恋のつくりかた
01
指と指から、その間、柔い手のひらが触れ合うと、不思議と胸の芯が温かくなった。
巨壁の地下洞。二人は脆い橋の上の、偶然最後列を歩いていた。それが災いし、奈落へと吸い込まれてしまった。
暗闇の中杖の明かりを頼りに迷いに迷いながら、青い稲妻が猛獣の形をしたような魔物から遁走を図り、次には青いたてがみを持つ巨体の狼と対峙し——命からがら、散策の余力もなく、止むを得ず一晩を越すことにしたはいいが、酷くうなされていた様子のヒカリが飛び起き、なんとか彼を引き戻すという、過密な出来事の末に今に至る。
魔法と緊急時の回復薬のおかげで歩くのには難儀しないが、互いに酷い有様だった。
砂埃やら切り傷、乾いた血の跡が、ところどころにある。
『……ありがとう。テメノスよ』
彼が笑う。見たこともない、蕾が綻ぶようなかんばせは、黒く重々しい場に似つかわしくなく、綺麗だ。見るのも躊躇われた。
彼の手は握るというよりは包まれていた。テメノスはこの日をもって初めて、彼のそれが己より小さいのだと知った。肩を貸そうかと尋ねたいのに、これが最適解のように思えてならなかった。互いの繋ぎ目へとおもむろに視線を落とした彼は、テメノスに尋ねかけてくる。
『……なぜ、そなたはそこまでしてくれたのだ?』
テメノスは、努めていつもの、悠長なような言葉の組み合わせで、何か答えた。当たり前のことをしたまでだとか、これも務めだから、とかそんなところだろうか。
いつも、ヒカリは最前線で刀を振るってくれている。何があっても屈しない。彼の国を取り戻したいという本懐を成すべく、彼は彼の永き道を歩み続けている。
無類の強さを誇り、分け隔てない優しさを持つ彼が、優しさと矜持がために、ひとり苦しみ喘ぎ、弱っている姿を見て放っておけるとしたら、それは温い血の通った人間ではないのだ。それだけだし、きっと他の誰かの方がもっと上手くやるはずだった。
いいや、本音を言えば、誰も死なせたくなかった。取り返せぬ過ちが迫ったなら、テメノスは我を失ってしまうから、頭が空っぽになるまで詠唱を続け、その時ばかりは神への清廉で一途な願いを捧げることで彼を救い上げた。
テメノスの朧げな返答に、彼は柔らかい音色でいらえた。
『……ああ。俺にもその痛みは、分かる』
意外なことに、彼はテメノスの本音の方に答えた。密かに目を見張った。
『俺はこうしてここにいるのは、そなたの優しさのおかげだ』
この青年——ヒカリのこと、少し誤解していたようだ。彼は生真面目で、硬い男だと思っていたが、よくよく観察してみれば、思ったよりも感情が顔に出てくる。
その上、何もかもが堅牢で屈強なわけでもない。先ほどまでは酷く弱っていた。温い水のような汗で濡れた手のひらで、確かにテメノスに縋っていた。
彼が大国の使命を背負いし王子という肩書を持っていても、人間で、男で、心があって、時に間違いだって選び取るだろう。理想のために何かを失うだろうし、己の弱さに気付かされることもあるだろう。それでも彼の周りにはたくさんの友がいて、手を差し伸べたり、言葉をくれる。テメノスも、その大勢の一人だ。
静かになった後も、彼の口元はかすかに綻んでいた。テメノスは如何ともし難い、背中や腕が痒くなるような覚えがしたのち、どうしてか無性に後ろめたくなった。
『テメノス、テメノス』
ヒカリが呼んでいる。彼に腕を引かれてゆくと、冷たい風が頬を撫でた。目を凝らしても天井は歳限の無い闇だったが、杖の明かりを強めると、縄梯子がぶら下がっていた。仲間達がやってくれたものだろうと、すぐに分かった。
やっと、帰れるのだ。テメノスは思わず深いため息を吐いた。室内だろうと極寒のせいで白煙を噴かしているよう。軽くなった足を前に踏み締める。
『……待ってくれ』
ローブをひしと掴まれていた。振り返ってすぐ、ヒカリと寸分の狂いもなく目が合った。
彼と会ってからもう幾つの月も越しているから、彼の目が黒いことはよく知っている。テメノスの顔をくっきりと捉えて離さない澄んだ鏡面。熱を孕んだように揺れる様には、息を飲まされた。
彼の唇が、微かに震えた。
『テメノス。俺は、そなたを——』
◆
「……ん」
身じろぐと、頭の後ろが硬いことに気がついた。その割に背中から腿は温い。
——ああ、そうだ。ここは馬車の中。おぼつかない手を泳がせ、隣の固めておいた荷物を弄る。外で馬が嘶いた。潮騒も微かに聞こえる。
徐々に頭の奥がクリアになってゆく。テメノスは瞼を開けた。
「……あなた、随分とうなされていましたけれど。大丈夫?」
ぼんやりとした視界の中心には、赤みのかかったブロンドが伸びやかな貴婦人の姿があった。憂慮を湛えた面持ちでさほど距離もない、少し足を伸ばせば敷き詰まりそうな向かいの座席からテメノスを覗き込んでいた。
ああ、そう言えば。船をやっとこさ降りて、街の馬車を借りたは良かったが、先客がいたようで、相席することとなったのだ。
「すみません、最近、寝不足で。ついうたた寝を」
嘘は言っていない。冴えた思考に睡眠の不足は禁物だが、このところ、浅い眠りと心臓の騒がしさが夜に来て、その癖してまんじりともしていられない昼間に眠気が来る日が続いていた。
今もあくびを噛み殺すテメノスに、その婦人は長い脚を組み、長く蓄えた髪を撫ぜた。
ブロンドに似つかわしくない黒い瞳が上を向く。
「それはいけませんわ。カナルブラインの先は砂漠。殿方と言えど、少しの抜かりで暑さに飲まれてしまいますわ。自然の日光は手心というものを知りませんもの」
聞けば、婦人も砂漠町に用があるようで、テメノスと同様、港町で支度を整え、駱駝を借りて行く予定なのだという。
この馬車は少々値は貼るがお貴族様向けに自慢の駿馬とそれを動かす御者、背負うもの自体も頑丈な作りをしている。
テメノス一人ではまず乗れなかった。経費で落ちるからこその贅沢である。
「ええ……向こうの宿屋でよく眠ることにしますよ」
ソファと呼んでも差し支えない背もたれに浸かる。安宿のベッドの何倍も分厚い上、腰に優しい。心地が良かった。
「それが良いですわね。して、神官様はヒノエウマまで何の御用がありますの?」
「……分かりませんか?」
肩を竦めてみせたテメノスに、老人は喉の奥を使って笑った。髪も髭もお揃い色だが、細まった瞳は猫のように細やかな線を宿し、くっきりとした濃い色彩をしている。
「意地悪を言わないでちょうだい。さしずめ、聖火の教えを広めに行くのでしょう? 砂漠にまで尊い炎がお導きが届くと良いわね」
まあ、富裕層は何かと造詣が深い。言うまでもなく学舎に通い、読み書きの延長線を幅広く学べるからだ。
コルセットを巻いた、気品と優雅を調和させたドレスはニューデルスタのメインストリートを歩いていてもなんらおかしくはない。いつもの癖で観察しつつも、借問を投げかけた。
「そう言うあなたは、信徒で?」
貴婦人は「いいえ」と首を横に振った。
「あいにく、私は西出身で、違うのだけれど。神官の友人がいますの。ある程度は知っているのよ」
「なるほど」
老紳士は祈りの仕草を真似してみていたが、なるほど確かに正しいやり方だ。細かな動作にも虚言の証は見られない。
テメノスは静かに視線を這わせながら、女の白い肌によく際立つ濃い口紅が震える様を見た。
「して、経過は順調なのかしら」
「……それなりには」
膝上で擦りあっていた両の手が汗ばんでいる。窓辺には海岸が続いていた。星の丸さを現す無限の青が、湿った潮の風を駆り出し、窓に体当たりをする。
