恋のつくりかた
03
ヒュ、と風切の音がこだました。命を刈り取られる間際の刹那たる猶予に、聖なる盾が害意を弾く。
「な、何……!?」惑うマーガレットと、アリッサは悲鳴と共に頭を防いでしゃがみ込む。聖堂騎士が叫んだ。「皆、敵襲だ!」
矢の雨だった。立て続けに上空から降りしきり、十数の亀裂が刻まれる。防ぎきれなかった分は、聖堂騎士たちが剣で叩き斬る。
バーナードは大きく舌打ちする。
「上から狙ってやがるな……! おい、シャロン! 援護するぞ!」
「っ、わかってるわよ」
息を合わせ、同時に防御盾を展開することで強度を上げる戦法。二人が独自に編み出したものだ。
「二人も、聖典の準備を!」
「は、はいっ!」
テメノスが声を荒げたことで、女達もまごつきながら聖典のページを繰る。
リオは、腰が抜けてしまったのか呆然としている。彼は魔法の履修にも顔を出さないが、テメノスは挨拶やちょっとした会話を持ちかけた。ほとんど反応を貰えなかったが、彼を完全に孤立させないためにも根気よくやる必要があった。
リオが矢を受けぬよう、テメノスは咄嗟に襟を掴み、そばに座らせた。
「聖なる盾よ——」
アリッサとマーガレットも聖なる盾を組み上げ、神官たちであれば護れる広さは出来た。テメノスは聖堂騎士たちに向けたものに切り替える。
盾を持続させながら、矢の方向を仰ぎ見る。向かいの崖や岩の影から奇襲を仕掛けていると見ていいだろう。
矢自体は脆い。弾かれて折れてしまうほどだ。しかし先端の部分は鉄を研いだようなつくりで、肉を断つ事は容易に思われた。
「こそこそと隠れやがって、小賢しい——」
舌打ちを耳にした。語気の荒さから恐らく刈り上げ頭の騎士だろう。風が再び激しさを増したためか、砂が隙間を縫って入り込んでくる。おかげで視界は更に悪くなった。
「崖の上にいる魔物の仕業だろうが、位置が読めない」
風は強いのに、矢の軌道に狂いはなかった。
しかも死界を読んで狙ってくるせいか、テメノスは盾の数を増やすこととなった。
「クソ、これでも喰らいやがれ!」
銀剣のひと薙ぎによる衝撃波は、砂の流れをも裂いた。岩塊を破壊せしめたが、矢は別方向から飛んでくる。
別の騎士が複数の斬撃をかまし、次なるは別方向へ複数人がかりで同時攻撃を繰り返す。しかし矢が止む事はなかった。
ルーカスがムキになり出した彼らを抑えた。
「無闇に当てても無駄だ! 奴らは砂漠の魔物だ。こちらの攻撃は見切られている」
彼の言う通り、魔物だ。矢に関しては戦場のものを拾い集め、自らの獲物として扱い、生成も可能とする奴等の知性によるものだ。
「相手の動きが把握できないと難しいな」
「近づいて叩き切るしかねえだろ」
砂漠という過酷な環境で生き延びるには、より狡猾に、かつ確実に獲物を仕留めねばならなくなる。
魔の獣達の純然たる生への執着さえ跳ね除け、この旅路は成されるべきだ。テメノスには使命がある。誰一人とも失わせずに、ク国に導くのだ。
「……魔物ですが、この辺りで生息しているウォータンでしょう。知性が高く、親玉が群れに送っている可能性が高いです」
皆の視線が集まり、肩を突かれた。バーナードだ。
「師匠。何かいい策はねえのか。こっちも魔力がいつまでも保つわけじゃねえぞ」
「……策なら、ありますよ」この頭にしまい込んだ旅の記憶を引き摺り出し、丁重かつ速やかに照らし合わせる。そうやって組み上がる。
これはテメノスなりの、否、仲間達なりのやり方。
テメノスは盾を若者達に一旦任せ、瞼を閉じた。
砂風を遠ざけ、暗闇を揺蕩う。青い糸が幾重にも絡まり、束となって筋を描く。
「——こうして魔力の流れを読むと、視覚が悪くとも敵の位置を正確に見破ることができます」
迷いなく選び取った一縷を手繰り、矯めた。熟れた光魔法は澱みなく成形を果たし、魔物の放つ小さな魔力の中心部へとあてがわれた。
光弾は蒼穹の幕から飛来した。
魔物の断末魔が響き渡る。肉を剥き、血を繋ぐ管が焼き切れ、心の臓はたちまち機能を失う。魔物たちが退き、攻撃が緩むが、弓矢が止まるわけではなかった。やはり複数方向からだ。先ほどのは岩陰、それとは別の位置は斜向かいの崖の上から。合図を送り合っているのだろう。
「仕留めた……!?」
テメノスがおもむろに現実へ返るのと同時、ルーカスが喫驚した。
呆気に取られていたマーガレットとアリッサは顔を見合わせた。
「魔力の流れ……なんて分かるもの?」
「突然魔法を当てたみたいに見えたべ」
「あら、私たちが学んだのは魔法の編み出し方だったじゃない」 シャロンと目が合う。彼女はどうやら理解したらしい。「魔力を消費しての魔法の発露、練り方を体で覚えているのなら、応用は可能……そうでしょう?」
これは暗闇状態での対処法と原理は同じだ。得物は外しやすいが魔法であれば詠唱と魔力のコントロールで対応できる。
対象の魔力を読むことさえできれば。
「ええ。適性の有無はありますが……少なくとも魔法を形にできている皆であればできるはずです」
シャロンの他に、毅然としている男がもう一人。赤く燃えるような前髪が風に退かされると、青年のこめかみにある古傷が覗く。
「ふぅん、なるほどな。やってみる価値はありそうだが、集中を切らさねえ必要があるな」
会得の早い彼らなら魔物に悟られずに攻撃ができるだろう。
確かに魔力を読むのには神経を研ぎ澄ませる必要がある。バーナードは元傭兵。その辺りは適応できるだろう。シャロンは純粋に攻撃魔法の扱いに長けている。
「では、二人に任せましょう。私は盾を維持しながら、援護します。マーガレットとアリッサは引き続き盾を——」
「テメノス様!」ルーカスはテメノス達の防壁を掻い潜ろうとする矢を剣で斬り飛ばし、テメノスをまっすぐ捉えた。「あなた方が敵の数を減らし、混乱している隙に我々があの崖に回り込み、奴らを倒してみせます!」彼らはテメノスを信じてくれるという。銀の鎧は勇ましく輝き、金の紋章は穢れを知らない彼らの誇りを示していた。
テメノスは彼を見ていたほんの少しの時間が随分と長く感じた。
過去は振り向いても届かない場所へと千々に掻き消えてしまうが、テメノスは古い想いと面影を、思い出さずにはいられなかった。
テメノスは繕ってでも彼に笑いかけた。未来は次々やってくる。彼は、前を生きている。
「頼もしいですね。であるなら——マーガレットとアリッサ君は彼らに加護を」
清廉なる祈りによって、聖火の守りを彼らに授ける。魔物のひしめく道を拓けるように。
ルーカスに向けては、テメノス自ら祈りを捧げた。「必ず、無事で」彼は手を振り、仲間を率いて疾くと往く。青き光の粒が、砂に混じって舞い散った。
微動だにしなくなったシャロンとバーナードは、魔力の動線を見つけるべく集中を高めていた。テメノスは彼らを伺いながら、アリッサ達の盾と己のを組み合わせることをした。徐々に半球体まで強化を遂げる。
「……ッ、テメノス様。私たちはまだやれます。なので二人を」
怒り狂ったウォータン達の矢尻が無数の亀裂を刻む。突風が叩き割らんばかりに襲い掛かるが、再び詠唱を叫び、膜が塗り替えられた。アリッサは噛んでいた唇を解き、これまでになく声を張り上げた。
「お願いしますべ!」
少女達のかんばせには疲れが滲み始めていた。猶予は少ない。テメノスは魔力を送り込んでいた手のひらを離す。少女達は歯を食い締め、盾の維持に力を注ぐ。「……信じていますよ」彼女らに託し、暗闇に身を投じた。
崖には十数の魔物がひしめき、岩の裏には数体程度だった。
数を減らすには上を狙う必要がある。テメノスはまるで同じ静謐の世界に彼らがいるように、色のない世界を浮遊し、声をかける代わりに背後から肩に触れた。
彼らには何に映るだろう。テメノスにとってはやはり無数の糸が伸びており、水面のようにうねり狂っている。
彼らはそれに触れながらも、どこへゆくべきか迷っていた。テメノスは両の手を伸ばす。
彼らが、辿り着けるように。ほつれを解き、流れに身を委ね、動線を作った。光を放ち、彼らの行くべき軌跡が見える。両者の思念体のような何かは、驚きを露わにし、しかし流れに身を委ねた。
力が、開花する。
「——雷鳴よ、轟き響け!」
辺りが明滅したのはほんの刹那で、遅れて轟音と共に地響きがした。雷に穿たれた魔物は、肉を焦がし煙を上げている。
「氷嵐よ、巻き起これ!」
朗々たる詠唱は、外気温を急激に降下させ、氷塊が連なる。透明質の鋒の頂が、背中を抉り、心臓を貫き、しとどに血を吹かせた。
若き騎士隊が鬨の声を湧き立たせているのが、テメノスにも届いていた。砂漠の狡猾で屈強な魔物達との交戦が、本格化する。
「ああ、よかっ、た……」
マーガレットが倒れかかるので、テメノスは咄嗟に支えた。顔色が悪い。アリッサが背負っていた鞄の中身を探る。干したプラムを噛みちぎり、彼女の口元へと運んだ。
「……ありがとう。よく頑張りましたね」
榛色の瞳に水の膜が張るが、すぐに吸い取られて消えてしまう。人の役に立ちたいという彼女の願いはいつもそこにあって、マーガレットの綻びは、深い満足感を表すと同時に、とてもあえかだった。
