恋のつくりかた
02
小さな村を経由しつつ、サイの街を後にする頃には、少数の聖堂騎士で形成された護衛隊も砂地帯に順応できるようになっていた。
無駄の少ない連携と、魔物の弱点を把握し切ったことで拘う時間も短縮され、ペースも徐々に上がってゆく。
特に隊長を務めるルーカスはある時を境に積極的に仲間達を鼓舞するようになり、テメノスを感心させた。詠唱と共に銀剣に青い光筋が迸り、神聖な紋様を模ると、彼の目つきも変わった。魔物へと肉薄を果たし、微かな油断をつかみ取った一閃を撃つ。魔物は灰燼と化した。
「俺たちの剣で道を切り開くんだ! 皆、行くぞ!」
赤茶髪の青年が剣を掲げる様は、さながら寓話の勇者のようだ。彼に続く騎士達は顔を見合わせた。
「リーダー、いつにも増してやる気だな!」
「なんだなんだ。もしかして良いところ見せたいのか? あの人に」
うち一人がニヤニヤし始めた。今は日除けを被っているが、刈り上げ頭をしていたはずだ。彼の隣が焦ったように頭を引っ叩いた。
「おい、それは言わないって約束だろ!」
あの人とは誰のことだろう。騎士達も若いから、ガールフレンドの一人や二人もいそうだが。
当の赤茶髪の彼は深い溜息をひとつ。ひそひそとやっている彼らをじとりと見遣った。
「聞こえてるぞ……お前達もオルトさんに認められたいんじゃなかったのか?」
「そりゃあ、ク国の砂道を越えた証明があれば、オルトさんも一目置くかもしれんが。リーダーのは分かりやすすぎるというか……なぁ?」
「いや、それは」
「……そうなのか?」
返答を求められ、刈り上げの隣でよくない汗を浮かべ、曖昧に笑う。リーダーとしての彼は怒らせると怖いのかもしれない。
「まあ良いさ、今は——俺が速攻をかけるから、ついてこい」
青いマントがはためいた。彼はとっくに抜剣している。この間に比べたら気迫がまるで違う。本来の実力を出せていなかったのだろうか。
テメノスは杖は背中に、いつでも外せるように構えておきながら、聖典を開いた。
「聖なる盾よ——」シルティージの舞による恩恵でも預からなければ、盾を並べるのは不可能だが、なれば変形させれば良いという理論に行き着いたのだ。
後輩神官たちは出現した半球体の盾を見上げ、呆気に取られていた。盾の強度は使用者の魔力や練度に依存する。この辺りの魔物であれば殴打や斬撃の数発なら耐えるだろう。
騎士達はこの青き守護を受け、地を蹴り上げ、魔物への肉薄を果たす。砂吹雪が掠めた。目を凝らすとまだ魔物は群れていた。テメノスは振り返り、合図を出す。
「さあ皆、出番ですよ」
神官たちもテメノスに倣い、彼らの支援に回る。魔法の練度を上げるにはちょうど良い機会だと踏んで、あれこれ指示を飛ばすのがテメノスの役目だ。
回復の祈りは礎として、聖なる盾の本習得を目指す。
「——なあ、テメノスさん。俺の、結構上手くやれてるんじゃないか?」
騎士達に降りかかった石製の武器による殴打を、青い盾が受け止めた。すぐに割れてしまったが、教えたばかりの詠唱にしては上手くやれている。
男達は青年へ礼を告げ、銀の甲冑を光らせ、疾駆した。次の瞬間には魔物達の首は胴と分たれていた。
テメノスは口笛を鳴らし、最初の成功者へブラボーと賛辞を飛ばす。
「その調子ですよ、バーナード。イメージの掴み方が上手いですね」
「どうも。だが、まだまだ精進あるのみだな」
名を呼ばれた彼は頬の砂を拭い、彼は向上心の詰まったことを言う。にやりとしてやったりのピースを挟み、魔法を詠唱した。次なる魔物と対峙する騎士たちの行動を見極め、更なる強固な盾作りに勤しむ。明らかに場慣れしている。テメノスはバーナードのことを、かつてはどこかの戦士だったのかもしれないと勘繰った。
魔物は肢体を斬り裂かれ、血飛沫を散らして絶命した。ほんのわずかな出来事だった。
一番後ろの控えめな後輩神官の女が、小さく悲鳴をあげてしゃがみ込む。馬車では引っ込み思案だったアリッサという少女だ。リスのような警戒心で逃げたり隠れたりする彼女は、戦闘そのものが慣れないようだ。
「その程度で調子に乗らないでくれる?」
騎士達にも褒められたのか、さらにご満悦な様子のバーナードに向け、苛立ちを滲ませる女が一人。
「まあまあ、落ち着きなよ」
そんな彼女を苦笑気味に見守るのは、切り揃えた前髪にふわふわの茶色のセミロングが特徴の女神官。彼女はマーガレット。田舎から離れたくて砂漠で働きたいという動機をまず打ち明けてくれた。そこに教会が立つなら、勤めることにも前向きだと。面倒見が良く、野営の料理も手伝ってくれる家庭的な娘である。
「なんだよシャロン嬢、悔しいのか?」
「ちょっと……」
皮肉を効かせた呼び名で挑発する彼を慌てて抑止しても、気の強い彼女の耳にはしかと届いた。男はぎろりと睨めつけられ、「おお、こわ」と一歩退いた。
吠えたシャロンの足蹴りを、男は脛に受けた。悶絶して膝が砂に埋まる。「私だって今に抜かしてやりますわ」
野営でもしっかり巻きたいのだというプラチナのブロンドを振り乱す、彼にとってはもう慣れつつある宣戦布告。彼女はとにかく気が強く、負けず嫌いであるからか、要領の良い彼に何かと突っかかっている。
「なんだ、宣戦布告か? 良いぜ、受けて立ってやるよ」
「フン、今に吠え面かかせてあげるわ」
さて、こうともなればあの二人は互いに切磋琢磨し合うだろう。誘導したわけではないが、彼らが常に前で競い合っていれば、後ろのものも付いてきやすい。
「砂漠に負けじと元気ですねぇ」
テメノスの呟きに、マーガレットは「確かに」と頷いた。
「二人のおかげで賑やかですよね。なんか兄妹みたいかも?」
「……そうかもしれませんね」
彼らは会ってほどないはずなのにあの調子だ。むしろ波長が合っているのかもしれない。だが、物事には均衡が必要である。激しい川の流れにはそれを抑えるものがあるように。戦闘を終えてもなお魔法を飛ばし合う若き神官達を眺めているマーガレットこそ、まさしくストッパーの役割を果たしているのだ。
「……えっと、テメノス様。どうかしましたか?」
マーガレットが困ったように尋ねてくる。どうやらじろじろと観察しすぎてしまったらしい。テメノスは咳払いをして「なんでもありませんよ」と誤魔化した。
気遣いの塊のような彼女は、颯爽と荷車に乗り、準備を始めた。携帯用の濡れ布や補充の水を皆に配っている。
精霊石で冷やした水や乾いた身体によく効く。マーガレットには自分も気にかけて欲しいものだ。テメノスの旅仲間の中にも、常日頃から世話焼きなものから、本質的に他者を優先する性質の者は何人かいたもので、彼らは大体無理をしてしまうことがある。
さて、どうしたものか。考えを巡らせているうち、霧のような砂が晴れ、オアシスと、それを囲う民家が見えてきた。まだ日中だが、サイの街までやや距離があることを踏まえると、物資を足して、きちんと休んでおきたいところだ。暑さは人の思う以上に体力を奪うし、夜は寒いのも相まって身体に負荷がかかる。堅実な歩みが大国への近道となる。
つつがなく村までたどり着いた一行は、職権と多めの宿泊代を叩き、良い部屋に泊めてもらった。テメノスの顔を覚えていた主人の計らいで、出来立ての食事と温かい風呂まで提供してもらった。
バーナードとは背中を流し合い、雑談をした。彼は敬語に慣れていないようで時折直そうとするが、それならば普段通りで良いと伝えた。また、テメノスの年齢を聞いて、大層驚いていたが、もう慣れた反応だった。
一人孤立している少年——名簿にはリオと書かれていたが、想定通り彼が現れることはなかった。せめて体は拭けるようにと、彼の扉に向けて声をかけ、側に濡らしたリネンと木製の容器を置いてやった。
下階の部屋——扉から中を覗き、「夜遅くまで、ご苦労なことです」テメノスは密かに口にする。食堂のキッチンで彼女は皿をひたすらに洗っているようだ。
下から僅かだが物音がすると思えばこれである。髪を一まとめに三角巾を被ったマーガレットは、布やブラシを使い分けながら、多量の皿にこびりついた汚れを泡塗れにし、溜め込んでから水を吐き出して洗い流していくという工程をせっせとこなしていた。時計の針がもう一回りもすれば日付が変わるほど、夜は更けているというのに。
扉を慎重にこじ開けてからほのかな灯りを覚えた。揺らめく小さな影を不思議に思い、奥まで踏み入れると、小さく丸まっている少女、アリッサの姿があった。
「おや、アリッサ君まで。どうされましたか?」
寝る前なので普段の三つ編みはなく、ウェーブのかかった色の髪を降ろしている。小さな両手いっぱいのマグの中身は、彼女の口周りの白い痕からしてホットミルクか。
「あ……ご、ごめんなさい」
短い眉をこれでもかと下げて、彼女はテメノスの顔色を窺う。ちょっと片手を上げただけでも飛び上がって逃げてしまいそうだった。テメノスはかぶりを振った。
「いえ、怒ってはいませんよ。眠れませんか?」
「その、マーガレットのお姉さんが心配で……声を、かけたんですけど」
彼女が辿々しく続きを言うより、テメノスの弾き出した予測の方が早かった。
「座っていろと言われたと?」
マーガレットは全く気付く気配がない。皿が擦れ合ったり、水を汲んで流したり忙しないが、話し声さえ寄せ付けないほど、目の前に懸命だった。
アリッサのまなざしには彼女への憂いがあった。
「お姉さん、いつも夜中まで何かしてるから……私が寝てる間もずっと、他の子のために編み物とかしてるんです」
「ふむ……」
テメノスが近寄っても気付く気配はない。手を動かすあまり、水や泡が跳ねてきて、テメノスの頬まで降りかかった。
それを拭い、マーガレット君、と繰り返し呼びかけているうち、ようやく顔を上げた。
「て、テメノス様。もう寝ていらしてるかと……」
ひとまとめにした茶髪を左右に振りたくり、マーガレットはあたふたとし始めた。「ええと、これは……宿屋の方々にお礼がしたくて、その」
食堂の机から床、窓に至るまで、馳走になった時の細かなくすみが消えている。彼女がしたことだろう。
マーガレットは最初からそうだった。
バーナードやシャロン達のような癖の強さはなく、感じが良い娘だった。話をすれば聞き役に徹し、テメノスが気がつけないようなところまで手回しをしてくれる。謂わばありがたい存在。