会話をなおざりにする気は向こうにはないのが受け取れて、テメノスは何とも複雑な思いを抱かざるを得ない。
「——それとは別に、何かあるみたいね」
女が突然声色を変えたので、テメノスは虚をつかれた。
「いえ、そんなことは」
胸の内では、確信をつかれたようで惑っている。少し気を抜いたせいだろうか。女はテメノスの手を白くてすらりとした腕を伸ばして挟み込む。
「神官様だって、胸の内を吐露したっていいじゃない。私でよければ聞きますから」
血管までうっすら見える胸元が側にある。むせ返るほどの香水の匂いが鼻をつく。テメノスは口端を引き攣らせた。
「……ご勘弁を、レディ。私めは口は硬いものでして」
テメノスはそれ以降、発した通りに石像が如く黙した。しかし女が諦める気配はない。次の瞬間には、その見てくれからは想像もつかないほど、指先を彼女自身の唇に辿らせ、鋭く微笑んだ。本能的な怖気のようなもので背筋がぞくりとした。
「私、後ろ向きな男は嫌いなのだけれど——でもそれだけ頑なとなれば、容易に推察できるわ」
「……なにがわかるというのです?」
隠そうとして滲み出るほど苛立ち始めたテメノスの顎は、女の爪先によって上を向かされた。
「分からない? あなたたちが最も突き放し、だけれども逃れられないヒトの本能」
挑発は仇となった。その先の言葉を聞きたくなくて、テメノスは女から逃れようとするが、女の腰を巻いていた皮ベルトが微塵も悟らせずに手首ふたつを締めていた。残るは、わなないている唇から、抵抗するしかない。
「言ってる意味が理解できかねます」
テメノスは頸を汗が舐めるのを覚えながら、反駁し、女を睨め付けた。
「馬鹿ね」化けの皮を剥いた女はにこやかに悪態を吐いた。みじろぎひとつも言い逃れも許さない圧があった。「意味なんて必要なの? 理解できたら、恋なんてしないでしょう」
床に何かが散らばった。絹糸の束にも見えたし、誰かの毛髪にも見えた。それがなんたるかを知る前に、深い溜息を吐き捨てた。
「……馬鹿げたことを言うな」睨め付けるにしては、不格好だった。唇も戦慄いている。「私は神官。ありえませんよ」
「あら」女は滑稽だと言わんばかりに肩を揺らす。「従順な使徒はやめたんじゃなかったのかしら」
いつ、それを口にしただろうか。何せあの旅からもう二年は経つ。あれほど鮮やかだった記憶も、緩やかな時が朧げにする。
「それでも……あるでしょう、守るべきことが」
「くだらないね」
女はたった一言で一蹴した。
テメノスもこれ以上は黙った。そうだろう。体裁なんてあったもんじゃない。何せ、自分はもう……
慣れたような手口でテメノスの荷物から一枚の書簡を抜き取った。歯噛みをするその間にも、丁重な封を解いて、テメノスの眼前に見せつける。
「これ、どうするつもり?」
それほど難しいことは書かれちゃいない。城下町に現在建設途中の白い教会。フレイムチャーチに立つそれよりかは、景観や環境に合わせて構造が異なるが、それでも灯火の象徴が刻まれている。あそこに審問官として在籍する意思はあるのかそれだけ問うている。ただし、署名欄は空白だった。期限はもう半月も持たない。このプロジェクトを共にこなしてきた仲間達は、テメノスがやってくると信じてやまないし、上司達はテメノスがなぜ承諾しないのか首を捻っていることだろう。
思えば、長いようで短かった。ニューデルスタで新たな輝かしい星の誕生を盛大に祝い、皆で飲み交わし、笑い合ったあの日から二年近く経つのは、瞬きと同じくらいの速度だった。テメノスはあいも変わらず紅葉の街で仕事をこなし、日々を緩やかに費やす。異端審問官としての業務は歳月と共に減り、子どもたちの相手や奉仕作業などが大抵を占めていた。
平穏は時折毒のように感じる。何も考えなくても良い時間が得体の知れない不安を燻らせる。ところが相反して、変わらぬこそが幸福なのだと噛み締めてもいる。
そんな時だった。テメノスの元に突として教会から呼び出しがかかった。聖堂を訪うと、イェルクから代わった教皇が待っていた。着慣れているはずのキャソックの襟元が締まる覚えがしたが、従順な信徒の佇まいを心掛けて彼の後ろについた。
他の教会の司祭や司教の老人達が殆どだが、聖堂騎士の姿もあった。テメノスの家にやって来て、依頼を寄越していたが最近は仕事の愚痴も口にするようになったオルトの姿もある。おそらく招致されてきたのだろう。数年前では考えられないことだが、聖堂機関の淀たるカルディナ派の人間が追放され、風向きが大きく変わったことで、二つの組織間の溝は解消されつつあった。
そんな事情は噂に目敏い同僚やオルトから聞いていたから頭では理解できていた。
機会が訪うとはテメノスは促されるままマホガニー製の椅子に腰を据え、始まりを待った。
話はこうだった。聖火の尊い教えがソリスティアに広く届くよう、使徒たちは毎年巡礼と布教の旅を続けてきた。特に西は、いまだエルフリックの炎の清らかな輝きを知らぬものたちが決して少なくない。理由としては、その土地の厳しさや、人々の認識の壁が厚いなど様々である。
しかし——海を越え、西大陸の南部、ヒノエウマの大国では、内乱が勃発しているという噂が教会にも届いてきた。追放されたという第二王子が王冠を勝ち取ったというのも、春の訪れと共にやってきた。長らくの独裁は撤廃、新たな若き王子は民を友とし、国を戦のない平和の未来へと導くことを掲げているという。
街の復興は着々と進められており、他国の事業との連携を重ね、入国の規制も緩和されている。試しに神官が数名、街に潜り込んだが、物珍しそうにはされたが、問題なかったという。
彼らによると、城下町の方は内乱による戦火の跡が色濃く残っていることは勿論、親を亡くした子供、元より民から搾取する圧政が祟り、捨て子や身寄りのない子供は決して少なくはない。今は主に領主らと共同で神官達が補佐をしているが、活力有り余る少年少女にとっては咄嗟に用意した一戸建ては窮屈であった。衣食は役人達の力を借りているものの、やっぱり人手と然るべき住処——孤児院、願わくば教会で子供達の健やかな成長を見守り、助け、大人になるその時まで尽くすべきだろう。
教会の上層部はこれを好機と捉え、クの現王との接触を図った。
重臣たる偉丈夫に用件を告げ、書簡を渡そうとしたが、ヒカリと直接謁見することとなった。彼は聖火教に対するある程度の理解があるようで、話は拍子抜けするほど円滑に進んだという。異国の存在である若い遣いの男に対しても、驚くほど親しみ込めて話してくる。
一度使節を連れてくるようにと勧められ、帰りの資源まで積んでくれたという。男は砂漠の地までは過酷を極めたし、課せられた任も気が重かったが、そんな所感はすっかり抜けてしまったという。
布教団を結成するなら次もどうか自分を——と報告書片手に私情を口にする男を尻目に、老人達の注目はテメノスに集まり出した。自身と殿下の間柄は、彼らには知れ渡っているらしかった。遠く離れた地、その上かつてはにべもなく聖火を拒んだ砂国において、現王の聖火教に関する寛容さはテメノスの影響によるものだろうと名前もあやふやな髭長の老男は言う。
「——であれば、此度の布教団を率いるのは、テメノス・ミストラルが相応しい」
色素の薄い髪の縮れた細身の老男が、歌い上げるように言う。
彼は異端審問官としての命で、ソリスティアを旅をした経歴がある。厳しい砂漠の地にも慣れている。教徒の証たる光魔法や聖典の扱いも申し分ない。そうでしたね、オルト副機関長?
