探偵と黒猫(仮)

「その子、可愛いね」
ソローネは随分と慎重ぶった五指で子猫を撫でた。すごいふわふわ、と目を輝かせるが、テメノスが覗き込むと気恥ずかしいのか咳払いした。
テメノスもまた、張り詰めていたものが綻ぶ覚えがしていた。
静止した時間が再び動き出しているという実感が立ち所に降り注いでくる。壊された建物も木々も、すべて在るべき姿に戻されている。妖獣が去ると毎度こうだった。
この身は消耗し切っているのは不変だが、子猫を撫でるくらいはなんてことは無かった。背中から尾の付け根にかけて、しなやかな身体を確かめるように触れた。嬉しそうに尻尾が揺れている。
「……可愛いだけじゃないですよ。優しい子なんです。それに、この子があなたが来るまでの時間を稼いでくれた」
こんなに人間に身を預けて眠ってしまう猫というのも珍しい、と思う反面、あれだけのことがあったのだ、それに怪我もある。この重みをしかと受け止めてやるのが今自身にできる唯一のことだった。
ソローネは興味深げに猫を観察していた。というよりかは、もっと触りたくてうずうずしていた。
「……へえ、そいつは聡い。見たところ、野良っぽいけど、飼い猫だったりすんのかな」
「どうでしょうかね。怪我をしていたので急いで病院に連れて行きましたが……あ」
ふと、思い返す。もしかしたら、あの腹の傷は狼型の妖獣にやられたものなのかもしれない。爪痕のような形跡であったことと、黒猫が長らく怯えていたことを踏まえると確度はそこそこといったところか。
「そんな時でも考え事? 随分と悠長だね」
テメノスは苦く笑った。人気が少ないとはいえ、街中のベンチで猫を抱き抱えて頽れている男というのは、構われはせずとも珍妙に映るだろう。
「いえ。ところでソローネ君。私今歩けないので、自宅まで送っていただけませんか?」
言えば、彼女はテメノスの伸ばした腕を引いた。しかし、うまく力が入らず、よろけて腰を打ちかけた。呆れたようなため息がひとつ。
「立てもしないじゃんか。足打ったの?」
ソローネにはテメノスの戦い方は明かしていない。そもそも妖獣でさえ、彼女は対面するのが初めてだった。
「まあ、そんなところです」
巻き込む気は無い——だが、頭はとうに理解していた。今に限らず、彼女の助力はこれまで以上に必要なのだと。
「嘘をつかない」手心無しに鼻先を摘まれた。くぐもった声で何か言うと中々間抜けだ。息を吹き返したことで新品のような灯りを届かせる街灯の下でのソローネの面持ちはくっきり見える。思い切り、顔を顰めていた。
「あの化け物の方をぶち抜いたのはあんたでしょ。銃じゃああはならない。何をしたの?」
自分に退路は無いのだとテメノスは早々に悟った。ソローネは私情に左右されない人間だ。その点は本当にテメノスとしては有り難くもあり、信用に値する。もし本当に危うければ、テメノスを置いて退くことができる。分かっているが、皮肉にも、時間を重ねるほどその確信は薄らいでいく。
黒猫を抱いていない方の手を弱々しい体で掲げる。
「……その点も含めて、諸々家でお話しします」
目を合わせているうち、ソローネは納得したのか、身を屈ませてきた。
「その子もいるし、二人まとめて運ぶなら恥ずかしい抱え方・・・・・・・・するのが一番早いけど、どうする?」
そもそも細身とは言えど、とっくに成人済みの男を抱えられる気でいるのがこの女の強かさである。少し頭を巡らせ、あの抱き抱え方は名前のせいで羞恥が増すのでは無いかと言う結論に行き着いたが、ともかく、首を横に振った。
「それはお控え願いたいですね」
「私も」ソローネは口紅で鮮やかな唇を吊らせてにやりとした。揶揄っていたつもりなのだろう。敢えて気安くする女ではあった。互いにそちらの方が楽というのもある。
「んじゃ、車こっちまで動かすから、待ってて」
肩を貸してもらいながら助手席に収まった。独特のフレグランスの香りが染み付いているのが、なんだか久方振りを越してもはや懐かしい。彼女の趣味なのか、動物の飾りもぶら下がっていた。猫を抱いたまま、揺れは少ないがネオンサインの絶えない夜道から人のはみ出てくる隘路までを潜り抜けてゆく。最短ルートだった。
「……ソローネ君」