「バーナードにシャロン! 良い読みでしたよ! その調子で——」「悪いけど、今は話しかけないでくれ」遮られてしまった。集中を切らしたくないのだろう。こめかみに血管が浮き出ている——シャロンに関しては瞼を固く閉じて、誰が何を言っても聞き入れそうになかった。騎士たちが突撃している今、彼らの妨げにならないよう細やかな魔力のやりくりに拘っている。
矢が飛んでこないのが、状況の好転を表していた。テメノスも聖なる光魔法を撃ち出す。
己の形象を反映し、分裂した金の礫が魔物達を昏倒させた。その隙を突き、騎士達が連携技で追撃し、次々と仕留めていっているはずだ。その確信は、砂が徐々に晴れてゆくたびに高まっていった。
赤茶髪の青年騎士——ルーカスは晴れやかに剣を掲げた。隣の騎士達は首領の魔物が持っていた大きな弓らしきものを見せてくる。彼らは上手くやったのだ。
テメノスはバーナードと手を握り合い、シャロンには賛辞と労いを送った。この短期間で良くぞここまでやってくれた、という感慨が身体中を満たした。
騎士隊も降りてくる。歪に削った崖の奥に隠れていたような陽が、隙間から顔を出していた。日没まで半刻程度か。間に合って良かったと思う。
「あー、腹減ったわ。干し肉でも良いから食いてえ」
砂上にも構わず腰を下ろしたバーナードは、達成感と疲労を混ぜこぜにしてへこんでいるお腹をさすった。
「その前に寝床はどうするの? ここじゃあ魔物が怖いわ。皆、疲れているでしょうけどもう一踏ん張りってところかしら」
砂で汚れるからはしたない、とシャロンが腕を掴むので、へいへいと不承不承立たされてしまう。見ているとつい、くすりと笑ってしまう。
そしてずっと蹲っていたはずのリオに声をかけようと辺りを見渡し——テメノスはふと、悪寒を覚え、反射的に詠唱した。気色の悪い蠢きの音が耳朶をなぶり、微かな人の呻きも合わさった。テメノスに言葉をくれないままの少年、その人だった。
彼に何か言わんとして、しかしすかさず飛び退いた。リオを捕えたままに、鎌のような足がテメノスを切り裂こうとしたのだ。
「おいおい……ここにきて伏兵のおでましかよ!?」
「砂の中に隠れていたというの……?」
砂漠地帯には地中に潜む魔物は少なくない。ドクサソリなんかも同じだ。平常であれば彼らが潜む場所をある程度推測し避けて通ることをしてきたが、ウォータンの群れとの戦いで血の匂いを嗅ぎつけてきたのだろう。
「マーガレットッッ!!」
悲鳴混じりに仲間の名前を口にするアリッサから砂煙を立てて八つの足を持つ魔物の距離は一方的に突き放されていった。マーガレットは、忽然といなくなっていた。蜘蛛に巻き取られ、連れ去られたのだ。
名は確かヨジョウグモだったはずだ。今しがた逃げて行ったのは、リオの全身に糸を巻きつけていったこの巨体よりはひとまわりは小さい。寧ろこの方が異様に大きいのだ。まるで蜘蛛の頂点に立つようなその存在は、身体にリオを固定すると、砂黒く尖った巨爪を駆使し、砂の中に潜り込もうと試みる。
「くっ……させませんよ!」
光魔法を連射で食い止めにかかる。奴は諦めたのか、マーガレットを攫った個体と共に熱砂の絨毯を駆けていく。
鼓動が姦しい。蜘蛛共は巣に彼らを持ち帰ろうとしているのだろう。マーガレットの糸の隙間から見える顔つきには酷い恐怖が浮かび上がっていた。
焦るな。こんな窮地は何度も乗り越えてきたのだ。
諦めるという選択肢は無い。誰かを守れなかったと悔やむ未来も無い。無いようにする。
テメノスは地を強く蹴り上げ、人攫いの蜘蛛達の姿を遠ざけまいと追従する。
誰かが呼んでいるが、金輪際構ってはいられなかった。叩きつけてくる砂を庇いながら、前へ。いかなる時も、道は前にしかない。目路を抜けてゆく景色よりも、めまぐるしく流れる思考を突き詰めてゆく。
ヨジョウグモに光魔法はあまり通らない。それよりかはあの毒の塗り込められた牙、或いは吐く息に細心の注意を払いながら槍で外皮の柔らかい部分を狙うか、短剣で近接戦に持ち込むか。雷魔法で貫くのも良い方法だ。
テメノスの手段は限られている。
二年のブランクは長く、魔力はあっても体力はさほどない。全力を出して走ればすぐに息は切れてしまう。
なにより灼熱がテメノスの身体から着実に力を奪い取ってゆく。
「待ちなさい……ッ!」
乾き切った喉奥から捻り出し、そして、秘めてあったダガーを手に取った。
獲物は複数あった方が断然有利だ。短剣は忍ばせやすく軽量であり、テメノスは旅中で盗賊の女に勧められて携帯するようになった。
本職よりは劣るが、しかし奴の肉を抉るのにはこれしかない。
ナイフ投げ——もう少し勉強しておくべきだった。後悔しても遅いが、目の前は暑さで眩み、柄を掴む五指が震えっぱなしだった。
遠方に地表の盛り下がった部分が見える。あそこに巣があるのだろう。
蜘蛛達の詰所に差し掛かれば終わりだ。
「……て、めのす、様」
マーガレットのか細い声が、テメノスを現実に引き戻すかのようだった。
自身に聖火の守護を纏わせ、強引に足を動かした。
どこを狙うか。それは分かっている。硬い殻に覆われていない所。頭部と胴体の境だ。
テメノスはダガーを投げた。構えは、咄嗟にしてはまだマシか、だとしても腕の振りが弱かった。
しかし魔物を振り向かせるのには十分だったようで、数えてもまた浮き出てくる禍々しい赤いまなこたちが、テメノスを睥睨していた。
白い糸が伸びてくる。テメノスは盾を素早く展開し、奴に迫る。
予想に反し、糸は柔軟だった。意思を持ったように曲線を描き、翻し、最終的には盾を覆い視界を奪わんとする小賢しさを披露した。
テメノスは粘着質な覆われた盾を薙ぎ払っては、次の盾を生み出す。そのせいで魔力が刮げていった。舌打ちを漏れた。
せっかく獲れた活きの良い獲物を奪われまいとヨジョウグモは必死だった。テメノスを毒牙で蝕もうと毒息を吹きつけてくる。糸も盾も融解して使い物にならなくなった。
「……っ」
回復魔法では毒は消せない。今も糸の拘束から逃れようと蜘蛛の背中でのたくっているマーガレットを救出しようとして、前進しても後退させられる。
こうなったら賭けるしかない——蜘蛛が糸を吐き出すのを見計らい、テメノスは再び盾を置いた。脆く作ってあるそれは、簡単に砕けた。毒息が噴き出る予兆があった。そこに向け、光明魔法を撃った。
「マーガレット君!」
彼女は目を見開き、しかし戦慄いた唇を動かした。
「せ、聖火の守りを……我、に」
その後は聞こえなかった。魔物がどこから発しているのか、奇声を上げてのたうったからだ。
外皮は硬いが、体内は当然柔い。テメノスがありたけ注いだ力の奔流は臓物をいっそ無慈悲に食い荒らし、外殻の隙間からあぶれ出た。
動かなくなった蜘蛛に突き刺さったままである短剣を引き抜いた。
放り出されてしまったマーガレットの拘束を解いてやる。咄嗟に守護の聖句を唱えたおかげだろう、それとも、光魔法の性質ゆえか——彼女の外傷は少なかった。
「マーガレット君……」
意識はあるのかと軽く頬を叩くと、目はうっすら開くし、息も続いている。
だが、汗の乾いた跡がなかった。額は異様に熱く、体温が上がり切っていることをあらわしていた。顔色の悪さは増してかなり憔悴している。癒しの祝詞を施しても、一時的に和らげることはできるが根本的な解決にはならない。
一刻も早く皆のもとで治療をすべきだ。しかし、リオは連れ去られたままだ。
テメノスはヨジョウグモの巣があるであろう方角を見遣って——息を飲んだ。いいや、正確には、飛んできた毒液を転がるようにして避けてからそうした。
「……ッ!」
日さえ遮る大きな身体が、テメノスへ明確なる殺意を浴びせた。仲間を殺されたことに激昂しているのだと、すぐにわかった。牙をうごめかせて毒の残滓でできた涎は滴り、赤い目が忙しなくぐるりと回る。
だらんと垂れる白い腕は、リオだった。彼は無気力だった。いつも何もかも諦めたようにしている。それがテメノスの胸に秘めていた彼への所感。
テメノスが狙いをつけて投擲したナイフを、大蜘蛛は歯で噛み砕いた。残骸が呆気なく砂に混じる。
テメノスはすかさずマーガレットを背負った。自在に動き回れるはずもなかった。テメノス自身も、酷い頭痛と吐き気、身体のふらつきで苦しい。斜陽は嘲笑うように地平に飲まれようとしている。狂いそうだった。
終わるか。終わらせてたまるか。吠えはしなかったが、テメノスは大蜘蛛を睨め付けた。
どうする。手札などたかが知れていた。あとひとつ、強力無比で諸刃の剣の如しの詠唱文句はあるが、硬い装甲に包まれ、なにより熱や光に耐性のある大蜘蛛を貫けるとは思わない。
テメノスが蜘蛛と相対したまま後退を始めると、大きな爪が振り下ろされた。紫色の毒々しさは、心臓を貫かれても、体内に巡っても即死が定められていると本能的に確信できる。
「私は……」
追い詰められた時にこそ、冷静を保つべきだといういつかの言葉が、跳ね返ってくる。
テメノスは瞬いた。ひろめく身体を静止させた。新たな風が吹きつけた。
爪が降りてくる。テメノスはこれを避けるのに全力をかけた。
次に降ってくる爪は盾を二重展開して抑えた。「——力を貸してください……」一枚目が剥がれる。大蜘蛛は口を歪めて嘲るが、テメノスは自分の打つ手に確信があった。そして二枚目は、みしりと音を立てた。「ルーカス!」
駱駝が鳴いた。そこの岩の影から聞こえた。青年の力強い声が、青空のそばに来ていた。
「お任せください、テメノス様!」