テメノスはオルトの方角を見やった。彼は堂々としていた。こうしてみるとまだまだ若く見える。最近は適度な休息が取れているからなのか、仕事が落ち着いてきたからなのか、肌艶が回復していた。
オルトは高らかに言う。「ええ。彼が適任ですとも。俺はこれまで彼に助けられてきた。聡明であり、いかなる時も冷静な判断が下せる男だ。忍耐力もある。是非とも彼を推薦させてくれ。聖堂騎士団からも護衛を数名送り込もう」
買い被りすぎだ。胸を張りすぎて反れそうなほど、オルトは自身ありげだった。もはや調子に乗っていると言っても良い。月影教の残党の取り締まりで何度か行動を共にしてきたが、どういうわけかニューデルスタの集まりでも仲間に呼ばれる直前までついてきた男だ。親近感のようなものを持たれ続けている気がする。
反応しあぐねているテメノスであったが、教皇が腰を上げたことで、一瞬で静まり返る。
「テメノス異端審問官は今は亡きイェルクの意志を継ぎ、多くを成し遂げてくれた……テメノスよ、どうか君が闇を暴くために旅で得た強さとその優れた知性や慧眼で今度は若きもの達を導いてはくれないか。さすれば、エルフリック様の尊い教えが、砂国の救いを希う者たちの導となろう」
皆皆一様に諾い、祈りの所作を見せた。そんなに理由を押し並べなくとも、テメノスはどのみち、飲み込むしかないのだ。
かくしてテメノスは、久々に故郷へ暫しのいとまを告げた。
教会側が設えた馬車には聖堂騎士が三名——彼らは御者も兼任し、オルトに託されて護衛も担う。そして若い神官が五名ほどで、男も女もいる。全員テメノスの知らない顔ぶれだった。
引率者の責任感に背中を押されたテメノスはまず、彼らにそれぞれ旅の経験はあるのか、と尋ねてみた。聖堂騎士は任務であちこち駆り出されるが、西の経験は少なく、同職は東の巡礼なら少し、というくらいだった。
テメノスは彼らのために大きな地図を広げ、具体的な経路を示した。まずはニューデルスタの船を経由してカナルブラインへ。そこで砂漠地帯に向けた準備を念入りに行う。
港町に辿り着くまでは順調だった。魔物も居たが、聖堂騎士が次々屠っていくためテメノスが出る幕もなかった。
テメノスは馬車の中で後輩神官たちと色んな話をした。「あんた、ソリスティア中を旅してたんだって?」「凄いなあ、あたし、田舎住みだから、フレイムチャーチに辿り着くのにも迷っちゃって」「ク国もそうだけど、ヒノエウマの話はこちらではあまり聞かないわね。どんな場所なのかしら」あれこれ聞いてくるものもいたが、興味はありそうだったが少し離れたところで耳を傾けたり、大人しく読書に耽って耳を傾けているものもいた。
どうやら彼らは砂漠町への遠征、現地の神官の支援を募っていたので自ら志願したり、司祭に勧められたり、とさまざまらしい。
テメノスは深く詮索するのはやめた。その辺りはゆっくり知っていけば良い。
ゆえに自分の話を主体にした。かつて国を取り戻すことを使命にしていたヒカリと長く旅をしていたのだと言えば、若者達は目を丸くした。
クに教会が建つかもしれない、その可能性は彼らの中で半信半疑だったのだろう。こうして現実的になってきたことで、テメノスは質問攻めにあった。
「……ヒカリ殿下はどんなお人なんでしょうか?」
その問いかけに、テメノスは眼裏から甦らすように彼のことを思い出した。同時に、懐かしさも一緒に込み上げてくる。
フレイムチャーチを旅立つ手前、聖火に異を唱える厄介者に出くわしたテメノスであったが、その助けをしてくれたのがヒカリだった。迷いなき太刀筋は目を奪われるほど流麗で、テメノスは感嘆の深い溜息を溢してしまったのをよく覚えている。自ら巻き起こしたような木枯らしが散り散りになり、目に焼きつく朱い装束と、ここでは珍しい黒髪が枯葉に紛れてはためいた。すでに何人かの仲間を連れていた彼は、テメノスを酒場に誘うと、自分たちはモンテワイズを目指しているのだと打ち明けた。目的が気になったが、テメノスについて聞かれたのでいくつかかいつまんで教えた。彼は口数がさほど多いわけではなく、テメノスが長たらしく語っても気にするそぶりを見せることなく相槌を打つ。
加えて彼は酒を頼むまでは成人にも見えないほどの顔立ちと体格だったが(テメノスも類稀な童顔の持ち主ではあるが西の砂漠地帯の者たちは顔立ちが幼く見られがちである)、深く響くような言葉の繰り方は大人びていたし、所作は包み隠しきれぬ気品が滲み出ていた。特に彼の故郷に対する含蓄に富んでいた。時折見せる柔らかい微笑みは、彼の不思議な親しみを表している。テメノスはつい彼から旅について聞いてみたくなって、目的も忘れて長居をしてしまった。店を出て、このまま別れるのをどこか惜しむ自身へ、彼は確信を持ったような手を差し伸べた。
この時、テメノスの中に躊躇いはほとんどなかった。一人旅は不安があったし、彼ほど強ければ頼りになる。他の商人や踊子、薬師の女性も、根底的に善人だ。個々の能力も高く、上手く補い合っている。
深い動機もなくテメノスは彼らとの旅を始めた。最終的な輪は八つとなり、相談ののち別行動もあったが、一人もかけずに集まる時が必ずあった。職業も住む土地も異なる者たちは、別々の地点を目指しながら、互いの道を手伝うことをよくした。歓喜し、驚愕し、挫け、絶望に打ちひしがれてもなお、独りということはなかった。奇妙な縁だったが、終点はひとつだった。
ヒカリのことだが、出会って以来見てきた所感を端的に述べるのは難しいが、あえて表すなら、尊い人だと思う。天道のように手に届かないほどの高みにあるが、その輝きは優しい。
「私の知る彼は、とても優しい方でしたよ。よく祖国にまつわる色々や、友の話を聞かせてくれました。神官の魔法や祈り方を教えたこともあります」
語ることがありすぎるというのも困りものだった。多くを切り取った無難な返答にしてみたのだが、深掘りを求められることはなかった。
若者たちは自分たちに課せられたものの重さだったり、展望だったりとを天秤にかけることや、検討を繰り返す方に気を取られている様子。上層部がなんと達したのかは詳らかには分からないが、教会の建設が本決まりになれば、彼らをそのまま現地の神官として採用することは、十分にあり得るだろう。
彼らをそっとしてやりながら、テメノスは一面の砂景色や、そこにある街並みや人のこと、そしてそれらを導く一人の青年のことをまだ考えていた。
彼と共に砂国を取り戻す手助けができたことを、テメノスは今も誇りに思っていた。
そこに辿り着くまでも、将軍との戦い、ムゲンの奸計で追い詰められたライ・メイの電撃によって橋に転落したという時は、テメノスもいてもたってもいられず駆けつけた。握った手のひらの冷たさに息を呑んだが、必死になって回復魔法を行使した。目を覚ましたのを認めた時、どれほど安堵したか分からない。キャスティが駆けつけるまで、治しきれなかった分の手当てを続けた。一緒に牢に篭る自分を、城主は当惑する目で見ていたが、構わなかった。
聳えていた苦難さえ乗り越え、王子は最後の決戦の地へ赴く。頼もしき仲間を連れて。
未来を託した友や、ムゲンを倒し、そして陰を制した彼はついに王冠を戴く。されどすぐに放り捨てた彼は民へと手を振り、暫くしてから、黒山では浮いているテメノスを見た。手を振りかえしたが、いまだにあの意味を知らずにいる。時間が経つほど、偶然か、他の仲間を見ていたのではないかと思えてくる。
血に塗れた過去を抱く大国の未来は彼の手にかかっている。若き彼が背負うには、大きいが、テメノスはこれまで彼の強さを見てきた。どれだけ失い、裏切られたとしても、彼は理想を見失わない。大丈夫。彼は独りじゃない。これからは、仲間や、従来の友や支えてくれる人達がいる。
だからテメノスは彼に向け、砂漠の青い空に似つかわしい晴れやかな心持ちを掲げ、手を振ったのだが、気付いてもらえたろうか。造花が降り始め、人々が思い思いが激励として交じって、よく分からなかった。
ヒカリとはあまり手紙のやり取りをしていない。当然顔もこの二年間に合わせていないわけだから、久々の再会ということになる。
他の仲間にしていたように、悠長なふうに接したらいい。変に畏まるのを嫌う男なのをよく知っている。
後輩達の半数は引率役のテメノスに打ち解けつつあった。入れ替わりの聖堂騎士らも、テメノスの話には興味深そうに頷いたり、質問をくれたりした。
少し離れた位置では、成人にも満たないほどの稚気のある神官の少女が一人様子を伺っていたが、声をかけると少しずつ馴染んでいった。ただ、唯一、頑なにこちらに顔を向けず、読書に勤しむ神官がいた。横顔を隠す栗色の髪は手入れをしていないのか鎖骨まで伸びており、外からでも傷んでいるのが分かるほどだ。着ていた神官服は幾つも縫い直した痕があり、生地が黒ずんで見える。視線をやるとあからさまに逸らされた。テメノスは頭に浮かぶあらゆる可能性を検討したが、今は様子見に止めた。
