がかなり温まったのもあるのだろう。
「モチのロンよ〜ねぇ、ヒカリくんもどう? たまには……夜にしかできない深いお話をしましょうよ」
ヒカリに向け、繰り返しウインクをしてアピールしている。この間もヒカリに連絡先を聞いて断られていたと言うのに、彼は案外粘り強い。
ヒカリは申し訳なさげに柳眉をおろした。これは、今回も駄目そうだ。
「……誘いは嬉しいが……すまぬ。これから、夕食を作らねばならないのだ。帰らせてもらう」
「そっかあ〜またね、ヒカリくん! 今日はほんとにありがとね!」
アグネアは底抜けに明るい笑顔とともに、諸手を振った。彼女にはオーナーの恋心はまだ察するに至らないのだろう。多分。だが、それも今は間が良いといえる。
「お疲れ。暗くなってるから気をつけて帰れよ」
「そうねぇ。残念だけど……次も絶対来てちょうだいね」
「ああ、また来よう。こちらこそ、世話になった」
ヒカリは小さく手を振った。子供が覚えたての別れの挨拶であるかのようだった。
しかしガスはそんな彼のぎこちなさよりも、その指に煌めいているものに目がいった。自身の知る限りでは、片時もそれが外されている時はなかった。
「はあ……ヒカリくん……今日もダメだったわね。やっぱり、お家に指輪の相手が待ってるのかしら……」
ヒカリにフラれたオーナーをガスが引きずり、ようやく出立がかなった。愛車の調子は良好だが、オーナーは明らかにテンションが下がっている。
確かに、彼の薬指には銀の真新しい指輪がある。余計な装飾もなければ、まだ傷も錆もない。彼が店に訪れていくうちに、状態も分かってしまっていた。
「ああ、それ!」アグネアは身を乗り出そうとして、シートベルトに阻まれた。ついでに天井につむじをぶつけた。幸い、柔らかい素材であったためダメージは少なそうだった。
「よく噂されてるよね。ヒカリくんの相手は誰なんだーって……私も気になるべ。一体どんな人なんだろ?」
「さあなあ……誰も知らないんじゃないか?」
さして興味もないふうに肩をすくめたガスだが、本音を言えば、ほんの少し気になりはしていた。
ヒカリはセレブと婚約してるだとか、絶世の美女と共に隠居してるだとか、色々言われている。
あれほど周囲を惹きつける男を、誰がものにしたのかというのを、知りたい気はするのだ。だが、プライバシーは守られるべきともいえる。それに、この町の人間は皆人が良い。だから無理に本人に根掘り葉掘り聞いたり、跡をつけたりなどはしない。
夜の町のネオンが車の窓を次々通り抜けてゆく。ガスは両手を頭の後ろに組んだ。
「というか、オーナー。相手が居るヒカリにアプローチするのはいい加減やめたらどうっすか」
前から言おうとは思っていた。
オーナーの、良い男を見つけるたびにアプローチに夢中になる悪癖。これさえ治れば、彼は頼れるガスの師範と胸を張って言えるというのに。……でも、それとは別に彼の趣味というか、人生の楽しみみたいなのを邪魔するのも悪い気がしている。その感情の板挟みにあるのだ。
「そんなの、一度は諦めようとしたわよ? あんな指輪を見せられたらね。でも……」
「でも?」
オーナーは躊躇ったのか、言葉を切った。夜の街灯が時々よぎるものの、運転席のオーナーの横顔はよく見えない。絶え間なく揺れる耳飾りと、分厚い唇だけがよく動いているのがたまに分かるくらい。
「ヒカリくんに聞いたらね、教えてくれたの。相手がくれた指輪は大事にしてるみたいだけど——恋人も伴侶もいないって」
「えっ、それじゃあ意味も知らないままつけてるってこと?」
アグネアは驚いていたが、ガスは違っていた。……正直、ヒカリならあり得る、と思っている。
自分たちにとっての当たり前を、彼は知らなかった。
彼は見るからに東国出身っぽくはあるが、文化の違いというよりは、全く別の、ガスさえ名前の知らないところ——それこそ、常識が届かない場所が故郷なのかもしれない。
「本当よ。ヒカリくんがその人のことを好きかもしれなくても……気持ちもちゃんと伝えられないへタレが相手なら、まだ勝機はあるはずなのよ!」
オーナーがエンジンをふかした。大きな唸りは地底から跳ね返って響いてくるかのようだった。