ラジオもテレビも切ってあるからか、車内は静かだった。昼間は篠突いていた雨も、今は小降りで、耳を澄ませなくては分からない。住宅街までくると、猫の寝息が詳らかになるくらいには。もうすっかり膝が温まっている。
ソローネは十字路を見渡しながら、「なにさ」と返した。停止するとエンジンが大人しくなるタイプの車だ。発進したのを見計らって、テメノスは再び口火を切った。
「助けに来てくださって、ありがとうございました」
彼女はなにも言わなかった。満更でもないような顔つきどころか、険しくなっていくので、テメノスは身構えた。
「あんたが警官辞めたのは、死ぬためなの?」
「いいえ」
即座に首を振ったが、テメノスが命を落とす時が来るとすれば、使命を果たす時だろう——そういう意味では、正しいのかもしれない。
「だったら、自分の命は大事に扱いな。あの化け物のことだって、わざと私に黙ってたんでしょ。馬鹿みたい」
反芻して、奥歯を噛んだ。じっと噛み締めていたと言っても良い。
妖獣の実態、聖典に関しては黙ってたわけじゃないが、意図して近づけなかったのは本当だ。
互いの領分を理解していたからこその、暗黙の了解だった。だからこれは、実のところ、これは彼女の感情が揺れ動いていることを示していた。
確信する。彼女は、テメノスを捨て置けない。
「……男は馬鹿ですよ、みんな」
どこかから借りたような台詞を返すと、拗れようが遅れて自分のところまで反響する。ソローネは深い吐息を漏らした。バックミラー越しの目元は呆れを呈していた。
そう、テメノスは馬鹿みたいに、縋って、争うしかないのだ。一つだけしか見られない。
「あんたは賢しくしぶとい類だと思うけど」
肩を竦める。その通りではあるが、同時に愚かでもある。だからどちらでもというのが正しい。
「……そうかもしれませんね」
窓の隅から、自宅が見えてきた。最寄りの駅から十五分の、どこにでもあるアパート。
慣れたハンドリングで狭い駐車スペースにに納めたが、ソローネがエンジンを切らずに、横目でテメノスを見遣った。
「化け物の首輪、私が嵌められてたやつとおんなじ形状だった」
シートベルトを外したテメノスはこの目を瞬かせていた。己は当時よく見られなかったが、ソローネが言い切るのであれば確度は高いのだろう。
「妖獣の奴らが、飼い主が蛇の首領と繋がってるかもしれない」
奇しくも、二人の道筋は交わってしまったということか。複雑に思わないはずがなかった。窓辺に映る自分の顔は、冴えなかった。
「蛇を支配する人物、ですか。あなたの言うマザーでも、ファーザーでもなく」
元内部の人間だった彼女はおろか、父や母も知らないとなると、よほど秘匿された存在だったということか。
テメノスは思慮に耽りそうになっていたが、ソローネが苦虫を噛み潰したような顔を見せたので続きを促した。そうだ。父を相手してからの彼女はぼろぼろだった。激戦だったという以上に、しばらく口も聞けない状態だった。
——私の本当の父親がいるって。訳わかんないよね。
彼女が転がり込んできて、最初に沈黙を破った言葉がこれだったのをテメノスはずっと覚えていた。
「……まだ、会えてないし、聞かされてただけで碌に手がかりもなかったけど……もしかすれば、辿り着けるかも」
「しかし、この先は……」
命が脅かされるのだ。妖獣とも何度相対するか定かでない。過ぎた言葉を頭の中で繰り返した末に、口篭ってしまった自身を咎めるでもなく、ソローネはただ横目で見遣るだけだった。
「立ち止まれないのはお互い様だし、死んだら終わりだ。だったら、合理的な方を選ぶべき」
自分も彼女も大概、こういう時に遠回りする。頭は回るので言いたいことは分かるが、心の機微までは読めない。
「……つまり?」
「言わせる気?」
ソローネの枷になりたくなかった。それがテメノスの本音だった。
だが、すげなく断ることも同等かそれ以上にテメノスにはできなかった。誤魔化したとて、彼女の言いたいことも望みももう分かっていた。
互いの利益のために。それだけではない。
「まだ、猫さんに確認できていませんね」
神妙でいるのもそう長くは保たない。ずっしりと膝を占領する猫の固く閉ざされた瞳と瞳の間を撫ぜてみる。手の甲に細く伸びた髭が触れてこっちもこそばゆい。