港町を後にし、砂漠に出てからは、テメノスの魔法が重宝された。容赦ない日照りが、聖堂騎士たちの体力を奪っていき、隙がないと思われた隊列に乱れが見え始めたのだ。
ペースを落とすよう促しつつ、テメノスも戦線に出た。宿場やサイの街までの魔物群であれば光魔法で屠るのは自身であれば容易い。光明魔法ひとつをローコストで打ち出すだけで良いのは、テメノス達が沢山迷い、二度も三度も同じ地を訪れ、自ずと鍛え上げられてきたから。今は彼らを送り届けるのに役に立つ。
テメノスとて久々の遠征だ。魔力がごっそり減ったような感覚は無いが、後々身体に出てくることもある。早めの野営の支度を始めた。諸々見越して用意しておいた熱に強い乾燥した肉や缶詰などを使い、塩味の強いスープを作った。水場が記憶の通り見つかったのが大きく貢献して、パスタもたっぷり茹でておく。
記憶にあった料理上手な仲間の助言を参考にし、具が控えめな分調味料を凝らす。
やがて陽が沈んでから時間が経つにつれ、辺りはたちどころに冷え始め、神官達はぶるりと震えて用意していた厚手の寝衣に身を包んだら、テントの中に引っ込んでいった。
「……どうかしましたか?」
読書家の小柄な少年だけが、立ち尽くしていた。最も、途中から読む本も無くなったのか、目元さえ髪で覆い隠し、窓辺に張り付いているだけだった。さりげなく観察していたが、時折密かにため息ををついており、表情は希薄だが、どこか鬱屈としたものを醸しているせいで、誰も構わない。
「何かお困りなら、私に話してみませんか」
後輩達の心身のケアをするのも、テメノスの今の仕事の一環だ。やれと言われたわけではないが、ク国に彼らを連れて行くのに、暗い顔をしていては、心証が良くないし、テメノス自身もそれではいけないと思う。新天地にクを選ぶにしてもしないにしても、この遠征が記憶に残る時、良いものであってほしい。お節介で独りよがりな願いだとしても、テメノスは出来うる限りをするつもりだ。
「……」
そばかすのある顔は血色が悪く、身体も痩せ細っている。
テメノスが伺いつつ腕に触れると、彼は素早く払った。テメノスはそのほんの僅かな間の所作を注視したが、その必要もなかった。指先がかろうじて飛び出すほど薄地の袖が動作の拍子に捲れ、手首や腕が露わになっていた。思わず目を見張った。
「あなた、それは……」
夥しい傷跡——彼は咄嗟に隠したが、あれは切り傷だ。神官の回復魔法なら簡単に治せるし、特に傷を受けてすぐは跡が残ることもないはず。ところが彼にはたくさんの古い跡がある。不可解なのはそれだけじゃない。何度もつけては書き換えているように映るのはなぜか。
「……なんでもありません」
彼の名は確かリオと、名簿に書かれていたはずだ。少年は搾り出したように唇を震わせると、不恰好に駆けるとテントの奥へと消えてしまった。後を追う間もない。テメノスは止むを得ず踵を返した。
別のテントをそっと覗くと、聖堂騎士達が既に水分補給と食事を済ませ、簡易ベッドで横になっていた。回復魔法で癒せるのは傷や苦痛くらいのもので、身体に深く刻まれた疲労は緩和させるくらいしか出来ない。テメノスも夜の晩を請け負い、彼らには十分に体を休めてもらいたいところである。
テメノスは船を漕ぎかけていた騎士に代わり、焚いた火の煙が立ち上る先——濃紫の天井を仰いだ。月は小さく、星空は溢れそうなほど数多にある。白湯を少し飲みながら、見張りの番を緩やかに担い続けた。
しばらくすると、一人の聖堂騎士がテメノスに声を掛けてきた。
「眠れませんか」とテメノスが振り返らずに穏やかに訊けば、青年は困ったように頬を掻いた。騎士達は皆若手だ。カルディナに傾倒していた人間は組織から外されており、その関係もある。男は赤茶色の髪に榛色の目、目尻が垂れているためか、柔和そうな印象を受けるが、これでも若き戦士の中ではリーダーを務めている。
「テメノス様……申し訳ございません。あなた様の手を煩わせてしまった上に、見張りまで」
自分なりの心遣いとしてすっきりとした飲み口の紅茶を淹れてやることにした。珈琲にしても良かったが、個人的には飲み過ぎると安眠の妨げになる。
「構いませんよ。これも仕事ですから。特にあなた方は、初めての環境の中ですから、無理をせず、少しずつ慣らしていくと良いですよ」
笑いかけると、彼は「あなたは、お優しいですね」とはにかみながら言った。
聖堂騎士もさまざまだが、彼はしっかりしてそうだ。こう言う類の若者は、数年前のテメノスなら少し揶揄っていたかもしれない。
「最初から上手くやれる人の方が少ないもんですよ。私だって、体力がある方ではありませんでしたし、仲間の助力があってこそでした」
生まれた土地であるヒカリは勿論のこと、薬師のキャスティも慣れた様子だったため頼もしいことこの上なかった。
当時、自分はほとんど後衛で支援していただけであり、宿場に着く頃には伸びていたくらいである。
「今は、私があなた方を助ける側になったというだけです。どうぞ頼ってください。杖で殴れば魔力が吸い放題ですし、魔法だったらたくさん撃てますよ」
立てかけてあった杖を撫でると、青年は反応に困っているのか、口元は笑うのかなにか言うのか、どっちつかずの曖昧ぶりを見せた。
構わず、テメノスは続けた。
「ああ勿論、タダではいかないかも。オルトくんのツケで良いですね」
大事なことを事前に教えてくれなかったオルトのことを今も少し根に持っている、なんて。今度冗談めかして突いてやるのも悪くない。
「この間突然来て私に朝食を作れと言ってきたことを思えば、おあいこです」
まあ、臨時に回ってきた仕事を消化してきたらしく、随分とくたびれていたことと、テメノスも休暇にやることがなかったため、そこまで気にしちゃいないが。
「その時の彼と言ったら、随分と酷いものでね。鎧も脱がないで玄関でうつ伏せになって、腹が減ったって言うんですよ。一体何轍していたのか。凛々しい髪もすっかりふうらい草です。ほら、ここらの砂漠にもいたでしょう?」
ついべらべらと喋ってしまう。彼の引き締まった顔が崩れ、慌てる姿を浮かべていると、赤茶色の前髪を片手でくしゃくしゃにして、騎士は喉の奥からひり出したみたいに笑う。
「す、すみません。そんなことを言う神官様は、初めてで……」
ツボにはまったらしく、冷めた紅茶をあおることでなんとか治めていた。テメノスが背中を刺すってやると、ひとこと礼をして、 何だか改まったようにまじまじと見てくる。
「オルトさんから聞いてます。前機関長を告発したのはあなただって……そのために旅をしていたのですよね」
「おや、そこまでご存知だったのですね」
テメノスは意外に思った。オルトにこの手の話を広めないよう頼んだわけでもないし、聖堂機関の沽券的にも望ましくないので、知っている人間は数少ないか、噂程度だと思ってきた。
「テメノス様の話をよくしてくれますから。彼があなたを特別に思うのも分かります。あなたなくしては、聖堂機関の今はなかったでしょうから……」
オルトがテメノスを構うのは、案外複雑な所以からきている。
正しい道を選んだクリックに対する負い目や、名状の難しい責任感、彼への入り組んだ想いをテメノスに重ねているのだ。
ただそれも、互いそのものに向けた友好で築きつつあることを、テメノスは感じ始めていた。
「私は、すべきことをしたまでですよ」
テメノスはカルディナのもとに漕ぎ着け、断罪したことが、己の成果だとは微塵も思わない。
友人たちが導いた道を、この足で歩き明かしただけだ。
「……俺、オルトさんから直々に与えられた任務ですから、どうしても上手くやりたくて。焦っていたかもしれません」
なるほど、オルト直属の部下ともなれば、ある程度信頼もあるのだろう。よくよく改めて考えれば、彼が送り込んでくるのだから当然でもあるのかもしれない。
「まだ入って五年も経ってませんけど、ここが俺の居場所って感じがするんです。だから、みんなの役に立ちたい」
若者の眼は、希望を宿していた。もう舞台の外にいるテメノスは、彼のようにはなれないと思った。テメノスの居場所 は、もうずっとあの紅葉の彩りが美しい、聖火に寄り添う街だ。帰ってきた時迎えにきてくれたわんぱくで無邪気な子供達が嬉しかった。いずれ旅立つにせよ、神に仕えるにせよ、彼らとならとどまっても良いと思った。
「……立派じゃないですか」
夜のしじまに響かない程度に手を叩く。テメノスが彼と同じ年頃に、ここまで真面目であったろうか。ただ従順な信徒で、信念も足りなかった。