剣は腰に、彼が振り回していたのはリーチの長い槍だった。
大蜘蛛の背に乗り上げ、柔い部分に突き立てた。抜き取ると体液が吹き出し、鎧やぐったりしたリオの体を汚した。絶叫が耳をつんざく。
金属の鎧は変色し、布地の部分は溶けていた。ルーカスが動揺をあらわにした時、大蜘蛛は彼を振り落とした。投げ出されそうになったリオはすかさず糸で巻き取ってしまう。
完全に気を失ってしまっている青年は、されるがままだった。
砂が緩衝となり、打ち身などはなかった。だが、背を向けた蜘蛛の逃げ足は素早い。
「ッ、待て……!」
青年は後を追おうとするが、濃い砂煙に押し戻された。周到な魔物だ。悔しげに地団駄を踏む。
テメノスは聖句の詠唱を試みたが、叶わなかった。喉が、引き攣ったのだ。そのまま激しく咳き込んだ。
「テメノス様、マーガレット……!」
駱駝にはもう一人乗っていた。アリッサだ。降りるなり荷物を手に駆け寄った。
テメノスはアリッサから差し出された飲料水の蓋を開けた。空洞を満たすだけの命の源を前にしたら、飢えた体は止まらなくなる。
あれだけ塩辛く感じた飲み水だが、今は何よりも美味しく感じられた。
「マーガレット、あなたも……」
アリッサは手のひらから小さな氷の塊を作り出した。彼女のささやかな魔法だが、この上なく適任だった。素早く布で包み、敷き布の上に横たわらせたマーガレットの額にあてがった。
「……アリッサちゃん。来てくれたんだ」
氷に触れ、これ、気持ち良いね、と綻んだ。
アリッサの瞳はたちまち潤み、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「ごめん、ごめんね……っ」
彼女が攫われた時、アリッサはちょうど彼女のそばを少し離れていた。
マーガレットは手を伸ばす。アリッサの震える背中を優しく撫ぜた。言葉にならない彼女の感情が滲んでいた。少女はたまらなくなったように唇を噛み、彼女を強く抱きしめた。
「……テメノス様、私からも。駆けつけるのが遅くなってしまい、申し訳ありませんでした」
ルーカスは頭を下げてくるが、彼の判断は冷静だったとしかいいようがない。反して、テメノスは、囚われていた。とっくに
「私が勝手に一人で飛び出したものですから。助かりました。あなたがいてくれなかったらどうなっていたか」
いいえ、と若き隊のリーダーはかぶりを振る。
「あなたは誰よりも危険を察知し、即座に行動に移したんです。誰もあなたを責めません」
テメノスはいつもの貼り付けた笑みを返そうとして、やめた。
「ですが、リオはまだ助けられていない。私は、行かねばなりません」
二年、いや、もっと長い年月の中、恐れていたことがテメノスの奥深くから迫り上がる。
もう一度でも、この手から何かすり抜けようものなら、テメノスは人の形をした理性なき獣となるに違いなかった。
「魔物の巣に向かわれるつもりですか」
「ええ、勿論。私は、誰も死なせない。失わせません」
この願いは、独りよがりだろうか。自己満足? 問いかけ続けたところで、テメノスは彼を諦めるという選択肢を弾き続けることに変わりはない。
「——皆を、必ず導いてみせます。私が守るんです。皆の未来を」
夕暮れを宿しているであろうテメノスの瞳を見つめて、青年は半ば唱えるように唇の隙間から繰り返した。「守る……ですか」
「ええ。アリッサ君。あなたはマーガレット君と共に皆の元へ戻ってください」
駱駝に跨ったアリッサへ、マーガレットは身を預け腹に腕を回した。
アリッサは頷き、テメノスに向け、赤くなった目を閉じ、両の手を絡ませることをした。ひたむきな祈りだった。「テメノス様……必ず無事に返ってきてください。どうか、聖火の加護とお導きがありますように」漂う色彩が清らかな浅葱色なのがその証だった。胸がじんわりと温かくなる。
それから、荷物を分けてくれた。上着と、テメノスも旅中で口にしたようなプラムやブドウ、乾燥ハーブが入っていた。
テメノスはルーカスを見た。彼は、残るという。
「ありがとう。あなたも気をつけて」
女二人を乗せた駱駝が駆けていく。空の半分は農紫を孕み始めていた。
風が冷たくなり始めている。夜は、もうすぐそこか。
「……テメノス様。俺はまだ、未熟です。だけど、皆を守りたいという願いは同じです。騎士として、己にとって常に誠でありたいのです」
ルーカスは胸に拳を当てた。
テメノスは彼を仰ごうとして、こんなに高くにあっただろうかと密かに驚かされた。
「このルーカス、あなたの剣となります。共に、リオさんを助け出しましょう」
この上なく、頼もしかった。純粋に嬉しくもあった。信頼されているのが分かるから。しかし今も昔もそれをおくびも出せないのがテメノスだった。差し出された手を握る。今は、これで。
「……ええ、よろしくお願いします。ルーカス」
眩しいものをこの目に入れるのは、少しばかり、難儀する。
◆
真っ赤の蓋を開けた。甘やかな香りが懐かしい。
果実を砂糖と煮詰めて保存性と味の釣り合いをとっている代物で、とても希少だ。あの甘ったるさ、ドロドロとした食感、喉に触れて鳩尾まで落ちてくる感じ、もはや全てに嫌気がさしていたテメノスであったが、舌の付け根あたりから唾がどっと滲み出てくるのを感じていた。テメノスは久しぶりに小瓶を飲み干した。
魔物達の巣は洞窟だった。背中の杖に明かりを灯し、慎重に足を踏み入れた。どこを歩いても、妙に静かだった。
「……水の音がしますね」
テメノスと隣並びのルーカスが辺りを見回す。よく耳を澄ませると、溜まり水に滴の落ちるような音は確かに聞こえてくる。
「この洞窟の位置的に、地下に溜まり込んだ水が流れ込んでいるのでしょう」
魔物が棲みつくのも合点がいく。
だからこそ、人間に資源を奪われないためにも、魔物らは闖入者を招き入れるべきではないはずだ。
テメノスは警戒を緩めないよう意識しながらも、考えを巡らせた。あの巨大なヨジョウグモは、子分を殺され、戻ってきてまで無念を晴らそうとした。
群れの頭だと考えるのが妥当だろう。つまり——
行き止まりには何度か当たったが、とうとう洞窟の最も深いであろうところにまで来た。
「テメノス様。見てください、あれを」
声を潜めて、青年はテメノスの肩を突いた。指差すところを見やった。
「……やはり」
待ち構えていたか、とまでは言い切らなかった。大蜘蛛が、鎮座していた。薄らと発光する、半透明の帯が輪郭を際立たせていた。切り立つ岩の長く高く続く先に空洞があり、月の灯りが差し込めているからだった。
かの魔物はテメノス達を待っていた。あからさますぎるほどに。
互いに頷き合い、毅然と歩みを進めた。
足を折りたたんでいた大蜘蛛だが、分かっていたように身を起こした。
天窓から砂がぱらりと降る。それが何かを汚した気がして、テメノスは明かりをそちらに向けた。
「リオ……!」
テメノスは目を見張った。少年は、巨大な蜘蛛の巣の中央部に磔にされていた。
声が響いたからだろうか、彼は眉間に皺を寄せ、ややあって目を覚ました。
「……ぇ、な、なに」
目を泳がせ、ずっと気を失っていたためか、ここがどこなのか分からない様子だった。
外傷はないようだ。だがこんな状況を目の当たりにしたら、また意識を飛ばすかもしれない。
「な、なんだよ、これ……ひ、い」
じたばたと手足を動かすが、岩壁を覆うほどの蜘蛛の糸はべったりと接着を果たしており取れない。
少年はみるみるうちに顔を青くした。
ヨジョウグモは鋏に似た大きな爪を鳴らし、リオをせせら嗤った。
「リオ!」狼狽し切った彼の名を呼ぶ。杖を掲げたことで、彼はようやくこちらに気がついたようで、目を丸くした。その口が小さく何か言っているようだったが、聞き取れなかった。
「リオ様、必ずあなたをお助けいたします!」
ルーカスは宣言ののち、今度は構えた。テメノスもまた、聖典を繰る。リオは臨戦体制の自分たちを忙しなく見て、徐々に困惑を露わにしていった。まるでなぜ? とでも言いたげだった。
充填した魔力を駆使し、守護の聖盾を複数回溶接の末、半球体に仕立てる。
ルーカスは一度きりの目配せののち、短い詠唱と共に剣に光の筋を迸らせた。前足を上げた蜘蛛が糸を飛ばすのと、一閃をかますのは、ほぼ同時だった。
「聖火の光よ、我が願いに応え、輝きたまえ——」
テメノスも光明魔法を紡いだ。空間が歪んだが如く現れた光線が絡み合い、束となる。ひとつの生き物のように引き絞った唸りをあげ、黄金色の槌となり、大蜘蛛の分厚い殻の粉砕を試みた。
「まだまだッ、こんなものじゃないぞ!」
暗闇に紛れていた水溜まりを踏みつけ、ルーカスは素早く大蜘蛛の懐に潜り込んだ。
刀身に指先を滑らせると、足の付け根目掛けて青き稲妻に似た閃光が駆けていった。
大蜘蛛の巨体が傾く。脚を二本、切り離したのだ。
「さすがです、ルーカス!」
テメノスも続け様の詠唱を組み上げた。ヨジョウグモの身体の裏側は殻がなく柔らかいはず。その推測通り、追撃は功を奏した。
「テメノス様こそ、ナイスアシストです!」
白い歯をにかっと笑う。ルーカスとは、洞窟を歩き進めながら、この厄介なヨジョウグモへの戦略を立ててあった。槍や短剣に弱いのは、身体の柔らかい部分の面積が小さいからだろうとテメノスは考えていた。いくつか候補を挙げた末に、剣で攻撃を与え、魔法で引きつけつつ探るという戦略を取った。それが上手くいったのは良かった。