そこまでは良いが——マーガレットの献身は、何か脅迫めいたものに突き動かされているように見える。幸い、布教団と聖堂騎士は皆癖はあっても人は悪くない。だが、彼女が今後他者にとって都合が良い存在に成り下がってしまえば、苦しむことになりかねない。アリッサもそれに気付いているのだろうが、強く言えずに丸め込まれたのだろう。
「手伝いますよ。遅寝は毒ですから」
「そ、そんな! 大丈夫です。もうすぐ終わりますし……」
テメノスは半ば強引に泡の付いた食器を隅に寄せ、溜めた水で濯ぐのを黙々とやった。
おずおずと寄ってくる少女には、乾いたタオルを手渡した。
「アリッサ君、しまうのをお願いできますか?」
「は、はい!」
人数分の食器に加えて調理道具やら細々としたものも多い。呆気に取られていたマーガレットも、もうすぐというにはいささか多いであろう、残りの陶器の山に取り掛かった。
「三人で分担したらあっという間でしたね。お疲れ様です、二人とも」
宿屋の主人達を責める気はない。皿洗いをすると料金が半額になる所も多い。マーガレットが請け負ったのはそれが理由でもあった。
テメノスは寝衣のポケットから飴玉をいくつか取り出して、二人に分けてやった。
アリッサは小さな頬を膨らませて「おいひいれす」と言う。テメノスはつい綻んだ。
マーガレットはというと、目前で深々と頭を下げてきた。
「すみません、テメノス様の手を煩わせてしまって。アリッサちゃんも、ありがとう」
「ううん。マーガレットのお姉さんはいつも色々してくれてるから、私も何かしたかったの」
アリッサの願いは真っ当なものだったが、マーガレットはかぶりを振った。
「……そんなことないよ。まだまだ皆の役に立ててないもの」
彼女は俯き、疲労を物語る黒ずんだ目元に影が被さった。マーガレットが何故こんなに暗い面持ちをするのか——自分のせいなのか、と思い至ってしまったのか、アリッサは顔を青くした。テメノスはそんな彼女を安心させてやるべく大丈夫、と繰り返し言ってやり、マーガレットに向き直った。
「マーガレット君。皆、あなたに感謝していますよ。私だって、助けられているんです。だからこそ、休める時は休んでほしい」
半ば強引に視線を合わせると、榛色の目が揺らめいており、彼女の動揺を表している。アリッサも意を決したように小さな拳を作り、自身に続いた。
「そ、そう。テメノス様の言うとおりだべ!」リーフランド出身らしく訛りが出ているが、アリッサは構わず続けた。
「お姉さん、最初に私に声をかけてくれたでしょう? あのおかげで、みんなと話せるようになったの……他のことも、全部、全部……すごく、すごーく、感謝してるんだべ」
引っ込み思案、と自称し、普段は声の小さいアリッサがここまで言うのは、よっぽどのことだといえのは、マーガレットには伝わっているはず。テメノスは援護を打ち切りにし、彼女の動きを待った。
耳鳴りがした。鳥も虫も居ない夜は、あまりにも静かなのだ。少しでも黙ればこうなる。
「……本当、なの?」
息を呑んだのはアリッサの方だった。普段の綺麗に整っている髪をくしゃくしゃにして、縋るように見上げてくる。
「嘘じゃありませんよ。マーガレット君がいてくれて良かったと思っています」
「……っ」
マーガレットはその場に崩れ落ちた。
嗚咽で肩を揺らし、顔を覆うが涙が指の隙間から溢れてくる。
「ぁ、すみませ、あたし、そんなこと言われたの、初めて、で」
アリッサが差し出した白いハンカチーフを受け皿に、彼女は泣き続けた。
テメノスは思う。彼女がこうも他者への献身に拘泥するのは、勤めていた教会の影響だろう。明確に口にしたわけではないが、持ち前の能力の高さに反して自身を肯定できず、むしろ卑下ばかり続けるのは、時間をかけて植え付けられてきたからだ。
教会で引き取られた孤児はそれこそ物心ついたころから神の教えを耳にし、その意味を繰り返し教わり、自らの意思と言葉で読み上げる。
自立した後でもその教えを忘れることはない。それほどまでに深層に染み付いているからだ。
マーガレットが少しずつでも自分を認め、労わることができるようになれば、現状は少しずつ変わるだろう。
そのためには、テメノスが中心となって、彼女が前進するために尽くさねばならない。皆の助力も得られるよう動く必要がある。
今になってようやく分かった。自分が『引率者』として何をすべきなのかを。
涙ながらにマーガレットは勤めていた教会について打ち明けてくれた。そこは巷では評判が良いのに反して、実態は異なるらしかった。
司祭は寛大で女子供に優しいとされているが裏の顔は異なり、部下にはとても厳しくあたる上、吝嗇家でもある。体裁ばかり気にする類の人間なのだろう。
女神官達も年配のものが優遇され、若いものは街への奉仕と称して過酷な仕事を任される。
町民達は若者に感謝を示すこともあれば、無関心でもあった。唯一の帰る場所では、何一つとも認めてはもらえない。街中のゴミ拾い、溝掃除、本来なら自警団が行うような飼い猫や迷子の捜索。何時間も汗水流してきたとしても、それは誰にもできることだ。街に尽くすのは当たり前だと言われると、自分のしていることはどこまでも無価値に思えてならなかった。
「……ごめんなさい、喋りすぎてしまいましたね。誰も私に興味なんてないから、今回のク国への遠征も、こっそり応募したら通ったんです。酷い規則違反だし、罰で牢に入れられちゃうかもしれないけど、私を必要として欲しかった。ありがとうって、言って欲しかった」
聞き捨てならない言葉があったが——それは後で上に報告するとして。
今は、マーガレットをどうするかだ。自分にとっての選択を繰り返しても、他人にとっての最良のそれは、重さが違う。
「……私、わかるよ。誰かの役に立てると、自分が自分でいて良いように思えるんだよね」
マーガレットのあえかな背中に、アリッサがそっと被さる。
「私はね、何ができるか分からないの。みんなの中の一部だって思われたいのに、何者にもなれない」アリッサは息継ぎするように言葉を切った。唇がわなないていた。「……いつか一人になるかもしれないって、いつも思ってる。マーガレットのお姉さんとは少し違うかもしれないけど、必要とされないのは、怖いよね」
少女は時折暗い顔をするときがあった。戦闘で恐れてしまうことも、彼女がかなり気にしていることにも気付いていた。マーガレットも自分も、少しずつでも慣れていけばいいと言葉をかけたが、彼女の表情が晴れることはなかったのだ。
「私を助けたあなたはすごい。その優しさが、これからもきっと、みんなを支えてくれるべ」
アリッサは訥々と言うが、一生懸命さが伝わってくる。
テメノスは平穏さえ続けばただの神官だ。旅中でも背中を追う側だった。
突として降ってきたようなこの使命。どこまでやり抜けるかは分からない。「……やれる限りは、努めましょう」口の中で呟き、迷える若者たちを見据えた。
「どんな願いが根底にあろうと、誰かのために役に立ちたいという気持ちと、行動ができることは尊く、価値あることだと思います」
人々を笑顔にしたいだとか、命を救うとか、皆を幸福にしたいだとか。
そういう他者のことを本気で願える人は、テメノスには眩しいものだ。
しかしながら、自分のことを否定していては他人に同じことができるとは思わない。
「そして、努力をし続けてきた自分、弱い自分。それらを受け入れてあげられるのは他でもない、自分自身なんです」
暗闇を掻き分ける時、必要なのはこの体と、意思だった。テメノスの道は過ちばかりだった。しかし目は背けない。過去を受け入れ、記憶に残してきた。そうやって這いつくばってでも終点を目指す。抱き続けるが、テメノスの生き方でもあった。
「すぐには難しいでしょう。時間がかかっても良いし、私でよければいくらでも教えますし、もっと頼ってください」
「……はい」
切り揃えた前髪を退かして、泣き腫らした瞼を擦り、娘は何度も頷いた。
「それと、アリッサ君。戦闘の時ですが、私の背中についてみてください」
「え?」
「私たちの務めは、前に立つ者達——いまは聖堂騎士の皆様を信じることなのです」
テメノスにはかつて、ことさら友を信じるのに長けた仲間がいた。彼の強さは歩むたび迷いが剥かれ、ひたむきな想いと願いが彼を強くしてゆく。テメノスが今、遠くから自ら近づこうとしている彼の頼り甲斐のある背中をよく覚えている。だからこれは、彼から学んだことだ。
「彼らは背中を預けてくれているから、私たちは、後ろから支えることができる。彼らを守ることができるのです」
「私が、騎士様を守る……」
アリッサは考え込むように復唱し、マーガレットも色を正した。
「ええ。私のそばについて、祈りを使ってみてください。大丈夫。盾が使えるので大体は防げますから」
安心させるように笑むのは得意だが、手探りの末の提案だった。
テメノスはただ返答を待つ。深々とした夜。自分以外の呼吸の音すら聞き取れてしまう。
「ねぇ、アリッサちゃん」
沈黙を破ったのはマーガレットからだった。
「私と、一緒に頑張らない?」
「え……?」
マーガレットが手を握ると、アリッサの面持ちに驚きと戸惑いが差し込む。
「アリッサちゃんはお祈りができるはずだよ。朝はすごく綺麗な色を出してたでしょう。上手くいけば、強い癒しの力になるはず」
神官の習慣たる朝の祈り。皆欠かさぬものなので、時間を合わせてやっている。
聖典をなぞるか、諳んじるか。意識を研ぎ澄ませ、静寂に身を委ねるこの時間は、神官の扱う回復や加護、復活魔法の礎ともなる。
苦痛を消し去る癒しの力は、この祈りの時に漂う魔力が清らかな色を放つ者にこそ素質があるとされる。テメノスとしても、幾度も使用し、仲間のそれも見てきたが、なるほど確かに攻撃魔法とは異なる何かが効力の強さを左右しているようだ。魔法学者のオズバルドもそれは理解しているが、魂や心の純度が回復魔法の強度に直結するかには首を捻る。
しかしマーガレットの意見には頷ける。アリッサの祈りへの集中力は日々ぶれなく研ぎ澄まされている。
「そ、そうだべか……? でもマーガレットのお姉さんだって、とっさにお祈りができてたし……」
マーガレットも筋は悪くない。指導をそのまま受け止められる素直さがあるからだろう。