羨ましくはない。只々、眩しい。オルト以外の聖堂騎士とは別段関わってこなかったテメノスではあるが、新しい銀甲冑の彼らは赤茶髪の青年に限らず皆爽やかだ。傲慢でもない上、言動の節々に敬意がこもっている。テメノスは感情そのままを示すのは苦手なのでしないが、彼らには好感を抱いているのは確かだ。
「最初から成功するほうが、稀です。大切なのは、過ちを無駄にしないことです……どうか、自分の歩幅で、励んでください」
己は、間違い過ぎてしまった。それでも這いつくばって何度でも立ち上がって今ここにいる。
過去となって収束するそれらは、変わらない記憶となり、なぞり続け、平穏の中で息をし続けている。テメノスにはそれが合っている。
——なのに、なぜだろう。しこりのような違和感が、時折テメノスの胸の隅で軋みを上げる。
テメノスは、青年の厚い手を取った。鍛錬を重ねているからだろう、節くれだっていて豆のつぶれたり擦れた跡があるが、良い手だと思った。
「あなたのこと、私にもお守りさせてください」
テメノスが祝詞を唱えると、癒しの光粒が巻き起こり、宵闇を薄らと照らした。
若きリーダーは驚いたように瞬きを繰り返したが、ややあってテメノスと視線がかち合うと、そのまま固まってしまった。
「あ……」
青年の頬は、瞬く間に赤らんでゆく。そのまま蝋が蕩けるように、内包したテメノスの胸像が解けてゆく。不思議に思ったが、回復の魔法は身体の細胞を活性化させるとも言われているから、血の巡りが早まったことで、さまざまな反応が表れているのだろうとテメノスは結論づけた。
「安眠のまじないをかけておきましたよ。あなたも、今夜はよく休まないとね。リーダーですから、皆に弱みは見せられないでしょう?」
肩書を持つものの重みは、そのひとにしか分からないが、理解してやることはできる。テメノスが旅で見つけたことのひとつだ。彼が向き合い方を知るには、まだ年月が足りないだろう。
それでも、彼には仲間がいる。自分もほんの少しの期間だが、力になる。そのことを知ってほしかった。
動けないでいるような青年に向け、テメノスが茶化し気味にウインクすると、当人はまごつきかけたが、すっくと立ち上がる。
「……っ、おやすみなさい、テメノス様」
「ええ、おやすみ」
遠征はまだ続く。テメノスがかつて見た砂漠に建つ大きな城は、記憶と同じ形をしているだろうか。朱の似合う青年はテメノスに——否、仲間に見せるようなあの柔らかな微笑みをまたくれるだろうか。今はただ、淡い願いを抱いて、夜を越すだけだ。
指と指から、その間、柔い手のひらが触れ合うと、不思議と胸の芯が温かくなった。
巨壁の地下洞。二人は脆い橋の上の、偶然最後列を歩いていた。それが災いし、奈落へと吸い込まれてしまった。
暗闇の中杖の明かりを頼りに迷いに迷いながら、青い稲妻が猛獣の形をしたような魔物から遁走を図り、次には青いたてがみを持つ巨体の狼と対峙し——命からがら、散策の余力もなく、止むを得ず一晩を越すことにしたはいいが、酷くうなされていた様子のヒカリが飛び起き、なんとか彼を引き戻すという、過密な出来事の末に今に至る。
魔法と緊急時の回復薬のおかげで歩くのには難儀しないが、互いに酷い有様だった。
砂埃やら切り傷、乾いた血の跡が、ところどころにある。
『……ありがとう。テメノスよ』
彼が笑う。見たこともない、蕾が綻ぶようなかんばせは、黒く重々しい場に似つかわしくなく、綺麗だ。見るのも躊躇われた。
彼の手は握るというよりは包まれていた。テメノスはこの日をもって初めて、彼のそれが己より小さいのだと知った。肩を貸そうかと尋ねたいのに、これが最適解のように思えてならなかった。互いの繋ぎ目へとおもむろに視線を落とした彼は、テメノスに尋ねかけてくる。
『……なぜ、そなたはそこまでしてくれたのだ?』
テメノスは、努めていつもの、悠長なような言葉の組み合わせで、何か答えた。当たり前のことをしたまでだとか、これも務めだから、とかそんなところだろうか。
いつも、ヒカリは最前線で刀を振るってくれている。何があっても屈しない。彼の国を取り戻したいという本懐を成すべく、彼は彼の永き道を歩み続けている。
無類の強さを誇り、分け隔てない優しさを持つ彼が、優しさと矜持がために、ひとり苦しみ喘ぎ、弱っている姿を見て放っておけるとしたら、それは温い血の通った人間ではないのだ。それだけだし、きっと他の誰かの方がもっと上手くやるはずだった。
いいや、本音を言えば、誰も死なせたくなかった。取り返せぬ過ちが迫ったなら、テメノスは我を失ってしまうから、頭が空っぽになるまで詠唱を続け、その時ばかりは神への清廉で一途な願いを捧げることで彼を救い上げた。
テメノスの朧げな返答に、彼は柔らかい音色でいらえた。
『……ああ。俺にもその痛みは、分かる』
意外なことに、彼はテメノスの本音の方に答えた。密かに目を見張った。
『俺はこうしてここにいるのは、そなたの優しさのおかげだ』
この青年——ヒカリのこと、少し誤解していたようだ。彼は生真面目で、硬い男だと思っていたが、よくよく観察してみれば、思ったよりも感情が顔に出てくる。
その上、何もかもが堅牢で屈強なわけでもない。先ほどまでは酷く弱っていた。温い水のような汗で濡れた手のひらで、確かにテメノスに縋っていた。
彼が大国の使命を背負いし王子という肩書を持っていても、人間で、男で、心があって、時に間違いだって選び取るだろう。理想のために何かを失うだろうし、己の弱さに気付かされることもあるだろう。それでも彼の周りにはたくさんの友がいて、手を差し伸べたり、言葉をくれる。テメノスも、その大勢の一人だ。
静かになった後も、彼の口元はかすかに綻んでいた。テメノスは如何ともし難い、背中や腕が痒くなるような覚えがしたのち、どうしてか無性に後ろめたくなった。
『テメノス、テメノス』
ヒカリが呼んでいる。彼に腕を引かれてゆくと、冷たい風が頬を撫でた。目を凝らしても天井は歳限の無い闇だったが、杖の明かりを強めると、縄梯子がぶら下がっていた。仲間達がやってくれたものだろうと、すぐに分かった。
やっと、帰れるのだ。テメノスは思わず深いため息を吐いた。室内だろうと極寒のせいで白煙を噴かしているよう。軽くなった足を前に踏み締める。
『……待ってくれ』
ローブをひしと掴まれていた。振り返ってすぐ、ヒカリと寸分の狂いもなく目が合った。
彼と会ってからもう幾つの月も越しているから、彼の目が黒いことはよく知っている。テメノスの顔をくっきりと捉えて離さない澄んだ鏡面。熱を孕んだように揺れる様には、息を飲まされた。
彼の唇が、微かに震えた。
『テメノス。俺は、そなたを——』
◆
「……ん」
身じろぐと、頭の後ろが硬いことに気がついた。その割に背中から腿は温い。
——ああ、そうだ。ここは馬車の中。おぼつかない手を泳がせ、隣の固めておいた荷物を弄る。外で馬が嘶いた。潮騒も微かに聞こえる。
徐々に頭の奥がクリアになってゆく。テメノスは瞼を開けた。
「……あなた、随分とうなされていましたけれど。大丈夫?」
ぼんやりとした視界の中心には、赤みのかかったブロンドが伸びやかな貴婦人の姿があった。憂慮を湛えた面持ちでさほど距離もない、少し足を伸ばせば敷き詰まりそうな向かいの座席からテメノスを覗き込んでいた。
ああ、そう言えば。船をやっとこさ降りて、街の馬車を借りたは良かったが、先客がいたようで、相席することとなったのだ。
「すみません、最近、寝不足で。ついうたた寝を」
嘘は言っていない。冴えた思考に睡眠の不足は禁物だが、このところ、浅い眠りと心臓の騒がしさが夜に来て、その癖してまんじりともしていられない昼間に眠気が来る日が続いていた。
今もあくびを噛み殺すテメノスに、その婦人は長い脚を組み、長く蓄えた髪を撫ぜた。
ブロンドに似つかわしくない黒い瞳が上を向く。
「それはいけませんわ。カナルブラインの先は砂漠。殿方と言えど、少しの抜かりで暑さに飲まれてしまいますわ。自然の日光は手心というものを知りませんもの」
聞けば、婦人も砂漠町に用があるようで、テメノスと同様、港町で支度を整え、駱駝を借りて行く予定なのだという。
この馬車は少々値は貼るがお貴族様向けに自慢の駿馬とそれを動かす御者、背負うもの自体も頑丈な作りをしている。
テメノス一人ではまず乗れなかった。経費で落ちるからこその贅沢である。
「ええ……向こうの宿屋でよく眠ることにしますよ」
ソファと呼んでも差し支えない背もたれに浸かる。安宿のベッドの何倍も分厚い上、腰に優しい。心地が良かった。
「それが良いですわね。して、神官様はヒノエウマまで何の御用がありますの?」
「……分かりませんか?」