「……っ」
糸に絡め取られたままの少年は、信じ難いものを見る目をしていた。その真意は分からないが、テメノスはまず、彼に真っ当な情動が宿っていたことに安堵した。
「リオ、もう少しの辛抱ですからね」
返ってきたのは、舌打ちだった。
「……ふざ、けんな」
「え?」
驚き、眉を顰めたのはルーカスの方だった。テメノスは、静かに彼を見ていた。それも癪に触ったのか、少年は声を荒げた。
「なんで、助けるんだよ……っ、僕のこと、どうでもいいと思ってるくせ、に……」
「そんなことは——」
それ以上は掻き消えた。大蜘蛛が効くに耐えない奇声を発したからだ。それも、長たらしい。鼓膜が破れそうだ。
ようやく止む頃には、虫が地を這っていた。ひとつやふたつじゃない。夥しい数がこちらへ集まっている。
赤い目が暗闇にぼんやりと際立ち、禍々しい夜空のような光景がテメノスたちを取り囲んだ。
「……ッ、隠れていたのか」
「やけに敵が少なかったのは、こういうことだったのでしょうね」
いや、寧ろ大蜘蛛の方は、最初から助けを求めていたはずだ——
彼らがこの機に及んでやってきたのは、群れの頭を窮地から救い出すためではない。その証左に、新たな頭となるヨジョウグモが、群れの先頭に佇んでいた。多くの蜘蛛たちが、既に彼の意思に忠誠を向けているようにテメノスには捉えられた。大蜘蛛から感情は読み取れないが、その目に彼を映し、微かにみじろいだのが見てとれた。
大蜘蛛は、裏切られたのだ。彼は、悲しむことも怒ることはしなかった。
その代わりに、白い糸が伸びた。
「……」
リオは今度は悲鳴ひとつ上げなかった。だが、降り注ぐ月の明かりを頼りに目を凝らすと、下唇から赤い血が滲んでいた。脂汗もびっしりと首に浮き出ている。なのに、身体は抵抗を示さない。
テメノスは、自ずと杖を大蜘蛛に差し向けていた。「……させませんよ。私の仲間を返してもらう」
大蜘蛛のどこを撃っても、光魔法で貫ける。今の彼の身体は、先ほどの攻撃で酷く脆い。
「や、やめろよ……ッ」
既に聖句の一節を口にし始めていたテメノスを止めたのは、少年であった。
「こいつを殺したところで、この数に勝てるわけない」宙吊りの少年は、生半に言葉を切って、深呼吸した。「早く、逃げればいいだろ。僕を置いてけよ。僕はどうせ生きていたところで、何の価値もないんだ。お前たちもきっとそうだ……」加えて早口だった。震えてもいる。澱み、暗ぼったい。とにかく危うい。青くもあった。
「……では聞きますが、あなたの価値を、あなたがそんな風に決めてしまって良いのですか?」
テメノスは冷静に返した。少年は、やはり苛立っていた。
神官とは思えない身なり。ぼろぼろのキャソック、留め具の壊れかけたローブ。
そこから彼が教会でどんな日々を送ってきたのか、ある程度想像はつく。
「僕はゴミクズなんだよ。そう言われてここまで来させられたんだ」
そして、卑屈になってしまったことも。
「馬鹿にされるために生まれてくるくらいなら、消えてやる」
テメノスの仕事は、導き、率いることだ。そして個人的にも、彼を救いたかった。
「では、全て諦めるのですか? あなたには、まだ変えるチャンスがある。馬鹿にしてきた人たちを見返すことができるかもしれない」
心の強い人たちばかりで、世界は作られちゃいない。
「うるさい! 毎日祈っても、あいつらはいなくならない! うんざりなんだよ……ッ!」
少年は、吠えた。普段は大声をあげないのだろう。声が掠れている。次第に咽せたが、厭わず続けた。
「他の奴らもそうだ! 僕を馬鹿にしているんだ……あんたらも、出来損ないだと思ってるんだろ!」
「それはあなたの自己評価ですよね」底冷えする洞窟の中で、テメノスは氷輪の如く彼を射止めた。「私は違います。あなたは、相当凄い人ですよ」
「……え?」
身構えていたリオは、いよいよ何を言っているのだこいつは、頭がおかしいのかという台詞を、表情ひとつに内包していた。
テメノスはよく回る口を存分に使わせてもらうことにした。
「旅中での頑なさは、あなたが閉じこもっているより他に、絶対に譲りたくないという気持ちを保ち続けていたからではありませんか。本、大事に抱いていましたよね。好きなんじゃないんですか」
「……っ」
リオが持っている本は一冊だけだったが、しかし彼にとってはかけがえのないものだということは見抜いていた。
自身の身なりに気を回さなくとも、あの本に関して、自分のそばにおいて、誰にも触れさせないといういっそ懸命な気概を感じた。
「それに、大蜘蛛に捕らえられてもなお自分の想いを叫ぶことができるあなたを卑下する方々の気が知れませんね」
大したものだ。少年の身体は緊縛され、足を暴れさせて息の良い魚のようにしか振る舞えないはず。しかし彼ときたら、泣き叫ぶよりも己の心の卑屈さ悔しさを暴露し、主張してみせた。
「そ、それは……ただ、ムカついたからで」
「普通なら、怯えるだけですよ。あなたには価値があります。考えを改め直してください」
「……な、なんだよ、それ」
語気を強くしたところで、少年はただ、受け止めかねて萎れていくだけだ。けれど悪くはない。むしろ良い兆しだった。
「他者に消えてもらうことを祈るより、リオ、あなたが大きくなれば良いんです」
憎い相手への最大の報復は、己が忘れ去るほど幸福であることだと、誰かは言ったものだが、リオにはそのいじめっ子たちを見下ろせるほど、高く育てる。彼にはその素質があるのだ。
「……お前達は知らないんだろ。僕は魔法も碌に使えない! 自分の傷も治せないんだ。それを分かってて教会の奴らは僕を送り込んだんだ」リオの涕涙が、頬をにわかに濡らし始めた。待っていた灰色の雲から降り頻るように。「こんなの、死ねってことだろ……」
誰しも、多かれ少なかれ、絶望を抱いている。かつてテメノスに立ちはだかったものたちも、そうだった。彼らは絶望の末に力に溺れ、或いは明日を捨てたがっていた。
己も、どこかで踏み外したならば、先ゆく道に光を見出せなかったろう。
しかし、それでも生きた。しがみついて地を這いつくばって勝ち取った。真実を。明日を。
絶望に負けそうになりながらも、生きとし生けるものは希望に惹かれているのだ。明るみの中でしか、喜びも苦しみもないのだから。
「あなたにはあなたのできることがあります。一人でわからないなら、私や仲間達が手を貸します。……それにね」
テメノスが大蜘蛛に杖を向けたまま歩み出すと、蜘蛛の軍勢たちもゆっくりと距離を詰めてきた。それを尻目に、テメノスは一旦言葉を切り、すうと息を吸い込む。
「あなたはまだ、一歩も踏み出そうとしていない。ただ何もできないからと諦めていては変われないのは当然です。生きなさい。生きて、前を見つめている限り、あなたは変わることができる」
「……っ」
リオのあの、抑揚のない顔立ちはとうに崩れ去っていた。少年の拙い激情が一度解き放たれれば、波濤のように打ち寄せた。号哭が続く。
「どんな時でも己の大切にするものは決して見失わない——それが、強さなのだと私は思います。ですから、私がその導をつなぎます」
皆、その強さを抱くことができるのだ。灯火を、忘れなければ。
テメノスの背に、ルーカスが合わさった。もう退く場所などなかった。蜘蛛達の赤い目玉達が間近にある。
糸が伸び、テメノスの足は動かなくなった——しかし。
杖を立てた。聖典は、テメノスの手から離れた。
「テメノス様、一体何を」
輝きが、満ちてくる。
驚く青年に、テメノスはそそぎ落とされたような心持ちでいらえた。
「……聖典が自ら開いた。神の思し召しでしょうか」
「そんなことが……!? 凄い輝き……これが聖火神のもたらす奇跡なのですか」
いいや——これは必然だ。神は相応しくないものに新たな聖句を与えることはない。
それを口にするのは胸の中だけで良い。彼らに呼びかけた。
「皆。盾を貼りますが、念のため、伏せていてください」
あの小瓶のジャムの恩恵か、魔力は満たされていた。分厚い盾を三人分貼った。蜘蛛達が噛み切ろうとするが、間に合うだろう。
テメノスは屈み、両の手を結んだ。いつだって、これを前にすると——畏敬よりも先に、泣きたくなるような覚えがする。悲願を果たしてもなお、脳裏に手を伸ばしても届かない世界にいる友人達を描きながら祈るせいだった。
テメノスの青、黄金、白。光の渦流たちは、多様な色彩に移ろう。
昔と今は違う。どこまでも、自分たちは現世の人間である。目の奥の痛みが教えてくれる。
光明魔法の最上級は無数の槍によく似ているが、光と光の境はなく、渾然たる黄金が遥かに至るまで広がっていた。全ての魔障たちは裁きと慈悲の前になすすべもない。
彼らは悲痛の喘ぎひとつすら発することなく灰燼へと姿を変え、月の浮かぶ夜の空に吸い込まれていった。
大量の魔力を消費したからだろう、足取りがおぼつかない。ルーカスに支えられながら、月が作り上げた円形の光の輪に横たわるリオのそばまで来た。
リオは今になってやっと鮮やかに捉えた、琥珀色の眼をゆらゆら彷徨わせたが、ややあって躊躇いがちにテメノスを映した。
「さあ、リオ。皆の元へ一緒に帰りましょう」
握った手は温かくて、テメノスはそっと綻んでいた。