「騎士様達はお強いから。必要なのは回復や、テメノス様やバーナード君が扱う盾の魔法だよ」
テメノスに向き直ると、彼女は深々と頭を下げてきた。日の光が染み込んだような髪色が、カンテラの灯りで鮮やかに映る。
「テメノス様、私にもご指導お願いします。私のことを励ましてくれたアリッサちゃんと頑張りたいんです」
「お姉さん……」
アリッサは泣きそうになっていた。いいや、マーガレットに抱きついた時から、彼女の瞳は潤んでいて、今ようやくこぼれ落ちたのだ。
「もう、マーガレットって呼んで。あんまり歳は変わらないでしょ?」
白い手のひらがアリッサの小麦畑の金色の頭を撫ぜて、彼女から笑顔を取り返してみせた。
「……! う、うん。マーガレット」
苦楽を共にすることで友情が育まれるというのも、旅の良いところだ。
彼女たちなら、この先もっと。もう旅を終えたテメノスの分まで——
懐かしいような、切ないような心持ちが過ぎるが、微笑みで消化した。
「ふふ、良いでしょう。そういうことなら、私が二人分を任されましょう。前に出過ぎない程度に光魔法を打ちますから、私を守る訓練をしてもらいます」
少女たちはよろしくお願いしますと声を揃えた。希望を宿した者たちの明日は巡り続ける。
◆
西サイ砂道を抜けた。木の目印がないと碌に分からない上に、東西南北砂の海だが、ク国には着実に近づいていた。
これまでは最短の道を選んできたが、方策を変え、迂回してでも魔物との遭遇を避ける旨を皆に伝える。
ライバルの男女二人は少々納得がいかないような素振りが見られた。魔法の練度が上がってきているので自信がついてきているのだろうが、この地帯の魔物達はこれまでと比べ物にならない。消耗を避けるためにも、無駄な戦いは避けるべきだと念を押した。
ク国までやってくる異国の訪問者や旅人、行商人も腕が立つ護衛を連れてくるか、国から招致されたものは兵を遣わせることもあるほどだ。
聖堂騎士達の言う通り、砂漠の環境に耐え凌ぎ、ク国に続く砂道を越えたともなれば周囲は一目置くだろう。だが魔物との対峙よりも、危険な道をいかに適切に切り抜け、護衛対象を送り届けることが肝要であるとテメノスは思うし、オルトも同意するはずだ。
若者達はすることがないのか、客車でカードゲームをしたり時折休憩の記事を交えて雑談をしている。
「シャロンちゃん、その巻き髪、すごいよね。いつも自分でやってるの?」
つつがなく荷車は進んでいるが、いつでも対応できるように武器や聖典はそばに置いている。
それでも黙って待機しているのも気が滅入る。女性達は他愛もない話に花を咲かせていた。
巻き髪を誇らしげに揺らし、シャロンは満更でもなさそうにふふんと笑う。
「ええ……お母様に初めてやってもらった時からずっとお気に入りなの。時間がかかっても、これじゃないと落ち着かなくて」
これまで一日たりとも彼女が髪型を変えたことはない。余程強いこだわりがあるのだろう。
「マーガレットも、肌が綺麗だべ」
小動物のように女の子達の隙間に収まっていたアリッサが、ひょっこりと顔を出して、言う。前よりも積極的になった。マーガレット共々、テメノス主導の鍛錬も順調である。
癖なのだろう、前髪に触れながら、面映そうにいらえた。
「そ、そうかな? 実はお金貯めて肌に良い香油とか石鹸を買ってるんだ。ほんとはお化粧の道具も欲しいんだけどね」
「あら、今度譲ってあげましょうか? 色々試すといいわよ。肌の色と使うチークや口紅、アイメイクも違ってくるもの」教会によっては化粧の有無は賛否両論だ。神への信仰心や教養、日々の勤めを果たせば問題ない、寧ろ人と接する際に身なりを整えるのは当然であるもいう意見もあるし、色気付くのは乙女であり続ける彼女らに相応しくないともされている。やはり年頃の娘達は興味があるだろう。「わああ、綺麗……」最近のコスメは容器も女性の目を惹くデザインをしている。ニューデルスタのは最先端だ。「あ、でも怒られないかな?」「このくらいの色なら、目立ちすぎないで目元を可愛く見せられるわ。あなたにも似合いそうね」
規則の範囲内であれば、テメノスはとやかくいうつもりはない。彼女らは日々の祈りをきちんとこなしているし、個人差はもちろんあるが飲み込みは良い。何より初めての砂漠での旅に順応しつつあるのは心底感心している。
「ふーん、外に出たら崩れるのにやるのか。ホント、女の子ってお洒落に一生懸命だよな。つくづく俺らとは違うぜ。なあテメノス先生」
女子達に聞こえない程度の声量で、バーナードは後ろ手を組む。のんびりと構えておきながら、腹に開いてあるのは手帳だ。これを読んで復習しているのだとか。
テメノスからすれば、彼は勤勉家だ。曰く、凝り出したら極めないと気が済まない性質らしいが。
「女性は皆身なりに気遣う努力をしているからこそ、綺麗に保ててあるのですよ。あと、私は先生ではありません」
旅仲間に別の『先生』がいた。後にも先にも彼だけだから、テメノスには不相応だと思った。
「じゃあなんだ、師匠って呼ぶべきか?」
「普通にテメノスさんで良いですって」
敬語を使わない割に、変なところに拘る。まあ、お堅いのよりは良いが。
「だが、あんた言っちゃなんだが只者じゃないだろ。これは勘だが、まだ何か隠してるように見える」
テメノスはつい、何度も瞬いた。
自分はただの、一介の異端審問官。確かに数奇な出会いと共に長い旅を超えてきた為か、一般の神官よりかは鍛えられているかもしれないが、それまでだ。
「あなたこそ、神官になる前は何かされていたのでは? 随分と筋肉がついていますし、魔物への恐れがない」
村で一泊した際に少しだけ見たが、綺麗に腹筋が割れていた。言葉遣いや所作も荒々しく、元々所出などが気になっていた。
「……ああ、俺は元々傭兵なんだ。頭も悪かったんで、食い扶持繋ぐのに仕方なくだ。ある時限界が来て、ぶっ倒れていたのを司祭様に拾ってもらったのさ」
ほう、とテメノスは腑に落ちる覚えがした。生まれた環境が過酷で、読み書きを始めとした勉学の知識を持たない者の中には、生きるために戦争に身を投じることはままある。
恩人であるという司祭から読み書きを学んだバーナードは、雑務をこなしながら本を読み漁り、祈りの礼拝堂にも参列させてもらえるようになり、正式に神官になったという。
「なるほど……今回の遠征はなぜ?」
「司祭様に勧められたんだ。君なら同じ神官達を守れるだろうからって。これも神の導きって押し切られちまった」
彼が腕を捲ると、古い傷跡がある。男らしい筋肉質なそれは、得物を扱うのに向いているだろうという所感を抱かせる。
「俺は魔法は苦手な方じゃねえし、独学だが火とか雷も使える。杖でも殴れるしな……祈りはいまいちだが」
確かに彼は聖堂騎士より一歩後ろにいるが、加わって戦っていてもおかしくはないし、寧ろ騎士になれそうだが。
何にしても、希少な存在だと理解した上でその司祭が送り込んだのだろう。
「助かっていますよ。皆あなたに引っ張られています」
「昔は食うために戦っていたが、こうやって人のために戦う方が、良いなって思ったよ」
それなりに経験してきたのだろう。精悍な顔立ちが見せる表情には、深みがある。こういう若者もいるのだ。多くを巡ったとしても、色んな人に会う。当たり前だが、全く同じ個人はいない。
「良い学びを得ましたね。誰かのために戦うことが、力をくれます」
人は人と触れ合わなくては駄目になる。どれだけ孤独を望んだとしてもだ。
テメノスがそうだった。この性質だから、友人が大切だった。失ってから、テメノスは怒りに支配され、我を失いかけたことがある。
人を突き動かすのは、人だ。
「まあな。教会でガキの相手をして、掃除に洗濯に草むしりに……俺はそういう穏やかなのが好きだ。ク国は戦争をやめたっていうが、子供はどんな顔してんだろな」
バーナードが騎士などの戦う道を選ばないのは、平穏を望んでいるというのが理由のようだ。
ク国の子供達か。戦火によって親を失った子や、養いきれずに身寄りのない子もそれなりの数いて、今は急遽設えた空き家に預けられている……だったか。
ともなれば、教会は広い方が良い。ヒカリと交渉するのもテメノスの役目である。
「きっと、子供達も前よりも明るい顔をしている。そう思いますよ」
「それは……あんたの旅仲間である、ヒカリ殿下だからか?」
「ええ。ヒカリの理想は、友と歩む平和な未来です。彼の志の強さを、私たちは見てきましたから」
彼にも苦悩はあったが、それさえ、彼は道にした。彼の軸すら危うくなっても、その脚で立っていた。剣を取っていた。
「信頼、してたんだな」
「彼が、私たちを信じてくれていたからですよ」
「教会からク国は離れてるけど、あんたはしばらく会ってないのか」
テメノスは否定しなかった。仲間達は皆、ヒカリを中心に繋がっている。テメノスくらいのものだろう、故郷に籠っているのは。
「二年ぶりになりますね。彼、真面目ですから無理をしてないと良いですけど」
テメノスはこれを思っているだけで、彼に伝えたことはない。
心のケアは仕事柄やるけれど、聞き出し上手の薬師に、感情を嗅ぎ分ける狩人から持ち前の明るさから彼を励ます踊り子や商人までいたら、己の出る幕などない。テメノスはひっそり見守っていたことが多かった。
「見かけによらず面倒見が良いんだな、テメノス師匠は」
テメノスは苦く笑う。というよりかは、優しい人には、優しく在りたいだけだ。
いつの間にか美容の話は終わったのか、今度はきゃあきゃあと嬉しい悲鳴を交えて盛り上がっている女性陣を横目に、テメノスは静かにいらえた。
「……本当に偶然、彼が助けてくれたのがきっかけだったんです。ヒカリは本当に、友は皆大切にする人ですから」
「ふぅん。でも国王様にとっちゃ、あんたや他の仲間達は特別だったんじゃないか?」
「それは、まあ」
言葉を濁す。彼の本心は分からない。いつも強い人だったから、余計に。
ヒカリの元へ向かうだけあって、彼の話はよく出てくる。だが、どうだろう。テメノスにとって彼は若くして立派な志を掲げた高邁な人物として敬意を抱いていたとしても、ヒカリにとってはそうかどうかは、知りようのないことで。
それでも再会すれば、凛とした面持ちを少しだけ崩し、テメノスを迎え入れてくれる——そう思うのだ。あの時の信頼が自分たちの間にあれば、それだけで十分だ。