「おー……」
ガスの力無い返答も掻き消された。やれやれ、と思う。
これはまた、いつものオーナーの失恋後のヤケ酒に付き合う未来が見えそうだ。
隣のアグネアを見れば、まさに眠りに落ちる寸前だった。ガスは上着を脱ぎ、そっと被せてやった。
今や巡礼者の他に街の中核を担う大きな市場や紅葉狩り目当ての来客も多いこの地だが、200年も昔は教会と小さな集落の町であったという。
街から続く紅葉山道を超えた先には、大聖堂がある。広間には青い炎が絶えず揺らめいており、この澄んだ灯りが消えることは一度とてなかったとされている。
聖堂の内部には、ステンドグラスが三つの柱のように聳えている。そこから差し込める清洌な光明のなかに、聖火神エルフリックが慈愛の微笑みを浮かべる姿を見出すものもいるのだとか。
そんな神の膝元で暮らす人々もまた、皆温厚で、思いやりのあるもの達ばかりである。神のそばでは、悪さをすれば必ず罰が下るという教えもあってのことかもしれない。町民どうしの諍いを起こすこともなければ、夜中に盗みを働いたり、酒に溺れて人を殴ったりするということは滅多にない。
——当然ながら、悪魔の姿を見たものはこの地には誰一人としていない。
悪魔は人の心の隙間に入り込む。欲望をとらえ、誘惑を受け入れたものは魂を喰われてしまう。しかし、フレイムチャーチでは聖火神の加護が彼らを阻み、街に入り込むことを許さない。
街は長らく平穏そのものであった。
そんなフレイムチャーチでは最近、とある『噂』でもちきりだった。
新しく街まで越してきたという異国の青年。
それだけならばさして珍しくもない。しかし主に市街地の住民達にとって、彼は注目の的となっていた。
その彼は、週末前に市場へ必ず買い物にやってくる。東国のものとよく似たキモノと呼ばれる装いで、長い黒髪を一つに束ねあげている。
背丈は成人したての男たちよりもひとまわりは華奢だ。女人と見紛われることもしばしばある。しかし、彼のよく通った鼻梁や美しい一筆書きの眉、強い意志の宿った瞳はこの上なく男らしい。
人によって見え方が変わり、なぜだか目が離せなくなる。そんな不思議な青年の特性が、周囲を惹きつけているのかもしれなかった。
そんな彼にまつわる噂とはなんたるか? それは——
「ヒカリくん、毎度あり! またいらっしゃいね。いつでもまけたげるからねぇ」
市場の北通りにある小さな八百屋。噂の青年——ヒカリの行きつけである。奥方は、わざわざ店の出入り口に立って、ヒカリを見送っている。
ヒカリがふと振り返ると、彼女は手を振っていた。ヒカリも街道を歩きながら、それに応える。
しかし目立つのか、すれ違った何人かは自分を不思議そうに見ていた。少し恥ずかしくなったヒカリは、早足で通りから逃れ、人のいない休憩スペースに潜り込む。
今日もまた、野菜をまけてもらった。今回は普通の値段で良いと言ったのに、奥方の押しは強い。
代わりに、腰が痛いという店主の代わりに、木箱やコンテナを運び、仕分けも手伝った。
少しだけ袋の中を覗いてみると、なぜか買った覚えのないパプリカまでついていた。
これでは礼にならない。ヒカリは眉根をおろした。
ふぅ、と小さなため息ひとつ、雨上がりの湿った空気に消えてゆく。
気を取り直して帯の裏を探る。そこには買い物リストのメモが挟んである。
野菜と、調味料少し。あとは……
「……肉と卵だけ買っておくか」
今日はハンバーグにしようか。先週、『彼』の反応が良かったから、定期的に作ろうかと思っていたのだ。
肉屋は西通りにある。
この先にある細い路地を通れば近道なのだが——先週はあそこで観光客であろう男女が密かにくっつきあっていて気まずかったのを思い出す。
遠回りではあるが、一旦北通りを抜け、石階段を登って迂回することにした。
階段を抜けると、街を一望できる高台がある。大きな円形の中にあるカラフルな敷石を、周囲を銀色の柵が囲っている。中心には、簡素だが机や椅子も置いてある。
そこには今、少女の背中がひとつあるのみだった。よくよく見れば、欄干の手すりに手を引っ掛けようと背伸びをしている。