テメノスの言葉の意味を図りかねたのか、ソローネは眉間に皺を作った。
「……そういえばその子、どうして巻き込まれてたの?」
「妖獣に狙われていたのですよ。心臓を」
心臓を寄越せ。その事を執拗に口にしていたかの狼は、今思えば焦燥さえ滲ませていた。
今更思い出したように、ソローネは腕を組む。
「ああ、そういえば。なんでなの?」
狼と小さな猫の関係性は、全く当たりもつけられない。ただ、あの妖獣にとって猫は特異な存在だったことは確かだ。
「私にも、よく分かっていません。けれどこのまま、彼を放っておくことはできかねます」
胸打たれていなかったと言われると、嘘になる。テメノスを守ろうとした彼の姿勢は本物だった。
目を覚ましたら、ご飯に薬を混ぜてやらねば。どうしたって、見てくれ以上に大きなこの猫を、見捨てたくなかった。
ソローネには妙なものを見る目を向けられたが、それでも構わなかった。
「……あの狼は、あの後どうなったのかよく分かってないけど。妖獣って、みんなあんななの? それともあいつだけ特別?」
そんなわけない。カルディナでさえ、言語を水に溶かしたように獣一色に染まったのだから。
「妖獣は厄介ですが、対話ができる個体は初めてですよ。手がかりにもなるかもしれない」
屈服させ、いざという時は尋問する。黒猫を狙い、テメノスも殺す気でいるならまた姿を現す可能性は高い。
「あんたね……」
気色ばんだソローネが怒る理由は分かっている。人差し指を自身の唇に当てがった。猫が起きてしまう。
黒猫を利用していないと言えば嘘になる。それでも守りたいと思うのも本物だった。矛盾と複雑だらけだ。
それから——生きなくては、この体を動かさせなくては本懐は果たせないということも、分かっている。
「無謀はしません。ただ、護身に銃は譲って欲しいです……痛っ」
額を指で弾かれた。じんわりと痛みが襲ってくる。エンジンキーを引き抜き、ソローネは素早くドアを開け放った。
「全く。動けなくなってる癖に口だけは達者だね」
どこか苛立っているように見えるが、肩は貸してくれるらしい。
そんじょそこらの女人とは訳が違うソローネは、結局回避したかったあの抱え方・・・・・をテメノスに実行してきた。 年若い美女が三十路の男と猫を軽々と抱えている様など、目に入れていいものじゃない——深夜近くのためか人には見られなかったのは幸いだった。
居間に入ってすぐ、簡素なソファに放り投げられるかと思ったが、猫を気遣ったのか丁寧に乗せられ、毛布を被せてきた。
「冷蔵庫借りる」
テメノスが了承するより先んじて、ソローネは勝手知ったる、という風に一人暮らしの独身男には手頃な大きさの箱の中身を確かめていた。
暫く自炊はしてないのだ。碌なものは入っていない。
無遠慮に台所の棚まで手をつけて漁り出すソローネを、テメノスは叱りたい気もしたが、今夜限りは良いように思えた。それは後ろめたいからなのかもしれないし、テメノスの気を和らげたいだけなのだろうが、それでも構わなかった。
手持ちご無沙汰になったテメノスは、穴が空いて擦り切れた革鞄を見遣った。愛着があった代物だが、もう使い物にはならさそうだ。
とはいえ、財布などはかろうじて中身は無事だった上、スマホもポケットに入れていたおかげで、他に犠牲になったのはペットボトルと飴くらいだ。
手帳は、土だらけだが字は読める。挟んでおいたものもちゃんと残ってる。
古傷が未だ疼く腕は動かせないから、空いた手で少しざらついた表面の感触を確かめた。
「お、良いのあんじゃん」
ソローネは蜂蜜色の液体入りの酒瓶、ウイスキーを発掘してきた。余暇に楽しもうと思って、奥にしまったら忘れかえっていた代物だ。
「あんたも飲む?」
ソローネは中々、豪胆だ。こんな夜に酒なんて。
「明日に響くので、私は珈琲で。その瓶、あげますよ」
「眠れなくなるじゃん。ホットミルクにしな。つまみ作ろっと」
却下されてしまった。テメノスは子猫が起きた時のために、色々してやりたかったが、やはり未だ、身体は重だるい。
この聖典の負荷を減らす術はあるのだろうか。体力をつける他ないのか。この頭は今、鈍くて回らないくせに、あれこれ考えたがる。