ヒュ、と風切の音がこだました。命を刈り取られる間際の刹那たる猶予に、聖なる盾が害意を弾く。
「な、何……!?」惑うマーガレットと、アリッサは悲鳴と共に頭を防いでしゃがみ込む。聖堂騎士が叫んだ。「皆、敵襲だ!」
矢の雨だった。立て続けに上空から降りしきり、十数の亀裂が刻まれる。防ぎきれなかった分は、聖堂騎士たちが剣で叩き斬る。
バーナードは大きく舌打ちする。
「上から狙ってやがるな……! おい、シャロン! 援護するぞ!」
「っ、わかってるわよ」
息を合わせ、同時に防御盾を展開することで強度を上げる戦法。二人が独自に編み出したものだ。
「二人も、聖典の準備を!」
「は、はいっ!」
テメノスが声を荒げたことで、女達もまごつきながら聖典のページを繰る。
リオは、腰が抜けてしまったのか呆然としている。彼は魔法の履修にも顔を出さないが、テメノスは挨拶やちょっとした会話を持ちかけた。ほとんど反応を貰えなかったが、彼を完全に孤立させないためにも根気よくやる必要があった。
リオが矢を受けぬよう、テメノスは咄嗟に襟を掴み、そばに座らせた。
「聖なる盾よ——」
アリッサとマーガレットも聖なる盾を組み上げ、神官たちであれば護れる広さは出来た。テメノスは聖堂騎士たちに向けたものに切り替える。
盾を持続させながら、矢の方向を仰ぎ見る。向かいの崖や岩の影から奇襲を仕掛けていると見ていいだろう。
矢自体は脆い。弾かれて折れてしまうほどだ。しかし先端の部分は鉄を研いだようなつくりで、肉を断つ事は容易に思われた。
「こそこそと隠れやがって、小賢しい——」
舌打ちを耳にした。語気の荒さから恐らく刈り上げ頭の騎士だろう。風が再び激しさを増したためか、砂が隙間を縫って入り込んでくる。おかげで視界は更に悪くなった。
「崖の上にいる魔物の仕業だろうが、位置が読めない」
風は強いのに、矢の軌道に狂いはなかった。
しかも死界を読んで狙ってくるせいか、テメノスは盾の数を増やすこととなった。
「クソ、これでも喰らいやがれ!」
銀剣のひと薙ぎによる衝撃波は、砂の流れをも裂いた。岩塊を破壊せしめたが、矢は別方向から飛んでくる。
別の騎士が複数の斬撃をかまし、次なるは別方向へ複数人がかりで同時攻撃を繰り返す。しかし矢が止む事はなかった。
ルーカスがムキになり出した彼らを抑えた。
「無闇に当てても無駄だ! 奴らは砂漠の魔物だ。こちらの攻撃は見切られている」
彼の言う通り、魔物だ。矢に関しては戦場のものを拾い集め、自らの獲物として扱い、生成も可能とする奴等の知性によるものだ。
「相手の動きが把握できないと難しいな」
「近づいて叩き切るしかねえだろ」
砂漠という過酷な環境で生き延びるには、より狡猾に、かつ確実に獲物を仕留めねばならなくなる。
魔の獣達の純然たる生への執着さえ跳ね除け、この旅路は成されるべきだ。テメノスには使命がある。誰一人とも失わせずに、ク国に導くのだ。
「……魔物ですが、この辺りで生息しているウォータンでしょう。知性が高く、親玉が群れに送っている可能性が高いです」
皆の視線が集まり、肩を突かれた。バーナードだ。
「師匠。何かいい策はねえのか。こっちも魔力がいつまでも保つわけじゃねえぞ」
「……策なら、ありますよ」この頭にしまい込んだ旅の記憶を引き摺り出し、丁重かつ速やかに照らし合わせる。そうやって組み上がる。
これはテメノスなりの、否、仲間達なりのやり方。
テメノスは盾を若者達に一旦任せ、瞼を閉じた。
砂風を遠ざけ、暗闇を揺蕩う。青い糸が幾重にも絡まり、束となって筋を描く。
「——こうして魔力の流れを読むと、視覚が悪くとも敵の位置を正確に見破ることができます」
迷いなく選び取った一縷を手繰り、矯めた。熟れた光魔法は澱みなく成形を果たし、魔物の放つ小さな魔力の中心部へとあてがわれた。
光弾は蒼穹の幕から飛来した。
魔物の断末魔が響き渡る。肉を剥き、血を繋ぐ管が焼き切れ、心の臓はたちまち機能を失う。魔物たちが退き、攻撃が緩むが、弓矢が止まるわけではなかった。やはり複数方向からだ。先ほどのは岩陰、それとは別の位置は斜向かいの崖の上から。合図を送り合っているのだろう。
「仕留めた……!?」
テメノスがおもむろに現実へ返るのと同時、ルーカスが喫驚した。
呆気に取られていたマーガレットとアリッサは顔を見合わせた。
「魔力の流れ……なんて分かるもの?」
「突然魔法を当てたみたいに見えたべ」
「あら、私たちが学んだのは魔法の編み出し方だったじゃない」 シャロンと目が合う。彼女はどうやら理解したらしい。「魔力を消費しての魔法の発露、練り方を体で覚えているのなら、応用は可能……そうでしょう?」
これは暗闇状態での対処法と原理は同じだ。得物は外しやすいが魔法であれば詠唱と魔力のコントロールで対応できる。
対象の魔力を読むことさえできれば。
「ええ。適性の有無はありますが……少なくとも魔法を形にできている皆であればできるはずです」
シャロンの他に、毅然としている男がもう一人。赤く燃えるような前髪が風に退かされると、青年のこめかみにある古傷が覗く。
「ふぅん、なるほどな。やってみる価値はありそうだが、集中を切らさねえ必要があるな」
会得の早い彼らなら魔物に悟られずに攻撃ができるだろう。
確かに魔力を読むのには神経を研ぎ澄ませる必要がある。バーナードは元傭兵。その辺りは適応できるだろう。シャロンは純粋に攻撃魔法の扱いに長けている。
「では、二人に任せましょう。私は盾を維持しながら、援護します。マーガレットとアリッサは引き続き盾を——」
「テメノス様!」ルーカスはテメノス達の防壁を掻い潜ろうとする矢を剣で斬り飛ばし、テメノスをまっすぐ捉えた。「あなた方が敵の数を減らし、混乱している隙に我々があの崖に回り込み、奴らを倒してみせます!」彼らはテメノスを信じてくれるという。銀の鎧は勇ましく輝き、金の紋章は穢れを知らない彼らの誇りを示していた。
テメノスは彼を見ていたほんの少しの時間が随分と長く感じた。
過去は振り向いても届かない場所へと千々に掻き消えてしまうが、テメノスは古い想いと面影を、思い出さずにはいられなかった。
テメノスは繕ってでも彼に笑いかけた。未来は次々やってくる。彼は、前を生きている。
「頼もしいですね。であるなら——マーガレットとアリッサ君は彼らに加護を」
清廉なる祈りによって、聖火の守りを彼らに授ける。魔物のひしめく道を拓けるように。
ルーカスに向けては、テメノス自ら祈りを捧げた。「必ず、無事で」彼は手を振り、仲間を率いて疾くと往く。青き光の粒が、砂に混じって舞い散った。
微動だにしなくなったシャロンとバーナードは、魔力の動線を見つけるべく集中を高めていた。テメノスは彼らを伺いながら、アリッサ達の盾と己のを組み合わせることをした。徐々に半球体まで強化を遂げる。
「……ッ、テメノス様。私たちはまだやれます。なので二人を」
怒り狂ったウォータン達の矢尻が無数の亀裂を刻む。突風が叩き割らんばかりに襲い掛かるが、再び詠唱を叫び、膜が塗り替えられた。アリッサは噛んでいた唇を解き、これまでになく声を張り上げた。
「お願いしますべ!」
少女達のかんばせには疲れが滲み始めていた。猶予は少ない。テメノスは魔力を送り込んでいた手のひらを離す。少女達は歯を食い締め、盾の維持に力を注ぐ。「……信じていますよ」彼女らに託し、暗闇に身を投じた。
崖には十数の魔物がひしめき、岩の裏には数体程度だった。
数を減らすには上を狙う必要がある。テメノスはまるで同じ静謐の世界に彼らがいるように、色のない世界を浮遊し、声をかける代わりに背後から肩に触れた。
彼らには何に映るだろう。テメノスにとってはやはり無数の糸が伸びており、水面のようにうねり狂っている。
彼らはそれに触れながらも、どこへゆくべきか迷っていた。テメノスは両の手を伸ばす。
彼らが、辿り着けるように。ほつれを解き、流れに身を委ね、動線を作った。光を放ち、彼らの行くべき軌跡が見える。両者の思念体のような何かは、驚きを露わにし、しかし流れに身を委ねた。
力が、開花する。
「——雷鳴よ、轟き響け!」
辺りが明滅したのはほんの刹那で、遅れて轟音と共に地響きがした。雷に穿たれた魔物は、肉を焦がし煙を上げている。
「氷嵐よ、巻き起これ!」
朗々たる詠唱は、外気温を急激に降下させ、氷塊が連なる。透明質の鋒の頂が、背中を抉り、心臓を貫き、しとどに血を吹かせた。
若き騎士隊が鬨の声を湧き立たせているのが、テメノスにも届いていた。砂漠の狡猾で屈強な魔物達との交戦が、本格化する。
「ああ、よかっ、た……」
マーガレットが倒れかかるので、テメノスは咄嗟に支えた。顔色が悪い。アリッサが背負っていた鞄の中身を探る。干したプラムを噛みちぎり、彼女の口元へと運んだ。
「……ありがとう。よく頑張りましたね」
榛色の瞳に水の膜が張るが、すぐに吸い取られて消えてしまう。人の役に立ちたいという彼女の願いはいつもそこにあって、マーガレットの綻びは、深い満足感を表すと同時に、とてもあえかだった。
「バーナードにシャロン! 良い読みでしたよ! その調子で——」「悪いけど、今は話しかけないでくれ」遮られてしまった。集中を切らしたくないのだろう。こめかみに血管が浮き出ている——シャロンに関しては瞼を固く閉じて、誰が何を言っても聞き入れそうになかった。騎士たちが突撃している今、彼らの妨げにならないよう細やかな魔力のやりくりに拘っている。