親の姿は見当たらない。ヒカリは怪訝に思い、そのまま足を止めた。
少女は背丈が足りないので、つま先を立たせたり、小さく跳ねたりを繰り返していた。やがて足を深く屈ませ、手すりに捕まった。そのままよじ登ってしまう。
小さな子供がそんなところにいては危ない。ヒカリは驚かすまいと足音を立てぬように距離を縮め、様子を伺った。
「ぅ、んん……もうちょっと」
どうやら、木の枝に帽子が引っかかってしまったらしい。
腕を懸命に伸ばすが、つばにかすめる程度である。
手すりに腰を据えていたが、痺れを切らした少女は身を乗り出した。
「えいっ! ……ひゃっ」
ヒカリは荷物を置き、素早く地面を蹴った。誰かがその様子を見ていたならば、跳躍するまでの動作が瞬きの間に行われたため、忽然と消えたように感じるだろう。
少女はバランスを崩し、数メートルはある石上に身体を無防備にぶつけまいとしている。
人間の身体は脆いということは、よく学んだつもりだ。ましてや子供ともなれば、命は簡単に失われてしまう。
躊躇いもなく、ヒカリは宙に飛び込んだ。
重力に逆らおうとする時、身体が久々に火照りを帯びてゆくのが分かった。素早く空を掻いて、少女に追いついた。両腕で掬い上げると、羽のように軽かった。おかげで着地も容易い。
少女を道脇に座らせてやり、今度は帽子について一瞬だけ、迷った。手っ取り早くて違和感も持たれにくいのは登る方だと決め、軽やかに幹を伝う。枝から帽子を外し、少女にかぶらせてやる。
「……怖かっただろう。怪我はないか?」
俯いた少女の顔をのぞくと、目尻に涙が滲んでいた。血の気が引いて白くなっていた頬は、おもむろに赤みを取り戻した。
ほどなくして、ヒカリと目が合うと、伏せていたまつ毛がゆったりと持ち上がる。幼いひとみは、この間食べたアーモンドというきのみに似ていた。
「あれ……わたし、さっき……どうしてここに?」
少女は混乱している様子だった。先ほどの落下のショックで、記憶が混濁しているのだろう。
ヒカリは高台を仰いだ。「そなたは、あそこからここまで落ちかけていたのだ」間に合って良かった。安心させるために微笑みかけたのだが、ほどなくして少女のくちびるは戦慄きはじめた。
「……うそ……」
寧ろ、動揺は増すばかりだった。ヒカリを食い入るほど見つめ、助けを訴えている。さきほどは十分に気を遣ったとはいっても、さっきの出来事のショックは人間にとってはずっと大きなものなのだろう。ヒカリにもわからない場所が弱ってしまったのかもしれない。
「……ッ、どこか、痛めたのか?」
ヒカリは少女の腕を取り、状態を伺った。
彼女は目を潤ませ、小刻みに震えている。一体どんな異常が起きているのか。こういう時に、博識な『彼』がいてくれたら……
「王子様みたい……」
「……え?」
少女はヒカリの手を両手に包んだ。そのかんばせは薔薇色に染まり、純粋な感慨と不可解なときめきに溢れている。
ヒカリは眉宇を曇らせた。王子、と呼ばれただけで、ここに来る前が過ぎる。それは記憶というより感情の束のなりをして、胸の奥をざわつかせた。
「……俺は王子などではないのだ。もう……」
つい、この口から溢していた。
しまった、と思い少女を見やる。意味が掴めないのか、小さな首を傾げている。
「どうしたの……?」
「いや……なんでもない」
かぶりを振った。曖昧だった口元を、硬く結ぶ。これが慣れたふりをした痛みなのだと思い知るのは、いまじゃなくていい。
「マリー……大丈夫!?」
少女を連れて親を探しに出たが、見つかるのは存外すぐだった。
元の場所にいないと気づいたのか、離れて時間が経つからか。彼女の母親は息を荒げながらこちらに駆け寄る。
「……ママ!」
両手を広げた母親に飛び込めば、子は強く抱きしめられ、頬ずりを受けている。
人がいる中では照れ臭いのか、ちょっと嫌そうに避けている。
「もう、心配したのよ! 急にいなくなるんだから。一人でどこかに行っちゃダメって言ったでしょう?」
「だ……だって……」
母の胸の温かさに安心したためか、少女は泣きじゃくった。
