恋のつくりかた



リオという少年はずっと独りぼっちだった。
物心ついた時には教会に居た。親の顔も知らなかったし、聞こうという気にもならなかった。
耳障りな鍋を叩く音と共に朝を迎え、祈りをし、掃除と洗濯と料理の手伝いをする。街を回って人の悩みや雑談を聞いたり、聖書の中身を聞かせたり。
そんな日々を繰り返さなくてはならなかった。少し風邪を引いて多少気怠かろうが、街の女の子と目が合うのが恥ずかしかろうが、神官の勤めは果たさなくてはならない。人々を導くのが神の使いである自分たちの使命なのだから。
少し丈の長い白いローブは、あの聖火神エルフリックの使徒たる証であり、リオは別に望んだわけでもないが、なんとなく誇らしかった。
神様に認められたっていう高尚なものでもないが、着ているだけでリオの存在そのものに意味があるように思えたのだ。

リオは、自分なりにやってきたつもりだった。人より少し不器用だったが、それでも大人たちの言うとおりにしていた。人の話を聞くのは良いが、自分から話すのは苦手だったが、教えを諳んじることはかろうじてできていたはずだ。
魔法だって、頑張って聖句を紐解こうとした。だが、文字をなぞる指が震え、額や首筋に冷や汗が溢れ出してきて気が遠くなる。
一度倒れてしまってからも練習をしたが、周りはなんて事のないようにできるのに、聖典の簡単な聖句すら、中々覚えられない始末。リオは打ちのめされていった。
そのうち、リオは皆から除け者にされていた。
出来損ないのレッテルを貼り付けられていた。直接罵られることもあれば、通りがかりに噂話のふりをして囁かれることもある。
リオは彼らに対して早々に見切りをつけていた。話しても無駄だと思ったのだ。物を投げられたり、落とし穴に入れられたりしても、ただ黙っていた。お腹の奥が煮えたみたいに熱かったし、時折涙が出てきたが、それでも堪えていた。
教会の司祭や日々あくせく動き回っている女神官たちは、悪童たちを叱りつけるし、一人蹲っているリオに声もかけてきた。
だが、リオは自分の思いを伝えるのが苦手だった。少しでも声に出すと涙が出そうで、自分が弱いのだと言われそうで怖かった。彼らはよく貧困に苦しむ子供達のためにと食糧を配りにいったり、聖火神の救いの言葉や祈りを捧げている。
いつも自分達は神の手のひらで育てられているのだという。神に愛され、恵まれた日々を過ごすことが許されているのだと。だからこんな事で諦めているリオは、よっぽどの『出来損ない』だ。
愛され、満ち足りているというのなら、リオの心はなぜ晴れないのだろう。笑えないのだろうか。
そんなリオの心の支えは一冊の本だけだった。泣き虫な主人公が強くなっていつしか街を破壊する竜を倒せる勇者になるという話だ。
リオもそんな風に強くなりたかった。空想の世界では彼の気持ちになれる気がして、それだけが救いのように思えた。
ヒーローは毎日特訓をして、苦しい冒険も乗り越えてきた。
リオもそうできたら良いが、人より物事がこなせない自分に何がやれるのか。どうせ負け犬なのだ。
なんでも出来る主人公が大好きなのに、憎い。こんな気持ち、どうしたら良いか分からなくなる。
リオは本を抱いて眠ろうとしたけれど、瞼は閉じない。
胸が痛くて眠れない。くるぶしの治りかけの痣のせい? それとも剥がして血が出た治りかけの転んだ痕のせいか。いつものあれをしないと駄目みたいだ。
震えた手が寝台を彷徨った。冷たい感触。
盗んだワインで洗ってあるせいで、匂いが染み付いてる。
しかしじきに鉄臭さで掻き消えた。
胸の痛みは手首に刻んだ傷だと思い込ませると、胸の奥がすうと癒える気がした。
ああ、でも、回復魔法が苦手なせいで、傷口を塞ぐくらいしか、できないのだけれど。
この日は包帯を巻いて眠った。
ヒーローに助けられる夢を見た。お礼さえ耳に入れられないほど、彼は忙しそうだった。
目を覚ますと良い気分がしなかった。でも構わない。リオの中に彼は、ずっと住み着いているのだから。