「……そうだったら嬉しいですね」
テメノスはふと、何かを忘れている気がしたが、結局思い出せなかった。
「……おい、どうした?」
聖堂騎士の誰かが声を上げた。バーナードが機敏に荷車を降りたので、テメノスも続いた。
「何かありましたか?」
いや、聞くまでもない。熱い砂道を強かに歩み進めていた駱駝達が揃って動かなくなってしまった。
駱駝たちの気まぐれというわけでも、不調というわけでもない。彼らに触れると、小刻みに震えていた。そうなる理由として考えられるのは、経験上——
「テメノス様。もしや、この辺りに何かいるのでは」
鋭い視線を辺りに向ける若い騎士の頭であるルーカスの推察に諾う。
騎士の乗っていた駱駝の中には、荷物を振り払い、逃げ出してしまうものもいた。それを見た若き神官たちは、荷台から降りてきた。
結局いまの今まで碌な会話もなく、じっと動かないままでいたリオは、騎士に手を引かれて下ろされていた。
「どうする、師匠」
バーナードが隣から耳打ちする。最も忠誠心の高い駱駝も、堪えきれないのか落ち着かない様子を見せている。
「……この道はやめましょう。いや、引き返した方が良いかもしれません」
「それは、魔物が迫っているということかしら」
こわばった面持ちのシャロンの問いに、テメノスは首肯した。
「その可能性もあります」
場に緊張が走る。動物は優れた五感を持ち、外敵の気配を読むのに長けている。
魔物に相対するのに訓練されているのにも関わらず逃げ出したということは、余程の強敵が潜んでいるということだ。
「どこか……恐らく地中に潜んでいる可能性が高いです。慎重に進みましょう」
警戒を張り巡らせながら、元来た安全な経路を辿る。
魔物たちは遮蔽物から現れたり、空中から飛来してきたりと様々だが、蟻や蠍、蜘蛛などは岩の裏や地中で生息している。
しんがりを務め、聖堂騎士たちに続く神官たち——バーナードはともかく、女性たちからは不安がひしと感じられた。アリッサはマーガレットの手を握り、二人身寄せ合っていた。テメノスはいつでも彼女らを守れるよう、聖典はすぐに引き出せるようにローブの裏へ密かに指先を触れた。
「おい、あれ」
テメノスが頬に降りかかる風向きを見やった時と、先頭を担うルーカスが指差すのはほぼ同時だった。
「砂嵐か!?」
そうとも捉えられるし、地中の魔物が迫っているようにも見える。判然とはしない。
「今すぐ岩陰に隠れましょう!」
逡巡している間はない。荷車を切り離し、砂道を駆けずった。砂岩で出来たオブジェのような高い崖を一目散に目指した。
もろに受けぬよう、風の方角に背を向けた。轟音と視界不良に堪え、駱駝の次に傾斜を登り切ったルーカスの手を掴み、自身も仲間の腕を引きながら崖の裏に転がり込む。
リオは聖堂騎士の手も上手く掴めず、砂風に打たれて苦悶していた。テメノスはすかさず助けに入った。いっそ強引に抱き上げるくらいにして、引き込む。少年は投げ出され、そのまま横臥していたが、ややあってから砂を吐いていた。
砂を掻っ攫う颶風が岩肌に叩きつけられ、遠くへ撒き散らされてゆく。しばらく止みそうになかった。
「だ、大丈夫? 水、飲む?」
「……」
マーガレットが貴重な飲料水をリオに差し出した。荷車を降りた時、すぐに荷物を背負ったのは幸いだったが、貯蓄の食料品はもう無い。リオは唾で汚れた口元を拭い、顔を背けた。マーガレットは肩を落としたが、それ以上は何も言わなかった。
皆、リオを無視しているわけでは無い。バーナードだって時折話を振るなど試しているような素振りが見られるし、リンダも気遣わしげに彼を見やっている。
リオが、それらを頑なに拒み続けているのだ。
「しっかし、当てが大きく外れちまったな。村の人らは大丈夫だろうって言ってたんだが」
刈り上げの騎士が大きく息を吐く。先ほどの光景を思い返しても、予兆は直前までなかった。
「確かに、突然でしたね。本当にさっきまで風も穏やかだったのに」
テメノスは頭の中で可能性を羅列する。村人の読みは間違っていなかっただろう。
別の線がある。引き起こされたものであるかもしれない。恐らく魔物に。
確かな根拠は無いし、自然物は流動的だ。だが、これまで魔物の変異種や噂や架空の生物でしかないと思っていた魔障の類と遭遇した過去を思えば十分に考えられる。
「……今日はここで寝るしかねえかもな。そらか砂嵐が止めば、魔物を狩れるし、何とかなる」
水飲み場が確保できたら良いが、難しいだろうか。植物が群生しているあたりは、砂を掘ると水を確保できることもある。或いは洞窟などにはまれに地下水脈に近居場所があるが、魔物が救っている可能性が高い。
鎧の砂を払っていた騎士が、早速次の方策を立てるバーナードに関心を示しつつも、同意した。
「そうですね。あとは一旦サイの街に引き返して、改めて準備を整えるべきかと」
「ク国への到着は遅れてしまうが……遣い鷲を街で手配してもらおうことで手を打とう」
「……テメノス様、申し訳ありません」
ルーカスが重々しく謝辞を口にするので、テメノスはすぐに頭を上げさせた。
「謝ることはありませんよ。的確な判断でした。騎士さんたちは駱駝を守ってくれていましたし、緊急時にすぐ動けていましたね」
「い、いえ、聖堂騎士として当たり前の務めを果たしたまでですから……でも、恐縮です」
ルーカスは何やら気恥ずかしげに頬を掻いたが、他の聖堂騎士達は恭しく一礼するのに慌てて続いた。ここで己に褒められるよりかは、オルトに伝えてやるのがいいだろう。自分達の最善を心得ている若者たちだから、このままいけば更なる昇進を目指せるだろう。
「みんな落ち着いててすごいべ……私、びっくりしてまだ手が震えてるよ」
背中を丸め、足を三角に折りたたんだアリッサは、つま先をきゅっと丸めた。テメノスが敷き布を手渡してやると、早速握り込んで皺を作った。砂が降りかかるのを防ぐため、大きな布を頭にかぶることになったのだ。
更に規模の大きい砂嵐はもはや空まで届くほどの津波の形をしているとされるが、大口を開けた砂の怪物紛いが迫れば怖気を覚えるのも無理はない。
「咄嗟に最低限の荷物を背負ってきただろ? それだけでも及第点じゃねえか」
「そう、かな……?」
バーナードの目配せに頷く。戦闘の指導のほか、緊急時に関することは一通り教えてある。いざという時はにを捨ててでも逃げるべきだが、最低限の荷物を背負っておくと大いに役立つ。
「ああ。それに皆頼もしいんだ。お前とマーガレットがいてくれりゃ、炊事が助かるぜ。勿論、戦闘でもな——最近、頑張ってるじゃねえか、なあ?」
「そうね……」
同意を求められたシャロンは腕組みをしたまま目を白黒させている女二人に視線を移す。
「不味いと思ったらまず深呼吸の癖をつけときなさい。それだけでも、多少はマシになるわよ」
こうして見ると、彼女自慢の金の髪は、さながら絹糸。ヴェールで影を被っても光沢を保つ。
深呼吸か。テメノスの好奇心に付き合っていた旅仲間だった盗賊の女も、開戦の間際は静かに息を吐いてから短剣を光らせるのがいつもの合図だった。
「追い詰められている時にこそ、冷静な判断を。先の命運を分けますからね」
横目でテメノスを見遣り、シャロンは「ええ」と返した。自身には質問はあっても口答えはしてこない娘だ。気は強いが、自身が納得できるかできないかに重きを置いているのだと、この短い期間でも分かる。
「あとはろくに手札もない時にこそ、追い詰められたら、切り札は度胸だけだってことを肝に銘じておくといいわ」
胸を張り、シャロンはしたたかに笑う。これがアリッサ達を安心させるための仕草だと知るのには、少しの間を要した。
それから、誰かが指を鳴らした。砂に布を敷き、胡座をかいているバーナードだ。
「シャロン嬢は俺と組んでるだけあって——いや、元々(・・)肝が据わってるんだろうな。喧嘩売り癖も含めて面白え」
挑発的な視線を送り込むくらいの余裕があるのは、彼ならではだろう。シャロンの細やかな睫毛が、茜色の瞳にやおら影を作った。
「あらバーナード、いただけないわね。私は喧嘩なんて品のないことはしないわよ。切磋琢磨と言っていただきたいところね?」
うふふ、となにやら冷えた音色が耳を打つ。
何やら穏やかではないが、両者は鍛錬を必ず組んでやるほどなので別に険悪というわけではないだろう。
バーナードは凍てつく視線はいなしつつ、肩を竦めた。
「氷結魔法本気でぶっ放す奴がよく言うぜ」
シャロンは魔法書を持参している。テメノスの知識が正しければ、学院を通過した者しか手にすることができない代物だ。オズバルドが研究室に似た形状のものを多く保有していたのを見たのだ。
「盾の強度を試したいと言ったのはあなたでしょう? それに本気で狙ってませんもの。それとも、私と組むのは不満なのかしら」
言葉と視線の攻防戦——マーガレットと布を共有し、まるで巣が繭に見立てて彼女のそばに閉じこもるアリッサは、ちらちらと不安げに彼らを窺っていた。
風の音のせいで、全部が全部聞き取れないせいもあった。
「不満? ねぇな。本気の奴を否定するのはダサいだろ。ただ、あんたがそこまで食らいつく訳は気にはなるがな」
なんて事のないように言って退けては、バーナードは岩肌に背中を預けた。
シャロンはたちまち顔を顰めた。苦い茶を飲んだみたいな、そういうのを彷彿とさせる。
シャロンは常に手を抜かない。マーガレットは人の役に立つことにこだわるが、彼女の場合、己を研鑽するのに余念がないようだ。
「……ああ、そうね。あなた、とんだ好き者だったわ」と呟いた。
「ううん、二人って仲が良いのか、悪いのかよくわからないべ……」
アリッサは首を捻り、マーガレットは精鋭二人を交互に見てうーん、と思案する。
「兄妹みたいなものかなと思ってたけど、好敵手、って感じかな?」
少なくとも、テメノスにはバーナードは彼女の努力を買っているのだろう、と察することはできた。
黙して留まっている騎士達が、声を上げた。
「風が弱くなってきたか?」「まだ気は抜けないな」「向こうのほうは何も見えないぞ。この辺りだけなのか?」
テメノスは反射的に立ち上がる。ルーカスが驚いたようにこちらを向いた気がしたが、次の瞬間には聖句を唱えていた。