その様子を少し離れたところから見ていたヒカリは、懐かしい心持ちになった。自分も昔は、母に優しく抱きしめてもらう時があったのだ。
「——娘を助けていただき、本当にありがとうございます。あの、何かお礼を……」
少女がヒカリのことを話したようで、繰り返し頭を下げられた。「奥方よ。礼は要らぬ」
視線が重なったその瞬間、母親の表情が変わった気がした。
気遣わしげな色を宿した瞳が、熱に溶かされたように潤む。頬から耳にかけて、薔薇色に染まっていた。ヒカリは娘が無事であることに改めて感銘を受けているのだろう、と捉えていた。
「もう、目を離さぬようにな」
それだけ伝えて、踵を返した。高台に置き去りの荷物を軽やかに回収し終えたヒカリは、そのままいつものように歩き出した。
——ハンバーグ以外は何にしよう。汁物は、コンソメか味噌かどちらにしよう。さっぱりしたサラダに、あとは……『彼』が美味しいと褒めてくれるのが、日々のささやかな楽しみである。
足を進めるたび、ヒカリの頭の中は今日の献立についてで占められてゆく。
そんなヒカリの背中を、母娘は呆然と見送っていた。
◆
最後のヒカリの目的地は、煉瓦道の東通りを抜けた先にある。小庭に囲まれてひっそりとただすむ小洒落た喫茶店である。
ドアを開けた瞬間、チリン、と鈴の音が鳴る。これのおかげで、客の来訪が分かる仕組みなのだと最近気がついた。
人の話声が店内の香ばしい匂いに混じってなだれ込んでくる。ヒカリがやってくるたびに、賑わいが大きくなっている気がする。カウンターから、こちらに気づいたウエイトレスが顔を出す。
若い娘は、それがヒカリだと分かると、満開の花のような明るい笑顔を咲かせてみせた。
「わぁ、ヒカリくん、いらっしゃ……っ、ほげっ!」
彼女は舞う。木皮のように柔らかそうな茶髪が揺らぎ、ぱっちりとした瞳の上に、愛らしい睫毛が被さっているのが垣間見えた。また、襟足から伸びやかに編まれたおさげが、空中で波打つ。
綺麗なステップ……かと思いきや、決めぎわに足がもつれ、転んでしまう。
いつも唐突で、ヒカリでもまだ予測がつかない。
「怪我はないか?」ゆえにいつものように手を差し伸べてやるしかなかった。
「おーい、アグネア……またやってるのか?」
カウンターにいたガスもやって来た。やれやれといつのまにか取れていた髪留めを付け直してやっている。
彼はアグネアの幼馴染だ。とは言っても、途中でガスが引っ越したことで数年疎遠だったらしい。アグネアが進学に伴い、フレイムチャーチでアルバイト探しをしていたところで再会とのことだった。
「アグネアに、ガス殿。元気そうでよかった」
この二人には世話になっている。世間知らず——この世界に対する知識に乏しいヒカリのために、色々と教えてくれた。家で作る料理のレシピ、楽器の弾き方、勘定の仕方……など。
「あれ、今日は買い出しじゃないの?」
「ああ……」
今のヒカリはほとんど手ぶらなのを、アグネアが不思議がっている。これには訳があった。
助けた親子に、食事がダメならと近くの呉服屋で買ったというマフラーを贈られ、その後老人をおぶって家まで送ったら、酪農家の人だったらしく、たくさんの卵やチーズ、ミルクを渡された。そのあとは……いくつかは買う手間は省けたが、両手に積み上げた荷物は通行人の邪魔にもなる。
「荷物が増えてしまったからな。家まで置いてきたところだ」
「……え?」
困惑混じりの声を上げたのはガスである。ヒカリはきょとんとしている。
「どうした?」
「いや……確かあんたの家ってこっからだいぶ離れたところだったよな……?」
「? そうだが」
ガスは前に、ヒカリの家まで忘れ物を届けてくれたことがある。それで場所を覚えていたのだろう。
確か車という乗り物を使って来ていた。なんだか妙にかっこいいフォルムをしていた。ヒカリも触ってみたいが、免許とやらがないと操れないらしい。この手には届きそうにない。
他にも自転車やバイクなどと言ったものがあるが——荷物が入らないので抱えて歩くが早いのだ。
「いや……往復で六十キロはあったはずだぞ。どういう体力してんだべ」
ガスの訛り混じりの困惑をよそに、店の奥のスタッフ用扉が勢いよく開け放たれた。