背丈もろくに伸びないが、時は流れた。
リオは突然、砂漠行きの布教団に加わることを言い渡されてしまった。
どうやら、いじめっ子達が勝手に自分の名前を志願者に入れたらしい。
とんでもないことだった。リオは首を何度も振りたくった。違う、とも小さな声だけど口にした。大人達は自身の突然の積極的な献身にいたく感心するそぶりを見せるばかりである。自分の声など届いちゃいない。

リオの中で、何かが音を立てて崩れた。

大人達は皆、教会の神官が過酷な砂漠の旅に貢献したという事実が欲しいだけなのだ。嫌われるとか、馬鹿にされるよりも、誰もがリオをどうでも良いと思っている。——ひとたび認めると、リオは脳の奥が冷たくなる覚えがした。部屋に転がり込むと、奈落へ転がり続けた後のように目の前が極彩色に染まり、吐瀉物の不快な匂いが鼻を刺激した。
ああ、僕は生まれた時から独りだし、この先も独りなのだ。
諦めを紡ぐのは容易かった。身体はただ無気力を貪り続ける。

冥府行きの旅が始まる。
自分よりも歳が上な男女がいた。教会や街の子供以外と顔を合わせるのは初めてだ。自己紹介されたり、声をかけられたりしたが、リオには響かない。膝を立てて顔を埋めて跳ね除ける。
引っ込み思案そうな少女がいたが、いつの間にか輪に加わり、楽しそうに笑っている。
そう、誰もが自身を嗤っているように思えてならなかった。
最近になって、この布教団を率いるというテメノスという男が、神官達に魔法を教えるようになった。教会の奴らよりもずっと精密で強力な魔法が扱えるのは、彼が旅をしていたからだという。フレイムチャーチにある大聖堂のそばで深く学べたのも大きいのだろう。そこで育ってきたとも言っていた。つまり生まれながらに恵まれているということだ。
リオは密かに歯噛みした。己とは違う人間ばかりで世は構成されている。
テメノスは、顔に似つかわしくなく食えない男でもあった。リオのことを時折見ている気がするのだが、その目は鋭く、自分の裏側も舐められている気がしてゾッとする。
彼は決まって休息の間は部屋から出ない自分のために食事を置いていく。
『……リオ。明日はいよいよク国を目指します。危険な魔物が多いですけど、必ず全員で辿り着くんです。教えた通り、緊急時に備えて荷物は側に。身の危険を感じたら、私のそばに来てくださいね』
扉の向こうでそれだけを言い残し、テメノスは自分の部屋に戻っていった。
偽善だと思った。あの男もまた、功績が欲しいだけだろう。他の奴らは騙されて、彼に信頼を寄せつつあるのが滑稽だ。どうせ裏切ららるくらいなら、信じるべきではない。

そしてとうとう、リオに終わりの時が訪れた。
あいも変わらず、駱駝が引く人を乗せた荷車ク国砂道を進んでいた。
だが突如として砂嵐が発生し、逃げ込んだはいいものの、魔物の群れが襲い掛かったのだ。
魔法が使えないリオは、皆が使う盾の中で蹲るしかない。
あれほどの弓の雨を前にして、皆、なぜ恐れずに戦えるのか。リオには分からない。いつの間にかリオの知らない顔をして、彼らは変わってゆく。
布教団と若き騎士達の連携により、魔物の群れは見事に退けられた。砂漠の陽光に打たれながら、リオは信じがたい思いでいた。唇を戦慄かせながら、ただ呆然とするしかない。
そんな隙を差し出していたせいだろう、突然強い力に足首を掴まれた。咄嗟に掴む藁すらなく、引き摺り込まれてしまう。
まとわりついた砂を咳き込む間もなかった。リオはミイラのように白い糸を巻き付けられてしまった。
魔物の悍ましい顔が間近にあって、リオは喉奥を引き攣らせた。赤い目がギョロギョロと動いてギイと歯軋りめいた音を鳴らしている。
リオは蜘蛛の姿を焼き付けたまま失神した。