小さな村を経由しつつ、サイの街を後にする頃には、少数の聖堂騎士で形成された護衛隊も砂地帯に順応できるようになっていた。
無駄の少ない連携と、魔物の弱点を把握し切ったことで拘う時間も短縮され、ペースも徐々に上がってゆく。
特に隊長を務めるルーカスはある時を境に積極的に仲間達を鼓舞するようになり、テメノスを感心させた。詠唱と共に銀剣に青い光筋が迸り、神聖な紋様を模ると、彼の目つきも変わった。魔物へと肉薄を果たし、微かな油断をつかみ取った一閃を撃つ。魔物は灰燼と化した。
「俺たちの剣で道を切り開くんだ! 皆、行くぞ!」
赤茶髪の青年が剣を掲げる様は、さながら寓話の勇者のようだ。彼に続く騎士達は顔を見合わせた。
「リーダー、いつにも増してやる気だな!」
「なんだなんだ。もしかして良いところ見せたいのか? あの人に」
うち一人がニヤニヤし始めた。今は日除けを被っているが、刈り上げ頭をしていたはずだ。彼の隣が焦ったように頭を引っ叩いた。
「おい、それは言わないって約束だろ!」
あの人とは誰のことだろう。騎士達も若いから、ガールフレンドの一人や二人もいそうだが。
当の赤茶髪の彼は深い溜息をひとつ。ひそひそとやっている彼らをじとりと見遣った。
「聞こえてるぞ……お前達もオルトさんに認められたいんじゃなかったのか?」
「そりゃあ、ク国の砂道を越えた証明があれば、オルトさんも一目置くかもしれんが。リーダーのは分かりやすすぎるというか……なぁ?」
「いや、それは」
「……そうなのか?」
返答を求められ、刈り上げの隣でよくない汗を浮かべ、曖昧に笑う。リーダーとしての彼は怒らせると怖いのかもしれない。
「まあ良いさ、今は——俺が速攻をかけるから、ついてこい」
青いマントがはためいた。彼はとっくに抜剣している。この間に比べたら気迫がまるで違う。本来の実力を出せていなかったのだろうか。
テメノスは杖は背中に、いつでも外せるように構えておきながら、聖典を開いた。
「聖なる盾よ——」シルティージの舞による恩恵でも預からなければ、盾を並べるのは不可能だが、なれば変形させれば良いという理論に行き着いたのだ。
後輩神官たちは出現した半球体の盾を見上げ、呆気に取られていた。盾の強度は使用者の魔力や練度に依存する。この辺りの魔物であれば殴打や斬撃の数発なら耐えるだろう。
騎士達はこの青き守護を受け、地を蹴り上げ、魔物への肉薄を果たす。砂吹雪が掠めた。目を凝らすとまだ魔物は群れていた。テメノスは振り返り、合図を出す。
「さあ皆、出番ですよ」
神官たちもテメノスに倣い、彼らの支援に回る。魔法の練度を上げるにはちょうど良い機会だと踏んで、あれこれ指示を飛ばすのがテメノスの役目だ。
回復の祈りは礎として、聖なる盾の本習得を目指す。
「——なあ、テメノスさん。俺の、結構上手くやれてるんじゃないか?」
騎士達に降りかかった石製の武器による殴打を、青い盾が受け止めた。すぐに割れてしまったが、教えたばかりの詠唱にしては上手くやれている。
男達は青年へ礼を告げ、銀の甲冑を光らせ、疾駆した。次の瞬間には魔物達の首は胴と分たれていた。
テメノスは口笛を鳴らし、最初の成功者へブラボーと賛辞を飛ばす。
「その調子ですよ、バーナード。イメージの掴み方が上手いですね」
「どうも。だが、まだまだ精進あるのみだな」
名を呼ばれた彼は頬の砂を拭い、彼は向上心の詰まったことを言う。にやりとしてやったりのピースを挟み、魔法を詠唱した。次なる魔物と対峙する騎士たちの行動を見極め、更なる強固な盾作りに勤しむ。明らかに場慣れしている。テメノスはバーナードのことを、かつてはどこかの戦士だったのかもしれないと勘繰った。
魔物は肢体を斬り裂かれ、血飛沫を散らして絶命した。ほんのわずかな出来事だった。
一番後ろの控えめな後輩神官の女が、小さく悲鳴をあげてしゃがみ込む。馬車では引っ込み思案だったアリッサという少女だ。リスのような警戒心で逃げたり隠れたりする彼女は、戦闘そのものが慣れないようだ。
「その程度で調子に乗らないでくれる?」
騎士達にも褒められたのか、さらにご満悦な様子のバーナードに向け、苛立ちを滲ませる女が一人。
「まあまあ、落ち着きなよ」
そんな彼女を苦笑気味に見守るのは、切り揃えた前髪にふわふわの茶色のセミロングが特徴の女神官。彼女はマーガレット。田舎から離れたくて砂漠で働きたいという動機をまず打ち明けてくれた。そこに教会が立つなら、勤めることにも前向きだと。面倒見が良く、野営の料理も手伝ってくれる家庭的な娘である。
「なんだよシャロン嬢、悔しいのか?」
「ちょっと……」
皮肉を効かせた呼び名で挑発する彼を慌てて抑止しても、気の強い彼女の耳にはしかと届いた。男はぎろりと睨めつけられ、「おお、こわ」と一歩退いた。
吠えたシャロンの足蹴りを、男は脛に受けた。悶絶して膝が砂に埋まる。「私だって今に抜かしてやりますわ」
野営でもしっかり巻きたいのだというプラチナのブロンドを振り乱す、彼にとってはもう慣れつつある宣戦布告。彼女はとにかく気が強く、負けず嫌いであるからか、要領の良い彼に何かと突っかかっている。
「なんだ、宣戦布告か? 良いぜ、受けて立ってやるよ」
「フン、今に吠え面かかせてあげるわ」
さて、こうともなればあの二人は互いに切磋琢磨し合うだろう。誘導したわけではないが、彼らが常に前で競い合っていれば、後ろのものも付いてきやすい。
「砂漠に負けじと元気ですねぇ」
テメノスの呟きに、マーガレットは「確かに」と頷いた。
「二人のおかげで賑やかですよね。なんか兄妹みたいかも?」
「……そうかもしれませんね」
彼らは会ってほどないはずなのにあの調子だ。むしろ波長が合っているのかもしれない。だが、物事には均衡が必要である。激しい川の流れにはそれを抑えるものがあるように。戦闘を終えてもなお魔法を飛ばし合う若き神官達を眺めているマーガレットこそ、まさしくストッパーの役割を果たしているのだ。
「……えっと、テメノス様。どうかしましたか?」
マーガレットが困ったように尋ねてくる。どうやらじろじろと観察しすぎてしまったらしい。テメノスは咳払いをして「なんでもありませんよ」と誤魔化した。
気遣いの塊のような彼女は、颯爽と荷車に乗り、準備を始めた。携帯用の濡れ布や補充の水を皆に配っている。
精霊石で冷やした水や乾いた身体によく効く。マーガレットには自分も気にかけて欲しいものだ。テメノスの旅仲間の中にも、常日頃から世話焼きなものから、本質的に他者を優先する性質の者は何人かいたもので、彼らは大体無理をしてしまうことがある。
さて、どうしたものか。考えを巡らせているうち、霧のような砂が晴れ、オアシスと、それを囲う民家が見えてきた。まだ日中だが、サイの街までやや距離があることを踏まえると、物資を足して、きちんと休んでおきたいところだ。暑さは人の思う以上に体力を奪うし、夜は寒いのも相まって身体に負荷がかかる。堅実な歩みが大国への近道となる。
つつがなく村までたどり着いた一行は、職権と多めの宿泊代を叩き、良い部屋に泊めてもらった。テメノスの顔を覚えていた主人の計らいで、出来立ての食事と温かい風呂まで提供してもらった。
バーナードとは背中を流し合い、雑談をした。彼は敬語に慣れていないようで時折直そうとするが、それならば普段通りで良いと伝えた。また、テメノスの年齢を聞いて、大層驚いていたが、もう慣れた反応だった。
一人孤立している少年——名簿にはリオと書かれていたが、想定通り彼が現れることはなかった。せめて体は拭けるようにと、彼の扉に向けて声をかけ、側に濡らしたリネンと木製の容器を置いてやった。
下階の部屋——扉から中を覗き、「夜遅くまで、ご苦労なことです」テメノスは密かに口にする。食堂のキッチンで彼女は皿をひたすらに洗っているようだ。
下から僅かだが物音がすると思えばこれである。髪を一まとめに三角巾を被ったマーガレットは、布やブラシを使い分けながら、多量の皿にこびりついた汚れを泡塗れにし、溜め込んでから水を吐き出して洗い流していくという工程をせっせとこなしていた。時計の針がもう一回りもすれば日付が変わるほど、夜は更けているというのに。
扉を慎重にこじ開けてからほのかな灯りを覚えた。揺らめく小さな影を不思議に思い、奥まで踏み入れると、小さく丸まっている少女、アリッサの姿があった。
「おや、アリッサ君まで。どうされましたか?」
寝る前なので普段の三つ編みはなく、ウェーブのかかった色の髪を降ろしている。小さな両手いっぱいのマグの中身は、彼女の口周りの白い痕からしてホットミルクか。
「あ……ご、ごめんなさい」
短い眉をこれでもかと下げて、彼女はテメノスの顔色を窺う。ちょっと片手を上げただけでも飛び上がって逃げてしまいそうだった。テメノスはかぶりを振った。
「いえ、怒ってはいませんよ。眠れませんか?」
「その、マーガレットのお姉さんが心配で……声を、かけたんですけど」
彼女が辿々しく続きを言うより、テメノスの弾き出した予測の方が早かった。
「座っていろと言われたと?」
マーガレットは全く気付く気配がない。皿が擦れ合ったり、水を汲んで流したり忙しないが、話し声さえ寄せ付けないほど、目の前に懸命だった。
アリッサのまなざしには彼女への憂いがあった。
「お姉さん、いつも夜中まで何かしてるから……私が寝てる間もずっと、他の子のために編み物とかしてるんです」
「ふむ……」
テメノスが近寄っても気付く気配はない。手を動かすあまり、水や泡が跳ねてきて、テメノスの頬まで降りかかった。
それを拭い、マーガレット君、と繰り返し呼びかけているうち、ようやく顔を上げた。
「て、テメノス様。もう寝ていらしてるかと……」
ひとまとめにした茶髪を左右に振りたくり、マーガレットはあたふたとし始めた。「ええと、これは……宿屋の方々にお礼がしたくて、その」
食堂の机から床、窓に至るまで、馳走になった時の細かなくすみが消えている。彼女がしたことだろう。
マーガレットは最初からそうだった。
バーナードやシャロン達のような癖の強さはなく、感じが良い娘だった。話をすれば聞き役に徹し、テメノスが気がつけないようなところまで手回しをしてくれる。謂わばありがたい存在。