「あらぁ〜、ヒカリくんじゃないの!」
「おお、店主殿」
お出ましたのは耳の下あたりまで髪を切り揃え、貝の耳飾りをつけた店の主。口調に反して、立派な体躯の男である。
「今日は、豆と茶葉を……」
「顔が見れて嬉しいわあ。せっかくだしくつろいで行きなさいな、ささ、どうぞ」
ヒカリの背中をぐいぐい押して、カウンターに座らせてしまった。
店主はヒカリをいたく気に入っているようだった。
そしてヒカリもまた、よくこの店の珈琲豆や茶葉を買い足しにきている。
最初は店主に誘われ、成り行きで譲ってもらったのだが、同居人がいたく気に入ったのだ。
この店は珈琲や紅茶のほかにケーキやパスタなどのメニューも味が良い。
スキップでもし始めそうなほど機嫌の良い店主は、ヒカリが注文した珈琲をすぐに出してくれた。
そしてさも当然のように、目新しいケーキもついてきた。
店主を見上げると、彼は満面の笑みでヒカリの前に腰をおろした。
「これ、新作の桃タルト。ヒカリくんに特別サービスね」
「む……」
また、サービスか。なんだかここに来るたびに食べさせてもらっている気がする。
取引には対価が必要だ。同居人の彼からは、そう聞いていたというのに、ヒカリが渡すものは、普通よりも少ない。それでは釣り合わない。
「その難しい顔も緩んじゃうわよ? それとも、私があーんで食べさせてあげても良いけどぉ」
店主はわざわざヒカリの右隣にやってきて、ヒカリを近くから眺めていた。彼を見ると、長いつけまつ毛を魅せるようにウインクしてみせた。
彼の言う『あーん』とやらは、食べ物を他人の口に運んでやることだろう。親が子供にしてやることもあれば、恋人や夫婦同士でやることもあるという——というヒカリからしてみれば人間の不思議な行動のひとつ。
このあいだ、『彼』に買ってきたお菓子か何かを、手渡そうとして、そのままぱくりと貰われてしまったことがある。『美味しいですね』と平気そうな反応。そのあと、彼に『この味も美味しいですよ』とヒカリも口で受け取ることになった。
これだけなのだが、妙に気恥ずかったのをよく覚えている。
タルトは、口の中で桃の果汁が解けて、クリーム、クッキー生地と口の中で交わる。その甘さの調和が不思議な多幸感をもたらし、胸が満ち満ちる。
甘いものは幸せになれるという言葉の意味が、今ならばよく分かる気がする。
食後に感謝を込めて手を合わせる。ヒカリの故郷の習慣として、今も欠かさない。
紙布巾で口元を拭い、ヒカリは『彼』から受け取った生活費の入った財布を手に取る。勘定しやすいよう、小銭が多めに入れてあるので膨らんでいる。
「店主殿、このけぇき、大変美味であった。して……値段はいくらになる? 今日こそはきちんと対価を払わせてくれぬか」
真剣な交渉である。財布を握り締め、無意識に力んでいるヒカリに対し、店主は肩を震わせた。
「うふふ、真面目ねぇ。そんなところも素敵よぉ」
「……はぐらかさないでくれ」
「いつもお店のもの買ってくれてるでしょ? そのお礼よぉ。それにヒカリくんが食べてるの見るは眼福。仕事の疲れも飛んじゃうわ」
「……む」
鼻先をつん、と突かれた。今の自分は寄り目になっているだろう。
店主の理屈は不可解で、やっぱりヒカリは腑に落ちない。
「オーナー!」
伝票を片手に掲げ、何やらガスは慌てた様子だった。
アグネアも忙しなく動き回っている。店内を見渡せば、ヒカリが尋ねるときには空いているはずの場所は、どこも埋まっている。
これには店主も、目を白黒させていた。
「うそぉ、満席なんていつぶり!?」
「五組様が待ち状態になっちまってるべ。手伝ってくださいよー!」
言っている最中にもガスはキッチンで、フライパンや鍋などを同時に相手している。店主の右腕ということもあり、その手際は確かなものであった。
しかしこうしている間にも、オーダーは増えてゆく。一枚終えるたびにまた数枚、と止まらない。
ガスの表情にも焦りがうかがえた。
「え、ええと……カフェオレのホットと、木苺のムースケーキに、イカスミのパスタ……ですね」
アグネアの方は、案内、会計、片付け、オーダー……と一人で回している。時折転びかけているが、久々の満席に張り切っていた。