次に目を覚ますと、リオは巨大な蜘蛛の巣の中心部に見せ物のように四肢を広げて固定されていた。
そして——テメノスと騎士達が、大蜘蛛と対峙していた。
リオを助けるためだと彼らは言う。
戸惑うリオの目の前で光明魔法による空間の捩れが生じ、荘厳なる聖槍が奴の装甲を剥かんとする。
騎士もまた、重い鎧を物ともしない軽やかな身のこなしで蜘蛛の猛攻を避け、力強い剣を叩きつけた。
この時リオの頭の中は疑問で埋め尽くされていた。腹の奥が久々に熱かった。逼迫した中では似つかわしくない衝動だと思ったが、度々覚えがあった。久しいこれをリオは明確に理解していた。
神官と騎士、両者によって追い込まれた大蜘蛛の元に、蜘蛛の軍勢が集まってきた。リオはいよいよ自分は死ぬ定めにあるのだと思い、糸に巻きつけられても抵抗する気は起きなかった。
十数年程度の人生、どこを切り取っても全く意味がなかった。何も成せない、何も残せない。最後まで敗者だった己が淘汰されるのも、神とて受容するだろう——
しかし当のテメノスはリオの思うようには動かなかった。諦める素振りなどみせる気などさらさらないというように大蜘蛛に寄り付き、捕食の未来を迎えようとしている自身をぴったり矯めた。
リオは酷く取り乱していった。その証左に、手足は震え、身体中を汗が舐めていた。鼓動もやたら騒がしい。言葉に出さないだけで、あちこち異常が起きていた。なぜ、逃げ出さないのか。
絶対に勝てるはずないのに。
高位の神官たらしめる包囲やローブを揺らして佇むテメノスの僧坊には、まごうことなき決然が宿っていた。
無機質に成り果てていたリオを、烈しい熱が満たした。頭のてっぺんまで上り詰めて、リオの中で暴れ狂う。
リオは全てを発散してしまえという号令のもと、腹から言葉とは名ばかりの咆哮を続けた。
これまで詰まって取り出せなかったもの、押し殺して沈殿してたもの、全部残らず吐き出した。
馬鹿にされるのも、相手にされないのも、寂しいのも全部全部、無くしてしまいたかった。自分に価値のないせいだというのなら、生きるという営みに意味など見出せない。自分をこんな風にさせた復讐できない世界が憎い。自分が、嫌だ。むかつく。むかつくのに、胸が痛い。涙が止まらないんだ。
テメノスが静かに受け止めるせいで、リオは止まらない。訳が分からず泣くと、嗚咽のせいで上手く喋れないことをいつ忘れてしまっていたのだろうか。
彼は、リオを凄いと褒めた。本気で意味が分からなかった。今まで、自分を心から誉めた大人など居ただろうか。少なくとも、彼のような奴はいない。
その癖して、本気で変わろうとしてないとも言ってくる。
確かにリオは、努力を恐れていた。費やしてきたものが無駄になる。自分なりに打ち込んでいたことを大したことないと罵られ、笑われてしまうことのでは無いかという妄執ゆえに、何をするにも尻込みしていた。
だから、周りのせいにしていた。全てを塞ぎ込んでいた。
この大人の前では、結局自分のような子供のことは手に取るように分かってしまうのだろうか。
リオは何も言えなくなった。前からそうだ、心の中の秩序が乱れると、それに飲み込まれてしまう。顔がぐしゃぐしゃなのが、今更馬鹿みたいに恥ずかしくなった。蜘蛛達はもう待ってはおられないと、テメノスの動きを封じるべく捕縛綱を投じる。
騎士の面持ちにも焦りや緊張が滲み出ていた。彼は諦めないことこそが強さだと言うが、こんな状況、如何にすれば好転できるというのか。