矢が飛んでこないのが、状況の好転を表していた。テメノスも聖なる光魔法を撃ち出す。
己の形象を反映し、分裂した金の礫が魔物達を昏倒させた。その隙を突き、騎士達が連携技で追撃し、次々と仕留めていっているはずだ。その確信は、砂が徐々に晴れてゆくたびに高まっていった。
赤茶髪の青年騎士——ルーカスは晴れやかに剣を掲げた。隣の騎士達は首領の魔物が持っていた大きな弓らしきものを見せてくる。彼らは上手くやったのだ。
テメノスはバーナードと手を握り合い、シャロンには賛辞と労いを送った。この短期間で良くぞここまでやってくれた、という感慨が身体中を満たした。
騎士隊も降りてくる。歪に削った崖の奥に隠れていたような陽が、隙間から顔を出していた。日没まで半刻程度か。間に合って良かったと思う。
「あー、腹減ったわ。干し肉でも良いから食いてえ」
砂上にも構わず腰を下ろしたバーナードは、達成感と疲労を混ぜこぜにしてへこんでいるお腹をさすった。
「その前に寝床はどうするの? ここじゃあ魔物が怖いわ。皆、疲れているでしょうけどもう一踏ん張りってところかしら」
砂で汚れるからはしたない、とシャロンが腕を掴むので、へいへいと不承不承立たされてしまう。見ているとつい、くすりと笑ってしまう。
そしてずっと蹲っていたはずのリオに声をかけようと辺りを見渡し——テメノスはふと、悪寒を覚え、反射的に詠唱した。気色の悪い蠢きの音が耳朶をなぶり、微かな人の呻きも合わさった。テメノスに言葉をくれないままの少年、その人だった。
彼に何か言わんとして、しかしすかさず飛び退いた。リオを捕えたままに、鎌のような足がテメノスを切り裂こうとしたのだ。
「おいおい……ここにきて伏兵のおでましかよ!?」
「砂の中に隠れていたというの……?」
砂漠地帯には地中に潜む魔物は少なくない。ドクサソリなんかも同じだ。平常であれば彼らが潜む場所をある程度推測し避けて通ることをしてきたが、ウォータンの群れとの戦いで血の匂いを嗅ぎつけてきたのだろう。
「マーガレットッッ!!」
悲鳴混じりに仲間の名前を口にするアリッサから砂煙を立てて八つの足を持つ魔物の距離は一方的に突き放されていった。マーガレットは、忽然といなくなっていた。蜘蛛に巻き取られ、連れ去られたのだ。
名は確かヨジョウグモだったはずだ。今しがた逃げて行ったのは、リオの全身に糸を巻きつけていったこの巨体よりはひとまわりは小さい。寧ろこの方が異様に大きいのだ。まるで蜘蛛の頂点に立つようなその存在は、身体にリオを固定すると、砂黒く尖った巨爪を駆使し、砂の中に潜り込もうと試みる。
「くっ……させませんよ!」
光魔法を連射で食い止めにかかる。奴は諦めたのか、マーガレットを攫った個体と共に熱砂の絨毯を駆けていく。
鼓動が姦しい。蜘蛛共は巣に彼らを持ち帰ろうとしているのだろう。マーガレットの糸の隙間から見える顔つきには酷い恐怖が浮かび上がっていた。
焦るな。こんな窮地は何度も乗り越えてきたのだ。
諦めるという選択肢は無い。誰かを守れなかったと悔やむ未来も無い。無いようにする。
テメノスは地を強く蹴り上げ、人攫いの蜘蛛達の姿を遠ざけまいと追従する。
誰かが呼んでいるが、金輪際構ってはいられなかった。叩きつけてくる砂を庇いながら、前へ。いかなる時も、道は前にしかない。目路を抜けてゆく景色よりも、めまぐるしく流れる思考を突き詰めてゆく。
ヨジョウグモに光魔法はあまり通らない。それよりかはあの毒の塗り込められた牙、或いは吐く息に細心の注意を払いながら槍で外皮の柔らかい部分を狙うか、短剣で近接戦に持ち込むか。雷魔法で貫くのも良い方法だ。
テメノスの手段は限られている。
二年のブランクは長く、魔力はあっても体力はさほどない。全力を出して走ればすぐに息は切れてしまう。
なにより灼熱がテメノスの身体から着実に力を奪い取ってゆく。
「待ちなさい……ッ!」
乾き切った喉奥から捻り出し、そして、秘めてあったダガーを手に取った。
獲物は複数あった方が断然有利だ。短剣は忍ばせやすく軽量であり、テメノスは旅中で盗賊の女に勧められて携帯するようになった。
本職よりは劣るが、しかし奴の肉を抉るのにはこれしかない。
ナイフ投げ——もう少し勉強しておくべきだった。後悔しても遅いが、目の前は暑さで眩み、柄を掴む五指が震えっぱなしだった。
遠方に地表の盛り下がった部分が見える。あそこに巣があるのだろう。
蜘蛛達の詰所に差し掛かれば終わりだ。
「……て、めのす、様」
マーガレットのか細い声が、テメノスを現実に引き戻すかのようだった。
自身に聖火の守護を纏わせ、強引に足を動かした。
どこを狙うか。それは分かっている。硬い殻に覆われていない所。頭部と胴体の境だ。
テメノスはダガーを投げた。構えは、咄嗟にしてはまだマシか、だとしても腕の振りが弱かった。
しかし魔物を振り向かせるのには十分だったようで、数えてもまた浮き出てくる禍々しい赤いまなこたちが、テメノスを睥睨していた。
白い糸が伸びてくる。テメノスは盾を素早く展開し、奴に迫る。
予想に反し、糸は柔軟だった。意思を持ったように曲線を描き、翻し、最終的には盾を覆い視界を奪わんとする小賢しさを披露した。
テメノスは粘着質な覆われた盾を薙ぎ払っては、次の盾を生み出す。そのせいで魔力が刮げていった。舌打ちを漏れた。
せっかく獲れた活きの良い獲物を奪われまいとヨジョウグモは必死だった。テメノスを毒牙で蝕もうと毒息を吹きつけてくる。糸も盾も融解して使い物にならなくなった。
「……っ」
回復魔法では毒は消せない。今も糸の拘束から逃れようと蜘蛛の背中でのたくっているマーガレットを救出しようとして、前進しても後退させられる。
こうなったら賭けるしかない——蜘蛛が糸を吐き出すのを見計らい、テメノスは再び盾を置いた。脆く作ってあるそれは、簡単に砕けた。毒息が噴き出る予兆があった。そこに向け、光明魔法を撃った。
「マーガレット君!」
彼女は目を見開き、しかし戦慄いた唇を動かした。
「せ、聖火の守りを……我、に」
その後は聞こえなかった。魔物がどこから発しているのか、奇声を上げてのたうったからだ。
外皮は硬いが、体内は当然柔い。テメノスがありたけ注いだ力の奔流は臓物をいっそ無慈悲に食い荒らし、外殻の隙間からあぶれ出た。
動かなくなった蜘蛛に突き刺さったままである短剣を引き抜いた。
放り出されてしまったマーガレットの拘束を解いてやる。咄嗟に守護の聖句を唱えたおかげだろう、それとも、光魔法の性質ゆえか——彼女の外傷は少なかった。
「マーガレット君……」
意識はあるのかと軽く頬を叩くと、目はうっすら開くし、息も続いている。
だが、汗の乾いた跡がなかった。額は異様に熱く、体温が上がり切っていることをあらわしていた。顔色の悪さは増してかなり憔悴している。癒しの祝詞を施しても、一時的に和らげることはできるが根本的な解決にはならない。
一刻も早く皆のもとで治療をすべきだ。しかし、リオは連れ去られたままだ。
テメノスはヨジョウグモの巣があるであろう方角を見遣って——息を飲んだ。いいや、正確には、飛んできた毒液を転がるようにして避けてからそうした。
「……ッ!」
日さえ遮る大きな身体が、テメノスへ明確なる殺意を浴びせた。仲間を殺されたことに激昂しているのだと、すぐにわかった。牙をうごめかせて毒の残滓でできた涎は滴り、赤い目が忙しなくぐるりと回る。
だらんと垂れる白い腕は、リオだった。彼は無気力だった。いつも何もかも諦めたようにしている。それがテメノスの胸に秘めていた彼への所感。
テメノスが狙いをつけて投擲したナイフを、大蜘蛛は歯で噛み砕いた。残骸が呆気なく砂に混じる。
テメノスはすかさずマーガレットを背負った。自在に動き回れるはずもなかった。テメノス自身も、酷い頭痛と吐き気、身体のふらつきで苦しい。斜陽は嘲笑うように地平に飲まれようとしている。狂いそうだった。
終わるか。終わらせてたまるか。吠えはしなかったが、テメノスは大蜘蛛を睨め付けた。
どうする。手札などたかが知れていた。あとひとつ、強力無比で諸刃の剣の如しの詠唱文句はあるが、硬い装甲に包まれ、なにより熱や光に耐性のある大蜘蛛を貫けるとは思わない。
テメノスが蜘蛛と相対したまま後退を始めると、大きな爪が振り下ろされた。紫色の毒々しさは、心臓を貫かれても、体内に巡っても即死が定められていると本能的に確信できる。
「私は……」
追い詰められた時にこそ、冷静を保つべきだといういつかの言葉が、跳ね返ってくる。
テメノスは瞬いた。ひろめく身体を静止させた。新たな風が吹きつけた。
爪が降りてくる。テメノスはこれを避けるのに全力をかけた。
次に降ってくる爪は盾を二重展開して抑えた。「——力を貸してください……」一枚目が剥がれる。大蜘蛛は口を歪めて嘲るが、テメノスは自分の打つ手に確信があった。そして二枚目は、みしりと音を立てた。「ルーカス!」
駱駝が鳴いた。そこの岩の影から聞こえた。青年の力強い声が、青空のそばに来ていた。
「お任せください、テメノス様!」