しかし、入れ替わってゆく客たちを捌き続けていれば、当然疲れは出てくる。顧客が帰った後のテーブルの拭き残しが見られ、コーヒーゼリーのミルクの分量を間違えてしまうなど、少しずつ粗が見え始めていた。
店長の迅速なフォローであっても、外の客たちは増えてゆく一方だ。
元より人員の少ない店だ。応援を呼ぼうにも、都合が合わず難しい。
「んもう、猫の手も借りたいわあ……」
ヒカリは席を立ち、店主の元は歩み出した。
その時、なんとなく店の空気が変わった気がする。もの珍しいのか、皆がヒカリを見ていた。
なりふり構いはしない。いま、己がすべきことはただ一つのみだ。
作業ペースに入ってきたヒカリに、アグネアは驚いたように長いまつ毛を瞬かせた。
「……店主殿、俺にもできることはあるか?」
◆
喫茶リーフでは、毎週金曜の夕方にちょっとしたステージをやる。
元々オーナーが趣味でDJをしていたが、音楽学校生のアグネアが加わってからは歌と踊りも楽しめるようになった。
今日のこの忙しさでは来週に持ち越しだろうと諦めかけていたが——実現した。
ヒカリが突然手伝うと言い出したのだ。彼にデレデレなオーナーの抑止も振り切った。
厨房の皿洗いをあっという間に片付け、オーダー、簡単な仕上げを手伝ってくれた。
動きが止まる瞬間がない。重い荷物と徒歩であの町外れの遠い家を往復してきたとは思えない。体力が化け物レベルである。
舞台の間にはオーダーを締め切った。ガスは周囲を気にかけながら、軽い片付けを進めた。照明が落とされた中でひっそりとやるのは、コップ磨きがちょうど良い。綺麗になった硝子を眺めると、鮮やかなドレスで舞うアグネアの姿をありのままに閉じ込めているかのように見えた。この小さな成果が地味ながらに気持ち良い。
今回のステージには、功労者のヒカリも加わっている。
彼に自分やオーナーがギターやピアノを教えたらあっという間に覚えてしまったのだ。本人曰く、故郷の楽器と似ているらしい。
その旋律も、音楽好きで耳が肥えているガスからしても熟練者と遜色ない。
聴き入っているうちに、誰かの囁きが混じってきた。
「はあ……席取れてよかった。あんなに近くから彼を見れるなんて……」
「噂に聞いてたけど、彼、とってもキュートじゃないか」
「いやいや、あのお方はとてもハンサムなのですよ!」
「ああ……イイ。遠い昔の純情を思い出すよ」
若い娘から老紳士までもが、ヒカリに熱い視線を送っていた。
あれだけ市街地で噂になっているのなら、彼を追う人間がいてもおかしくはないか。
彼がこうも好意を向けられる決定的な理由は、ガスには分からないままだ。
ヒカリは、確かに見てくれが良い。男前なようで、美しい。この辺りはなぜか意見が分かれているが。
人柄も優しく真面目だ。世間知らずというよりかは、人間社会への知識が足りてないが……天然と言えば片付く。それに、自分とアグネアが教えれやれば素直に聞き入れる。
しかし——この程度で街丸ごと魅せるような存在になり得るのか。甚だ疑問だ。
ただ、半年ほど前初めて目の当たりにした時から、不思議と目が離せなくなる青年ではあった。
ガスには男に惹かれる趣味など微塵もない。だというのに、彼に優しく笑いかけられると、たまに妙にドギマギとさせられることがある。
それでもガスは、彼に落とされてはいない。そういう自覚ができるくらいには、平静だ。
なぜならば……
「みんな、アンコールありがとー!」
アグネアが、観客に向けて両手を振る。猛練習が身を結び、新曲を初披露を迎えたのだ。
真剣な表情で激しい動きをこなしたかと思えば、滑らかに翻し、艶やかな笑みを湛える。
普段は純朴な彼女の新たな顔に、胸を掴まれてしまうものだ。
現に、彼女に惚れ込んで喫茶に通っている人もいる。そして今日この日にも、彼女に元気をもらっている誰かが現れたただろう。
ヒカリは多くの人の心を惹き寄せる。それは確かだろう。
けれど——ガスにとって、最も輝く星はいつだってアグネアなのだ。それは小さな頃から変わっていない。純朴で、何があってもへこたれない。前向きな彼女に、何度も元気を貰ってきた。