そこまでは良いが——マーガレットの献身は、何か脅迫めいたものに突き動かされているように見える。幸い、布教団と聖堂騎士は皆癖はあっても人は悪くない。だが、彼女が今後他者にとって都合が良い存在に成り下がってしまえば、苦しむことになりかねない。アリッサもそれに気付いているのだろうが、強く言えずに丸め込まれたのだろう。
「手伝いますよ。遅寝は毒ですから」
「そ、そんな! 大丈夫です。もうすぐ終わりますし……」
テメノスは半ば強引に泡の付いた食器を隅に寄せ、溜めた水で濯ぐのを黙々とやった。
おずおずと寄ってくる少女には、乾いたタオルを手渡した。
「アリッサ君、しまうのをお願いできますか?」
「は、はい!」
人数分の食器に加えて調理道具やら細々としたものも多い。呆気に取られていたマーガレットも、もうすぐというにはいささか多いであろう、残りの陶器の山に取り掛かった。
「三人で分担したらあっという間でしたね。お疲れ様です、二人とも」
宿屋の主人達を責める気はない。皿洗いをすると料金が半額になる所も多い。マーガレットが請け負ったのはそれが理由でもあった。
テメノスは寝衣のポケットから飴玉をいくつか取り出して、二人に分けてやった。
アリッサは小さな頬を膨らませて「おいひいれす」と言う。テメノスはつい綻んだ。
マーガレットはというと、目前で深々と頭を下げてきた。
「すみません、テメノス様の手を煩わせてしまって。アリッサちゃんも、ありがとう」
「ううん。マーガレットのお姉さんはいつも色々してくれてるから、私も何かしたかったの」
アリッサの願いは真っ当なものだったが、マーガレットはかぶりを振った。
「……そんなことないよ。まだまだ皆の役に立ててないもの」
彼女は俯き、疲労を物語る黒ずんだ目元に影が被さった。マーガレットが何故こんなに暗い面持ちをするのか——自分のせいなのか、と思い至ってしまったのか、アリッサは顔を青くした。テメノスはそんな彼女を安心させてやるべく大丈夫、と繰り返し言ってやり、マーガレットに向き直った。
「マーガレット君。皆、あなたに感謝していますよ。私だって、助けられているんです。だからこそ、休める時は休んでほしい」
半ば強引に視線を合わせると、榛色の目が揺らめいており、彼女の動揺を表している。アリッサも意を決したように小さな拳を作り、自身に続いた。
「そ、そう。テメノス様の言うとおりだべ!」リーフランド出身らしく訛りが出ているが、アリッサは構わず続けた。
「お姉さん、最初に私に声をかけてくれたでしょう? あのおかげで、みんなと話せるようになったの……他のことも、全部、全部……すごく、すごーく、感謝してるんだべ」
引っ込み思案、と自称し、普段は声の小さいアリッサがここまで言うのは、よっぽどのことだといえのは、マーガレットには伝わっているはず。テメノスは援護を打ち切りにし、彼女の動きを待った。
耳鳴りがした。鳥も虫も居ない夜は、あまりにも静かなのだ。少しでも黙ればこうなる。
「……本当、なの?」
息を呑んだのはアリッサの方だった。普段の綺麗に整っている髪をくしゃくしゃにして、縋るように見上げてくる。
「嘘じゃありませんよ。マーガレット君がいてくれて良かったと思っています」
「……っ」
マーガレットはその場に崩れ落ちた。
嗚咽で肩を揺らし、顔を覆うが涙が指の隙間から溢れてくる。
「ぁ、すみませ、あたし、そんなこと言われたの、初めて、で」
アリッサが差し出した白いハンカチーフを受け皿に、彼女は泣き続けた。
テメノスは思う。彼女がこうも他者への献身に拘泥するのは、勤めていた教会の影響だろう。明確に口にしたわけではないが、持ち前の能力の高さに反して自身を肯定できず、むしろ卑下ばかり続けるのは、時間をかけて植え付けられてきたからだ。
教会で引き取られた孤児はそれこそ物心ついたころから神の教えを耳にし、その意味を繰り返し教わり、自らの意思と言葉で読み上げる。
自立した後でもその教えを忘れることはない。それほどまでに深層に染み付いているからだ。
マーガレットが少しずつでも自分を認め、労わることができるようになれば、現状は少しずつ変わるだろう。
そのためには、テメノスが中心となって、彼女が前進するために尽くさねばならない。皆の助力も得られるよう動く必要がある。
今になってようやく分かった。自分が『引率者』として何をすべきなのかを。
涙ながらにマーガレットは勤めていた教会について打ち明けてくれた。そこは巷では評判が良いのに反して、実態は異なるらしかった。
司祭は寛大で女子供に優しいとされているが裏の顔は異なり、部下にはとても厳しくあたる上、吝嗇家でもある。体裁ばかり気にする類の人間なのだろう。
女神官達も年配のものが優遇され、若いものは街への奉仕と称して過酷な仕事を任される。
町民達は若者に感謝を示すこともあれば、無関心でもあった。唯一の帰る場所では、何一つとも認めてはもらえない。街中のゴミ拾い、溝掃除、本来なら自警団が行うような飼い猫や迷子の捜索。何時間も汗水流してきたとしても、それは誰にもできることだ。街に尽くすのは当たり前だと言われると、自分のしていることはどこまでも無価値に思えてならなかった。
「……ごめんなさい、喋りすぎてしまいましたね。誰も私に興味なんてないから、今回のク国への遠征も、こっそり応募したら通ったんです。酷い規則違反だし、罰で牢に入れられちゃうかもしれないけど、私を必要として欲しかった。ありがとうって、言って欲しかった」
聞き捨てならない言葉があったが——それは後で上に報告するとして。
今は、マーガレットをどうするかだ。自分にとっての選択を繰り返しても、他人にとっての最良のそれは、重さが違う。
「……私、わかるよ。誰かの役に立てると、自分が自分でいて良いように思えるんだよね」
マーガレットのあえかな背中に、アリッサがそっと被さる。
「私はね、何ができるか分からないの。みんなの中の一部だって思われたいのに、何者にもなれない」アリッサは息継ぎするように言葉を切った。唇がわなないていた。「……いつか一人になるかもしれないって、いつも思ってる。マーガレットのお姉さんとは少し違うかもしれないけど、必要とされないのは、怖いよね」
少女は時折暗い顔をするときがあった。戦闘で恐れてしまうことも、彼女がかなり気にしていることにも気付いていた。マーガレットも自分も、少しずつでも慣れていけばいいと言葉をかけたが、彼女の表情が晴れることはなかったのだ。
「私を助けたあなたはすごい。その優しさが、これからもきっと、みんなを支えてくれるべ」
アリッサは訥々と言うが、一生懸命さが伝わってくる。
テメノスは平穏さえ続けばただの神官だ。旅中でも背中を追う側だった。
突として降ってきたようなこの使命。どこまでやり抜けるかは分からない。「……やれる限りは、努めましょう」口の中で呟き、迷える若者たちを見据えた。
「どんな願いが根底にあろうと、誰かのために役に立ちたいという気持ちと、行動ができることは尊く、価値あることだと思います」
人々を笑顔にしたいだとか、命を救うとか、皆を幸福にしたいだとか。
そういう他者のことを本気で願える人は、テメノスには眩しいものだ。
しかしながら、自分のことを否定していては他人に同じことができるとは思わない。
「そして、努力をし続けてきた自分、弱い自分。それらを受け入れてあげられるのは他でもない、自分自身なんです」
暗闇を掻き分ける時、必要なのはこの体と、意思だった。テメノスの道は過ちばかりだった。しかし目は背けない。過去を受け入れ、記憶に残してきた。そうやって這いつくばってでも終点を目指す。抱き続けるが、テメノスの生き方でもあった。
「すぐには難しいでしょう。時間がかかっても良いし、私でよければいくらでも教えますし、もっと頼ってください」
「……はい」
切り揃えた前髪を退かして、泣き腫らした瞼を擦り、娘は何度も頷いた。
「それと、アリッサ君。戦闘の時ですが、私の背中についてみてください」
「え?」
「私たちの務めは、前に立つ者達——いまは聖堂騎士の皆様を信じることなのです」
テメノスにはかつて、ことさら友を信じるのに長けた仲間がいた。彼の強さは歩むたび迷いが剥かれ、ひたむきな想いと願いが彼を強くしてゆく。テメノスが今、遠くから自ら近づこうとしている彼の頼り甲斐のある背中をよく覚えている。だからこれは、彼から学んだことだ。
「彼らは背中を預けてくれているから、私たちは、後ろから支えることができる。彼らを守ることができるのです」
「私が、騎士様を守る……」
アリッサは考え込むように復唱し、マーガレットも色を正した。
「ええ。私のそばについて、祈りを使ってみてください。大丈夫。盾が使えるので大体は防げますから」
安心させるように笑むのは得意だが、手探りの末の提案だった。
テメノスはただ返答を待つ。深々とした夜。自分以外の呼吸の音すら聞き取れてしまう。
「ねぇ、アリッサちゃん」
沈黙を破ったのはマーガレットからだった。
「私と、一緒に頑張らない?」
「え……?」
マーガレットが手を握ると、アリッサの面持ちに驚きと戸惑いが差し込む。
「アリッサちゃんはお祈りができるはずだよ。朝はすごく綺麗な色を出してたでしょう。上手くいけば、強い癒しの力になるはず」
神官の習慣たる朝の祈り。皆欠かさぬものなので、時間を合わせてやっている。
聖典をなぞるか、諳んじるか。意識を研ぎ澄ませ、静寂に身を委ねるこの時間は、神官の扱う回復や加護、復活魔法の礎ともなる。
苦痛を消し去る癒しの力は、この祈りの時に漂う魔力が清らかな色を放つ者にこそ素質があるとされる。テメノスとしても、幾度も使用し、仲間のそれも見てきたが、なるほど確かに攻撃魔法とは異なる何かが効力の強さを左右しているようだ。魔法学者のオズバルドもそれは理解しているが、魂や心の純度が回復魔法の強度に直結するかには首を捻る。
しかしマーガレットの意見には頷ける。アリッサの祈りへの集中力は日々ぶれなく研ぎ澄まされている。
「そ、そうだべか……? でもマーガレットのお姉さんだって、とっさにお祈りができてたし……」
マーガレットも筋は悪くない。指導をそのまま受け止められる素直さがあるからだろう。