ソローネはいつの間にやらフライパンとコンロの力を借りて調理中だ。湯気とジュウッと焼ける音に混じって、弾む鼻歌が時折耳まで届いてくる。彼女はもうご機嫌のようだ。
そう言えば朝食用に焼くだけのソーセージを買ってあったのを思い出す。ピリ辛とハーブ入りレモン風味で迷ったが、後者にした。
木製プレートに乗せられたソーセージの焼き色は良い塩梅で、流石にお腹が鳴ってしまった。
ソローネは小ぶりのグラスに氷と、ウィスキーを注いだ。これまた朝にパンに塗ろうと買ってあったリンゴのジャムをひと掬いして、カランと混ぜた。これが案外合うのだという。
テメノスのホットミルクは別途鍋で温めてから、カップに入れた後に蜂蜜を溶かしてある。熱々なので幕が張っていた。
甘いものには塩っぱいものを、というソローネの配慮には拍手したいものだ。
焼きたてのソーセージはパリッとしていて、噛むだけで肉汁が出てくる。口に入れてすぐはふわっとハーブが広がり、レモンの風味と酸味は後からくる。
「ん、最高」
「ええ、とても美味しいです」
ソローネは口元を緩め、用意してきたナイフの存在をも失念してフォークに刺して頬張っていた。つい数時間前までは、短剣を手に夜を舞っていた女と同じとは思えない。
「緑が欲しいね。なんかある?」
「ええと、冷凍のブロッコリーなら少し」
「いいじゃん」
ラップをかけてレンジで加熱する方が楽だ。ドレッシングでもかけるかと思ったが、彼女のお眼鏡には敵わなかったため、調味料を混ぜ合わせた即興のものを振りかけていた。胡麻油の風味がよく効いていてこれまた美味だ。
そこそこお腹が膨れた。ソローネは追加でどこからともなく見つけてきたアイスを齧っている。自由な娘である。テメノスはその感も、膝上の猫をゆったり撫でていたが、薄ら三日月ほど目を細めているのを見つけた。髭がぴくりと揺れた。
「……にゃ」
「ふふ、お目覚めですか? 猫さん」
特徴的な低い鳴き声だが、テメノスは可愛らしくてつい綻んでしまう。先の白っぽい尻尾がゆるりと動いて、腕に擦り付く。尻尾は遥か昔人の進化の過程で生えていたというが、どんな感じなのだろうと益体もないことを思った。
「んにゃあ……」
黒猫はどこか悄気ていて、その音色も覇気がなかった。蛙などの感情のない生き物が人間からしたら心あるように映るのと同じく、テメノスがそう思いたいだけで本当は違うのかもしれないが。
「どうしたのですか? 嫌な夢でも見ましたか?」
「にゃ……」
テメノスが指を差し出すまでもなく、よれたシャツに頭を押しつけてきた。自ずとたくさん撫でてしまう。
「チッ、羨ましいんですけど」
向かいで氷の溶け込んだウィスキーを舐めているソローネに睨まれているが、適当にいなしておく。
「お腹は痛みませんか?」
注射を打ってからそれなりの時間が経つ。そろそろ薬を飲ませてやりたいが、生憎買ったご飯は踏み潰されてしまって今手元に無い。
「にゃお」
首を傾げる黒猫を見ていると、やはりかな、色々と込み上げてくる。きちんと伝えなくては、と思う。
「無理させてしまってごめんなさい。あなたがいてくれたから、私は命拾いしました」
「みゃあ、みゃ、みゃう」
肉球の感触に、つい吃驚してつい固まってしまう。前脚を掲げて、テメノスの手の甲に乗せられている。心なしかきりりとした表情は、気にするな、と言っているのだろうか。
いわゆる猫の手は小さくて、ぎゅっと握ると爪が埋まってるのがよく分かる。尊いもののように思えてならなかった。
「この子、あんたの言うことわかってんの?」
ソローネもこれには驚いたらしい。「んみゃあ」と返されて、やっぱり躊躇わずに近寄ることにしたらしい、相変わらず慎重すぎる手を伸ばした。黒猫は逆にむず痒そうにしていたものの、嫌がる素振りはなかった。
「はああ、可愛い……頬ずりしても良い?」
とうとう本性を表していた。これには猫も尾を立ててやや警戒態勢。じりじりと後ずさり、テメノスの膝から滑り降りた。
「にゃお……」
「……ソローネ君、お水をお願いしても?」
ちえ、と溢したが、不承不承立ち上がった。
「あいよ」
「猫さん。事情聴取しても?」