「お疲れ、アグネア。今日も最高のステージだったな」
「えへへ、ありがと! ヒカリくんも今日はありがとね。いつもほんと頼りになるべ。演奏、とっても素敵だったよ」
「ああ……俺も、そなたの歌と踊りを楽しみにしていたからな。その手伝いができたのなら何よりだ」
アグネアの弾ける笑顔の前では、ヒカリも自然と綻んでいた。不思議な距離感で、ハイタッチなど交わしていた。
ガスは依然、アグネアがヒカリをどう捉えているのか尋ねてみたことがある。
彼女は友達だよ、とさも当たり前のように言い、澄んだ青い目でガスを覗き込んだ。嘘や誤魔化しを疑う余地もなかった。
つまりアグネアは、ヒカリの不思議な魅了にあてられていない。対等な友人として見ているのである。
「ヒカリくーん、こっちの手伝いお願いしても良いかしら?」
「ああ、今行こう」
ヒカリが離れてからほどなく、奥の方で物音が続いている。機材や什器をしまっているようだが、ヒカリの膂力を頼りにすれば早く終わる。
「ふんふーん」
舞台を終えて気分が高まっているアグネアは、磨いたばかりの床につま先を立て、くるくると回っていた。さながらバレリーナである。その片手にはスマホ。画面いっぱいに、アンコールのステージが流れている。
オーナーはちゃっかり今日のステージを撮ってあったようで、これを編集して動画サイトに上げる心づもりのようだ。
「今日はたくさんのお客さんたちに見てもらえて良かったあ。みんなが喜んでるのを見ると、私も、嬉しくなる! もっともっと、みんなを幸せにしたいなあ」
『みんなを幸せに』、か。ガスはその言葉を、胸の中で唱えた。今の時代に、他人の幸せを心から願える人間がどれだけいるだろう。アグネアのような輝きが生まれるから、希望を見失わないで生きられる。そんな人たちが確かにいる。
「ああ。叶えられるべ、アグネアなら……未来のスターなんだからな」
そっと肩を取り、拳を見せてやると、彼女は白い歯を隠さずにはにかんだ。記憶の中にある少女な頃のアグネアと、よく重なった。
「ガスが自分の店持てたら、私がそこに、一番に踊りに行きたいべ」
ガスは思わず何度も瞬いてしまう。自分の先のことは、あまりアグネアには話した覚えがなかった。
ガスは今、オーナーの元で経験を積んでいる。店を継ぐかどうかで迷ってもいた。もし、独立するなら……その頃には、アグネアは自分の手が届かないくらい大きくなっていそうだ。
「はは……っ、ああ、そうだな。ステージ用意しとかないとだ」
アグネアがそう言うなら、その道を選ぶのも良いかもしれない。ガスたちの故郷は森のそばにある小さな町だが、そこにカフェやバーを建てたら、賑やかになりそうだ。
「三人とも、今日は大盛況だったわねぇ!せっかくだしこのあとはお疲れ様会でもどうかしら。勿論、私の奢りよぉ〜」
片付けを終える手前、オーナーもちょうど終えてきたようだった。自分たちの知る定位置——店の黒い柱に半身をもたれかけ、杯を傾けるジェスチャーをする。
「わあ、もしかしてこの前新しくできたビュッフェに連れて行ってくれるんだべか!」
アグネアは嬉々と両手を叩く。たぶん、オーナーの行き先とは違うような気がするが、彼女はまだ酒が飲めない歳だし、いつも頑張ってくれている。ガスも乗ることにした。
「いいっすね。あそこのパスタの味は俺も気になってたべ」
元々、ガスは勉強のために町内や他の土地に赴くことがある。アグネアの言うビュッフェは、三つ星レストランで修行を積んだシェフが独立してできた店のようだ。少々お高いが、前から赴く機会を伺ってはいた。
気前の良いオーナーは親指を立てた。オーケーらしい。今日の売り上げで懐がかなり温まったのもあるのだろう。
「モチのロンよ〜ねぇ、ヒカリくんもどう? たまには……夜にしかできない深いお話をしましょうよ」
ヒカリに向け、繰り返しウインクをしてアピールしている。この間もヒカリに連絡先を聞いて断られていたと言うのに、彼は案外粘り強い。
ヒカリは申し訳なさげに柳眉をおろした。これは、今回も駄目そうだ。