その疑念と切迫は、程なくして解消された。
彼の厚い聖典が、突如光を放ち出したのだ。
聖火神のもたらす奇跡——力を貸すから、この先の道を切り拓いてみせろという信託のように思えてならなかった。
颶風が吹き付けた。リオは宙を一瞬彷徨ったが、いつの間にか眼の光を失っていた蜘蛛の体の上に着地した。だが、そんなことは気にも留めなかった。目前の輝きに意識を奪われてしまっていた。
「この世の影を照らしたまえ……!」
滔々と滑り込む詠唱。リオは呼吸を忘れた。彼の身体に無数に張り巡らされた血の管たちを、青い光粒のようなものがほんの刹那の間に駆け抜けたように見えたからだ。
不屈の神官が聖火神と手を取り合った特大光明魔法は絶大で、闇を閉じ込めた洞窟さえ、光に食い尽くされてしまった。リオもまた、彼が作ってくれた盾を被りながら、その絶大な明るみに包まれた。
リオは深い場所を漂っていた。次第にそこが海なのだと理解すると、下は底なきコバルトブルーをしていて、目の届く一番上の景色は、鮮やかな緑を孕んで揺らめいていた。手を伸ばしても届きそうにないが、息は出来た。まるでイマジナリーの世界だ。きっと気を失って、夢でも見ているのだろうと思った。
あぶくがいくつもリオの素肌をくすぐった。リオが光を浴びた粒々に触れると、声が頭の中にこだました。ひとつ、ふたつ……よっつと数えた。『どうして』『祈り疲れた』『お前だけは許さない』『立ち止まるな。真実を』
ここは、彼の心なのだろうか。ただの規則性のない言葉が揺蕩っているだけなのに、彼の経てきた痛みが自分の中にも入り込んでくる。激しい悲しみ、怒り、悔恨の濁流に囚われ、リオは蹲ったまま身動きが取れない。
泡は潰えず、数珠のように繋がり、また音を宿した。
『……未来を』『皆を』『守りたい』
リオは目を見開いた。なんの、混じり気もない——切なる願い。痛みを超えた先にある、彼を物語る強さ。ドクドクと煩い身体の中心を衝かれたリオはゆっくりと顔を上げた。
いつもいつも、深い夜を終えた先にある、閉じた瞼に染み出す抗い難い白い景色が、リオを迎えに来る。
生きなくちゃ。生きて……僕は、どうするのだろう。
行き先は広大で無限なる迷路。この中から自分の道を決めなくてはならない。
正直、怖い。何かするのに踏ん切りをつけるということを、リオは碌にしたことがなかった。
生まれて初めて見た輝きが、リオの目の奥に焼き付いている。人の心が生んだ光。世界は、人は、リオの知らないことばかりだとようやく分かった。その狭い範疇を超えた先にある彼は本当に自分を守り抜く気でいたし、そうした。そこに偽りもないのだと。
誰かを守りたいと願い、それを貫く——まるで、リオが大切に抱きしめてきたあの本の中で息づいている、彼のよう。
ほんの少しだけ、足を踏み入れてみたら、変わるだろうか。リオ自身も、ちょっとだけ、変わりたがっていた。
「さあ、リオ。一緒に帰りましょうか。皆の、元へ」
リオの元へやってきて、手を差し伸べてみせた彼は、少し幻想的に映った。月明かりの恩寵だろうか、白髪が銀に煌めいている。
白い手をリオが掴むと、彼は強く握り返した。
洞窟を抜ける途中で、迎えにきた仲間の何人かと合流した。
外は星がぎっしり詰まった天井。雲ひとつないのは、俯いてばかりでは知らずにいた。
しめやかな夜の下で皆、手を振っている。とても嬉しそうだ。
長い夢から目を覚ました。リオは密かに、あの箱庭にいとまを告げた。