剣は腰に、彼が振り回していたのはリーチの長い槍だった。
大蜘蛛の背に乗り上げ、柔い部分に突き立てた。抜き取ると体液が吹き出し、鎧やぐったりしたリオの体を汚した。絶叫が耳をつんざく。
金属の鎧は変色し、布地の部分は溶けていた。ルーカスが動揺をあらわにした時、大蜘蛛は彼を振り落とした。投げ出されそうになったリオはすかさず糸で巻き取ってしまう。
完全に気を失ってしまっている青年は、されるがままだった。
砂が緩衝となり、打ち身などはなかった。だが、背を向けた蜘蛛の逃げ足は素早い。
「ッ、待て……!」
青年は後を追おうとするが、濃い砂煙に押し戻された。周到な魔物だ。悔しげに地団駄を踏む。
テメノスは聖句の詠唱を試みたが、叶わなかった。喉が、引き攣ったのだ。そのまま激しく咳き込んだ。
「テメノス様、マーガレット……!」
駱駝にはもう一人乗っていた。アリッサだ。降りるなり荷物を手に駆け寄った。
テメノスはアリッサから差し出された飲料水の蓋を開けた。空洞を満たすだけの命の源を前にしたら、飢えた体は止まらなくなる。
あれだけ塩辛く感じた飲み水だが、今は何よりも美味しく感じられた。
「マーガレット、あなたも……」
アリッサは手のひらから小さな氷の塊を作り出した。彼女のささやかな魔法だが、この上なく適任だった。素早く布で包み、敷き布の上に横たわらせたマーガレットの額にあてがった。
「……アリッサちゃん。来てくれたんだ」
氷に触れ、これ、気持ち良いね、と綻んだ。
アリッサの瞳はたちまち潤み、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「ごめん、ごめんね……っ」
彼女が攫われた時、アリッサはちょうど彼女のそばを少し離れていた。
マーガレットは手を伸ばす。アリッサの震える背中を優しく撫ぜた。言葉にならない彼女の感情が滲んでいた。少女はたまらなくなったように唇を噛み、彼女を強く抱きしめた。
「……テメノス様、私からも。駆けつけるのが遅くなってしまい、申し訳ありませんでした」
ルーカスは頭を下げてくるが、彼の判断は冷静だったとしかいいようがない。反して、テメノスは、囚われていた。とっくに
「私が勝手に一人で飛び出したものですから。助かりました。あなたがいてくれなかったらどうなっていたか」
いいえ、と若き隊のリーダーはかぶりを振る。
「あなたは誰よりも危険を察知し、即座に行動に移したんです。誰もあなたを責めません」
テメノスはいつもの貼り付けた笑みを返そうとして、やめた。
「ですが、リオはまだ助けられていない。私は、行かねばなりません」
二年、いや、もっと長い年月の中、恐れていたことがテメノスの奥深くから迫り上がる。
もう一度でも、この手から何かすり抜けようものなら、テメノスは人の形をした理性なき獣となるに違いなかった。
「魔物の巣に向かわれるつもりですか」
「ええ、勿論。私は、誰も死なせない。失わせません」
この願いは、独りよがりだろうか。自己満足? 問いかけ続けたところで、テメノスは彼を諦めるという選択肢を弾き続けることに変わりはない。
「——皆を、必ず導いてみせます。私が守るんです。皆の未来を」
夕暮れを宿しているであろうテメノスの瞳を見つめて、青年は半ば唱えるように唇の隙間から繰り返した。「守る……ですか」
「ええ。アリッサ君。あなたはマーガレット君と共に皆の元へ戻ってください」
駱駝に跨ったアリッサへ、マーガレットは身を預け腹に腕を回した。
アリッサは頷き、テメノスに向け、赤くなった目を閉じ、両の手を絡ませることをした。ひたむきな祈りだった。「テメノス様……必ず無事に返ってきてください。どうか、聖火の加護とお導きがありますように」漂う色彩が清らかな浅葱色なのがその証だった。胸がじんわりと温かくなる。
それから、荷物を分けてくれた。上着と、テメノスも旅中で口にしたようなプラムやブドウ、乾燥ハーブが入っていた。
テメノスはルーカスを見た。彼は、残るという。
「ありがとう。あなたも気をつけて」
女二人を乗せた駱駝が駆けていく。空の半分は農紫を孕み始めていた。
風が冷たくなり始めている。夜は、もうすぐそこか。
「……テメノス様。俺はまだ、未熟です。だけど、皆を守りたいという願いは同じです。騎士として、己にとって常に誠でありたいのです」
ルーカスは胸に拳を当てた。
テメノスは彼を仰ごうとして、こんなに高くにあっただろうかと密かに驚かされた。
「このルーカス、あなたの剣となります。共に、リオさんを助け出しましょう」
この上なく、頼もしかった。純粋に嬉しくもあった。信頼されているのが分かるから。しかし今も昔もそれをおくびも出せないのがテメノスだった。差し出された手を握る。今は、これで。
「……ええ、よろしくお願いします。ルーカス」
眩しいものをこの目に入れるのは、少しばかり、難儀する。
◆
真っ赤の蓋を開けた。甘やかな香りが懐かしい。
果実を砂糖と煮詰めて保存性と味の釣り合いをとっている代物で、とても希少だ。あの甘ったるさ、ドロドロとした食感、喉に触れて鳩尾まで落ちてくる感じ、もはや全てに嫌気がさしていたテメノスであったが、舌の付け根あたりから唾がどっと滲み出てくるのを感じていた。テメノスは久しぶりに小瓶を飲み干した。
魔物達の巣は洞窟だった。背中の杖に明かりを灯し、慎重に足を踏み入れた。どこを歩いても、妙に静かだった。
「……水の音がしますね」
テメノスと隣並びのルーカスが辺りを見回す。よく耳を澄ませると、溜まり水に滴の落ちるような音は確かに聞こえてくる。
「この洞窟の位置的に、地下に溜まり込んだ水が流れ込んでいるのでしょう」
魔物が棲みつくのも合点がいく。
だからこそ、人間に資源を奪われないためにも、魔物らは闖入者を招き入れるべきではないはずだ。
テメノスは警戒を緩めないよう意識しながらも、考えを巡らせた。あの巨大なヨジョウグモは、子分を殺され、戻ってきてまで無念を晴らそうとした。
群れの頭だと考えるのが妥当だろう。つまり——
行き止まりには何度か当たったが、とうとう洞窟の最も深いであろうところにまで来た。
「テメノス様。見てください、あれを」
声を潜めて、青年はテメノスの肩を突いた。指差すところを見やった。
「……やはり」
待ち構えていたか、とまでは言い切らなかった。大蜘蛛が、鎮座していた。薄らと発光する、半透明の帯が輪郭を際立たせていた。切り立つ岩の長く高く続く先に空洞があり、月の灯りが差し込めているからだった。
かの魔物はテメノス達を待っていた。あからさますぎるほどに。
互いに頷き合い、毅然と歩みを進めた。
足を折りたたんでいた大蜘蛛だが、分かっていたように身を起こした。
天窓から砂がぱらりと降る。それが何かを汚した気がして、テメノスは明かりをそちらに向けた。
「リオ……!」
テメノスは目を見張った。少年は、巨大な蜘蛛の巣の中央部に磔にされていた。
声が響いたからだろうか、彼は眉間に皺を寄せ、ややあって目を覚ました。
「……ぇ、な、なに」
目を泳がせ、ずっと気を失っていたためか、ここがどこなのか分からない様子だった。
外傷はないようだ。だがこんな状況を目の当たりにしたら、また意識を飛ばすかもしれない。
「な、なんだよ、これ……ひ、い」
じたばたと手足を動かすが、岩壁を覆うほどの蜘蛛の糸はべったりと接着を果たしており取れない。
少年はみるみるうちに顔を青くした。
ヨジョウグモは鋏に似た大きな爪を鳴らし、リオをせせら嗤った。
「リオ!」狼狽し切った彼の名を呼ぶ。杖を掲げたことで、彼はようやくこちらに気がついたようで、目を丸くした。その口が小さく何か言っているようだったが、聞き取れなかった。
「リオ様、必ずあなたをお助けいたします!」
ルーカスは宣言ののち、今度は構えた。テメノスもまた、聖典を繰る。リオは臨戦体制の自分たちを忙しなく見て、徐々に困惑を露わにしていった。まるでなぜ? とでも言いたげだった。
充填した魔力を駆使し、守護の聖盾を複数回溶接の末、半球体に仕立てる。
ルーカスは一度きりの目配せののち、短い詠唱と共に剣に光の筋を迸らせた。前足を上げた蜘蛛が糸を飛ばすのと、一閃をかますのは、ほぼ同時だった。
「聖火の光よ、我が願いに応え、輝きたまえ——」
テメノスも光明魔法を紡いだ。空間が歪んだが如く現れた光線が絡み合い、束となる。ひとつの生き物のように引き絞った唸りをあげ、黄金色の槌となり、大蜘蛛の分厚い殻の粉砕を試みた。
「まだまだッ、こんなものじゃないぞ!」
暗闇に紛れていた水溜まりを踏みつけ、ルーカスは素早く大蜘蛛の懐に潜り込んだ。
刀身に指先を滑らせると、足の付け根目掛けて青き稲妻に似た閃光が駆けていった。
大蜘蛛の巨体が傾く。脚を二本、切り離したのだ。
「さすがです、ルーカス!」
テメノスも続け様の詠唱を組み上げた。ヨジョウグモの身体の裏側は殻がなく柔らかいはず。その推測通り、追撃は功を奏した。
「テメノス様こそ、ナイスアシストです!」
白い歯をにかっと笑う。ルーカスとは、洞窟を歩き進めながら、この厄介なヨジョウグモへの戦略を立ててあった。槍や短剣に弱いのは、身体の柔らかい部分の面積が小さいからだろうとテメノスは考えていた。いくつか候補を挙げた末に、剣で攻撃を与え、魔法で引きつけつつ探るという戦略を取った。それが上手くいったのは良かった。