「騎士様達はお強いから。必要なのは回復や、テメノス様やバーナード君が扱う盾の魔法だよ」
テメノスに向き直ると、彼女は深々と頭を下げてきた。日の光が染み込んだような髪色が、カンテラの灯りで鮮やかに映る。
「テメノス様、私にもご指導お願いします。私のことを励ましてくれたアリッサちゃんと頑張りたいんです」
「お姉さん……」
アリッサは泣きそうになっていた。いいや、マーガレットに抱きついた時から、彼女の瞳は潤んでいて、今ようやくこぼれ落ちたのだ。
「もう、マーガレットって呼んで。あんまり歳は変わらないでしょ?」
白い手のひらがアリッサの小麦畑の金色の頭を撫ぜて、彼女から笑顔を取り返してみせた。
「……! う、うん。マーガレット」
苦楽を共にすることで友情が育まれるというのも、旅の良いところだ。
彼女たちなら、この先もっと。もう旅を終えたテメノスの分まで——
懐かしいような、切ないような心持ちが過ぎるが、微笑みで消化した。
「ふふ、良いでしょう。そういうことなら、私が二人分を任されましょう。前に出過ぎない程度に光魔法を打ちますから、私を守る訓練をしてもらいます」
少女たちはよろしくお願いしますと声を揃えた。希望を宿した者たちの明日は巡り続ける。
◆
西サイ砂道を抜けた。木の目印がないと碌に分からない上に、東西南北砂の海だが、ク国には着実に近づいていた。
これまでは最短の道を選んできたが、方策を変え、迂回してでも魔物との遭遇を避ける旨を皆に伝える。
ライバルの男女二人は少々納得がいかないような素振りが見られた。魔法の練度が上がってきているので自信がついてきているのだろうが、この地帯の魔物達はこれまでと比べ物にならない。消耗を避けるためにも、無駄な戦いは避けるべきだと念を押した。
ク国までやってくる異国の訪問者や旅人、行商人も腕が立つ護衛を連れてくるか、国から招致されたものは兵を遣わせることもあるほどだ。
聖堂騎士達の言う通り、砂漠の環境に耐え凌ぎ、ク国に続く砂道を越えたともなれば周囲は一目置くだろう。だが魔物との対峙よりも、危険な道をいかに適切に切り抜け、護衛対象を送り届けることが肝要であるとテメノスは思うし、オルトも同意するはずだ。
若者達はすることがないのか、客車でカードゲームをしたり時折休憩の記事を交えて雑談をしている。
「シャロンちゃん、その巻き髪、すごいよね。いつも自分でやってるの?」
つつがなく荷車は進んでいるが、いつでも対応できるように武器や聖典はそばに置いている。
それでも黙って待機しているのも気が滅入る。女性達は他愛もない話に花を咲かせていた。
巻き髪を誇らしげに揺らし、シャロンは満更でもなさそうにふふんと笑う。
「ええ……お母様に初めてやってもらった時からずっとお気に入りなの。時間がかかっても、これじゃないと落ち着かなくて」
これまで一日たりとも彼女が髪型を変えたことはない。余程強いこだわりがあるのだろう。
「マーガレットも、肌が綺麗だべ」
小動物のように女の子達の隙間に収まっていたアリッサが、ひょっこりと顔を出して、言う。前よりも積極的になった。マーガレット共々、テメノス主導の鍛錬も順調である。
癖なのだろう、前髪に触れながら、面映そうにいらえた。
「そ、そうかな? 実はお金貯めて肌に良い香油とか石鹸を買ってるんだ。ほんとはお化粧の道具も欲しいんだけどね」
「あら、今度譲ってあげましょうか? 色々試すといいわよ。肌の色と使うチークや口紅、アイメイクも違ってくるもの」教会によっては化粧の有無は賛否両論だ。神への信仰心や教養、日々の勤めを果たせば問題ない、寧ろ人と接する際に身なりを整えるのは当然であるもいう意見もあるし、色気付くのは乙女であり続ける彼女らに相応しくないともされている。やはり年頃の娘達は興味があるだろう。「わああ、綺麗……」最近のコスメは容器も女性の目を惹くデザインをしている。ニューデルスタのは最先端だ。「あ、でも怒られないかな?」「このくらいの色なら、目立ちすぎないで目元を可愛く見せられるわ。あなたにも似合いそうね」
規則の範囲内であれば、テメノスはとやかくいうつもりはない。彼女らは日々の祈りをきちんとこなしているし、個人差はもちろんあるが飲み込みは良い。何より初めての砂漠での旅に順応しつつあるのは心底感心している。
「ふーん、外に出たら崩れるのにやるのか。ホント、女の子ってお洒落に一生懸命だよな。つくづく俺らとは違うぜ。なあテメノス先生」
女子達に聞こえない程度の声量で、バーナードは後ろ手を組む。のんびりと構えておきながら、腹に開いてあるのは手帳だ。これを読んで復習しているのだとか。
テメノスからすれば、彼は勤勉家だ。曰く、凝り出したら極めないと気が済まない性質らしいが。
「女性は皆身なりに気遣う努力をしているからこそ、綺麗に保ててあるのですよ。あと、私は先生ではありません」
旅仲間に別の『先生』がいた。後にも先にも彼だけだから、テメノスには不相応だと思った。
「じゃあなんだ、師匠って呼ぶべきか?」
「普通にテメノスさんで良いですって」
敬語を使わない割に、変なところに拘る。まあ、お堅いのよりは良いが。
「だが、あんた言っちゃなんだが只者じゃないだろ。これは勘だが、まだ何か隠してるように見える」
テメノスはつい、何度も瞬いた。
自分はただの、一介の異端審問官。確かに数奇な出会いと共に長い旅を超えてきた為か、一般の神官よりかは鍛えられているかもしれないが、それまでだ。
「あなたこそ、神官になる前は何かされていたのでは? 随分と筋肉がついていますし、魔物への恐れがない」
村で一泊した際に少しだけ見たが、綺麗に腹筋が割れていた。言葉遣いや所作も荒々しく、元々所出などが気になっていた。
「……ああ、俺は元々傭兵なんだ。頭も悪かったんで、食い扶持繋ぐのに仕方なくだ。ある時限界が来て、ぶっ倒れていたのを司祭様に拾ってもらったのさ」
ほう、とテメノスは腑に落ちる覚えがした。生まれた環境が過酷で、読み書きを始めとした勉学の知識を持たない者の中には、生きるために戦争に身を投じることはままある。
恩人であるという司祭から読み書きを学んだバーナードは、雑務をこなしながら本を読み漁り、祈りの礼拝堂にも参列させてもらえるようになり、正式に神官になったという。
「なるほど……今回の遠征はなぜ?」
「司祭様に勧められたんだ。君なら同じ神官達を守れるだろうからって。これも神の導きって押し切られちまった」
彼が腕を捲ると、古い傷跡がある。男らしい筋肉質なそれは、得物を扱うのに向いているだろうという所感を抱かせる。
「俺は魔法は苦手な方じゃねえし、独学だが火とか雷も使える。杖でも殴れるしな……祈りはいまいちだが」
確かに彼は聖堂騎士より一歩後ろにいるが、加わって戦っていてもおかしくはないし、寧ろ騎士になれそうだが。
何にしても、希少な存在だと理解した上でその司祭が送り込んだのだろう。
「助かっていますよ。皆あなたに引っ張られています」
「昔は食うために戦っていたが、こうやって人のために戦う方が、良いなって思ったよ」
それなりに経験してきたのだろう。精悍な顔立ちが見せる表情には、深みがある。こういう若者もいるのだ。多くを巡ったとしても、色んな人に会う。当たり前だが、全く同じ個人はいない。
「良い学びを得ましたね。誰かのために戦うことが、力をくれます」
人は人と触れ合わなくては駄目になる。どれだけ孤独を望んだとしてもだ。
テメノスがそうだった。この性質だから、友人が大切だった。失ってから、テメノスは怒りに支配され、我を失いかけたことがある。
人を突き動かすのは、人だ。
「まあな。教会でガキの相手をして、掃除に洗濯に草むしりに……俺はそういう穏やかなのが好きだ。ク国は戦争をやめたっていうが、子供はどんな顔してんだろな」
バーナードが騎士などの戦う道を選ばないのは、平穏を望んでいるというのが理由のようだ。
ク国の子供達か。戦火によって親を失った子や、養いきれずに身寄りのない子もそれなりの数いて、今は急遽設えた空き家に預けられている……だったか。
ともなれば、教会は広い方が良い。ヒカリと交渉するのもテメノスの役目である。
「きっと、子供達も前よりも明るい顔をしている。そう思いますよ」
「それは……あんたの旅仲間である、ヒカリ殿下だからか?」
「ええ。ヒカリの理想は、友と歩む平和な未来です。彼の志の強さを、私たちは見てきましたから」
彼にも苦悩はあったが、それさえ、彼は道にした。彼の軸すら危うくなっても、その脚で立っていた。剣を取っていた。
「信頼、してたんだな」
「彼が、私たちを信じてくれていたからですよ」
「教会からク国は離れてるけど、あんたはしばらく会ってないのか」
テメノスは否定しなかった。仲間達は皆、ヒカリを中心に繋がっている。テメノスくらいのものだろう、故郷に籠っているのは。
「二年ぶりになりますね。彼、真面目ですから無理をしてないと良いですけど」
テメノスはこれを思っているだけで、彼に伝えたことはない。
心のケアは仕事柄やるけれど、聞き出し上手の薬師に、感情を嗅ぎ分ける狩人から持ち前の明るさから彼を励ます踊り子や商人までいたら、己の出る幕などない。テメノスはひっそり見守っていたことが多かった。
「見かけによらず面倒見が良いんだな、テメノス師匠は」
テメノスは苦く笑う。というよりかは、優しい人には、優しく在りたいだけだ。
いつの間にか美容の話は終わったのか、今度はきゃあきゃあと嬉しい悲鳴を交えて盛り上がっている女性陣を横目に、テメノスは静かにいらえた。
「……本当に偶然、彼が助けてくれたのがきっかけだったんです。ヒカリは本当に、友は皆大切にする人ですから」
「ふぅん。でも国王様にとっちゃ、あんたや他の仲間達は特別だったんじゃないか?」
「それは、まあ」
言葉を濁す。彼の本心は分からない。いつも強い人だったから、余計に。
ヒカリの元へ向かうだけあって、彼の話はよく出てくる。だが、どうだろう。テメノスにとって彼は若くして立派な志を掲げた高邁な人物として敬意を抱いていたとしても、ヒカリにとってはそうかどうかは、知りようのないことで。
それでも再会すれば、凛とした面持ちを少しだけ崩し、テメノスを迎え入れてくれる——そう思うのだ。あの時の信頼が自分たちの間にあれば、それだけで十分だ。