もう刑事でないが、手帳を取り出していた。頭の中で整理しつつしっかり書き留めておくのが良い。後先に役立つのは経験上よく知っている。
「みゃーお?」
首を傾げるような仕草と共にひと鳴き。自分たちは隣同士で向かい合った。やや神妙な空気感が漂ったのを悟ってか、黒猫は行儀の良い香箱座りをした。
「ありがとうございます。では早速。あの妖獣……お腹の傷は狼に追われたものですね?」
置かれた水を一瞥したが、そちらに拘うことはなかった。
猫は切なそうに見上げてくる。当時を思い出しているのか——目線を少しでも合わせようと、できるだけ屈んだ。毛に覆われた口が小さく開いて、これまたちんまりとした歯がある。
「んにゃ……」
これは肯定を意味しているとみなし、次の質問へ切り込むことにした。
「そうですか。彼とは面識がありますか?」
「にゃ、にゃお、にゃああ」
猫のボディランゲージは豊かで、妖獣に突として遭遇し、訳も分からぬまま這う這うの身体で逃げ仰せるまでを簡潔に見せてくれた。
「……身に覚えがない、と言ったところですかね」
ソローネは動画撮影に勤しんでいた。テメノスではなく猫を映しているのはばればれだった。ひとまず放っておくことにして、テメノスはひとつ、深く息を吐く。ここからは、聴取ではない。
「妖獣は謎の多い異形です。動物の特徴こそありますが、残虐で、浄化されるまで人肉を喰らう。どこから生まれたのかも定かでない」
ただ、妖獣たちを飼い慣らすものたちが常に潜んでいて、陰謀がうごめいている。ソローネの話も合わされば、裏社会に這う根たる存在という可能性も浮上してきた。
「あなたは……人間ではありませんが、あの妖獣にどうしてか狙われている」
「にゃ、にゃぅ、にゃ、ぁ」
自分たちは常に危険と隣り合わせだ。特にテメノスはもうお尋ね者であり、完全に目星をつけられているだろう。
そうなれば、もう、自分たちは手を取るのが良い。
「……猫さん。よろしければ同盟に加わりませんか?」
「にゃお?」
猫の前脚をそっと手に取った。
「この街を出てしばらくしたF町というところに、手がかりがあると踏んでいます」
例の宗教団体の本山があるところだ。無論、それだけじゃない。決定的な材料はもう一つある。
「……それは?」
一枚の便箋を手帳から抜き取る。今時古めかしい封蝋など中々見るものではないように思う。
成果を模った紋様を目に留めてから、テメノスは胸がざわついたのを今でも覚えている。
「義父のイェルクと関わりがあったとされる人物からの便りです……なんでも、私に個人的な話があるだとかで」
丸みがあるが整った字体。教会で焚く香の匂いらしきものが染み付いているが、テメノスの記憶のものとは異なる。
目を引くのは聖典について、私の手元にあることを確信したような文面であることだ。そして住所はF町の小さな教会である。
ソローネは動画を取り止め、手紙を摘み上げた。
「ふぅん……罠ってことは?」
勿論疑いはしたが、テメノスはこの教会を訪ねてみる気でいる。
「この線は薄いかと。この封蝋は本物ですし、義父は守秘を貫く人物ですが、この中身は彼が信頼を置いていないと分からない内容まである」
時系列を照らし合わせ、J国に籍を置いてからおおよそ十数年程度ののちにイェルクがまだ警視監を務めていた頃に知り合ったと言うことで辻褄も合う。
「この青い字……"炎を宿す者よ"って書いてあるね。なんのことだか」
テメノスは白い睫毛を瞬かせた。最初の指摘としては妥当だが、意外に思ったのだ。
「読めるのですか?」
「小さい時、少しだけ齧ってた」
テメノスも幼い頃、教会で習ったような覚えがある。聖火神の成り立ちにおいて、古い時代の聖書を読み解くのに必要だった。
「みゃあ、みゃ、みゃう?」
猫が登ってきた。腕に毛の柔らかさが擦り付いてくる。二つ折りの便箋を手先でつんつん突いている。
ソローネの表情が途端に綻んだ。
「わあ、猫ちゃんかわいいでちゅねぇ。よしよし〜お水飲んでいいでしゅからねぇ」
「ふにゃぁ」
ソローネの俗に言う赤ちゃん言葉にテメノスが口端を引き攣らせるのも束の間、小さな舌がちろちろ動いて水を舐めだした。ソローネはその隙に背から尻尾の付け根までをこれでもかと愛で、匂いまで嗅いでいる。完全に堕ちている。「……うわあ」