「……っ」
糸に絡め取られたままの少年は、信じ難いものを見る目をしていた。その真意は分からないが、テメノスはまず、彼に真っ当な情動が宿っていたことに安堵した。
「リオ、もう少しの辛抱ですからね」
返ってきたのは、舌打ちだった。
「……ふざ、けんな」
「え?」
驚き、眉を顰めたのはルーカスの方だった。テメノスは、静かに彼を見ていた。それも癪に触ったのか、少年は声を荒げた。
「なんで、助けるんだよ……っ、僕のこと、どうでもいいと思ってるくせ、に……」
「そんなことは——」
それ以上は掻き消えた。大蜘蛛が効くに耐えない奇声を発したからだ。それも、長たらしい。鼓膜が破れそうだ。
ようやく止む頃には、虫が地を這っていた。ひとつやふたつじゃない。夥しい数がこちらへ集まっている。
赤い目が暗闇にぼんやりと際立ち、禍々しい夜空のような光景がテメノスたちを取り囲んだ。
「……ッ、隠れていたのか」
「やけに敵が少なかったのは、こういうことだったのでしょうね」
いや、寧ろ大蜘蛛の方は、最初から助けを求めていたはずだ——
彼らがこの機に及んでやってきたのは、群れの頭を窮地から救い出すためではない。その証左に、新たな頭となるヨジョウグモが、群れの先頭に佇んでいた。多くの蜘蛛たちが、既に彼の意思に忠誠を向けているようにテメノスには捉えられた。大蜘蛛から感情は読み取れないが、その目に彼を映し、微かにみじろいだのが見てとれた。
大蜘蛛は、裏切られたのだ。彼は、悲しむことも怒ることはしなかった。
その代わりに、白い糸が伸びた。
「……」
リオは今度は悲鳴ひとつ上げなかった。だが、降り注ぐ月の明かりを頼りに目を凝らすと、下唇から赤い血が滲んでいた。脂汗もびっしりと首に浮き出ている。なのに、身体は抵抗を示さない。
テメノスは、自ずと杖を大蜘蛛に差し向けていた。「……させませんよ。私の仲間を返してもらう」
大蜘蛛のどこを撃っても、光魔法で貫ける。今の彼の身体は、先ほどの攻撃で酷く脆い。
「や、やめろよ……ッ」
既に聖句の一節を口にし始めていたテメノスを止めたのは、少年であった。
「こいつを殺したところで、この数に勝てるわけない」宙吊りの少年は、生半に言葉を切って、深呼吸した。「早く、逃げればいいだろ。僕を置いてけよ。僕はどうせ生きていたところで、何の価値もないんだ。お前たちもきっとそうだ……」加えて早口だった。震えてもいる。澱み、暗ぼったい。とにかく危うい。青くもあった。
「……では聞きますが、あなたの価値を、あなたがそんな風に決めてしまって良いのですか?」
テメノスは冷静に返した。少年は、やはり苛立っていた。
神官とは思えない身なり。ぼろぼろのキャソック、留め具の壊れかけたローブ。
そこから彼が教会でどんな日々を送ってきたのか、ある程度想像はつく。
「僕はゴミクズなんだよ。そう言われてここまで来させられたんだ」
そして、卑屈になってしまったことも。
「馬鹿にされるために生まれてくるくらいなら、消えてやる」
テメノスの仕事は、導き、率いることだ。そして個人的にも、彼を救いたかった。
「では、全て諦めるのですか? あなたには、まだ変えるチャンスがある。馬鹿にしてきた人たちを見返すことができるかもしれない」
心の強い人たちばかりで、世界は作られちゃいない。
「うるさい! 毎日祈っても、あいつらはいなくならない! うんざりなんだよ……ッ!」
少年は、吠えた。普段は大声をあげないのだろう。声が掠れている。次第に咽せたが、厭わず続けた。
「他の奴らもそうだ! 僕を馬鹿にしているんだ……あんたらも、出来損ないだと思ってるんだろ!」
「それはあなたの自己評価ですよね」底冷えする洞窟の中で、テメノスは氷輪の如く彼を射止めた。「私は違います。あなたは、相当凄い人ですよ」
「……え?」
身構えていたリオは、いよいよ何を言っているのだこいつは、頭がおかしいのかという台詞を、表情ひとつに内包していた。
テメノスはよく回る口を存分に使わせてもらうことにした。
「旅中での頑なさは、あなたが閉じこもっているより他に、絶対に譲りたくないという気持ちを保ち続けていたからではありませんか。本、大事に抱いていましたよね。好きなんじゃないんですか」
「……っ」
リオが持っている本は一冊だけだったが、しかし彼にとってはかけがえのないものだということは見抜いていた。
自身の身なりに気を回さなくとも、あの本に関して、自分のそばにおいて、誰にも触れさせないといういっそ懸命な気概を感じた。
「それに、大蜘蛛に捕らえられてもなお自分の想いを叫ぶことができるあなたを卑下する方々の気が知れませんね」
大したものだ。少年の身体は緊縛され、足を暴れさせて息の良い魚のようにしか振る舞えないはず。しかし彼ときたら、泣き叫ぶよりも己の心の卑屈さ悔しさを暴露し、主張してみせた。
「そ、それは……ただ、ムカついたからで」
「普通なら、怯えるだけですよ。あなたには価値があります。考えを改め直してください」
「……な、なんだよ、それ」
語気を強くしたところで、少年はただ、受け止めかねて萎れていくだけだ。けれど悪くはない。むしろ良い兆しだった。
「他者に消えてもらうことを祈るより、リオ、あなたが大きくなれば良いんです」
憎い相手への最大の報復は、己が忘れ去るほど幸福であることだと、誰かは言ったものだが、リオにはそのいじめっ子たちを見下ろせるほど、高く育てる。彼にはその素質があるのだ。
「……お前達は知らないんだろ。僕は魔法も碌に使えない! 自分の傷も治せないんだ。それを分かってて教会の奴らは僕を送り込んだんだ」リオの涕涙が、頬をにわかに濡らし始めた。待っていた灰色の雲から降り頻るように。「こんなの、死ねってことだろ……」
誰しも、多かれ少なかれ、絶望を抱いている。かつてテメノスに立ちはだかったものたちも、そうだった。彼らは絶望の末に力に溺れ、或いは明日を捨てたがっていた。
己も、どこかで踏み外したならば、先ゆく道に光を見出せなかったろう。
しかし、それでも生きた。しがみついて地を這いつくばって勝ち取った。真実を。明日を。
絶望に負けそうになりながらも、生きとし生けるものは希望に惹かれているのだ。明るみの中でしか、喜びも苦しみもないのだから。
「あなたにはあなたのできることがあります。一人でわからないなら、私や仲間達が手を貸します。……それにね」
テメノスが大蜘蛛に杖を向けたまま歩み出すと、蜘蛛の軍勢たちもゆっくりと距離を詰めてきた。それを尻目に、テメノスは一旦言葉を切り、すうと息を吸い込む。
「あなたはまだ、一歩も踏み出そうとしていない。ただ何もできないからと諦めていては変われないのは当然です。生きなさい。生きて、前を見つめている限り、あなたは変わることができる」
「……っ」
リオのあの、抑揚のない顔立ちはとうに崩れ去っていた。少年の拙い激情が一度解き放たれれば、波濤のように打ち寄せた。号哭が続く。
「どんな時でも己の大切にするものは決して見失わない——それが、強さなのだと私は思います。ですから、私がその導をつなぎます」
皆、その強さを抱くことができるのだ。灯火を、忘れなければ。
テメノスの背に、ルーカスが合わさった。もう退く場所などなかった。蜘蛛達の赤い目玉達が間近にある。
糸が伸び、テメノスの足は動かなくなった——しかし。
杖を立てた。聖典は、テメノスの手から離れた。
「テメノス様、一体何を」
輝きが、満ちてくる。
驚く青年に、テメノスはそそぎ落とされたような心持ちでいらえた。
「……聖典が自ら開いた。神の思し召しでしょうか」
「そんなことが……!? 凄い輝き……これが聖火神のもたらす奇跡なのですか」
いいや——これは必然だ。神は相応しくないものに新たな聖句を与えることはない。
それを口にするのは胸の中だけで良い。彼らに呼びかけた。
「皆。盾を貼りますが、念のため、伏せていてください」
あの小瓶のジャムの恩恵か、魔力は満たされていた。分厚い盾を三人分貼った。蜘蛛達が噛み切ろうとするが、間に合うだろう。
テメノスは屈み、両の手を結んだ。いつだって、これを前にすると——畏敬よりも先に、泣きたくなるような覚えがする。悲願を果たしてもなお、脳裏に手を伸ばしても届かない世界にいる友人達を描きながら祈るせいだった。
テメノスの青、黄金、白。光の渦流たちは、多様な色彩に移ろう。
昔と今は違う。どこまでも、自分たちは現世の人間である。目の奥の痛みが教えてくれる。
光明魔法の最上級は無数の槍によく似ているが、光と光の境はなく、渾然たる黄金が遥かに至るまで広がっていた。全ての魔障たちは裁きと慈悲の前になすすべもない。
彼らは悲痛の喘ぎひとつすら発することなく灰燼へと姿を変え、月の浮かぶ夜の空に吸い込まれていった。
大量の魔力を消費したからだろう、足取りがおぼつかない。ルーカスに支えられながら、月が作り上げた円形の光の輪に横たわるリオのそばまで来た。
リオは今になってやっと鮮やかに捉えた、琥珀色の眼をゆらゆら彷徨わせたが、ややあって躊躇いがちにテメノスを映した。
「さあ、リオ。皆の元へ一緒に帰りましょう」
握った手は温かくて、テメノスはそっと綻んでいた。