「その本、俺もガキの頃よく読んでたぜ」
側で青年の声がしたので、リオは思い切りビクついた。うとうとし始めていたので、ベッドに潜り込んで寝てしまおうかと思っていた矢先のことなので本当に不意打ちだった。
手のひらの汗がじんわりと滲んでくる。視線が色んなところに向かうが、彼の方向までは見られない。
それなりの人数での遠征。準備と再出発にむけて引き戻ってきたサイの街で二人部屋が取れただけでも上々だったのだが、割り当ては当然ながら男女別。女子達は三人で、時折隣の壁から楽しそうに笑っているのが聞こえてくる。自分は、 バーナードと一緒だ。
「え、えと……」
彼はリオの返事が遅くても特に憮然とすることもなく、ゆったりと構えていた。
本、本ってなんだ。いや決まってる。リオが持ってるのはただ一冊だけだ。赤くてざらりとした表紙に触れる。
「君も、これが好きなの?」
リオが尋ねると、バーナードは「ああ」と白い歯を覗かせて、リオのそばに腰掛けを寄せてきた。
彼は全く、人と話すのに躊躇いも何もない。
リオは一昨日、テメノスの力を借りて皆に謝った。今まで無視をしてきてごめん、と。リオはずっと、教会や外でも皆に蔑ろにされている、自分のことなど見ちゃいないのだと思い込んできた。
だが、少なくとも彼らは、リオを爪弾きにすることはなかった。自分が塞ぎ込んでいただけで、マーガレットやアリッサは心配して声をかけていたし、 バーナードはさりげなく話題を振っていた。シャロンに関しては彼の見てくれを気にして、代えの神官服を用意できないかとテメノスに相談していたという。
全然、気がつけなかった。もっと周りを見ていたら、違っていたはずなのに。
存在を無視される辛さを知っているはずなのに、自分がそれをするのは違う。リオは強くそう思った。
テメノスに促されたのと、リオの自分の意思もあって、改めてよろしくお願いします、と上擦った声でなんとか言い切った。
彼らは驚いた様子だったが、その中でもバーナードは『んなこと、気にしてねえよ』と一番先に沈黙を破ってみせた。
リオはその瞬間、身体の力が抜け落ちるほど安堵したのをよく覚えている。
「しばらく忘れちまってたけど……お前が持ってるのを見て思い出した。その中に出てくる英雄がいただろ」
「う、うん」
ヒーロー、主人公のことだ。自分以外に知っている人がいるとは。この本はそこそこ厚い。難しい言葉は少ないが、子供が読み切るのはそこそこ大変なのだ。
「……少しだけ、貸してみてくれねえか」
リオは少し迷ったが、初めて他者に本を渡すことをした。彼は古びた紙一枚一枚を意外にも優しく扱って、英雄、リオも羨望と憧憬をむけていたヒーローの挿絵を見つけ出すと、いとも懐かしそうに眺めだした。
リオもその頁を幾度も見ていたから、気持ちは分かる。
「俺はガキながらにこの英雄がかっけえと思ってた。こんな風になりてえって、その時は本気で思ったもんだ」
彼はその実、俯いて本をじっと見ているように思えたが、その実、そのどの文字でも絵でもなく、遠い目をしていた。
「だが……現実は違っちまった」
バーナードの声色が沈んだ気がして、リオは憂慮を抱いた。でも何か言葉を挟むのも難しい。黙って耳を傾けていた。
「俺は、剣を握るようになったが、それは俺が生きるためだった。そのために、人を斬ったんだ」
バーナードの手のひらは、よく見ると分厚い皮に覆われていて、火傷の後のような染みがついている。それに、腕だって、普通に神官の務めをこなしているだけではつかないような傷跡がたくさんある。
「だが、ボロ布みてえになってから、気付かされた。俺の剣は汚ねえんだってよ」
リオの知らない世界のことは、中々想像が行き届かない。ただ、彼は悔やんでいることはひしと伝わってくる。
「きみは、騎士だったの?」
今は似つかわしくない質問だったかもしれない、と後悔したが、バーナードが気にするそぶりはない。ただ、「違うな」と首を振り、言葉を続けた。
「俺はただの雇われ、元傭兵だ」つまり、金銭を受け取る代わりに戦場に駆り出されていたのだという。リオの住むところとは全く無縁の話だが、耳にしたことはあった。「剣も、魔法も、傷付けるために使うのはもうごめんだ。その英雄のように、多くを救うために使うのが良いさ」
今の彼が堂々としているのは、一度道を違えても、正しいところを見出せたからなのだろう。それはきっと、神官を続けている訳にも繋がってくる気がした。
「湿っぽい話をして悪かったな。本、返すぜ」
頭を撫でられたので、リオは驚いてしまった。
バーナードはリオより一回りは大人だからなのだろう。
でも教会においてはリオくらいの年は子供の面倒を見る役目があるし、リオは大人の目にも止まらないから、撫でるなんて滅多にされない。
「う、うん」
本を受け取って、リオは自分の思うことをもっと言ってみたい覚えがした。
誰かに自分を知ってもらいたいと思うのに、怖い。でもそれはいつも付きまとうから、どこかで勇気を出さなくちゃならない。
「僕もさ、彼になりたかったんだ」
想像だけなら、何回もした。小さな建物から出られもしなかったのに。
一人で思い描く世界はリオにとって最も色鮮やかだった。
英雄王となった主人公になってみたかった。だけど、力のないリオにはできない。そう思ってきたけれど——
「そうなのか」
「うん。でも、僕はヒーローにはなれない。だから、この本は捨てようと思ってる」
これが、リオの出した結論だった。震えを帯びずに言い切ることができたが、バーナードは眉を顰めた。
「……なんでだ?」
「本物のヒーローとか英雄って、君の言うように、誰かのために力を使えるひとなんだ」
リオは、自分のことで精一杯だった。他人のことなんて考えてもこなかった。
今やっと、少しだけ見えるものが広がっただけで、人のために優しく在れるか、なんて問われてもまっすぐ答えられない。
「だからこそ……テメノスさんを見た時、僕はやっと分かったんだ。あのひとのようになれないって。本気で人を守ろうとしているその心は、本物だったから……」
触れてみて、分かったのだ。彼はリオの何倍も生きて、その分傷つき、悲しみ、怒り、喜んできた——だから人に手を差し伸べられる。
「僕じゃ、だめなんだ」
終わりにしようと思うのだ。リオは主人公に別れを告げる。これから、テメノスという光をよすがに、自分なりの生き方を探していけたら良いと思う。