肩を竦めてみせたテメノスに、老人は喉の奥を使って笑った。髪も髭もお揃い色だが、細まった瞳は猫のように細やかな線を宿し、くっきりとした濃い色彩をしている。
「意地悪を言わないでちょうだい。さしずめ、聖火の教えを広めに行くのでしょう? 砂漠にまで尊い炎がお導きが届くと良いわね」
まあ、富裕層は何かと造詣が深い。言うまでもなく学舎に通い、読み書きの延長線を幅広く学べるからだ。
コルセットを巻いた、気品と優雅を調和させたドレスはニューデルスタのメインストリートを歩いていてもなんらおかしくはない。いつもの癖で観察しつつも、借問を投げかけた。
「そう言うあなたは、信徒で?」
貴婦人は「いいえ」と首を横に振った。
「あいにく、私は西出身で、違うのだけれど。神官の友人がいますの。ある程度は知っているのよ」
「なるほど」
老紳士は祈りの仕草を真似してみていたが、なるほど確かに正しいやり方だ。細かな動作にも虚言の証は見られない。
テメノスは静かに視線を這わせながら、女の白い肌によく際立つ濃い口紅が震える様を見た。
「して、経過は順調なのかしら」
「……それなりには」
膝上で擦りあっていた両の手が汗ばんでいる。窓辺には海岸が続いていた。星の丸さを現す無限の青が、湿った潮の風を駆り出し、窓に体当たりをする。
会話をなおざりにする気は向こうにはないのが受け取れて、テメノスは何とも複雑な思いを抱かざるを得ない。
「——それとは別に、何かあるみたいね」
女が突然声色を変えたので、テメノスは虚をつかれた。
「いえ、そんなことは」
胸の内では、確信をつかれたようで惑っている。少し気を抜いたせいだろうか。女はテメノスの手を白くてすらりとした腕を伸ばして挟み込む。
「神官様だって、胸の内を吐露したっていいじゃない。私でよければ聞きますから」
血管までうっすら見える胸元が側にある。むせ返るほどの香水の匂いが鼻をつく。テメノスは口端を引き攣らせた。
「……ご勘弁を、レディ。私めは口は硬いものでして」
テメノスはそれ以降、発した通りに石像が如く黙した。しかし女が諦める気配はない。次の瞬間には、その見てくれからは想像もつかないほど、指先を彼女自身の唇に辿らせ、鋭く微笑んだ。本能的な怖気のようなもので背筋がぞくりとした。
「私、後ろ向きな男は嫌いなのだけれど——でもそれだけ頑なとなれば、容易に推察できるわ」
「……なにがわかるというのです?」
隠そうとして滲み出るほど苛立ち始めたテメノスの顎は、女の爪先によって上を向かされた。
「分からない? あなたたちが最も突き放し、だけれども逃れられないヒトの本能」
挑発は仇となった。その先の言葉を聞きたくなくて、テメノスは女から逃れようとするが、女の腰を巻いていた皮ベルトが微塵も悟らせずに手首ふたつを締めていた。残るは、わなないている唇から、抵抗するしかない。
「言ってる意味が理解できかねます」
テメノスは頸を汗が舐めるのを覚えながら、反駁し、女を睨め付けた。
「馬鹿ね」化けの皮を剥いた女はにこやかに悪態を吐いた。みじろぎひとつも言い逃れも許さない圧があった。「意味なんて必要なの? 理解できたら、恋なんてしないでしょう」
床に何かが散らばった。絹糸の束にも見えたし、誰かの毛髪にも見えた。それがなんたるかを知る前に、深い溜息を吐き捨てた。
「……馬鹿げたことを言うな」睨め付けるにしては、不格好だった。唇も戦慄いている。「私は神官。ありえませんよ」
「あら」女は滑稽だと言わんばかりに肩を揺らす。「従順な使徒はやめたんじゃなかったのかしら」
いつ、それを口にしただろうか。何せあの旅からもう二年は経つ。あれほど鮮やかだった記憶も、緩やかな時が朧げにする。
「それでも……あるでしょう、守るべきことが」
「くだらないね」
女はたった一言で一蹴した。
テメノスもこれ以上は黙った。そうだろう。体裁なんてあったもんじゃない。何せ、自分はもう……
慣れたような手口でテメノスの荷物から一枚の書簡を抜き取った。歯噛みをするその間にも、丁重な封を解いて、テメノスの眼前に見せつける。
「これ、どうするつもり?」
それほど難しいことは書かれちゃいない。城下町に現在建設途中の白い教会。フレイムチャーチに立つそれよりかは、景観や環境に合わせて構造が異なるが、それでも灯火の象徴が刻まれている。あそこに審問官として在籍する意思はあるのかそれだけ問うている。ただし、署名欄は空白だった。期限はもう半月も持たない。このプロジェクトを共にこなしてきた仲間達は、テメノスがやってくると信じてやまないし、上司達はテメノスがなぜ承諾しないのか首を捻っていることだろう。
思えば、長いようで短かった。ニューデルスタで新たな輝かしい星の誕生を盛大に祝い、皆で飲み交わし、笑い合ったあの日から二年近く経つのは、瞬きと同じくらいの速度だった。テメノスはあいも変わらず紅葉の街で仕事をこなし、日々を緩やかに費やす。異端審問官としての業務は歳月と共に減り、子どもたちの相手や奉仕作業などが大抵を占めていた。
平穏は時折毒のように感じる。何も考えなくても良い時間が得体の知れない不安を燻らせる。ところが相反して、変わらぬこそが幸福なのだと噛み締めてもいる。
そんな時だった。テメノスの元に突として教会から呼び出しがかかった。聖堂を訪うと、イェルクから代わった教皇が待っていた。着慣れているはずのキャソックの襟元が締まる覚えがしたが、従順な信徒の佇まいを心掛けて彼の後ろについた。
他の教会の司祭や司教の老人達が殆どだが、聖堂騎士の姿もあった。テメノスの家にやって来て、依頼を寄越していたが最近は仕事の愚痴も口にするようになったオルトの姿もある。おそらく招致されてきたのだろう。数年前では考えられないことだが、聖堂機関の淀たるカルディナ派の人間が追放され、風向きが大きく変わったことで、二つの組織間の溝は解消されつつあった。
そんな事情は噂に目敏い同僚やオルトから聞いていたから頭では理解できていた。
機会が訪うとはテメノスは促されるままマホガニー製の椅子に腰を据え、始まりを待った。
話はこうだった。聖火の尊い教えがソリスティアに広く届くよう、使徒たちは毎年巡礼と布教の旅を続けてきた。特に西は、いまだエルフリックの炎の清らかな輝きを知らぬものたちが決して少なくない。理由としては、その土地の厳しさや、人々の認識の壁が厚いなど様々である。
しかし——海を越え、西大陸の南部、ヒノエウマの大国では、内乱が勃発しているという噂が教会にも届いてきた。追放されたという第二王子が王冠を勝ち取ったというのも、春の訪れと共にやってきた。長らくの独裁は撤廃、新たな若き王子は民を友とし、国を戦のない平和の未来へと導くことを掲げているという。
街の復興は着々と進められており、他国の事業との連携を重ね、入国の規制も緩和されている。試しに神官が数名、街に潜り込んだが、物珍しそうにはされたが、問題なかったという。
彼らによると、城下町の方は内乱による戦火の跡が色濃く残っていることは勿論、親を亡くした子供、元より民から搾取する圧政が祟り、捨て子や身寄りのない子供は決して少なくはない。今は主に領主らと共同で神官達が補佐をしているが、活力有り余る少年少女にとっては咄嗟に用意した一戸建ては窮屈であった。衣食は役人達の力を借りているものの、やっぱり人手と然るべき住処——孤児院、願わくば教会で子供達の健やかな成長を見守り、助け、大人になるその時まで尽くすべきだろう。
教会の上層部はこれを好機と捉え、クの現王との接触を図った。
重臣たる偉丈夫に用件を告げ、書簡を渡そうとしたが、ヒカリと直接謁見することとなった。彼は聖火教に対するある程度の理解があるようで、話は拍子抜けするほど円滑に進んだという。異国の存在である若い遣いの男に対しても、驚くほど親しみ込めて話してくる。
一度使節を連れてくるようにと勧められ、帰りの資源まで積んでくれたという。男は砂漠の地までは過酷を極めたし、課せられた任も気が重かったが、そんな所感はすっかり抜けてしまったという。
布教団を結成するなら次もどうか自分を——と報告書片手に私情を口にする男を尻目に、老人達の注目はテメノスに集まり出した。自身と殿下の間柄は、彼らには知れ渡っているらしかった。遠く離れた地、その上かつてはにべもなく聖火を拒んだ砂国において、現王の聖火教に関する寛容さはテメノスの影響によるものだろうと名前もあやふやな髭長の老男は言う。
「——であれば、此度の布教団を率いるのは、テメノス・ミストラルが相応しい」
色素の薄い髪の縮れた細身の老男が、歌い上げるように言う。
彼は異端審問官としての命で、ソリスティアを旅をした経歴がある。厳しい砂漠の地にも慣れている。教徒の証たる光魔法や聖典の扱いも申し分ない。そうでしたね、オルト副機関長?