「なぁに、その顔?」
ドス黒いものを纏った当人に耳を引っ張られるのだが、千切れるくらい痛い。加減を知らないのかと抗議したい。
「にゃおぉ」
猫が交互に瞳を動かし、不思議そうにしている。こんな仕草も惹かれるので、可愛いは罪なのかもしれないと真剣に思い始めるが、痛みでそれもすぐに霧散した。
「ん、いてて……もう良いのですが、猫さん?」
ちょっと毛繕い。腕周りを舐めつけている。
「にゃう」
ややあってテメノスのお膝元に再びやってきた。さあ、話を続けてくれと言わんばかりに良い姿勢で澄ましている。口元に小さな皺を作り、元掃除屋の女は恨めしげに呟く。
「おじさんだからモテるとかあんのかな……悔しい」
「私はまだ三十ですが?」
揶揄だと知っていても、その手にはすかさず反駁したくなるものだが、兎にも角にも——相手は猫だが、テメノスは彼のお腹を気遣いながら、そっと抱き上げた。
「猫さん。私たちと、来てくださいませんか?」
机上の猫は、相変わらず座らずにきっちり立っている。人同士じゃない、会話はできなくても、感情を伝え合う術はいくらでもある。
「にゃ……?」
「首都に残るか、私達と共にF町へ行くか。あなたに決めてもらいたいのです」
勇ましく、優しい小さな生き物。庇護欲がないと言えば嘘になるが、それだけではなかった。
「にゃ、ぉ?」
黒猫は強い心の持ち主だ。その小さな体躯には収まらぬほど。今夜、いっとう強く感じた彼への敬意がテメノスを決断に至らせる。
「ええ、これは私情でもあります。あなたをこのまま、妖獣に襲われるかもしれないというのに、置いていけるはずがないですから」
自分で言いながら、照れ臭くなるのは何故だろう。そのまま猫と見つめ合えずに押し黙ってしまう。上から見守っていたようなソローネがやや乱暴なふうにソファに腰を下ろし、脇腹を突いてきた。
「歯切れが悪いねぇ、テメノス。推理の時のキレの良さはどこにいったのやら。心配だから連れて行くって言いなよ。友達、なんでしょ?」
「……そう、です」
テメノスはこう見えても若かりし頃は可愛げのない男であった。否、今も素直とは言い難いが、それでも年下の女に諭されては、照れ臭さで中途半端に誤魔化してしまうのが一番かっこ悪いと理解していた。
「私にも、昔いたよ。白い子犬の友達。元気にしてるかな」
以前、カルディナ派閥の女達に犬と罵倒されたと愚痴ったらお腹を抱えて笑われて、『あんたに似てる犬だよ』と言って見せてきたものだったか——いや、今は良い。
「猫さん。改めまして、私の友達になってくださいますか?」
友。それはテメノスの生涯に色濃く残ってきた奇跡と、増えゆく傷痕。深く繋がれば繋がるほど、失う痛みは増す。

「んにゃあ、にゃ、にゃう」
猫は後ろ足だけで立ち、しなやかなふたつの腕を伸ばしてきた。半ば興味本位で顔を近づけると、肉球に揉まれた。こんな稀少な経験、しても良いのだろうか。猫好きの、主に近くにいる助手の女からまたも妬まれてしまう。
「みゃう!」
「んん、それは、よかった」
認めてくれたようだった。猫は髭を立てて、尻尾を忙しなく動かしていた。嬉しがってるのかもしれない。テメノスもつられたが、ふと胸の奥がざわついた。
「……あなたには、あなたの知らない秘密があるでしょう」
それを、黒猫自身も知りたがっているのではないのか。これはただの推察だ。
「それもきっと、この道に繋がっている。ですから、共に……」
ソファに指が沈む。浮いたもう一方は、ざらざらした猫の舌が自分の親指を舐めている。
「にゃぅ、んにゃ」
人間もこうやって舐めてやるのは、親愛のあかしだと聞いている。
「ありがとう。必ず、勤めを果たします。そして、あなたをお守りいたします」
「んにゃ、にゃにゃ!」
机上で猫は跳ねた。お腹を怪我したばかりとは思えぬほどやる気に満ちている彼を、落ち着かせるように撫でた。テメノスとしては無理も無謀もしてほしくはない。
氷が溶け切って水滴が滴るグラスはもう空になったらしい。静観に努めていたソローネは、どこか得意げに指を鳴らした。
「決まりだね。猫を連れてくなら、私の車を飛ばしていくか」
4/4ページ
SUKI