「……誘いは嬉しいが……すまぬ。これから、夕食を作らねばならないのだ。帰らせてもらう」
「そっかあ〜またね、ヒカリくん! 今日はほんとにありがとね!」
アグネアは底抜けに明るい笑顔とともに、諸手を振った。彼女にはオーナーの恋心はまだ察するに至らないのだろう。多分。だが、それも今は間が良いといえる。
「お疲れ。暗くなってるから気をつけて帰れよ」
「そうねぇ。残念だけど……次も絶対来てちょうだいね」
「ああ、また来よう。こちらこそ、世話になった」
ヒカリは小さく手を振った。子供が覚えたての別れの挨拶であるかのようだった。
しかしガスはそんな彼のぎこちなさよりも、その指に煌めいているものに目がいった。自身の知る限りでは、片時もそれが外されている時はなかった。
「はあ……ヒカリくん……今日もダメだったわね。やっぱり、お家に指輪の相手が待ってるのかしら……」
ヒカリにフラれたオーナーをガスが引きずり、ようやく出立がかなった。愛車の調子は良好だが、オーナーは明らかにテンションが下がっている。
確かに、彼の薬指には銀の真新しい指輪がある。余計な装飾もなければ、まだ傷も錆もない。彼が店に訪れていくうちに、状態も分かってしまっていた。
「ああ、それ!」アグネアは身を乗り出そうとして、シートベルトに阻まれた。ついでに天井につむじをぶつけた。幸い、柔らかい素材であったためダメージは少なそうだった。
「よく噂されてるよね。ヒカリくんの相手は誰なんだーって……私も気になるべ。一体どんな人なんだろ?」
「さあなあ……誰も知らないんじゃないか?」
さして興味もないふうに肩をすくめたガスだが、本音を言えば、ほんの少し気になりはしていた。
ヒカリはセレブと婚約してるだとか、絶世の美女と共に隠居してるだとか、色々言われている。
あれほど周囲を惹きつける男を、誰がものにしたのかというのを、知りたい気はするのだ。だが、プライバシーは守られるべきともいえる。それに、この町の人間は皆人が良い。だから無理に本人に根掘り葉掘り聞いたり、跡をつけたりなどはしない。
夜の町のネオンが車の窓を次々通り抜けてゆく。ガスは両手を頭の後ろに組んだ。
「というか、オーナー。相手が居るヒカリにアプローチするのはいい加減やめたらどうっすか」
前から言おうとは思っていた。
オーナーの、良い男を見つけるたびにアプローチに夢中になる悪癖。これさえ治れば、彼は頼れるガスの師範と胸を張って言えるというのに。……でも、それとは別に彼の趣味というか、人生の楽しみみたいなのを邪魔するのも悪い気がしている。その感情の板挟みにあるのだ。
「そんなの、一度は諦めようとしたわよ? あんな指輪を見せられたらね。でも……」
「でも?」
オーナーは躊躇ったのか、言葉を切った。夜の街灯が時々よぎるものの、運転席のオーナーの横顔はよく見えない。絶え間なく揺れる耳飾りと、分厚い唇だけがよく動いているのがたまに分かるくらい。
「ヒカリくんに聞いたらね、教えてくれたの。相手がくれた指輪は大事にしてるみたいだけど——恋人も伴侶もいないって」
「えっ、それじゃあ意味も知らないままつけてるってこと?」
アグネアは驚いていたが、ガスは違っていた。……正直、ヒカリならあり得る、と思っている。
自分たちにとっての当たり前を、彼は知らなかった。
彼は見るからに東国出身っぽくはあるが、文化の違いというよりは、全く別の、ガスさえ名前の知らないところ——それこそ、常識が届かない場所が故郷なのかもしれない。
「本当よ。ヒカリくんがその人のことを好きかもしれなくても……気持ちもちゃんと伝えられないへタレが相手なら、まだ勝機はあるはずなのよ!」
オーナーがエンジンをふかした。大きな唸りは地底から跳ね返って響いてくるかのようだった。
「おー……」
ガスの力無い返答も掻き消された。やれやれ、と思う。
これはまた、いつものオーナーの失恋後のヤケ酒に付き合う未来が見えそうだ。
隣のアグネアを見れば、まさに眠りに落ちる寸前だった。ガスは上着を脱ぎ、そっと被せてやった。
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