テメノスはオルトの方角を見やった。彼は堂々としていた。こうしてみるとまだまだ若く見える。最近は適度な休息が取れているからなのか、仕事が落ち着いてきたからなのか、肌艶が回復していた。
オルトは高らかに言う。「ええ。彼が適任ですとも。俺はこれまで彼に助けられてきた。聡明であり、いかなる時も冷静な判断が下せる男だ。忍耐力もある。是非とも彼を推薦させてくれ。聖堂騎士団からも護衛を数名送り込もう」
買い被りすぎだ。胸を張りすぎて反れそうなほど、オルトは自身ありげだった。もはや調子に乗っていると言っても良い。月影教の残党の取り締まりで何度か行動を共にしてきたが、どういうわけかニューデルスタの集まりでも仲間に呼ばれる直前までついてきた男だ。親近感のようなものを持たれ続けている気がする。
反応しあぐねているテメノスであったが、教皇が腰を上げたことで、一瞬で静まり返る。
「テメノス異端審問官は今は亡きイェルクの意志を継ぎ、多くを成し遂げてくれた……テメノスよ、どうか君が闇を暴くために旅で得た強さとその優れた知性や慧眼で今度は若きもの達を導いてはくれないか。さすれば、エルフリック様の尊い教えが、砂国の救いを希う者たちの導となろう」
皆皆一様に諾い、祈りの所作を見せた。そんなに理由を押し並べなくとも、テメノスはどのみち、飲み込むしかないのだ。
かくしてテメノスは、久々に故郷へ暫しのいとまを告げた。
教会側が設えた馬車には聖堂騎士が三名——彼らは御者も兼任し、オルトに託されて護衛も担う。そして若い神官が五名ほどで、男も女もいる。全員テメノスの知らない顔ぶれだった。
引率者の責任感に背中を押されたテメノスはまず、彼らにそれぞれ旅の経験はあるのか、と尋ねてみた。聖堂騎士は任務であちこち駆り出されるが、西の経験は少なく、同職は東の巡礼なら少し、というくらいだった。
テメノスは彼らのために大きな地図を広げ、具体的な経路を示した。まずはニューデルスタの船を経由してカナルブラインへ。そこで砂漠地帯に向けた準備を念入りに行う。
港町に辿り着くまでは順調だった。魔物も居たが、聖堂騎士が次々屠っていくためテメノスが出る幕もなかった。
テメノスは馬車の中で後輩神官たちと色んな話をした。「あんた、ソリスティア中を旅してたんだって?」「凄いなあ、あたし、田舎住みだから、フレイムチャーチに辿り着くのにも迷っちゃって」「ク国もそうだけど、ヒノエウマの話はこちらではあまり聞かないわね。どんな場所なのかしら」あれこれ聞いてくるものもいたが、興味はありそうだったが少し離れたところで耳を傾けたり、大人しく読書に耽って耳を傾けているものもいた。
どうやら彼らは砂漠町への遠征、現地の神官の支援を募っていたので自ら志願したり、司祭に勧められたり、とさまざまらしい。
テメノスは深く詮索するのはやめた。その辺りはゆっくり知っていけば良い。
ゆえに自分の話を主体にした。かつて国を取り戻すことを使命にしていたヒカリと長く旅をしていたのだと言えば、若者達は目を丸くした。
クに教会が建つかもしれない、その可能性は彼らの中で半信半疑だったのだろう。こうして現実的になってきたことで、テメノスは質問攻めにあった。
「……ヒカリ殿下はどんなお人なんでしょうか?」
その問いかけに、テメノスは眼裏から甦らすように彼のことを思い出した。同時に、懐かしさも一緒に込み上げてくる。
フレイムチャーチを旅立つ手前、聖火に異を唱える厄介者に出くわしたテメノスであったが、その助けをしてくれたのがヒカリだった。迷いなき太刀筋は目を奪われるほど流麗で、テメノスは感嘆の深い溜息を溢してしまったのをよく覚えている。自ら巻き起こしたような木枯らしが散り散りになり、目に焼きつく朱い装束と、ここでは珍しい黒髪が枯葉に紛れてはためいた。すでに何人かの仲間を連れていた彼は、テメノスを酒場に誘うと、自分たちはモンテワイズを目指しているのだと打ち明けた。目的が気になったが、テメノスについて聞かれたのでいくつかかいつまんで教えた。彼は口数がさほど多いわけではなく、テメノスが長たらしく語っても気にするそぶりを見せることなく相槌を打つ。
加えて彼は酒を頼むまでは成人にも見えないほどの顔立ちと体格だったが(テメノスも類稀な童顔の持ち主ではあるが西の砂漠地帯の者たちは顔立ちが幼く見られがちである)、深く響くような言葉の繰り方は大人びていたし、所作は包み隠しきれぬ気品が滲み出ていた。特に彼の故郷に対する含蓄に富んでいた。時折見せる柔らかい微笑みは、彼の不思議な親しみを表している。テメノスはつい彼から旅について聞いてみたくなって、目的も忘れて長居をしてしまった。店を出て、このまま別れるのをどこか惜しむ自身へ、彼は確信を持ったような手を差し伸べた。
この時、テメノスの中に躊躇いはほとんどなかった。一人旅は不安があったし、彼ほど強ければ頼りになる。他の商人や踊子、薬師の女性も、根底的に善人だ。個々の能力も高く、上手く補い合っている。
深い動機もなくテメノスは彼らとの旅を始めた。最終的な輪は八つとなり、相談ののち別行動もあったが、一人もかけずに集まる時が必ずあった。職業も住む土地も異なる者たちは、別々の地点を目指しながら、互いの道を手伝うことをよくした。歓喜し、驚愕し、挫け、絶望に打ちひしがれてもなお、独りということはなかった。奇妙な縁だったが、終点はひとつだった。
ヒカリのことだが、出会って以来見てきた所感を端的に述べるのは難しいが、あえて表すなら、尊い人だと思う。天道のように手に届かないほどの高みにあるが、その輝きは優しい。
「私の知る彼は、とても優しい方でしたよ。よく祖国にまつわる色々や、友の話を聞かせてくれました。神官の魔法や祈り方を教えたこともあります」
語ることがありすぎるというのも困りものだった。多くを切り取った無難な返答にしてみたのだが、深掘りを求められることはなかった。
若者たちは自分たちに課せられたものの重さだったり、展望だったりとを天秤にかけることや、検討を繰り返す方に気を取られている様子。上層部がなんと達したのかは詳らかには分からないが、教会の建設が本決まりになれば、彼らをそのまま現地の神官として採用することは、十分にあり得るだろう。
彼らをそっとしてやりながら、テメノスは一面の砂景色や、そこにある街並みや人のこと、そしてそれらを導く一人の青年のことをまだ考えていた。
彼と共に砂国を取り戻す手助けができたことを、テメノスは今も誇りに思っていた。
そこに辿り着くまでも、将軍との戦い、ムゲンの奸計で追い詰められたライ・メイの電撃によって橋に転落したという時は、テメノスもいてもたってもいられず駆けつけた。握った手のひらの冷たさに息を呑んだが、必死になって回復魔法を行使した。目を覚ましたのを認めた時、どれほど安堵したか分からない。キャスティが駆けつけるまで、治しきれなかった分の手当てを続けた。一緒に牢に篭る自分を、城主は当惑する目で見ていたが、構わなかった。
聳えていた苦難さえ乗り越え、王子は最後の決戦の地へ赴く。頼もしき仲間を連れて。
未来を託した友や、ムゲンを倒し、そして陰を制した彼はついに王冠を戴く。されどすぐに放り捨てた彼は民へと手を振り、暫くしてから、黒山では浮いているテメノスを見た。手を振りかえしたが、いまだにあの意味を知らずにいる。時間が経つほど、偶然か、他の仲間を見ていたのではないかと思えてくる。
血に塗れた過去を抱く大国の未来は彼の手にかかっている。若き彼が背負うには、大きいが、テメノスはこれまで彼の強さを見てきた。どれだけ失い、裏切られたとしても、彼は理想を見失わない。大丈夫。彼は独りじゃない。これからは、仲間や、従来の友や支えてくれる人達がいる。
だからテメノスは彼に向け、砂漠の青い空に似つかわしい晴れやかな心持ちを掲げ、手を振ったのだが、気付いてもらえたろうか。造花が降り始め、人々が思い思いが激励として交じって、よく分からなかった。
ヒカリとはあまり手紙のやり取りをしていない。当然顔もこの二年間に合わせていないわけだから、久々の再会ということになる。
他の仲間にしていたように、悠長なふうに接したらいい。変に畏まるのを嫌う男なのをよく知っている。
後輩達の半数は引率役のテメノスに打ち解けつつあった。入れ替わりの聖堂騎士らも、テメノスの話には興味深そうに頷いたり、質問をくれたりした。
少し離れた位置では、成人にも満たないほどの稚気のある神官の少女が一人様子を伺っていたが、声をかけると少しずつ馴染んでいった。ただ、唯一、頑なにこちらに顔を向けず、読書に勤しむ神官がいた。横顔を隠す栗色の髪は手入れをしていないのか鎖骨まで伸びており、外からでも傷んでいるのが分かるほどだ。着ていた神官服は幾つも縫い直した痕があり、生地が黒ずんで見える。視線をやるとあからさまに逸らされた。テメノスは頭に浮かぶあらゆる可能性を検討したが、今は様子見に止めた。
港町を後にし、砂漠に出てからは、テメノスの魔法が重宝された。容赦ない日照りが、聖堂騎士たちの体力を奪っていき、隙がないと思われた隊列に乱れが見え始めたのだ。
ペースを落とすよう促しつつ、テメノスも戦線に出た。宿場やサイの街までの魔物群であれば光魔法で屠るのは自身であれば容易い。光明魔法ひとつをローコストで打ち出すだけで良いのは、テメノス達が沢山迷い、二度も三度も同じ地を訪れ、自ずと鍛え上げられてきたから。今は彼らを送り届けるのに役に立つ。
テメノスとて久々の遠征だ。魔力がごっそり減ったような感覚は無いが、後々身体に出てくることもある。早めの野営の支度を始めた。諸々見越して用意しておいた熱に強い乾燥した肉や缶詰などを使い、塩味の強いスープを作った。水場が記憶の通り見つかったのが大きく貢献して、パスタもたっぷり茹でておく。
記憶にあった料理上手な仲間の助言を参考にし、具が控えめな分調味料を凝らす。