「……そうだったら嬉しいですね」
テメノスはふと、何かを忘れている気がしたが、結局思い出せなかった。
「……おい、どうした?」
聖堂騎士の誰かが声を上げた。バーナードが機敏に荷車を降りたので、テメノスも続いた。
「何かありましたか?」
いや、聞くまでもない。熱い砂道を強かに歩み進めていた駱駝達が揃って動かなくなってしまった。
駱駝たちの気まぐれというわけでも、不調というわけでもない。彼らに触れると、小刻みに震えていた。そうなる理由として考えられるのは、経験上——
「テメノス様。もしや、この辺りに何かいるのでは」
鋭い視線を辺りに向ける若い騎士の頭であるルーカスの推察に諾う。
騎士の乗っていた駱駝の中には、荷物を振り払い、逃げ出してしまうものもいた。それを見た若き神官たちは、荷台から降りてきた。
結局いまの今まで碌な会話もなく、じっと動かないままでいたリオは、騎士に手を引かれて下ろされていた。
「どうする、師匠」
バーナードが隣から耳打ちする。最も忠誠心の高い駱駝も、堪えきれないのか落ち着かない様子を見せている。
「……この道はやめましょう。いや、引き返した方が良いかもしれません」
「それは、魔物が迫っているということかしら」
こわばった面持ちのシャロンの問いに、テメノスは首肯した。
「その可能性もあります」
場に緊張が走る。動物は優れた五感を持ち、外敵の気配を読むのに長けている。
魔物に相対するのに訓練されているのにも関わらず逃げ出したということは、余程の強敵が潜んでいるということだ。
「どこか……恐らく地中に潜んでいる可能性が高いです。慎重に進みましょう」
警戒を張り巡らせながら、元来た安全な経路を辿る。
魔物たちは遮蔽物から現れたり、空中から飛来してきたりと様々だが、蟻や蠍、蜘蛛などは岩の裏や地中で生息している。
しんがりを務め、聖堂騎士たちに続く神官たち——バーナードはともかく、女性たちからは不安がひしと感じられた。アリッサはマーガレットの手を握り、二人身寄せ合っていた。テメノスはいつでも彼女らを守れるよう、聖典はすぐに引き出せるようにローブの裏へ密かに指先を触れた。
「おい、あれ」
テメノスが頬に降りかかる風向きを見やった時と、先頭を担うルーカスが指差すのはほぼ同時だった。
「砂嵐か!?」
そうとも捉えられるし、地中の魔物が迫っているようにも見える。判然とはしない。
「今すぐ岩陰に隠れましょう!」
逡巡している間はない。荷車を切り離し、砂道を駆けずった。砂岩で出来たオブジェのような高い崖を一目散に目指した。
もろに受けぬよう、風の方角に背を向けた。轟音と視界不良に堪え、駱駝の次に傾斜を登り切ったルーカスの手を掴み、自身も仲間の腕を引きながら崖の裏に転がり込む。
リオは聖堂騎士の手も上手く掴めず、砂風に打たれて苦悶していた。テメノスはすかさず助けに入った。いっそ強引に抱き上げるくらいにして、引き込む。少年は投げ出され、そのまま横臥していたが、ややあってから砂を吐いていた。
砂を掻っ攫う颶風が岩肌に叩きつけられ、遠くへ撒き散らされてゆく。しばらく止みそうになかった。
「だ、大丈夫? 水、飲む?」
「……」
マーガレットが貴重な飲料水をリオに差し出した。荷車を降りた時、すぐに荷物を背負ったのは幸いだったが、貯蓄の食料品はもう無い。リオは唾で汚れた口元を拭い、顔を背けた。マーガレットは肩を落としたが、それ以上は何も言わなかった。
皆、リオを無視しているわけでは無い。バーナードだって時折話を振るなど試しているような素振りが見られるし、リンダも気遣わしげに彼を見やっている。
リオが、それらを頑なに拒み続けているのだ。
「しっかし、当てが大きく外れちまったな。村の人らは大丈夫だろうって言ってたんだが」
刈り上げの騎士が大きく息を吐く。先ほどの光景を思い返しても、予兆は直前までなかった。
「確かに、突然でしたね。本当にさっきまで風も穏やかだったのに」
テメノスは頭の中で可能性を羅列する。村人の読みは間違っていなかっただろう。
別の線がある。引き起こされたものであるかもしれない。恐らく魔物に。
確かな根拠は無いし、自然物は流動的だ。だが、これまで魔物の変異種や噂や架空の生物でしかないと思っていた魔障の類と遭遇した過去を思えば十分に考えられる。
「……今日はここで寝るしかねえかもな。そらか砂嵐が止めば、魔物を狩れるし、何とかなる」
水飲み場が確保できたら良いが、難しいだろうか。植物が群生しているあたりは、砂を掘ると水を確保できることもある。或いは洞窟などにはまれに地下水脈に近居場所があるが、魔物が救っている可能性が高い。
鎧の砂を払っていた騎士が、早速次の方策を立てるバーナードに関心を示しつつも、同意した。
「そうですね。あとは一旦サイの街に引き返して、改めて準備を整えるべきかと」
「ク国への到着は遅れてしまうが……遣い鷲を街で手配してもらおうことで手を打とう」
「……テメノス様、申し訳ありません」
ルーカスが重々しく謝辞を口にするので、テメノスはすぐに頭を上げさせた。
「謝ることはありませんよ。的確な判断でした。騎士さんたちは駱駝を守ってくれていましたし、緊急時にすぐ動けていましたね」
「い、いえ、聖堂騎士として当たり前の務めを果たしたまでですから……でも、恐縮です」
ルーカスは何やら気恥ずかしげに頬を掻いたが、他の聖堂騎士達は恭しく一礼するのに慌てて続いた。ここで己に褒められるよりかは、オルトに伝えてやるのがいいだろう。自分達の最善を心得ている若者たちだから、このままいけば更なる昇進を目指せるだろう。
「みんな落ち着いててすごいべ……私、びっくりしてまだ手が震えてるよ」
背中を丸め、足を三角に折りたたんだアリッサは、つま先をきゅっと丸めた。テメノスが敷き布を手渡してやると、早速握り込んで皺を作った。砂が降りかかるのを防ぐため、大きな布を頭にかぶることになったのだ。
更に規模の大きい砂嵐はもはや空まで届くほどの津波の形をしているとされるが、大口を開けた砂の怪物紛いが迫れば怖気を覚えるのも無理はない。
「咄嗟に最低限の荷物を背負ってきただろ? それだけでも及第点じゃねえか」
「そう、かな……?」
バーナードの目配せに頷く。戦闘の指導のほか、緊急時に関することは一通り教えてある。いざという時はにを捨ててでも逃げるべきだが、最低限の荷物を背負っておくと大いに役立つ。
「ああ。それに皆頼もしいんだ。お前とマーガレットがいてくれりゃ、炊事が助かるぜ。勿論、戦闘でもな——最近、頑張ってるじゃねえか、なあ?」
「そうね……」
同意を求められたシャロンは腕組みをしたまま目を白黒させている女二人に視線を移す。
「不味いと思ったらまず深呼吸の癖をつけときなさい。それだけでも、多少はマシになるわよ」
こうして見ると、彼女自慢の金の髪は、さながら絹糸。ヴェールで影を被っても光沢を保つ。
深呼吸か。テメノスの好奇心に付き合っていた旅仲間だった盗賊の女も、開戦の間際は静かに息を吐いてから短剣を光らせるのがいつもの合図だった。
「追い詰められている時にこそ、冷静な判断を。先の命運を分けますからね」
横目でテメノスを見遣り、シャロンは「ええ」と返した。自身には質問はあっても口答えはしてこない娘だ。気は強いが、自身が納得できるかできないかに重きを置いているのだと、この短い期間でも分かる。
「あとはろくに手札もない時にこそ、追い詰められたら、切り札は度胸だけだってことを肝に銘じておくといいわ」
胸を張り、シャロンはしたたかに笑う。これがアリッサ達を安心させるための仕草だと知るのには、少しの間を要した。
それから、誰かが指を鳴らした。砂に布を敷き、胡座をかいているバーナードだ。
「シャロン嬢は俺と組んでるだけあって——いや、元々(・・)肝が据わってるんだろうな。喧嘩売り癖も含めて面白え」
挑発的な視線を送り込むくらいの余裕があるのは、彼ならではだろう。シャロンの細やかな睫毛が、茜色の瞳にやおら影を作った。
「あらバーナード、いただけないわね。私は喧嘩なんて品のないことはしないわよ。切磋琢磨と言っていただきたいところね?」
うふふ、となにやら冷えた音色が耳を打つ。
何やら穏やかではないが、両者は鍛錬を必ず組んでやるほどなので別に険悪というわけではないだろう。
バーナードは凍てつく視線はいなしつつ、肩を竦めた。
「氷結魔法本気でぶっ放す奴がよく言うぜ」
シャロンは魔法書を持参している。テメノスの知識が正しければ、学院を通過した者しか手にすることができない代物だ。オズバルドが研究室に似た形状のものを多く保有していたのを見たのだ。
「盾の強度を試したいと言ったのはあなたでしょう? それに本気で狙ってませんもの。それとも、私と組むのは不満なのかしら」
言葉と視線の攻防戦——マーガレットと布を共有し、まるで巣が繭に見立てて彼女のそばに閉じこもるアリッサは、ちらちらと不安げに彼らを窺っていた。
風の音のせいで、全部が全部聞き取れないせいもあった。
「不満? ねぇな。本気の奴を否定するのはダサいだろ。ただ、あんたがそこまで食らいつく訳は気にはなるがな」
なんて事のないように言って退けては、バーナードは岩肌に背中を預けた。
シャロンはたちまち顔を顰めた。苦い茶を飲んだみたいな、そういうのを彷彿とさせる。
シャロンは常に手を抜かない。マーガレットは人の役に立つことにこだわるが、彼女の場合、己を研鑽するのに余念がないようだ。
「……ああ、そうね。あなた、とんだ好き者だったわ」と呟いた。
「ううん、二人って仲が良いのか、悪いのかよくわからないべ……」
アリッサは首を捻り、マーガレットは精鋭二人を交互に見てうーん、と思案する。
「兄妹みたいなものかなと思ってたけど、好敵手、って感じかな?」
少なくとも、テメノスにはバーナードは彼女の努力を買っているのだろう、と察することはできた。
黙して留まっている騎士達が、声を上げた。
「風が弱くなってきたか?」「まだ気は抜けないな」「向こうのほうは何も見えないぞ。この辺りだけなのか?」
テメノスは反射的に立ち上がる。ルーカスが驚いたようにこちらを向いた気がしたが、次の瞬間には聖句を唱えていた。