「……リオ、お前の言いたいことは分からんでもないが——俺は違うと思うぜ」
「え?」
静かな否定に、リオは首を傾げるしかできない。
確かにリオは『僕は何もできない』と口にして、『確かにお前は何もできない』と答えられるのは分かっていても、言われたらとても傷つくのをよく分かっていた。
彼の否定は、リオを意表を突いた。
「確かに今のお前は弱っちいかもしれねえ。けどよ、自分にとって誇りに思える生き方はこれからでもできるんじゃないのか」
リオは返答に詰まってしまう。自分の頭が冴えないと言うのもあるが、つまり、どういうことかと考えてしまう。
バーナードはリオの細い肩にそっと手をやった。
「お前が、お前にとってのヒーローになれば良い。そうは思わねえか、リオ」
「僕が、僕にとっての、ヒーロー……?」
ヒーローなのに、自分にとっての? 分からなくなりそうだったが、確かに人それぞれ、思い描く勇士の姿は違うのかもしれない。
「そうだ。エルフリック様は己の道を信ずるものに力を貸してくださると教わっただろ? 俺も、自分にとって恥ずかしい生き方はもうしねえって、決めたんだ」
バーナードは、騎士の後ろでサポーターを担い続け、魔物の襲撃の際もシャロンと率先して戦っていた。
「……君は、かっこいいね」
バーナードはリオから見ても勇ましく、己の志を貫いている。
自分が、自分の英雄だったら最高だ。ずっとリオはリオのことを好きでいられるかもしれない。
バーナードは鼻の下を擦って、「ありがとな」と面映そうにする。
「お前も、なれるさ」
迷いなく彼が言うので、つられてリオは頷きたくなる。
「そう……かな」
「ああ。お前は変わろうとしてる以上、これから先、良い方向に転がりまくるぜ」
そうなったら良いけれど、先のことは、リオにも分からない。だからこそ不安だ。
「でも、自信ないよ」
リオは俯く。ベッドに足を立てている彼は、全く寛いでいる。されど元気づける姿勢は本物であり、リオに見えるように親指を立ててみせた。
「自信は後からついてくるもんだ。師匠はもちろん、俺たちもいるんだ、色々教えてやるよ。何が良い? 魔法や体術に、勉学はそこそこだが……ああ、女の扱い方は専門外だから勘弁してくれよ」
冗談めかしてくるバーナードに口元が勝手に緩んでいた。
どれも教わりたい。今ならきっと、ちゃんと向き合えそうに思えるから。けれど——
「……」
「どうした?」
「まずは、皆と……ちゃんと話せるようになりたい、かな」
皆んな仲間、とは言うけれど。リオは彼らと友達になりたかった。
ひとりぼっちは、寂しいのだから。
もしかしたら、テメノスもそうだったのか——あるいは今もそうなのかもしれない。揺蕩う深青の中の声を聞く限り、彼は一人で歩いてきたように感じたから。
「はは、そうか。いいじゃねえか。なら、挨拶から始めてみるか」
バーナードは楽しそうだ。あまり、気張りすぎなくても良いかもしれない。いきなり笑顔は難しいかもしれないけれど、そのままのリオの声を聞いて欲しい。
「うん、頑張るよ」
少し遅くなってしまった。リオを布団に潜らせると、バーナードは子供にするように、リオの背中を摩ってきた。
彼は、見てくれに反して優しいひとだ。ちゃんと話してみて、分かって良かった。
「大丈夫だ。明日からは、もっと良い一日に変わっていくさ」
幸運のまじないのような言葉は、リオに安らかな眠りを与えてくれた。






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