やがて陽が沈んでから時間が経つにつれ、辺りはたちどころに冷え始め、神官達はぶるりと震えて用意していた厚手の寝衣に身を包んだら、テントの中に引っ込んでいった。
「……どうかしましたか?」
読書家の小柄な少年だけが、立ち尽くしていた。最も、途中から読む本も無くなったのか、目元さえ髪で覆い隠し、窓辺に張り付いているだけだった。さりげなく観察していたが、時折密かにため息ををついており、表情は希薄だが、どこか鬱屈としたものを醸しているせいで、誰も構わない。
「何かお困りなら、私に話してみませんか」
後輩達の心身のケアをするのも、テメノスの今の仕事の一環だ。やれと言われたわけではないが、ク国に彼らを連れて行くのに、暗い顔をしていては、心証が良くないし、テメノス自身もそれではいけないと思う。新天地にクを選ぶにしてもしないにしても、この遠征が記憶に残る時、良いものであってほしい。お節介で独りよがりな願いだとしても、テメノスは出来うる限りをするつもりだ。
「……」
そばかすのある顔は血色が悪く、身体も痩せ細っている。
テメノスが伺いつつ腕に触れると、彼は素早く払った。テメノスはそのほんの僅かな間の所作を注視したが、その必要もなかった。指先がかろうじて飛び出すほど薄地の袖が動作の拍子に捲れ、手首や腕が露わになっていた。思わず目を見張った。
「あなた、それは……」
夥しい傷跡——彼は咄嗟に隠したが、あれは切り傷だ。神官の回復魔法なら簡単に治せるし、特に傷を受けてすぐは跡が残ることもないはず。ところが彼にはたくさんの古い跡がある。不可解なのはそれだけじゃない。何度もつけては書き換えているように映るのはなぜか。
「……なんでもありません」
彼の名は確かリオと、名簿に書かれていたはずだ。少年は搾り出したように唇を震わせると、不恰好に駆けるとテントの奥へと消えてしまった。後を追う間もない。テメノスは止むを得ず踵を返した。
別のテントをそっと覗くと、聖堂騎士達が既に水分補給と食事を済ませ、簡易ベッドで横になっていた。回復魔法で癒せるのは傷や苦痛くらいのもので、身体に深く刻まれた疲労は緩和させるくらいしか出来ない。テメノスも夜の晩を請け負い、彼らには十分に体を休めてもらいたいところである。
テメノスは船を漕ぎかけていた騎士に代わり、焚いた火の煙が立ち上る先——濃紫の天井を仰いだ。月は小さく、星空は溢れそうなほど数多にある。白湯を少し飲みながら、見張りの番を緩やかに担い続けた。
しばらくすると、一人の聖堂騎士がテメノスに声を掛けてきた。
「眠れませんか」とテメノスが振り返らずに穏やかに訊けば、青年は困ったように頬を掻いた。騎士達は皆若手だ。カルディナに傾倒していた人間は組織から外されており、その関係もある。男は赤茶色の髪に榛色の目、目尻が垂れているためか、柔和そうな印象を受けるが、これでも若き戦士の中ではリーダーを務めている。
「テメノス様……申し訳ございません。あなた様の手を煩わせてしまった上に、見張りまで」
自分なりの心遣いとしてすっきりとした飲み口の紅茶を淹れてやることにした。珈琲にしても良かったが、個人的には飲み過ぎると安眠の妨げになる。
「構いませんよ。これも仕事ですから。特にあなた方は、初めての環境の中ですから、無理をせず、少しずつ慣らしていくと良いですよ」
笑いかけると、彼は「あなたは、お優しいですね」とはにかみながら言った。
聖堂騎士もさまざまだが、彼はしっかりしてそうだ。こう言う類の若者は、数年前のテメノスなら少し揶揄っていたかもしれない。
「最初から上手くやれる人の方が少ないもんですよ。私だって、体力がある方ではありませんでしたし、仲間の助力があってこそでした」
生まれた土地であるヒカリは勿論のこと、薬師のキャスティも慣れた様子だったため頼もしいことこの上なかった。
当時、自分はほとんど後衛で支援していただけであり、宿場に着く頃には伸びていたくらいである。
「今は、私があなた方を助ける側になったというだけです。どうぞ頼ってください。杖で殴れば魔力が吸い放題ですし、魔法だったらたくさん撃てますよ」
立てかけてあった杖を撫でると、青年は反応に困っているのか、口元は笑うのかなにか言うのか、どっちつかずの曖昧ぶりを見せた。
構わず、テメノスは続けた。
「ああ勿論、タダではいかないかも。オルトくんのツケで良いですね」
大事なことを事前に教えてくれなかったオルトのことを今も少し根に持っている、なんて。今度冗談めかして突いてやるのも悪くない。
「この間突然来て私に朝食を作れと言ってきたことを思えば、おあいこです」
まあ、臨時に回ってきた仕事を消化してきたらしく、随分とくたびれていたことと、テメノスも休暇にやることがなかったため、そこまで気にしちゃいないが。
「その時の彼と言ったら、随分と酷いものでね。鎧も脱がないで玄関でうつ伏せになって、腹が減ったって言うんですよ。一体何轍していたのか。凛々しい髪もすっかりふうらい草です。ほら、ここらの砂漠にもいたでしょう?」
ついべらべらと喋ってしまう。彼の引き締まった顔が崩れ、慌てる姿を浮かべていると、赤茶色の前髪を片手でくしゃくしゃにして、騎士は喉の奥からひり出したみたいに笑う。
「す、すみません。そんなことを言う神官様は、初めてで……」
ツボにはまったらしく、冷めた紅茶をあおることでなんとか治めていた。テメノスが背中を刺すってやると、ひとこと礼をして、 何だか改まったようにまじまじと見てくる。
「オルトさんから聞いてます。前機関長を告発したのはあなただって……そのために旅をしていたのですよね」
「おや、そこまでご存知だったのですね」
テメノスは意外に思った。オルトにこの手の話を広めないよう頼んだわけでもないし、聖堂機関の沽券的にも望ましくないので、知っている人間は数少ないか、噂程度だと思ってきた。
「テメノス様の話をよくしてくれますから。彼があなたを特別に思うのも分かります。あなたなくしては、聖堂機関の今はなかったでしょうから……」
オルトがテメノスを構うのは、案外複雑な所以からきている。
正しい道を選んだクリックに対する負い目や、名状の難しい責任感、彼への入り組んだ想いをテメノスに重ねているのだ。
ただそれも、互いそのものに向けた友好で築きつつあることを、テメノスは感じ始めていた。
「私は、すべきことをしたまでですよ」
テメノスはカルディナのもとに漕ぎ着け、断罪したことが、己の成果だとは微塵も思わない。
友人たちが導いた道を、この足で歩き明かしただけだ。
「……俺、オルトさんから直々に与えられた任務ですから、どうしても上手くやりたくて。焦っていたかもしれません」
なるほど、オルト直属の部下ともなれば、ある程度信頼もあるのだろう。よくよく改めて考えれば、彼が送り込んでくるのだから当然でもあるのかもしれない。
「まだ入って五年も経ってませんけど、ここが俺の居場所って感じがするんです。だから、みんなの役に立ちたい」
若者の眼は、希望を宿していた。もう舞台の外にいるテメノスは、彼のようにはなれないと思った。テメノスの
「……立派じゃないですか」
夜のしじまに響かない程度に手を叩く。テメノスが彼と同じ年頃に、ここまで真面目であったろうか。ただ従順な信徒で、信念も足りなかった。
羨ましくはない。只々、眩しい。オルト以外の聖堂騎士とは別段関わってこなかったテメノスではあるが、新しい銀甲冑の彼らは赤茶髪の青年に限らず皆爽やかだ。傲慢でもない上、言動の節々に敬意がこもっている。テメノスは感情そのままを示すのは苦手なのでしないが、彼らには好感を抱いているのは確かだ。
「最初から成功するほうが、稀です。大切なのは、過ちを無駄にしないことです……どうか、自分の歩幅で、励んでください」
己は、間違い過ぎてしまった。それでも這いつくばって何度でも立ち上がって今ここにいる。
過去となって収束するそれらは、変わらない記憶となり、なぞり続け、平穏の中で息をし続けている。テメノスにはそれが合っている。
——なのに、なぜだろう。しこりのような違和感が、時折テメノスの胸の隅で軋みを上げる。
テメノスは、青年の厚い手を取った。鍛錬を重ねているからだろう、節くれだっていて豆のつぶれたり擦れた跡があるが、良い手だと思った。
「あなたのこと、私にもお守りさせてください」
テメノスが祝詞を唱えると、癒しの光粒が巻き起こり、宵闇を薄らと照らした。
若きリーダーは驚いたように瞬きを繰り返したが、ややあってテメノスと視線がかち合うと、そのまま固まってしまった。
「あ……」
青年の頬は、瞬く間に赤らんでゆく。そのまま蝋が蕩けるように、内包したテメノスの胸像が解けてゆく。不思議に思ったが、回復の魔法は身体の細胞を活性化させるとも言われているから、血の巡りが早まったことで、さまざまな反応が表れているのだろうとテメノスは結論づけた。
「安眠のまじないをかけておきましたよ。あなたも、今夜はよく休まないとね。リーダーですから、皆に弱みは見せられないでしょう?」
肩書を持つものの重みは、そのひとにしか分からないが、理解してやることはできる。テメノスが旅で見つけたことのひとつだ。彼が向き合い方を知るには、まだ年月が足りないだろう。
それでも、彼には仲間がいる。自分もほんの少しの期間だが、力になる。そのことを知ってほしかった。
動けないでいるような青年に向け、テメノスが茶化し気味にウインクすると、当人はまごつきかけたが、すっくと立ち上がる。
「……っ、おやすみなさい、テメノス様」
「ええ、おやすみ」
遠征はまだ続く。テメノスがかつて見た砂漠に建つ大きな城は、記憶と同じ形をしているだろうか。朱の似合う青年はテメノスに——否、仲間に見せるようなあの柔らかな微笑みをまたくれるだろうか。今はただ、淡い願いを抱いて、夜を越すだけだ。
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